第238話 その涙は海へと還る


 その日、システィリアは絶望した。


 何よりも大切なエストを氷の中から見つけたものの、その体は上半身しか残っておらず、冷たく、心臓の音も聞こえなかったのだ。


 彼女の優れた聴力をもってして、エストが人から物へと変わったことは認めざるを得なかった。


 ブロフの言葉で差した光も、いざ発見してしまえば希望とは名ばかりの嘘だと分かる。

 ようやっと繋ぎ止めた彼女の心は、散々な現実に大きな傷を負ってしまった。



「……お嬢。そろそろメシを食え。そのままだとお嬢まで死んでしまうぞ」


「システィリアさん……その……ご飯、ここに置いてますからね」



 宿の寝室に閉じこもったシスティリアは、冷たいエストと共にベッドに伏していた。

 健康的だった肌はストレスにより荒れ、3日も飲まず食わずで居たために頬がけ、毎日の手入れも忘れた尻尾は綺麗とは言い難い。


 何もする気が起きない。

 ぽっかりと空いた胸の穴は、彼女から全ての気力を奪う。


 限界を感じ、無理やり食べ物を口に入れるが吐き出してしまい、やっとの思いで喉を通った水でさえ、体が拒む感覚がした。


 そっとしておいてほしい。

 そう思う彼女は、微動だにしないエストの手を握り、来たる時を待っていた。


 自分より早く死なないこと。


 そう約束した彼は、どこへ行ったのか。

 ペンダントに誓った愛の約束も、指輪が示す幸せの約束も、果たす前に彼は眠った。


 もう涙は枯れているはずなのに。血や魔力を振り絞るようにその目から雨を降らせては、枕に大きな染みをつくる。


 昨日も、今日も。きっと明日も。

 泣き疲れて眠った彼女は、静かに時を刻む。




 動かぬエストと眠ってから4日目の朝。

 この日は豪商ファルムが宿を訪れると、ブロフやライラとは違う、もうひとつの足音が聞こえた。


 ドア越しに聞こえた会話から、それがたまたま王都に居た最高神官だと言う。上級光魔術なら、もしかしたら治る希望があるかもしらないと、ファルムがあらゆる手を尽くして呼んだのだ。


