第212話 賢者のきまぐれ


「──よし、全員満点だね。これで僕も思い残すことなくお別れできるよ」



 学期末試験が終わり、一言たりともエストの話を聞き逃さなかったおかげもあり、驚異の全員満点という結果を生徒に渡していく。


 初めてテストで満点を取った者や、問題の易しさに首を傾げる者も居るが、全て努力の賜物である。


 教壇に立ち、ひとりずつ顔を見るエスト。

 就任初日と違い、確固たる自信と積み上げてきた実力に、俯く生徒はひとりとして居ない。



「うん、いい顔つきだ。未知へ進む魔術師らしい。この3ヶ月で、君たちは大きく成長した。僕が教えたことを続けたら、生きるのに不自由しない力は身につく。君たちの活躍を願っているよ」



 エストは軽く目を閉じ、夜空に浮かぶ星のように小さな魔法陣を無数に出した。

 蒸し暑い教室の中で光ったそれらは、青と白に輝く氷の結晶を造り、エストを冷気で包む。


 あまりにも小さく、そして精密な魔法陣は、みっちり鍛え上げられた生徒ですら読み取ることが出来ず、辛うじて見えた術式も、生徒を騙すための偽物だった。



「またどこかで。バイバイ」



 そんな声が冷気の渦から響くと、エストの姿は消えていた。

 エストらしい複雑な魔術による派手な演出は、見る者の目を奪い、それでいて気付かぬ間に溶ける雪の結晶のようだった。



「……行っちゃった」


「賢者の生徒だ。俺たちには無敵の自信があるぞ! 見てろ、すぐに追いつくからなー!」



 晴れゆく冷気に叫ぶ生徒たち皆、明るい顔で見送った。





 そして、消えたエストはと言うと。


 白雪蚕のローブから焦げ茶色に汚れたボロボロのローブに着替えると、王都の屋台飯を堪能していた。



「1本200リカの串焼き……高騰してるね」


「ああ。まだ街道が直ってねぇもんだから、仕入れが出来なくてよ。すまんな」


「謝らないで。良い道になるはずだから」


「おう……おう?」



 フードを深く被り、顔が見えないようにしたまま串焼きを5本頼むと、嬉しそうな表情で仕上げのタレをかける店主。


 エストが懐から皮袋を取り出すと、横から走ってきた子どもとぶつかった。



 走り去っていく子どもを見つめるエストに、店主は慌てた様子で叫んだ。



「おい兄ちゃん! 財布盗まれてんぞ!」


「知ってる」



 手に持っていたはずの皮袋が無いことに気づいても、エストは全く反応しなかった。

 再度懐に手を入れ、銀貨を1枚取り出した。

 握った右手を店主の前に差し出しながら、エストの視線は串焼きに釘付けである。



「あの皮袋には石しか入ってない。それより串焼き。これで買えるでしょ?」


「あ、ああ…………用心深ぇんだな」


「お嫁さんの知恵だよ」



 そう言って串焼きを受け取ったエストは、お釣りを受け取らずに店の前から去ってしまう。

 熱々の肉を齧りながら、味の濃いタレが舌を痺れさせる感覚に幸福を味わい、スリが逃げた方へと歩いて行く。


 一本、また一本と串が裸になっていくと、細い路地で皮袋をひっくり返す小さな背中が見えた。



「盗んだ時、嬉しかったでしょ」


『ッ!? ……だ、誰!?』


「見た目はお金でパンパン。その上重たくてずっしりしてる。皮袋を掴んだ瞬間の君、笑顔だったもんね」



 口元だけを見せながら当時の気持ちを代弁するエストに、皮袋を盗んだ子ども──赤い髪をした猫獣人の幼い少女は、思わず取り落としてしまう。


 石ころをばら撒く子どもにエストはしゃがみこみ、少女の顔を覗く。



『生きるの、大変?』



 彼の口から出た獣人語。

 流暢な発音に、少女は目を丸くする。



『…………うん』


『何歳?』


『……はち』


『生まれはべルメッカ?』


『……ううん。フロンドルア』


『ドゥレディアの北の村か。どうして王都に居るの?』



 べルメッカよりも遠い場所から来た少女が、どういう経緯でリューゼニス王国まで訪れたのか。



『パパと一緒に……でも、盗賊に殺された』


『そっか。よくドゥレディアを縦断できたね』


『傭兵さん……いっぱい居た』



 詳しく聞けば、幾つもの村や街を経由して国境を越えたらしい。数人の被害を出しても少女と父親を王国へ送るべく、傭兵は雇われたようだ。


 村一番の金持ちだった少女の父親が、外の世界を見せてあげようと大金を使ったという。



『王都に居たい?』


