第236話 その涙は海へと還る(4)
「やだ! 離してよ! エストが……エストがまだ乗ってないの!」
船に乗せられたシスティリアだったが、エストを追って潜ろうとする。流石のブロフもそれは許容できないと、ドワーフの筋力を全て使って彼女を抑え込んでいる。
ケルザームの回収も諦め、目の前で海に引きずり込まれる瞬間を見た船長のオーグは、絶望の表情で海面を眺めていた。
「このっ、バカ! 裏切り者! アンタだってエストに助けられたくせに、どうしてアンタはエストを助けないのよ!」
「……あの触手は、魔物の全容ではない。一部……それも欠片のような先端だろう。アレは恐らくクラーケンだ。オレたちでは…………人類では勝てない魔物だ」
「それが何よ! アタシはワイバーンだってひとりで倒せる! ちっぽけなアンタとは違うのよ! エストを守るために、いっぱい鍛えたの! アタシなら……倒せるもん!」
「……じゃあどうしてエストは上がってこない? 剣士のお前と違って、水中でも魔術師は戦えるはずだろう」
「っ……それは」
胸を抉る正論だった。
回収した杖も、エストが取り落とすとは思えないのだ。それは、杖の持ち手を改造したブロフが一番分かっていることだ。
ゆえに、杖を落としたということは何か異常があったと考えられる。
この場合、クラーケンに襲われて生還した、たった2人の男が残した『船員は苦しんで息絶えた』という言葉から察して、毒があると考えるのが妥当である。
残念ながら、その毒は解析されていない。
ただ分かっていることは、毒に侵されて生きて帰った者が居ないということ。
エストがまだ戻って来ない。
それが指し示す答えに、システィリアは泣き叫ぶことしか出来なかった。
耳をつんざくような悲痛の叫び。
彼女の世界が、生きる意味が音を立てて壊れていく。
愛する人が目の前で消えた。自分は何も出来なかった。ただそのことが悔しくて、悔しくて堪らない。
何のために剣術を磨いたのか。
誰のために魔術を学んだのか。
あれだけ守ると言ったくせに、本当の窮地では守られるばかりではないか。魔族との戦いも、全部守られてきた。
なんのお返しをする間もなく、彼は……。
「ん……あ、あれ、私……」
魔力欠乏症から目を覚ましたライラは、目の前の光景に何も言えなかった。
力なく倒れ込み、泣き続けるシスティリアの声。
それを抑えるブロフの傍には、エストが後生大事にしていた賢者の象徴が転がっていたのだ。
何があったのかとオーグの方を見れば、こちらも現実を受け入れられていないのか、船を動かすことなく固まっている。
「あ、あの……オーグさん? 何があったんですか?」
肩を軽く叩いて聞くと、壊れた人形のようにガタガタと振り向いたオーグは、震える唇で言葉を並べた。
「エス……エス坊が……海に…………クラーケンに……やられ、た……」
「……え?」
「き、気づいた時には……海の中で……」
信じられなかった。
シトリンで暮らしている以上、クラーケンの話は必ず聞く。伝承として伝わる、海の恐ろしさを象徴する魔物だ。
海の帝王……それこそがクラーケンであると。
オーグの話は信じられない。
だが、目の前の惨状がそれを物語っている。
見たこともないシスティリアの泣き姿。それも、おおよそただ悲しいことがあったのではない、もっと深く、大きく絶望した時の、魂からの悲鳴だ。
耳も尻尾も力なく倒れ込み、人間である部分だけがどうにか自我を保とうと、泣き叫ぶことで意識を繋いでいる。
それを支えるブロフもまた、歯を食いしばり、目尻に光る雫を貯めていた。
「そんな……嘘……ですよね」
ようやく察したライラは、あまりの出来事に腰が抜けてしまった。
賢者エストの死。
たったそれだけの事象が、この先明るくなるはずであったライラの未来を、一瞬にして暗闇へと変えたのだ。
酷い目眩に襲われた。オーグよりも酷く、現実が受け入れられない様子だ。
