第319話 氷の賢者と白狼族の末裔


「あった、あれが治癒院か……大きいな」



 寒空の下、帝都を走ったエストは、帝城、学園に並ぶ大きな建造物である、治癒院の前で白い息を吐いた。


 ここでは神国から精霊信仰を伝え、人々の傷を癒す光魔術師ラカラ教徒が働き、時に人の悩みを聞いて、善き道へ導くこともある。


 中からシスティリアの魔力を感じ取ったエストが、いざ中へ入ろうという時、ちょうど彼女が治癒院から出てきた。



「あら、エスト。買い物の途中かしら?」


「君が心配で迎えに来た。腰痛は治ったの?」



 息を荒くしたエストが深呼吸し、システィリアの手を握りながら聞いた。しかしその質問には、首を横に振られてしまう。



「もしかして、何か大きな病気……とか?」


「そんなワケないでしょ? アタシもビックリしたのよ。病気なんかじゃなくて、関節が緩くなったせいだって」


「関節? そんなに激しいストレッチはしてないよね?」


「……ふふっ。ここで話すのもなんだし、宿で説明するわ。それより、せっかく2人きりなんだから、何か食べに行きましょ?」



 握っていた手を離し、エストの前で下から覗き込むように上目遣いで言うシスティリア。

 ひょこっと動く耳が可愛らしく、嬉しそうに微笑む彼女に、心臓が早く脈打つ感覚が走った。


 珍しくシスティリアから食事に誘われれば、エストは頷くことしか出来ない。



「……う、うん。わかった。体調は大丈夫?」


「平気よ。心配してくれてありがと」


「よかった。システィはなに食べたい?」


「ん〜……お肉の気分。エストは?」


「僕も同じ。さっき賑わっているレストランを見かけたから、そこに行こう」



 彼女が頷き、エストが手を繋ごうとするが、するりとエストの脇の下に腕を通したシスティリアは、幸せを噛み締めるように抱き締めた。


 今日は何か変だと思いつつエストも背中に手を回し、背中を伝って尻尾が激しく振られる感覚を味わいながら、心が安らぐアロマの香りが鼻をくすぐる。



「良い匂い……」


「治癒院のアロマキャンドルかしら」


「うん……でも、システィの匂いが好き」


「アタシも。……エストの匂いが好き」



 夜とはいえ、人口の多い帝都は人通りも多く、路上で2人が、それも人族と獣人が抱き合う姿は非常に目立っていた。


 ヒソヒソと小声で『アレって一ツ星の……』という会話が聞こえたシスティリアは、エストの手を引いて大通りに出た。


 それからはエストがレストランに向けて歩き出すと、首を傾げた彼女が問う。



「明日はその……新居を見に行くのよね?」


「そうだよ。商会に行って、買った土地を正式に僕たちの所有にして……余裕があったら家具を見る」


「……そう」


「どうしたの? 心配事?」


「いいえ、特には。強いて言うなら、家が大きすぎないことを祈ってるぐらいかしら?」


「それは大丈夫。3人前後でちょうどいいくらいを頼んだから。合わなかったら新しく建て直そう」


「……ふふっ、抜かりないわね」



 海の街シトリンでの打ち合わせにシスティリアは居なかったが、エストは商会の既婚女性数人とファルム、それから既婚男性数人を交えて家の間取りを決め、要望したのだ。


 懸念点はそこに獣人が居なかったことだが、屋敷での生活からエストが調整した。


 あとは実物を見てのお楽しみ、というところで、件の繁盛しているレストランにやって来た。



 小さなテーブル席に座ってメニューが書かれた木板を渡したエストは、そっと手を挙げて店員を呼ぶ。



「何になさいますか〜?」


「アタシはオークシチューと焼きサラダ。あと柔らかめのパンがいいわね」


「僕も同じ物で。全部大盛りで頼めるかな」


「かしこまりました〜!」



 この季節、シチューが格段に美味しく感じるせいか、店内はオークシチューの香りで充満しており、暑く感じる程だった。


 椅子の背もたれの隙間から尻尾を下ろしたシスティリアは、メニューを熟読するエストに微笑んだ。

 それに気付いたエストが木板を渡すが、首を横に振って返す。



「美味しそうな料理でもあった?」


「う〜ん……根巻きサラダが気になる。謎」


「ふふっ、それは根菜を薄くスライスして、葉茎菜類に巻いたものよ。茹でると美味しいわ」


「なるほどね……肉巻きの根菜版か」


「明日、作ってあげるわよ」


「ほんと? 楽しみ。僕も手伝いたい」



 人差し指の先に水球アクアを作って見せたエストは、カゲンでの経験から手伝いを申し出た。


 食材を買ったままの状態で亜空間に入れている以上、土が付いていることが殆どだ。システィリアの魔術なら容易に洗い落とせるだろうが、腰痛が気になる彼女を、エストは少しでも手伝いたい。