『……おうち、帰りたい』


『じゃあ送ってあげる。べルメッカなら連れて行ける』


『ど、どういうこと?』



 そっと近づいたエストが少女の手を取ると、景色が変わる。

 ジリジリと肌を焼く陽射しと、橙の景色。

 眼下に広がる白い石造りの街は、少女も見たことがある獣人の街……べルメッカである。


 混乱する少女をお姫様抱っこで持ち上げるエスト。

 砂丘を下ってべルメッカの中に入ると、風でフードが戻ってしまう。その瞬間、たくさんの獣人が集まってきた。


 広場で少女を降ろすと、ギュッと手を掴まれた。



『賢者様……賢者様がお戻りになられたぞ!』


『賢者だー! 皆、賢者だぞー!』



 瞬く間に話が広がっていく様子に、少女は目をぱちぱちさせながらエストの顔を見た。



『ほんとうに……賢者さま……なの?』



 その問いには答えず立ち尽くすエスト。

 やがて宮殿の方から数人の人集りが近寄ってくると、獅子獣人の男……ドゥレディア代表のナバルディが広場にやって来た。



「久しぶりだな、賢者エスト」


「久しぶり、ナバルディ。元気そうだね」


「ああ……む? そちらはラウィードの娘ではないか。奇縁なものだな」


「父親が死んで悲しそうにしてたから連れてきた。育ててあげて」



 フロンドルア一の商人だったラウィード。

 大商人だけあってナバルディも認知していたのか、父親が亡くなったことを知ると、宮殿で預かろうと言う。


 この際、決してスリで食いつないでいたことは言わないエストに、少女は黙りこくってしまう。



『元気でね。魔石は高く売れるから、強くなることをオススメするよ』


『あり……がとう』



 捻り出した感謝の言葉に、エストはしゃがむ。

 少女と目線を合わせ、真っ直ぐにその瞳を見つめた。



『次は君が子どもを助ける番だ。いいね?』


『……はいっ!』



 最後にナバルディに『よろしく』と伝え、エストは消えた。

 大衆に見られながら完全に消えるエストに、その姿を見ることが出来なかった者は叫び、以前にも会ったことがある者は拝んでいた。



 影のあった場所を見つめる少女は、ぼんやりと彼の顔を思い出し、笑みを浮かべる。



『……ありがとう、賢者さま』



 後に、この少女がドゥレディアを代表する商人となることは、まだ誰も知らない。






 その夜、システィリアが帰ってきた時のこと。



「……獣の臭いがする……これ……猫かしら」



 玄関まで迎えに来たエストの周囲を嗅ぐと、胸の辺りでそう結論を出した。



「すごいね。鼻が良すぎて怖いと思ったのは初めてだよ」


「やっぱり。しかも子どもでしょ? 猫獣人」


「当たり。べルメッカに送ったんだ」


「アンタ……軽く何百キロメートル飛ばしてるのが異常なの、分かってる?」



 エストの胸に耳を擦り付けながら言うシスティリアに、説得力の欠片もなかった。

 夏毛になった彼女の耳は程よく硬い仕上がりになっており、押し付けられてクニっと曲がる耳の感覚が心地よい。


 そんなシスティリアの頭を撫でながら、エストは胸を張って言う。



「僕は獣人と子どもには優しくする。僕がシスティを愛してる限り、それは変わらない」


「もうっ……そういうところも好きよ」



 軽く口付けを交わすと、システィリアの手を取って歩く。



「お風呂に入ろう。ちょっと汗臭い」


「そう。ぶん殴ろうかしら」


「大丈夫。僕も臭いはずだから」


「いいえ? 臭くないわよ?」


「……うん、僕が悪いね。ごめんなさい」


「極上のマッサージで許してあげる」


「持てる技術全てを使ってやらせてもらうよ」



 そうして、昼間にあったことを話しながら講師生活に幕を下ろしたエスト。

 次なる目的地の詳細を考えるも、もう少しだけ2人での生活を堪能したいと願い、翌日ブロフに相談するのだった。


 2週間の猶予を与えられると、エストは珍しく単独での行動を開始した。




 王都から大きく北東に進んだ先にある、王国でも有数の巨大な鉱山。

 そこで発見報告のあった、この世で最も慎重に倒すべき魔物と言われている『オルナメート』を狩りに来たのだ。



 公開されている坑道の前に立ち、そびえ立つ鉱山を見上げる。




「宝石を食べる魔物か……期待してるぞ」

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