第245話 一人前になりました


 それは、エストとシスティリアがデートに行った2日目のこと。

 朝釣りのために早起きしたライラは、握り慣れた釣竿を手に桟橋へ向かうと、暗い海に向かって糸を垂らしていた。


 腰掛けた桟橋の下。ぶらぶらと遊ぶ素足の裏には、穏やかな波が押しては返す。



 漁師たちは1時間前には沖に出た。

 今、彼女の耳に入るのは、海が岸とキスをする音だけである。


 しっとりとした潮風が肌を纏う。

 鎖骨の辺りに張り付いた髪が鬱陶しく、左手を使って首元から背中にかけて髪を振り払うと、背後から近づいてくる足音が聞こえた。



 どかっと隣に座った男は、小さい。

 されど質量のあるその人物は、何かを喋ることもなく、芋虫を付けた針を海に落とした。



「おはようございます、ブロフさん」


「ああ。おはよう」



 そこから会話が生まれることは無かった。


 明鏡止水。無我の境地。

 余計な思考はしない。

 ただ水面に向き合い続ける早朝。


 ライラの竿に、ツン、と魚が針をつつく。

 竿先が小さくしなりを見せるが、まだ動かない。


 獲物を前に舌なめずりをするようでは、まだまだ浅い。

 ライラはじっと待ち続け、魚が針を口に入れた瞬間、一気に竿を持ち上げた。


 ぐぐぐっと下へ沖へと引っ張られるが、ここ最近はブロフとの鍛錬で筋肉がついてきた。

 桟橋に座ったまま腹筋に力を入れると、掛かった獲物が持ち上げられていく。魔石が練り込まれた丈夫な糸を前に、魚は為す術なく釣り上げられた。


 彼女に下顎を掴まれ、針を外されてからもビチビチと暴れているのはバーバという魚だった。

 普段は海底で小魚を餌にする、シトリン領の特産物である。



 連鎖するようにブロフの方にも当たりが来ると、ライラが釣り上げたものより、少し小さめのバーバが連れた。



「今日は私の勝ちですね!」


「ああ。約束通り昼メシはオレが出そう」


「うんと高い料理、頼んじゃいますから!」



 朝釣りの勝負が終われば、ライラの火魔術で塩焼きにして頂く。エストに渡された魔道書を読み、彼女は一人前の魔術師になっていた。


 威力の調整もお手の物。もうケルザームを消し炭にすることもなく、戦えることだろう。





 昼までトレーニングと近接戦闘を学び、ブロフの金で高い料理をたらふく食べたライラは、午後のダンジョン攻略に精を出す。


 日銭を稼いでブロフと夕飯を食べていると、魔石の仕入れを終えた漁師のオーグが顔を出した。



「エス坊は居ないのか?」


「エストならお嬢とデートに行ったぞ」


「そうか……今夜は満月なんだがな。相席いいか?」


「ああ。ライラ、少し動いてやれ」



 相席したオーグは料理を注文すると、一言『邪魔して悪いな』と言った。

 笑顔で答えるライラに白い歯を見せて笑うと、彼女が頼んだものと同じ海鮮焼きの盛り合わせが運ばれてきた。


 ギルドで食べられるメニューの中で最も値段が高く、最も美味しいと言われる料理だ。


 大きなエビの殻を剥き、ぶりんと飛び出た拳ほどの白い身を頬張ると、厳つい顔のオーグも少年のような笑みをを浮かべた。



「ケルザームが来るのか……」



 ブロフは食後の一杯を楽しみながら、あの日の漁を思い出す。

 エストとシスティリアが不在の海は、正直に言って怖い。もしもの事を考えると、ケルザームは諦めた方がいい。


 だが、エストたちが帰ってくれば、ケルザームを食べることなくシトリンを去ることになる。

 年末のパーティに間に合わせるためには、エストも我慢するからだ。


 しかし、ここまで来て退くのはブロフのプライドに関わる。

 仮にも賢者の仲間であり、Aランクの冒険者。

 勝てるはずの魔物を前に逃げることは、胸に秘めた過去の記憶が呼び起こされる。



 ワインを飲み切ろうかという時だった。

 バン、と机に両手を突いたライラが立ち上がる。



「ブロフさん。私、行きたいです」


「……相手はケルザームだぞ」


「私の目的はずっとケルザームです。例えエストさんやブロフさんと出会わなくても、ここで戦わない未来はありません」



 ライラなりの決意表明だ。

 親を殺したケルザームという魔物に復讐を果たし、その肉を食らうことで弔いとする。

 それが産み、育ててくれた親への成長を示す証となり、未来の己を作る血と肉と成すのだ。


 彼女の考えは変わらない。

 ……ありがたいことに。



「オーグ。3人でやれるのか?」


「実績はあるぜ。俺がケルザームの動きを止めて、ブロフさんが鱗を剥がす。そこでライラが魔術をドーン……ちと難しかったか?」


