第197話 風呂ポーズ


 遠征が始まる前日。授業が無いからとドゥルムスピンの死体を換金しにきたエストは、凄まじい人集りの中で職員に討伐方法を伝えていた。


 数時間の拘束の後に980万リカを受け取ると、余裕でもう一軒建てられるのでは? と思ってしまう。



「いや、きっと食費か旅費だな。でもこれでしばらくは働かなくても生きていけるし、休暇も欲しいな〜」



 受け持った生徒の育成があると首を振り、屋敷の寝室に直行する。

 学園の図書館で借りてきた魔道書を読むシスティリアが振り返った瞬間、エストはぼーっと見蕩れてしまう。


 髪を一つ結びにしたシスティリアが、赤い眼鏡をかけていたのだ。レンズは入っていないが彼女の青い髪に赤のフレームは映えて見え、エストの胸を強く打つ。


 振り返ったシスティリアが微笑むと、ベッドに飛び込むエスト。



「はぁぁぁぁ……可愛い。思わず手が出そうになるほど好きだ」


「ふふっ、最近は眼鏡が王都で流行ってるんですって」


「…………君は何をしても可愛いよ」



 ベッドに両手両足を埋めることで何とか理性を保ち、顔を上げて彼女の方を見れば、嬉しそうに笑う姿に胸が痛くなる。


 まさか胸が痛くなるほど好きだとは思わず、エストは歯を食いしばった。



「大絶賛ね。それで、幾らになったの?」


「980万リカ」


「そう。なかなかいい……え? 980万?」


「150万の革袋が4つと半分」


「……もう一軒建てられるわよ?」


「僕と同じこと考えてる」



 笑い合ったシスティリアがベッドに座れば、愛おしそうにエストの髪を撫でた。


 もう、屋敷の生活にも慣れてきた頃だ。

 毎日降り積もる居心地の悪さもハッキリと分かるようになった。


 使用人にも話を通し、皆胸を張って2人を送ると言う。屋敷に関しては仕事だからと維持に務め、2人がいつでも帰って来られるようにするらしい。


 少しずつ未来への道を歩んでいることを自覚すると同時に、彼女の脳裏には魔族との戦いが思い出される。


 ぞわりと逆立つ空色の尻尾。

 たった一瞬で幾万の命を葬り去る魔術。

 畏怖。恐怖。鬼胎。


 ゆえに彼女は、ある提案をする。



「……エスト。家を建てたら、その…………旅をお休みして、2人でゆっくり暮らしましょう? 魔族の動きも遅いみたいだし……こ、子どもとか……欲しいの」



 幸せな未来を描いたのだ。

 郊外の村でひっそりと生き、昔に約束した飲食店を経営したりして……恐ろしい相手とは無縁な、人として幸せな未来を送る。


 そんな明るい未来の提案だった。



「……ああ」


「じゃ、じゃあ──」




「僕が賢者じゃなければ、同じことを言いたかった」




 重たい体を引きずるように、ベッドから持ち上げたその体は。

 魔術師というには鍛え上げられ。

 戦士というには細く。

 武術と魔術の双方を叩き込んだ、賢者のものだった。



「今、五賢族を討てるのは僕たちだけだ。この機会を逃せば、何万、何十万の罪なき人の命が奪われる。歴史が繰り返されてしまう。賢者リューゼニスが倒せなかった魔族を、僕たちが倒さないといけないんだ」



 かつての賢者は1000年に渡って魔族の進行を食い止め続け、かつての賢者は人間の手によってその首を撥ねられた。


 魔族を討つ才はまさに世界の劇薬。


 人の為ではなく己の為に使おうものならば、たちまちそれは破滅の道へと誘うだろう。



「精霊に言われたよ。『最も稀な人間』だとね…………僕はそうは思わない。この力を振るう時、僕はこう感じる。『最も不運な人間』だって」


「エスト……」


「氷龍が認める前なら、きっと願えた未来だ。でも今の僕は……賢者になってしまった。龍の血が流れ、魔族による被害を報告され、僕の逃げ場は無くなった。もう……戦うしかないんだ」



 悔しそうに。あれだけ感情を表に出さないエストが、ギリギリと歯を食いしばりながらその頬を濡らし、不慣れな作り笑いを浮かべた。



「ごめんね……その未来、遠くなっちゃった」



 魔術師にとって、賢者とは到達点である。

 あらゆる魔術を駆使し、たゆまぬ努力と一等星の如く輝く才能を有したそれは、未来を導く究極の魔術師だと。


 だがエストにとって賢者とは、可哀想な偉人だった。


 魔族を倒せる才能を持ってしまったがゆえに、人類を守るために戦い続ける運命の道に、人生の駒を置かれてしまった哀れな人間。

 それは初めてエストが賢者を知った、5歳の時には思っていたことだ。


 そしていざ、自分がその立場になってみれば、幼少期に感じたままの存在だった。



「……ごめん」


「そんなの…………そんなの、エストじゃないわ。アタシの中のエストは、誰よりも勇敢で、強くて、賢いの! 魔族がなによ。賢者がなによ! それがアンタとアタシの幸せを邪魔する理由になるっていうの? バッカみたい! 何のために修行したのよ。誰のために強くなったのよ。さぁ答えなさい! 早く!」