 寝室に入ってきた神官は、システィリアの肩をそっと叩く。床に座り込む彼女が虚ろな瞳で見つめる中、布団を剥がしてエストの容態を見た。



 食いちぎられた下半身。

 腐敗はおろか、流血することなく形を保っていることを疑問に思う神官。


 そこへ、氷の中に居たとブロフが言うと、納得した素振りを見せた。


 神官の見立てでは、彼は既に死亡している。

 体外に一切の魔力が溢れることなく、呼吸もしていないからだ。


 だが、仕事として任された以上、最善は尽くす。

 白塗りの杖を構えた神官は、ひとつずつ術式を組み上げていく。構成要素をひとつ足りとも間違えてはならないと、慎重に、慎重に。


 そうして魔法陣が完成するのに、5分もの時間がかかってしまった。



聖域胎動ラシャールローテ



 黄金の多重魔法陣が現れると、ドクン、と胎動の音が響く。わずかでも生きていれば、回復が始まるはずだ。


 だが、結果は分かりきっていた。



「……ダメか」



 そう呟いたのは、ブロフか、はたまたファルムか。

 諦めの空気が部屋を支配した瞬間、神官は首を傾げてエストの元に駆け寄った。



「神官殿?」


「おかしい。亡骸であっても術の魔力を吸うはずだが、賢者様は完全に効いていない……何が起きている?」



 わずかな効き目も見せないエスト。初めて出会う、魔術の効かない相手に神官は針を持ってくるように伝えた。

 ライラが裁縫用の針を手渡すと、神官はおもむろにエストの指に刺した。


 ──が、しかし、その針先が皮膚を貫くことはなかった。



「どういう……ことだ?」


「針が刺さらない? エスト様の肌は、それほどに強靭なのか」


「いいや、そんなことはない。恐らくエストが掛けた氷鎧ヒュガ……だったか。その魔術が防いでいるんだろう」



 だが、魔術を使っているのなら出るはずの魔力が、エストからは出ていなかった。

 そうして、ただ謎を深めただけで神官は王都に戻ることになり、その翌日。


 国王からの命を受け、シトリン侯爵はエストの火葬を行うことになった。


 この日ばかりはシスティリアも外に出た。

 拙い手つきでライラが整え、彼女の印象とは程遠い黒の服に身を包んだ。


 教会の神父が祈りを捧げると同時に、胸の前で両手を組む。


 手向けの花を入れようと近づけば、助けることが出来なかった悔いが、棺に入れられたエストの頬に落ちた。

 皆の胸に痛みが走る。冒険者としても、エストの妻としても名を馳せつつあった彼女の変わり様は、死がもたらす大きな変化をまざまざと見せつけたからだ。


 ブロフとライラに支えられ、最前列に戻ると、遂に棺に火が着けられた。

 勢いを増していく炎は棺を燃やし、供えられた花々を焦がしていく。

 血肉を昇らせる猛火に包まれ、しばらく経った。


 シトリン侯爵を筆頭に、全く火力を落とさない魔術師に違和感を抱くと、システィリアも顔を上げた。


 するとそこには、天を焦がすような火の中でもその姿を変えない、賢者エストが眠っていた。



「……とめて」



 彼女の声で炎の勢いが衰え、焼けた跡地にシスティリアが歩いて行く。神父も手を組みながら状況に困惑していると、彼女はエストを抱き上げた。


 その瞳には、わずかな金が煌めいている。

 まだ彼は死んでいない。

 言葉の通り、眠っているだけなのだと。


 葬式の中断という結果をもたらしたエストの体は、これまで通りシスティリアとエストの部屋に預けられた。


 復活の希望があったのだ。

 もう何度絶望のふちに立たされ……否、その黒い海を泳いだことか。


 それでも彼女は、最後まで諦めなかった。


 ただ死を待って眠ることを辞め、いつエストが起きてもいいように集中する。

 部屋のドアがガチャガチャと音を立てた。

 だが、ブロフたちが入ってくることはない。


 エストが目を覚ますその時まで、自分の逃げ道を作らないようにと鍵を閉めたのだ。


 もう逃げない。隠れることもしない。

 諦めない。彼の言葉を、忘れはしない。



「……起きなさい、エスト」



 そう呟いた瞬間だった。

 エストの体から『カチッ』と時計の針が動く音が鳴る。



「っ、ゴボァッ!」



 時が動き出し、急速に死へと走るエストは大量の血を吐き出した。

 その体が、本当に物へと変わる直前──



聖域胎動ラシャールローテ



 彼の鼓動を代弁するように、ドクンと刻む心臓の音。システィリアの魔力がエストに流れ込み、失われた血液や内臓、筋肉に骨や皮膚など、生まれ変わったように下半身を形成していく。


 わずか4秒の出来事だった。


 再び目を覚ましたエストは、ベッドの側から顔を覗き込むシスティリアの頬に、右手を差し伸べた。

 するりと撫ぜた頬はハリも柔らかさも激減していたが、愛する彼女のものであることに変わりはなかった。


 伝う涙をそっと指で撫で拭い、口元を緩めた。



「……ありがとう、システィ」


「うっ……ぐすっ……うえええええええええぇぇぇぇん!!!」



 子どものような泣き声だった。くしゃくしゃになった顔をエストの手に擦り付け、涙に滲む喜びと安堵の気持ちに、エストはそっと抱き寄せた。


 ずるずると布団の中に入ってきた彼女は、泣き止むことなく胸に顔を埋め、ひたすらに帰還を喜んだ。



「やっぱり……君を信じて良かった。僕は……幸せ者だ」



 5秒以内に上級光魔術を使える者など、エストの知る限り3人しか居ない。


 そのうちのひとりが、システィリアだった。


 使う機会が訪れないことを祈って、それでもいつか使う時が来ると思い、練習し続けた魔術。

 あの日から燃えたぎる彼女の熱意が、大切な存在を守ったのだ。



「……愛してる。愛してるよ、システィリア」



 海よりも深い愛情を込めて抱きしめた。

 それと同時に、重度の魔力欠乏症が彼を襲い、深い眠りへとつく。


 体力と気力を使い果たしたシスティリアも眠ると、宿の従業員の手で鍵が開けられ、ファルムやシトリン侯爵までもが部屋に入ってきた。



 そして、笑顔で眠る五体満足のエストと、彼に抱きつきながら同じ表情で眠るシスティリアを見て、皆が安堵の声を漏らした。



 それから、エストが目覚めるまでの3日間。

 街中に、そして王城へ賢者の復活が伝えられると、国王たちは声を上げて喜び、シトリンの漁師と冒険者は顔を曇らせた。


 一週間以上に渡って仕事を奪い、海を殺したのだ。

 生活に困る者が出たことは侯爵も認識しており、被害の度合いにもよるが、賠償の請求も視野に入れていた。



 一方、気力が回復したシスティリアは食事をとれるようになり、朝の打ち合いにはブロフが付き合わされた。


 エストほどボコボコにはしないものの、防戦すら許さないシスティリアの猛攻に、本当にここ数日動いていなかった者だと信じられなくなる。



「う〜ん、ダメね。剣速が落ちてるわ」


「……バケモンが。これ以上速くしてどうする?」


「バカね。これ以上速くてもエストを守れないのよ? だから、もっともっと強くなって、アタシはエストを守る。彼が最強の魔術師なら、アタシは最強の剣士じゃないとダメなの。分かる?」


「あぁ、よ〜く分かった。だから休ませろ。オレの体力は無限じゃねぇ」


「……ぶ〜。アンタも鍛えなさい」



 これでもブロフはかなり鍛えている。それを超えるシスティリアやエストが異常なのであり、決してブロフが弱いわけではない。


 やはり化け物システィリアには化け物エストをぶつけるしかない。

 そう心から実感する、ブロフであった。

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