第205話 動乱の予兆
「3週間お疲れ様。葬儀に出る人は忙しいと思うけど、そうじゃない人も、葬儀が終わった人もゆっくり休んで。3日間の休みを有効に使ってね」
遠征が完全に終了し、校舎前で解散する。
他クラスでは死者が出たため、エスト以外の講師は皆忙しい。
初夏の風に灰が乗る前に、エストとシスティリアは屋敷に帰った。
「あ〜、程よく疲れた」
「長旅だったものね。アタシたちもゆっくりしましょ」
心地よい疲労感とふかふかのベッドに寝転がると、エストはシスティリアの耳をこねくり回す。
帰り道では魔族に対する警戒を一切解けなかったために、システィリア成分が不足していたのだ。
体重をかけて倒れ込んできた彼女を抱きしめ、耳と耳の間に顔を埋めたエストは大きく息を吸い、至上の幸福を楽しむ。
愛するシスティリアから放たれるフェロモンが、精神的に疲弊していたエストの心を癒していく。
「はぁぁぁ……良い匂い」
「遠征中、あまり髪を梳けなかったものね。尻尾も少しボサついてるし……手入れしてくれる?」
「もちろん。愛情を込めて綺麗にするよ」
ベッドに座ったエストは、櫛を片手に頭頂部から梳いていく。透き通るような髪を束ねてから優しく櫛の歯を入れ、するすると下ろす。
たった数度これを繰り返しただけで、髪は垂らした絹糸のようにサラサラになるのだ。
バルコニーから入る澄んだ蒼の風が2人の間を抜けると、この瞬間にしか味わえない、形容しがたい幸福感に満たされた。
「……いつまでこの平和が続くのかな」
「大丈夫よ。アタシたちが平和にするもの」
「そっか……そうだね。最近はシスティと一緒に居ると心の弱い部分が出てきちゃうな。どうしてだろう」
「そりゃアンタ、アタシのことが大好きだからよ? アタシだってエストと居ると甘えたくなるし、全部さらけ出したくなる。夫婦ってそういうもんでしょ?」
大きく頷き、尻尾に櫛を入れるエスト。
表面の毛並みを整えながら中心の骨の部分を優しく握ると、歯の長い櫛で整えていく。
程よいマッサージで心地良いのか、脱力するシスティリアの耳に、ふ〜っと息を吹いた。
「ふにゃあああああっ!? 何すんのよっ!」
「可愛かったから、つい」
「んもうっ! びっくりしたんだから……!」
たわわな麦のように尻尾の毛が逆立っている。
そっと手を添えるとビクリと反応し、また逆立たせてしまうエスト。感覚が鋭敏になった彼女には、それだけの刺激で反応してしまうのだ。
落ち着かせるために頭、耳、首と撫でていけば、段々と感覚が戻ってくる。
可愛い反応についまた息を吹きそうになるエストだったが、次は拳が飛んでくる可能性も考慮し、歯を食いしばった。
「アンタ、また吹こうとしたでしょ」
「うん。次は弱めに長く吹こうと思って」
「やめなさいよ! 全く……アタシの方が歳上なのに」
「子どもっぽいけどね」
「どこが!? アタシのこの、ボンキュッボンなスタイルのどこが子どもっぽいって言うのよ!?」
「体はね。行動は子どもっぽいよ」
「んなっ…………もう大人だもん!」
「そうだね、もう大人だもんね。よしよし」
ブラッシングの途中だが、振り返ったシスティリアがエストのお腹に泣きつくので中断して慰めることに。
しかし、完全に子ども扱いされてしまい、唸ることしか出来ないシスティリア。こればかりは勝ち目が無いと悟り、そのままエストを押し倒した。
「……シ、システィ?」
涙目で見つめられ、胸が高鳴る。
汗ばんだ肌に髪が張りつき色気を放つ。
ふわりと優しい花の香りが鼻をくすぐり、潤んだ瞳に視線が吸い寄せられた。
行動は子どもっぽく見えるシスティリアだが、確かに大人なのだ。
頬の赤みが、垂れた髪が、心臓を揺さぶる。
熱い吐息を浴び、同じように口の中が熱くなる。
伸ばした手で彼女の頬を撫で、その熱を感じながらするりと手を滑らせ、唇に触れる。
小さく開いた口に人差し指を入れると、ねっとりとした舌が絡みついた。
その妖艶な瞳にぼーっと意識が吸い込まれそうになった瞬間、エストは指を引き抜いた。
「こ、これはちょっと色気が強すぎる……」
「……ふふっ、エストの方が子どもね」
エストの完全敗北である。
子どもっぽいとからかったばかりに、大人の色気で完封されてしまったのだ。
心から愛するシスティリアに適うわけがなかった。
次からは気を付けようと思うエストだが、体勢を戻そうとする彼女を残念そうに見つめた。
それに気づかないシスティリアではない。
しかし、ここで応じてしまっては起床が翌日の昼になると考え自制する。
