第237話 その涙は海へと還る(5)


 ──目を覚ますと、システィリアが顔を覗き込んでいた。端整な顔立ちは色気、というよりは可憐さを際立たせ、空よりも澄んだ水色の髪は腰まで長い。

 さらりと流れた髪の隙間から、がエストと通じ合う。


 後頭部に感じる柔らかさに気がつくと、エストは再び目を閉じた。



(膝枕だ……でも、何か違う)



 その違いはすぐに分かった。

 足りなかったのだ。柔らかさの中に潜む、鍛えられた筋肉が。今エストが感じているのは、運動をまるでしていない細い女の子の太ももである。


 また瞼を上げると、やはりこちらを見つめる2つの瞳が。そこで、2つ目の違和感に気づく。


 相手の顔が見えたのだ。

 エストの記憶が正しければ、システィリアに膝枕をされている状態で上を向くと、女性らしさを強調する大きな胸で視界が遮られ、鼻の上部から上しか見えないはずだ。


 無い。無かった。エストの知るシスティリアにはあるはずの胸が無かった。ゆえに、下唇の辺りから全て見えていた。


 次に、瞳の色。システィリアは光の適性を持つ為、瞳の色が美しい金色なのだ。だが目の前の少女は違う。

 鏡で見た己の瞳のように、澄んだ青をしている。


 まるで、瞳の色が違う、耳と尻尾の無いシスティリアのような少女は、そっとエストの額に手を置いた。



「二度寝かましてんじゃないわよ」



 子どもっぽい、ツンと刺すような口調。

 見た目の可憐さとは裏腹に、高慢さを隠しもしない態度は、エストは覚えがある。


 また、覗き込んだ際に見えた時計を模した髪留めに、秒針と短針であろう2本のヘアピン。

 疑いの範疇は出ないが、目の前の人物が誰かを考えるには大きなヒントだった。


 ジロジロと顔を見てくるエストに、少女は『ふふん』と鼻を鳴らして言う。



「なに? ワタシの顔が綺麗すぎるって?」


「……システィの方が綺麗だよ。クェル」


「オーケー、その目玉をくり抜いてあげる」



 いつの間にか握られていた短剣ほどの時計の針を手に、文字通り目の前に突きつけたクェル。

 エストは膝枕の状態なので逃げ場が無い。

 しかし、彼女に敵意が無いことは分かりきっていたので、そのまま動かなかった。



「ふんっ、つまんないの。普通の人間ならビビって逃げ出すでしょうに」


「そうなんだ。ところでクェル、どうして人の姿なの? 前は水色の球体だったよね?」



 パッと針を消したクェルは、無い胸を張って答えた。



「アナタが“時間律”を使ったから、説教をするため。人間の分際で精霊の真似事をしたバカなアナタに、このクェル様が直々に叱ってあげるの。感謝なさい」


「……叱るために人の姿に?」


「え、ええ。何か文句があるっていうの?」


「別に。ただ、昔のシスティに似てるから」


「っ! ……そう」



 クェルは視線を泳がせた。

 まるで今の姿になる事が、何か特別な意味があるのではと思うエストだったが、たまたま似ていただけだと飲み込んだ。



「とりあえず、そこを退きなさいよ。いつまでワタシの膝枕を堪能するつもり?」


「君が乗せたんでしょ? それはそうと、ここはどこ? また精霊の世界なのはわかるけど、前と雰囲気違うよね」


「コイツ……傲慢不遜にも度があるわよ!」



 エストは強制的に跳ね除けられ、やれやれといった様子で立ち上がった。そして、自分の居る場所が大きな時計の上だと気づくと、ぐるりと一周歩いてみた。


 直径は50メートルほど。かなり大きい。

 歩き出した時刻が5時23分を指していたが、1分経とうが動かない長針に首を傾げていると、いつの間にか隣にクェルが現れた。


 胸の前で腕を組み、ふんぞり返った彼女はエストを睨む。



「この空間は時間軸の外にあるの。簡単に言えば、亜空間の中ってこと」


「なるほど。止まっていたのは魔力切れが理由じゃないんだ」



 興味深そうに頷くエストは、それが理由で亜空間を開くことが出来ないのだと理解した。



「そういえば、僕は海に居たはず。どうやってここに来たの? クェルが連れてきちゃった?」



 言外に帰してほしいと言うエストだったが、その質問に答えるクェルの表情は、わずかに影が差していた。

 そして、エストも予想だにしていなかった答えが返ってきてしまう。




「……アナタ、死んだのよ」


「はい?」




 死後は精霊に会う、なんて話はドラゴンから聞いていたが、それが現実になろうとは思ってもいなかった。


 しかし、彼女が言ったことを理解出来ないエストは、呆然としながらも記憶を辿る。



「でも僕、確かクラーケンを倒して、それで……変な化け物に……え、まさか」



 思い出せてしまった。あの時、自分が何の魔術を、どの魔法陣で使ったかさえも。



「厳密には、あと5秒で死ぬってところね。深海でアナタは水龍に下半身を食べられて、二度目のガブッ! ……の前に、世界中の海を凍らせてしまった。それと同時に、本能で時間律を使ったのよ。自覚ある?」