 堰を切ったように言葉の波をぶつけたシスティリアは、力強くエストの手を握りながらそう叫んだ。



「……僕のために。システィを守るために」


「そうでしょ!? アタシだって、アタシのために修行して、アンタを守るために強くなったの! アンタもアタシと一緒なの。エストが賢者になるなら、アタシだって魔女にでもなるわ! 2人で幸せになって何が悪いのか、アタシには分かんないっ!!」



 誰も、何も悪くないのだ。

 ただ賢者には明るい未来が来ないことが歴史に刻まれているだけであり、それにエストが当てはまるなど、誰にも分からない。



「いい? エストとアタシが為すべきことは、幸せな家庭を築くこと。誰もが羨むラブラブな夫婦になって、ついでに魔族をぶっ殺す。分かった? 分かったわよね?」


「は、はい……分かり、ました」



 あまりの剣幕に何度も頷くエスト。

 実にシスティリアらしい真っ直ぐな言葉に、昔から変わらない鋼よりも硬い芯を感じたのだ。



「そう。分かればいいの。ウジウジするエストなんか嫌いよ。アタシの愛するエストは、真っ直ぐ前を向いているもの」


「……うん。ごめんね、平和な世界にあてられていたかも」


「どんな場所でもアタシたちは変わらない。お互い頑固者のはずよ。周りに合わせる必要なんてないの」



 どこか背中に感じていた憂いのようなものが晴れると、エストの表情は氷のように澄んだものへと変わっていく。


 生徒に魔術や歴史を教えている中で、燻る心が彼を曇らせていたのだ。


 そんな煙たい場所から手を引っ張って連れ出したのは、やはりシスティリアである。

 エストと共に茨の道を歩くと決めた4年前から、既に覚悟を決めていた。いつか彼の炎が煙を出すようになった時、それを晴らすのは己の役目だと。


 ようやくパートナーとしての仕事が出来たことに、彼女も晴れやかな表情へと変わった。



「ほら、家具を見に行くわよ。今のうちに魔道具とか買い揃えないと、後で大変なんだから」


「……うん。ありがとう、システィ」



 まだまだエストは子どもなんだから。

 そんな思いを胸に、手を引くシスティリア。

 また昔のように連れ回されるエストは、この居心地の良さを彼女に感じていたことを思い出した。


 ぶらぶらと王都を歩きながら家具や魔道具を買い回り、屋敷に帰ってきたのは夕方を過ぎてのことだった。



 2人で仲良く風呂に入っていると、システィリアが突然こんなことを言い出した。



「そういえば、獣人と人間では子どもが出来にくいらしいの。やっと出来ても、高齢出産になることも珍しくないんですって」


「……そうなんだ。それじゃあ僕は上が──」


「待ちなさい! 自称最も不運な人間!」


「いいや僕はシスティと巡り会えた他称最も稀な人間だね!」


「ならいいわ。幸せへの第一歩として、今夜……分かってるわよね?」



 エストの脳内では、様々な不安が渦巻くと同時に、あれだけ彼女の言葉に頷いた手前、断りづらかった。


 ウジウジと悩んでいては嫌われてしまう。

 ここはもう、覚悟を決める時だと決断する。



 広い湯船の中、彼女の隣に帰ってきたエスト。

 ゆらゆらと広がった尻尾からお腹、胸、首、そして顔へと視線を動かすと、その瞳から目を離さなかった。



「僕は君が大切だ」


「知ってるわ」


「僕は君を愛してる」


「アタシもよ」


「だから、旅のことや体のことで仕事ができなくなると思って、これまで断ってきた」


「嬉しい。でも、アタシは覚悟を決めたわ」


「……僕もだ。守るべき人が増えるけど、減るよりは良い」



 自然魔術の完全習得が終われば、彼女の負担を減らせると思ってのこと。エストが縦に頷くと、嬉しそうに顔を赤くしたシスティリアが抱きついた。



「もうっ…………素直に言いなさいよ」


「結婚しよう。僕は君と幸せになると決めた」



 彼女の左手をそっと持ち上げると──



「はいっ! アタシもエストを幸せにします」



 そうして、奇しくも風呂でプロポーズをしたという話は、後に使用人の間で語り継がれることになる。


 貴族でも聞かない風呂でのプロポーズ……通称風呂ポーズ伝説がどこかから漏れ、王城の使用人にまで届くことをまだ2人は知らない。


 

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