彼女もまた魔術師たるもの、自制を覚えている。
これまでろくに発揮されることはなかったが、ごく稀に絶大な力を誇るのだ。
「で、帰り道で急に消えたけど何してたの?」
「……魔族が様子を見に来ると思って深層に空間把握の術式を薄く張ってたら、見事にかかったんだ」
「えっ!? それじゃあ追加の魔族も──」
「いいや。顔も見せずに消えたよ。追いかけようにもトレントが邪魔だし、確認だけして諦めた」
「確認?」
「うん。その魔族は水属性の魔力を持ってたんだ。多分……深海のイズ。先生が言うには、『文明を破壊できる魔族』だったかな」
システィリアは、その名を一度だけ聞いたことがある。
深海のイズ。文字通り海の如き水魔術を扱う魔族であり、魔族を生み出すことが出来る魔族だ。
ジオ曰く最も早く倒したい魔族であり、人類と魔族の戦いで容易に戦況を変えられる、魔族にとっての切り札であると。
非常に警戒心が強く、その姿を見た者は居ないという。
或いは──
「悔しいけど……綺麗な魔術だった。霧になって姿を消す鮮やかさは、消えたことに気づかないほど無駄が無かったよ」
「アンタがそこまで言うって、相当じゃない。勝機はあるのかしら?」
「ある。消える前に倒せばいい」
「頭の中にアリアさんでもいるの?」
結局、逃げられる前に仕留めさえすれば解決する。
魔族を生み出す魔族なぞ、早々に片付けねば今後に大きく影響を与えるのだ。
「次は感知した瞬間に最速で攻撃する」
「アンタの最速とか怖いんだけど」
「音より速く、塵すら残さない」
「……やっぱそうなるのよねぇ」
対面していたシスティリアが大の字に寝転がると、エストは顔を逸らすように外を見た。
そろそろ昼食にするかと考えながらエストも後ろへ倒れ込めば、即座に起き上がった彼女がエストの上に重なった。
「おりゃ! 胸で圧迫されるの、好きでしょ?」
「……うん」
「ふっふっふ。アタシの大人ポイントが増えたわね」
「その発言が大人ポイントを減らすんじゃ?」
「……うっさい!」
しばらく背中を撫でてから、昼食に誘うエスト。
せっかくなのでブロフも誘って王都の高級レストランに行くと、一般人の1ヶ月分の食費を使うのだった。
「お前たち……ここ2ヶ月で随分変わったな」
「「そう?」」
「一体感が増している。何かあったか?」
「「特に何も無かったけど?」」
同じタイミングで同じ言葉を発すると、2人は顔を合わせた。それを見ていたブロフは口元を緩め、ジョッキに注がれたワインを呷る。
「オレの方はあったがな」
「あ、ごめん。僕も魔族と戦った」
「……お前……変わりすぎだろう」
「五賢族じゃないから大丈夫。ブロフの方は何があったの?」
自分のグラスに冷水を注いだエストは、システィリアのグラスにも注いだ。
「貴族周りの関わりが増えた。だが、どいつもこいつも賢者の話を持って来る。四風狼の三奇人にオレが似ているせいで毎日面倒だ」
「本人じゃん」
「もういっそのこと明かしなさいよ」
「……お前らが自重しないからだろ」
誰のせいで毎日貴族から質問攻めを受けているのか。
肝心の賢者は講師として学園に滞在しているが、下手に学園と問題を起こせば反逆の罪となる可能性もある。
貴族も慎重に動かざるを得なく、必然的に賢者と思しき三奇人や、それに似ている者から情報を集めていた。
「まあまあ。僕もこれからは────」
言い留まったエストに2人が振り向くと、そこにはただ冷たく、一点を見つめるエストが居た。
握ったグラスにおぞましいまでの力が集中し、ヒビが入る。
「エスト……?」
「おい、大丈夫か?」
ただならぬ様子にブロフは立ち上がる。
システィリアがエストから大量の魔力が出続けていることに気づくと、その量に思わず歯を食いしばってしまう。
「アンタ、息をしなさい!」
極限まで集中しているエストは息をとめ、首や顔に血管が大きく浮き出していた。
一体何をしようとしているのか。
ドラゴンにも匹敵する魔力を放出しながら、グラスを握り潰したエストは立ち上がり、杖を出す。
大きく息を吐くと、2つの魔術を使う。
「──
その瞬間、王都が氷で包まれた。
氷は数百を超える層を形成し、魔術師ではない一般人でさえ、膨大な魔力を感じ取れるほどに大規模な魔術だった。
そして、平穏は氷と共に砕け散る。
わずか数秒の出来事である。
山や森、農村を含む王都を中心とした半径10キロメートルに渡る緑溢れる大地が──
焦土と化した。
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