「……凍らせた自覚はある。でも、律の記憶は無い」



 あの瞬間は、とにかく化け物──水龍──に止まって欲しくて、最大出力で最強の氷魔術を使ったのだ。

 時間律はおろか、時間魔術の使い方を理解していないエストが、律を使えるはずがなかった。



「あっそ。ただ、アナタが使った時間律が、少し面倒なことを起こしてるのよ。ロェル、下を見せなさい」



 そう言って彼女が虚空に呼びかけると、2人の前に半透明な板が現れた。

 すると、システィリアやブロフ、ライラといった者の他に、シトリン侯爵や豪商ファルムも集まり、箱の前で手を組んでいる光景が映し出された。


 彼らの時間も止まっているのか、動き出す気配が無い。

 ちらりとクェルを窺うと、ニヤついた悪い笑みを浮かべていた。



「今、あの世界ではアナタを火葬しようとしているの。心臓も止まって上半身だけになったアナタは、誰がどう見ても死んだと思ったワケね」


「……は? え、じゃあ今の僕は」


「ここにあるのは魂よ。ただ、下にあるのは……アナタが帰るべき肉体ね」



 イタズラに成功した子どものような笑みで、『5秒後に死ぬ』という言葉の意味を教えたクェル。



「も、戻らないと! まだ死にたくない!」


「ダメ。ほら、時流を正すわよ」



 強引に腕を掴まれたエストは逃げられないことを悟ると、せめてシスティリアは気づいて欲しいと祈った。

 下の世界が動き出した瞬間、喪服に身を包んだ火魔術師が箱……否、エストの棺に火を着けると、ゴウッと猛火に包まれた。



「ちょっと待って! システィ! 僕まだ死んでない! ……多分。お願い気づいて! システィ! システィリア!!!」



 必死に叫ぶエストだったが、その声が下の世界には届くことはない。

 そんなエストを見たクェルは、しかし悪い笑みを浮かべたまま火葬の様子を流し続ける。


 すると、流れていた映像が二分割され、氷の大地となった海が元の姿を取り戻す様子が映し出された。どうやら肉体が死んだことで、かけられていた魔術が解けたらしい。


 防寒具を脱ぎ出す住民が映ると、すぐに火葬中の映像のみに切り替わった。



「そんな……嘘、でしょ……?」



 膝をつくエスト。ライラが一歩近づいてその頭に手を置くと、深い慈愛を込めて白い髪を撫ぜた。

 完全なる死が遂げられた。

 残された目標も果たせぬまま、システィリアよりも早く死んでしまったのだ。



 棺が燃え尽き、それでもなお炎の勢いは止まらない。



 ……止まらないのだ。


 様子がおかしい。

 魔術師の額から脂汗が滲む。


 異変を感じ取ったシスティリアが目を開けると、そこには炎の中で、未だ燃えずにいるエストの上半身があった。



「え……? 僕、燃えてないの?」


「あはは! ほんと、これだから人間は面白いのよ! その肉体にかけられた律が、人間程度の魔術で解けるはずがないのに……くくっ、プフッ!!」



 時間魔術。或いは、時間律。

 初代賢者リューゼニスにかけられた『不老の律』は、時の精霊クェル以外の力では、何をしても解くことが許されない。


 そして今、エストの肉体にも律が掛かっている。

 相乗魔法陣の使用と同時に、生存本能で使った時間律。エスト、或いはクェルでなければ解けない、絶対の理。


 それは──



「『不便の律』……たかが炎で燃える道理が無いわ。あの水龍でも傷ひとつ付けられない。なんなら、ワタシ以外の精霊であろうと、ね」


「……そんなの使っちゃったの? 僕」


「ま、元はと言えばワタシが律を見せたのが理由だわ。時間魔術のヒントを与えようと思ったのに、アナタって真似が上手なのよね」



 あの日、精霊と初めて会った時のこと。

 クェルに見せられた魔法陣を記憶したエストは、それが魔術よりも遥かに強い力を持っていることを認識すると、何度も何度も解読と模倣に力を入れてきたのだ。


 しかし一度の成功も味わうことはなく、今になって分かるのは、ヒュドラに使った氷律も、完全な律ではない。


 だが、本番に強いのがエストだった。

 彼女の口から明かされた化け物の正体、水龍の攻撃すらも通さない、ある意味最強の時間律を使えたのだ。


 身を守るという一点においては、これを超える防御性能は無いとクェルは言う。



「あ〜あ、大混乱になっちゃった。あはは!」


「……ねぇクェル。律って大量の魔力を使うよね。僕、あの時は氷魔術に全力を注いだから、律なんて使えなかったと思うんだけど」


「アナタの意思で使える魔力なんて、7割がいい所。残りの3割で律を使ったから、身を滅ぼす代償は無いわ」


「そうなんだ……安心したよ」



 胸を撫で下ろしたエストは、映像に背を向けた。