だが、その目眩には覚えがあった。
自身の魔力を限界ギリギリまで消費した際、周囲の魔力濃度に体が拒否反応を起こす、魔力欠乏症の症状……魔力酔い。
これは、環境的に高い濃度の魔力に曝されることでも起きると、ライラは知っていた。
それが今、どうして起きたのか。
答えは数秒後にやってきた。
「えへへ、エスト……エストの匂い……」
「おい、お嬢! しっかりしろ!」
「……いい……匂い……」
絶望の果てにシスティリアが壊れてしまった。
そう感じたブロフだったが、明らかに空気が変わったことに気がついた。
まるで、エストが魔術を使ったような──
瞬きをした後の事だった。
前方を漂うケルザームが目に付くと、その動きが止まったのだ。
何故止まったのか。理由は単純である。
そこが、波立つ海ではなくなったから。
「海が……凍っている」
有り得ない光景だった。
朝日が昇り始めた今、明るい陽の光を返すのが
吐いた息が白く染まり、体が震える。
「お嬢……おい、お嬢! システィリア嬢!」
「……なによ。アタシからエストを奪う気?」
「ああそうだ。この氷の下にエストが居る。早く掘り返さないと、本当にアイツは死んでしまうぞ」
まだ希望はある。
続けられたブロフの言葉に、半ば虚ろだった黄金の瞳が、輝きを取り戻した。
諦めるにはまだ早い。
死体も見ていないのに死んだと決めつけるなんて、なんと愚かなことか。
「えぇ……そうね。エストがタダで死ぬワケないもの。これだけの大魔術、きっとクラーケンを倒したんだわ」
立ち上がったシスティリアは、涙と鼻水でぐしょぐしょになった顔を拭くと、うんと伸びをした。
「……ああ。だが、どうやって救い出す?」
「そんなもの、コレがあれば充分よ」
そう言って剣を抜くと、氷の上に飛び降りた。
視界の端から端まで海が凍っており、夏の終わりとは信じられない光景に、ふっと白い息が漏れてしまう。
ケルザームの死骸から少し離れた位置。
システィリアの直感を元に掘削地点を定めると、彼女は足元に向かって洗練された剣技を放った。
ダイヤモンドダストの如く舞い散る氷の結晶は、アダマンタイトと白狼族の力によって、暴風の吹雪を生み出した。
そうして出来た穴は、直径1メートルほどの広さで、深さは4メートルにも達していた。
「ね? ただ水が凍っただけだから、剣へのダメージも少ないわ。ライラの魔術があれば、もっと早くなるはず」
「……常識外れが」
「アンタは階段でも作ってちょうだい。氷で滑るでしょうけど、出来ないなんて言わせないわよ」
先程までの彼女はどこへ行ったのか。
殺意すら滲ませて指示を出す姿に、ブロフは黙って頷くしかなかった。
ライラとオーグにも希望を持たせ、掘削作業を手伝わせる。
港まで陸続きになった以上、オーグは街へ人手を集めに、ライラは船の魔道具を使って、炎に風を送る計画を立てた。
そうして始まったエスト救出作戦は、困難を極めることとなる。
なぜなら、本当に彼女の真下にエストが居るのか、不明だからである。そして、もし仮にエストを救出したとして、彼が生きている保証が無い。
だが、それでもシスティリアは諦めなかった。
この直感が正しいと信じて。
彼のことを、誰よりも深く愛するシスティリアだからこそ、それが当たっていると、半ば確信めいた自信があった。
救出作戦開始から5日後。
大規模な掘削場の最深部。
ガラスのように透明な氷の床を削っていたシスティリアは、遂にソレを発見した。
まるで死神が顕現したかのように鋭く、大きい牙が、エストを噛み砕かんとしている。
クラーケンよりもよっぽど大きく、恐ろしい魔物に足を竦ませながら掘り出したのは……。
心臓の止まった、エストの上半身だった。
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