「言ってくれる。もう鱗の突き方は覚えたぞ」


「じゃあ、ブロフさん──!」



「ああ。エストたちの腰を抜かしてやろう」



 拳を握りしめたブロフは、ライラとオーグに顔を合わせてから、覚悟を決めた表情で頷いた。



「ところでお前さん、水魔術が使えるのか?」


「あぁ? 一応言っておくが、俺はライラの先輩だぞ」


「オーグさん、実は王都の魔術学園の卒業生でして、優秀な成績を残しているので名前が残っているはずですよ」


「……そうか。それは失礼したな」


「ハハッ! エス坊やシス嬢と比べたら、俺の成績なんざ塵にもなんねぇよ」


「あの2人は……ええ。異常の中の異常ですから」



 遠い目をするライラは、システィリアがいかに魔術師としても優秀かを知っていた。それはエストに渡された魔道書を見れば、一目瞭然なのだ。



 何でもないように渡した紙の束は、エストが組み上げた魔術の真髄をシスティリアが噛み砕き、効率的な練習法を記した物だった。


 一見すると訳の分からない術式でも、彼女の手が加わることで、ライラがひと目で理解できるほどに咀嚼されていたのだ。


 まさに天才の魔術師と秀才の魔術師が手を組んだ、全ての魔術師の教科書と呼べるものがあの魔道書だった。



 その夜、早めに寝ようとベッドに潜るライラは、こればかりは感覚的な魔力操作を続けながら眠りにつく。

 メキメキと常識の枠が悲鳴を上げているのだが、ブロフが気づくのはまだ先のことである。





 夜明け前、3人が乗った船は港を出る。

 満月が照らした海の底では、ケルザームの繁殖が始まっていた。


 遠くに見える赤い双眸からは離れ、メスのケルザームを速度重視で仕留めることが今回の目的だ。


 手早く餌となるバサダを釣り上げては、魔石を仕込んでいく。


 今日は騒がしい2人が居ないからか、海の囁き声がよく聞こえる。力自慢のブロフが針を付けたバサダを流すと、数分もすれば水面が揺れだした。



 竿が折れそうなほど引きが強くなると、遂にケルザームが姿を現した。



 闇夜に輝く瞳は黒。

 狙い通り、メスのケルザームだ。



「っしゃ行くぜぇ! 水域アローテッ!」



 オーグが大規模な水魔術を使うと、まるで見えない網に掛かったようにケルザームが暴れだした。

 すかさず釣竿を捨てたブロフが大剣を構え、右舷の台に足を乗せた。ケルザームの動きに合わせて飛び乗ると、落雷の如き一撃が標的の脳天を刺す。


 足元に散らばる漆黒の鱗。

 黒曜石のように艶やかな光を反射すると、最硬の大剣は垂直に。ケルザームの脂肪層を削り取っていく。


 システィリアほど速い剣技は繰り出せない。

 だが、精度を重視した一撃こそが結果的に速度を生み出し、ライラに合図する。



「今だ! ぶちかませ!」


「はいっ!」



 杖を両手で構え、橙の多重魔法陣を出現させるライラ。

 役目を果たしたと言わんばかりにブロフが船に戻ると、僅かに魔法陣の回転速度が落ちた。


 食べる肉を焦がさない程度に、威力を弱めたのだ。


 怯える彼女はもう居ない。

 この一撃に全てをかける思いで、されどやりすぎないことを祈って。



「うぅ、お願いします! 風炎撃メディフィアっ!」



 ピカッと光る魔法陣から、燃え盛る炎が滴る。

 轟々とおぞましい音を立てながら沈んでいく炎は、彼女が出来る限界まで制御が重ねられており、ケルザームの筋肉を溶かし、頭骨を貫く。


 そして脳を物理的に焼き切った瞬間──



 ビクリとケルザームの全身が跳ね、ついぞ動かなくなる。



「やった……のか?」


「……やり、ました?」


「ああ……ああ! やったなブロフさん! ライラ!」



 少しの間待っても動かないケルザームを見て、オーグは満面の笑みで2人の肩を抱いた。


 鮮やかな漁だった。

 これ以上無く無駄を削ぎ落とし、安全に仕留められた例は、歴史的に見ても三本の指に入るだろう。


 これにはブロフも表情を柔らかくして喜ぶと、感極まったライラは大粒の涙を顎先から垂らしていた。



「うぅ……良かったですぅ……仕留められましたぁ!」


「お前の努力の成果だ。胸を張れ」


「はいぃ……はいぃぃ!!」



 袖で涙を拭くライラをよそに、オーグは拳より太いロープをケルザームの傍に投げ入れると、周囲の水を操ることで船で牽引する準備を整えた。


 船尾に付けられたフックにロープを掛けると、静かに港へ向かって進んでいく。



 朝日が左舷側から顔を照らし始め、牽かれているケルザームの全容が明らかになる。

 全長15メートルはあろう巨体の魔物は、仕留め、持ってくることは何とか出来ても、港に持ち上げるのに苦労した。