 まだ死んだわけじゃないと納得出来たのは、これ以上無い希望を見出してくれたのだ。


 火葬されそうになったことは恐ろしいが、それが失敗した時、すぐにシスティリアが抱えに行ったことが何よりも嬉しかった。


 なぜなら、生気の宿らない彼女の瞳が、不変のエストを見ることで光を差したからだ。


 彼女はきっと待っている。

 賢者の帰りを……愛する人を。



「解くにはまだ早いわ。ここで起きたら──」


「5秒後に死ぬ」



 クェルが放った言葉の真の答え。それは、不変の律を解いた瞬間のことである。エストが本当の意味で生還するには、目覚めると同時に上級光魔術を……聖域胎動ラシャールローテを使える者が居なければならない。


 しかし、この魔術が使えるのは治癒士の中でもひと握り。それも最高神官と呼ばれる、神国上層部の者だけだ。


 たった2人、三代目賢者とその妻を除けば。



「エスト。こっちを向きなさい」



 初めてクェルが名前で呼んだ。

 立ち上がって彼女の方を振り向くと、膝立ちになれと言う。仕方なく言う通りに膝をつけば、目線を合わせたクェルが、エストの胸に手を当てた。


 その瞬間、体に針が刺さったような感覚が走った。



「律の使用を禁じたわ。今後、アナタは死んでも律が使えない。人間が使うことを想定していなかったワタシの落ち度だけど、許しなさい」


「……うん」


「あら、素直ね。人間らしくないわね」


「流石の僕でも、これは本格的に人間を辞めた術だと思ったからね。僕は僕の力でシスティを守りたいんだ。だけど……今回は助かったよ。ありがとう、クェル」



 澄んだ瞳で真っ直ぐにお礼を言うエストに、彼女は顔を赤くしてぷいっとそっぽを向く。



「べ、別に、アナタの為じゃないんだからね!」


「嘘だね。君は僕に対して優しい。凍った海を溶かしたのも、僕が死んだように見せるためで、君が戻したんでしょ?」


「……見てたの!? え、えぇ、そうよ! 何か悪い!? 初めて時間属性を理解した人間だもの。ちょっとぐらい贔屓するわよっ!!」



 適性を持つエストだから分かる、刹那に使われた時間魔術。演出の為とはいえ、クェルが彼を想って使ったことに変わりは無い。



「嬉しいよ。僕、時間魔術を習得する」


「ふんっ。当たり前ね。このクェル様が目を掛けているんだもの、習得出来なかったらバラバラにしてやるわ」



 まだ起きるには時間がある。それまで時間魔術について話を聞こうとするエストだったが、クェルに魔力を借りて氷魔術を使い始めた。


 何をするんだとエストの手元を覗き込んだクェルは、彼が集中して氷の時計を組み上げる様を目撃する。


 職人と見紛う指捌きで完成させると、時計の背面から氷のリボンが伸びていた。

 可愛らしくピンクと水色に染められたリボンは、言われなければ氷が材質とは思えないほどの出来である。


 完成した時計付きのリボンをクェルの手に収めさせると、エストは誓った。



「約束するよ、必ず習得する」


「……これは何よ」


「君に似合うと思ってね。耳と尻尾と胸と色気が無いけど、君はシスティに似てる。だから似合うはずだ」


「ぐぬぬぬぬ……ふんっ!」



 言いたいことを極限まで我慢したクェルは、エストに背を向けた。そしてリボンで丁寧に髪を結ぶと、女の子らしさが目立つ、ツインテールにしてみせた。



「可愛いね。やっぱり似合ってた」


「か、かわっ…………はぁ、アナタって人間は本当に分からない」


「そうかな?」


「精霊に物をあげる人間なんて、初めてよ」


「僕は君に助けてもらったから。お返しだよ」



 溜め息を吐いたクェルは、そっとエストの手を取った。

 どうやら彼女が律を解くらしい。

 その手を優しく握ると、小さく縦に頷いた。



「……じゃあさっさと行きなさい。ワタシと違って、耳も尻尾も胸も色気も優しさも愛情も持っている人間が、アナタの帰りを待ってるわ」


「うん。ただ、君は優しさはあると思う」


「うるさい!」



 ミシミシと音が鳴るほど強く手を握るが、エストは平然としながらその時を待っていた。



「約束。守りなさいよ」


「もちろん。またね、クェル」


「ええ…………ま、またね」



 刹那、床の時計が稼働を始める。

 カチッという音と共に長針が動くと、エストの姿は消えていた。

 手に残った温もりを頬に当て、人間とは思えない精神力を持つ彼の言葉が蘇る。



「ふふっ……またね。またね。またね……面白い人間。精霊にまた会う約束を取り付けるなんて、なんて傲慢なのかしら」



 そう言葉にしながらも、口元が緩むクェルだった。


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