第235話 その涙は海へと還る(3)
……一瞬の事だった。
腹を貫いた触手の毒が、この手から杖を落とさせた。
小さい頃、アリアお姉ちゃんに様々な毒を経験させられた。サーペントの牙を刺したり、棘サソリの毒液を飲んだり、解毒が困難なキノコも食べた。
症状が出てから5分で死ぬ毒を受け続け、解析能力も鍛えられたはずのに……この触手の毒はまだ分からない。
「エス──ぉぉ!」
海に引きずり込まれる瞬間、システィの声が朧気に聞こえた。どうやら耳……いや、感覚系に影響する毒なんだろう。
海面に叩きつけられた感覚も無い。音は……もう完全に消えた。肺の中の空気だけで大丈夫かな。多分……無理かもしれない。
あぁ、暗いなぁ。それに赤い。
出血量がかなり多いみたいだ。水の冷たさも相まって、急速に体温が下がる感覚がする。
……感覚、あったんだ。視力もある。
まぁいい。
それよりも触手から脱出しないと。
ま先端が分裂するなんて、どれだけ気色悪い進化を遂げたらそんな生態になるんだろうか?
──あ、これマズイかも。
体を巡る魔力が制御できない。毒で感覚が死んだせいかな、特に下半身は魔力の一欠片も集めることができない。
足から魔力を起こすのが、感覚で魔術を使うコツなんだけど……そういえば感覚が麻痺してるんだった。
参ったな。日々の戦闘訓練で足に集中しすぎたか。アリアお姉ちゃんやシスティに憧れて、変な癖がついてたんだろうな。
仕方ない、まずはこの毒を何とかしよう。
体温はまだ大丈夫。
炎龍の魔力で温かいからね。
上半身を──心臓を起点に、魔力を使おう。
目を閉じて、集中する。
体を侵食していく異物を捉え、その形と正反対の魔力をぶつけて解析するんだ。大丈夫、僕ならできる。
……複雑な毒だなぁ。
落ち着いたら分かった。この毒、45種類の毒が上手く混ざりあっているんだ。ほんと、触手だけじゃなくて毒まで気色悪い。
(
さて、一体どれだけ沈んでいるのだろうか。
そろそろ海底に着いてもらわないと、光が届かないから不安になる。
……っと、感覚が戻ってきた。
よしよし、おかえり下半身。君が帰ってくるまでに鼓膜が何度か破れたよ。まぁ、お腹を貫かれてるから、帰ってきてもする事ないけどね。
そうこうしていると、海底に着いたらしい。
お腹の触手も抜かれて、ようやく傷を塞げる。
こんな深海に僕を連れ込みやがって……真っ暗すぎて何も見えないよ。何これ? 闇魔術でもかけられた?
──なんて、軽い気持ちで
「ぼはぁ! ぎぼびわう!」
焦げ茶色の触手が20本以上あり、その全てが凄まじく長く、恐ろしく大きい。光に反応してギョロりと見てきた2つの目玉は、直径は僕の倍は大きいだろう。
その見た目は、一言で“バカでかいイカ”。
そんな、化け物と称するに相応しい魔物は、話には聞いていた三大海帝が一体。
クラーケン……という奴だろう。
確か危険度が、ケルザーム、ヒュドラ、クラーケンの順番だったはず。つまり──
海における最強の魔物が、目の前に居る。
う〜ん、マズイ。
思いっきり目が合っちゃってる。
向こうも「どうして毒が効いてないの?」と言わんばかりに固まってるし、僕もその恐ろしさに固まっちゃってる。
深海は魔力が荒れ狂っていて転移も出来ないし、戦うしかないにしろ、僕の何万倍も大きいクラーケン相手に、勝てる気がしない。
あぁ……嫌な予感がする。アレは殺意だ。
気色悪いって言葉が聞こえたのかな。海の帝王が凄まじい力を触手に溜めているのが、冷たい水を伝って感じるよ。
その瞬間、全身を粉々にする勢いで突っ込んできた触手だったが、間一髪で
空気が欲しいな。姿勢も安定させたい。
あと1分もしたら僕は息が出来なくなるだろう。
あ、また触手が来る。次は2本か……あっぶな! 1本目の水流で体が呑まれかけた。
とりあえず、魔術をブッパなそうか。
倒せなくていい。
撃退できれば御の字だ。
全身の魔力を一点に集中させて、瞬きよりも早く術式を組み上げる。呼吸と同じくらい自然に出来る動作だ。
……今は呼吸、してないけど。
そうだ、氷龍の時みたく、貫通に特化させよう。
捻れさせて、回転を加えて、魔力を噴射させて一気にぶっ飛ばす……あの時より格段に強くなってるぞ。
消費魔力が凄まじく多いせいで、回転する魔法陣が残像を残して見えるね。初めて見たよ、こんな魔法陣。
それじゃあ受けてもらおうか。
文字通り渾身の力を出し切る一撃だ。
「
煌めいた魔法陣から、触手の速度を優に超える推進力で突き進んだ槍は、受け止めようとした大きな触手を木っ端微塵にしていった。
そして目と目の間、イカならば脳がある場所に刺さると、渦を作るほど回転しながら穴を開けた。
迫る死から逃れようと大暴れするクラーケンだったが、遂にその槍先が脳に到達した瞬間、全身の色が白く染まった。
よし。撃退どころか倒してやった。
海の帝王がなんぼのもんじゃい。夜の女帝こと、システィの方が何十倍も恐ろしいわ!
そう、安堵した時だった。
クラーケンの背後から迫る、無数の牙。
それが口だと気づくには時間がかかった。
理解した時には、クラーケンの持つ、恐ろしく大きな頭部を…………八割も食いちぎっていた。
あまりにも大きすぎるソレは、蛇のような、ウツボのような姿だった。
そして。
3秒も経たない間にその口は再び開き──
僕の体を、食ってしまった。
(あれ……今、何が起こった? 体が……動かない。あぁ、無くなっているのか。早く治さないと──あ)
体を治そう。そう思った時には、牙が迫っていた。
初めて感じる、明確な死のイメージ。
世界がゆっくり流れていく。
刹那に見えたシスティとの幸せな日々。
意見の食い違いで言い合いになったり、ささやかなプレゼントで大喜びしたり、朝起きて傍に居る幸せに笑った日を思い出した。
あぁ、僕……死ぬんだ。
こんな所で死んじゃうんだ。バカだなぁ。
まだ五賢族も全て倒していないのに。
まだ神国にも行ったことがないのに。
まだ師匠にも勝ったことがないのに。
もっと氷龍や先生とも話したい。
アリアお姉ちゃんだって会いたいよ。
それに、まだ……システィと幸せになっていないのに。
──牙が目の前まで降りてきた。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない!
まだ死にたくないよ!
やりたいことが山ほどあるんだ!
こんな所で死んでられるほど暇じゃない!!
まだ知らない魔術ってある!
知りたい魔法だってある!
何より、これから生まれてくる新たな魔術をもっと知りたい!
魔術……そう、魔術。魔術を使うんだ。
僕の魔術は……守るためにある。
生まれ持った2つの適性。
精霊さえ驚く稀な属性。
誰よりも強く、硬く、優しく。
守るために──
守る? 何を守るんだ?
僕は……何を守るんだったっけ。
前までは覚えていたはず。
でも今は……思い出せない。
守る、守る、守る…………あぁ、そうだ。
僕を、守らないと。
「……相乗魔法陣・
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