 そんな思いが伝わったのか、耳をぴこぴこと動かしながら頷いたシスティリア。



「お待たせしました〜、シチューと焼きサラダとパンですね。ごゆっくり〜」



 ウェイトレスが運んできた料理たちに目を輝かせ、2人で手を合わせて『いただきます』と言うと、エストはサラダから食べ始めた。


 焼いたことにより柔らかくなり、野菜の持つ甘みが増強され、単品でも手が止まらなく一品だった。



「これ、かなり美味しいわね。味付けの濃さもちょうど」


「シチューも美味しい。お肉がほどける」


「わぁ、ホントね……何時間煮込めばこんなに柔らかくなるのかしら」


「この時期だから、売れるのを見越して手間暇かけてそうだよね。それでも大盛り1300リカ……安い」


「高いわよ。アタシたちは稼げるからそう感じるけど、これ1食で大体2000リカよ? ……アタシたちの1食分にしては安いわね」


「僕らは食べる量も多いからね……大変だ」



 その気になれば数日で凄まじい金額を稼ぐことは出来るが、魔力や体力を使った分だけ食事量も増えるため、一般の食費とはかけ離れた金額を使っている2人。


 中でもシスティリアはギリギリ庶民の金銭感覚を覚えているが、エストは魔道書の大量購入と魔石の大量売却により、少しばかり感覚が狂っている。


 しかし、金額の割に美味しい料理を食べられることに感謝しつつ、しっかり完食すると、チップを乗せてレストランを出た。



 シチューで温まった体が寒風を跳ね除け、手を繋いで帰っていると汗をかいた。



 宿に着いてローブを脱いだエストに、システィリアはベッドの上で、隣に座るように言う。

 風呂の誘いか夜の誘いか、はたまた明日についての話し合いかと胸を踊らせながら座ると、彼女がエストの手を握る。


 珍しく緊張した様子であり、唇が震え、耳と尻尾がピンと立ち、呼吸が浅い。



 まさか本当に何か大きな病だったのかと覚悟を決めたエストに、システィリアは目を合わせて言った。






「その…………赤ちゃん……できたの」






「へ?」


「腰痛はそれが理由らしくて、姿勢を意識したらマシになる……みたいで。ア、アタシも初めてのことだから全然分かんないの! でも、その……うん。アタシとエストの子どもが……お腹に居ます」



 突然の報告に、エストの頭は情報を処理しきれなかった。

 思っていたことと違い、これ以上なく嬉しい発表だったのだが、出来にくいと言われていた獣人と人族の間の子に、ぽかんと口を開けたまま固まっていた。


 嬉しそうに言うシスティリアがチラリと顔を覗くと、エストの頬からツーっと光が落ちた。



「ふふっ、泣いてるの?」


「……まだ」


「まだ?」


「……まだ、喜ぶには早いんだろうけど…………でも……嬉しい。それに、安心した。大きな病気じゃなかった……!」



 感極まったエストの涙は氷の雫となり、服を弾いて床に落ちていく。

 歓喜と安心。期待と不安の4つが共存した感情にどうしたらいいか分からず、困ったエストは彼女を抱き締めることにした。



「アンタに負担、かけちゃうわね」


「もっと頼ってよ……負担だなんて思わない」


「……もうっ。愛してるわ、エスト」


「……うん。僕もシスティリアを愛してる」



 そっと唇を重ね合わせ、再び抱き締める。

 歴史的に見ても例が少ない妊娠のため、無事に産まれるかも分からない。


 生活習慣には一層気を配り、システィリアとお腹の子のために動かねばと、エストの心に火が灯る。


 しかし、今はただ、新たな生命を授かったことを喜ぶことにした。

 それが彼女の夫として、そして父になる者として、最初に出来ることだった。






「まずはどうしたらいいんだろう。報告?」


「そうね。エルミリアさんたちに知らせて、知恵を借りましょ。アタシが手紙を書いてネルメアさんに渡すから、アンタは予定通りに動いてちょうだい」


「……いいの?」


「まだ体調に影響が無いもの、平気よ。動けるうちに手を打っておかないと」


「わかった。僕も商会で色々と聞いてみる」




 そうして、エストとシスティリアの緩やかな、それでいて激動の日々が始まるのだった。

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