 日の出から昼までかかってようやく港に持ち上げると、オーグが西部中にケルザームが揚がったと知らせに行った。



 普段のトレーニングより数倍はキツい仕事だと思い、椅子に座って休んでいる2人の元に足音が近づく。


 顔を上げてみれば、足音の正体はデート帰りのエストとシスティリアだった。



「凄いね、2人とも。まさかケルザームを仕留めるなんて」


「おめでとう。アンタたちって、やっぱり凄いわね! エストが手放しで褒めるだけあるわ。アタシも心から尊敬する」



 フッ、と鼻で返事をするブロフは、差し出されたエストの手を取って立ち上がった。


 やってやったぜ。と言わんばかりにエストの顔を覗き込むと、やけにげっそりと疲れた表情をしており、万全の体調ではないことが窺える。



「大丈夫か?」


「あぁ、うん……システィに『のんびり』っていう4文字が存在しないことがわかってね……」


「……そうか。よく頑張ったな」



 男としての役目を果たしたんだなと言い、それに頷くエストの背中を撫でるブロフ。彼の未来で待ち構える様々な苦悩を察してしまい、自分がドワーフで良かったと思ったのだ。


 だが、そんなエストから溢れるシスティリアへの愛は強く、相変わらずの溺愛っぷりに溜め息を吐いた。



 そして、共にケルザームを食べようと拳を付き合わせると、街を挙げての解体祭りが始まった。



 船長のオーグが、大人ほどの刀身を誇る長刀を持ち、一切の迷いなく切られていくケルザームは綺麗な白身を見せていた。


 豪快かつ鮮やかな解体を見ながら、エストは呟いた。



「変じゃない? オーグのあれって刀だよね」


「……言われて見れば変ね。アレは確か、カゲンで作られる武器でしょう? どうしてシトリンにあるのかしら」



 その問いに答えたのは、鍛冶屋としても経験が多いブロフだった。



「武器としての刀はともかく、カゲンの技術は包丁として大陸に渡っている。鋼の鍛造を繰り返し、丈夫な刀身と高い斬れ味、そして片刃の刃物というのは漁師にも人気だそうだ」


「そうなんだ! ありがとうブロフ」


「スッキリしたわ。剣じゃなくて調理道具として広まったのね」


「ああ。いつかはカゲンに行ってみたいものだ」



 珍しいブロフの願望を聞いたエストは、こっそりとメモを取ると、皆で解体祭りを楽しむことにした。



 捌かれたケルザームの身は刺身でも提供され、ぷりっと弾力のある身は甘い脂を纏っており、一度食べると止まらない旨味を持っていた。


 塩焼きにしてもホロホロと崩れる身は味が凝縮され、こちらも他の魚には無い独特かつ至高の旨みを誇るのだが、エストが最も気に入ったのは、やはり刺身だった。


 基本的に魚の生食はしないため、今までにない食べ方という面もあるが、それ以上にケルザームの旨みを調理によって損なわずに食べられることは、エストの心を強く掴んだ。






「あぁ〜……シトリンに来た甲斐があった」



 宿に戻り、沈みゆく陽に照らされた海を眺めるエストは、ソファに座って果実水を楽しんでいた。



「アレが目当てだったものね。満足した?」


「うん、満足。滞在できる時間ももう限界だし、明日は昼前には行かないとだからね。最高の思い出だよ」



 嬉しそうに果実水を飲むエストの前へ、ブロフはライラの背中を押した。



「礼ならライラに言え。この漁の功労者だ」


「ありがとうライラ。楽しかったよ」


「そ、そそ、そんな! こちらこそエストさんと色んなことが出来ましたし、それに……命まで助けてもらっちゃって。ありがとうございますっ! これで、お母さんやお父さんにも一人前になったと伝えられます!」


「……うん。君は充分、かっこいい人間だよ」



 ライラの成長を心から喜ぶエストは、明日はお墓参りに行くという彼女に聞いた。



「昼前には宿の前に帰れそう?」


「はい、戻れますが……何かなさるので?」


「え? シトリンを出るけど」


「え?」



 てっきり着いてくるものだと思っていたエストは、そういえば仲間になると言った記憶も無ければ、一緒に旅をしようと言ったことも無かった。



「アンタ、確かケルザームを倒したらシトリンから旅立つって言ってたわよね。丁度いいじゃない。パーティに入りなさいよ」


「ああ。後衛はエストだけだったからな。後ろを厚く出来るなら歓迎する」



 システィリアもブロフも頷くと、ライラはぷるぷると震えだし────




「え、えええええぇぇぇぇぇぇ!!!!!!」




 驚愕の声と共に、気を失うのだった。

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