第330話 2人の領域


「それで、入り口で帰ってきた。あれは死ぬ」


「ドラゴンしか居ないなんてね……怖いわ」



 いつものように2人で入浴しているエストとシスティリアは、早速ダンジョンの31層目の話をしていた。

 髪を洗うエストを見ながら、浴槽の縁に両腕を置いたシスティリア。何度見ても理想的な筋肉の付き方をする彼に、ぷくっと頬を膨らませた。



水域アローテ



 エストが頭上に青い単魔法陣を出せば、大量のお湯が全身の泡を洗い流す。



「毎度のことだけど、水量が多すぎるのよ」


「1回で済んで楽だよ?」


「滝と同じじゃない。修行僧なの?」


「魔術師としては修行中の身だね」


「もうっ。ああ言えばこう言うんだから」



 エストも湯船に浸かれば、浴槽から溢れる寸前まで水位が持ち上がり、隙をついたシスティリアが真正面から抱きついた。


 そんな彼女を抱きとめながら脱力し、じっと見つめてくる黄金の瞳に『ん〜?』と声を出したエスト。



「ひま」


「デート三昧にしようか」


「エストとゴロゴロしたい」


「じゃあそうしよう。欲しいものはある?」


「時間かしら」


「クェルに聞いてみよう」


「冗談よ。でも、アンタとの時間がいっぱい欲しい」



 急に冒険者としての活動を止めると、家ですることが無くなってしまう。大好きな打ち合いも出来ず、魔道書を読むだけの1年は苦行である。


 今はゴロゴロしたいというのが望みのようだが、運動したいと言われた時、どこまで許容していいのかエストには分からない。


 ただ、現時点では目立った変化も無く、新居生活を楽しんでいるようだ。



 風呂から上がると、リビングから美味しそうな料理の匂いが立ち込めていた。

 すんすんと鼻を鳴らしたシスティリアが目を輝かせたのは、焼き魚をメインにした煮込み料理と、昼過ぎに買ったという焼きたてのパンだった。


 メイド服を着たアリアがテキパキと配膳するのを横目に、魔女は子どものように足をバタバタさせながら、皆が揃うのを待っていた。



「上がったか。ほれ、髪を乾かさんか」


「エストぉ、おねがぁい」


「はいはい。ソファでね」



 楽しそうに、されど静かに髪を乾かす2人を見ていた魔女は、心の底から嬉しそうな笑みを浮かべた。

 拾った子とはいえ、愛情を注いで立派に育ったエストが、15年の時を経て人並みの……或いはそれ以上の幸せを手にしたことに、胸の内が熱くなってしまう。


 学園に入れた時や卒業を言い出した日には心配で食事量も減っていた魔女は、ある時アリアが連れ帰ったシスティリアという少女に疑問を抱いていたものだ。


 どうしてエストと一緒に居るのか。

 エストのどこが好きなのか。

 また、どんなところが好かれているのか。


 少しずつ分かっていく2人の心に、年甲斐もなく黄色い声を上げたことは記憶に新しい。



「境遇、似てるもんね〜」


「……うむ。ああ見えて、2人ともかなりの甘えん坊の寂しがり屋じゃ。そういった所も愛し合える理由かもしれぬ」


「うぅ……ウチも甘えん坊になれば……!」


「……のう、いい加減弟離れせい! お主の15年とエストらの15年は、まるで重みが違うのじゃぞ!」


「分かってるよぉ……うん、分かってる」



 いつかはそんな日が来ると思っていた。

 親の元を、姉の元を離れ自立して生きるのだと。

 エストは幼いうちから自分でその選択をしたというのに、アリアは今も魔女のメイドとして、変わらぬ生活を続けている。


 長命種は変化を望まぬ性質があるが、それが大きく影響したのが姉としてのアリアだろう。


 一度担った“弟が大好きな姉”という役割に、何十年も続く未来を描いていたのだ。


 ……だがしかし、結果は現実が語っている。



 穏やかな笑みを浮かべ、愛する人の髪を撫でながら乾かすエストを見て、もう自分の後ろをついてまわる弟は居ないと知った。


 生まれ育った家族にも見せない笑顔を向ける相手が居る。たったそれだけのことなのに。


 アリアという人間を形成する“エストの姉”の概念にきりがかかり、エストが遠くに行ってしまった事実に胸が痛む。


 机に滴る想いの雫が、静かに理想を溶かしていった。



「ふにゅぅぅ……エストの耳マッサージは効くわね〜」


「手の力加減には自信があるよ」


「ふっふっふ〜。アタシだけの手〜」


「じゃあ僕は耳をもらっちゃお」



 髪を乾かし終わり、システィリアの耳を揉みほぐすエストに体重が預けられると、エストは透き通るような青い髪に顔を埋め、耳の裏の匂いを嗅いだ。



「うん、フェロモンを感じる」


「……くさい?」


「良い匂いだよ。ずっと嗅いでいたいぐらいにはね。なんて言うのかな……肌の香り? システィだけの匂いなんだ」


「そっ。アタシにとって、アンタの魔力に感じるものと同じかもしれないわね」


「……なるほど。そう考えたら、システィが匂いを嗅ぎに来る気持ちがわかる。これは……うんっ……やめられ……ないね」


「嗅ぎすぎよバカ! 恥ずかしいじゃない!」



 耳を立てて怒るシスティリアだったが、頬は緩み、尻尾は激しく振っていた。



「そろそろご飯にしようか。冷めちゃうよ」


「ええ、そうしましょ。……アリアさん?」



 ソファから食卓に移動した2人は、目元を腫らせたアリアに何かあったのかと訊いた。

 しかし、当の本人は何も無いと言い張り、魔女の隣に座った。



「気にしないでいいよ〜。ささ、食べよ〜!」



 強引に話を断ち切ったアリアが言えば、悟った魔女が水の注がれたグラスを軽く掲げた。



「改めて……エスト、システィリア。おめでとうじゃ。特にシスティリアよ。わらわたちは全力で支えるからの、遠慮なく頼るとよい」


「ええ。だって、エルミリアさんもアリアさんも、アタシの家族ですもの」


「うむ! 水で悪いが、酒を酌み交わすのは数年後になるじゃろうな。では、乾杯!」



「「「乾杯!!」」」





 そうして、穏やかな日々が始まる……はずだった。



 事が起きたのは、新居生活が始まって4ヶ月が経ち、システィリアのお腹に、明らかに子どもが居ると分かるぐらいになった頃。


 エストが毎日世話をしていたボタニグラが、春の到来と共に活動を再開し、球体状の形態から遂に小さな花が咲いたのだ。



 だが……──




「ぐぇっ……あれ、臭すぎるわよ……吐く」


「……魔力の吸いすぎで腐ったみたい。この土地だと、4ヶ月も溜め込むには適さなかったらしい」




 たった1体のボタニグラの幼体が凄まじい腐敗臭を放ち、無害化研究が振り出しに戻ったのである。

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