第195話 話し離さず花咲かす
「……朝か」
鳥の囀りで目を覚ましたエストは、軽い頭痛を感じて
肌に当たるシーツの感覚。
腰に触れているシスティリアの尻尾。
ふと隣を見れば、エストの思考が停止する。
そこには、一糸まとわぬ姿で可愛らしく寝息を立てる、愛しのシスティリアが居たのだ。
「…………もういっかい寝よう」
昨夜の記憶が朧気だ。ガリオと楽しく飲んでいたらシスティリアが絡み初め、途中から参戦したブロフが引き剥がそうとしていたことは、辛うじて憶えている。
しかし問題はその後。
屋敷に帰ってからの記憶が、一切無い。
完全に事後のソレは、いつか来るであろう時だと覚悟はしていたものの、記憶にも残らないなんてどれほど悲しいことか。
一度寝て、また起きた時に全て分かるだろう。
そんな淡い希望を胸に二度寝の悪魔に魂を売ったところ、エストの胸に白くしなやかな腕が回された。
「ふふっ……現実から目を逸らさないの」
「まだ酔ってる?」
「酔ってたら襲ってるわよ。昨夜みたいに」
彼女らしくない蠱惑的な言い回しに、ぞわりと肌が粟立つ。エストの考えていることが真実ならば、色々と枷が外れてしまう。
龍の魔力を取り込んだことで強力になった本能は、並大抵の自制心では抑えられない。
システィリアの体と未来を思うことで保っていた鍵が、彼女の手によって破壊されたとすれば。
今まで抑えていたものが、波となって押し寄せる。
「ちょ、ちょちょっ、エスト!? 別に致してないわよ!? 酔ってもアンタはアタシに手を出してな……」
「──許してほしい」
荒くなる呼吸を整えもせず、彼女の頬に手を添える。
普段から鍛えているだけあって、見た目以上に筋肉質な手のひらは熱をもち、システィリアの耳はぴくりと反応した。
未だかつてないエストの魅力にあてられ、顔を真っ赤にしたシスティリアは小さく頷き、身を任せた。
彼女の上に覆いかぶさり、絹のように美しい肌が魅せる首筋にキスをした瞬間──
──寝室のドアが開く。
「失礼します。エスト様、ご出勤の時間が……」
もう時間に余裕が無いことを伝えに来た執事のフェイドは、朝からその現場を目撃してしまう。
無言のまま部屋を出たフェイドが静かにドアを閉じると、エストは無表情のまま彼女を見つめた。
「……クソみたいな世界だ」
「こら。汚い言葉は似合わないわよ?」
「
「獣人語を絡めても汚いわよ!」
せっかくの覚悟が台無しになり、仕方なく口付けで愛を補給したエストは、手早く服を着た。
使用人とエストたちの間で微妙な空気が流れ、朝食の味が薄くなる。
2人で手を繋いで学園の門をくぐり、いつもの教室に入ったところ、既に生徒は全員着席していた。
「珍しいですね。先生が遅刻なんて」
「ギリギリ始業前だよ。といっても、今日は全部自習だけどね。野暮用で国王に文句を言いに行くから。疑問点があったら紙にまとめてね」
「……自習、ですか?」
「うん。一応言っておくと、君たちは優秀だ。研究に手を付けるのもいいけど、他のクラスの授業でも見てきたらどうかな? どれだけ君たちの持っている知識が深く、広いかを実感できるはずだ」
システィリアが黒板にでかでかと『じしゅー』と書くと、エストはその隣に『質問等は紙にまとめて提出』と付け足した。
魔法文字、そして限りなく実戦に近い戦闘を経験した彼らは、気づいていないだけで学園でも上位の実力を誇る。
「それじゃ、また明日」
自信を持てと言ってドアの方を向くと、見慣れぬ中年男性が教室に入ってきた。
「おやおや、新任のエスト先生。授業開始前にどこへ行くので?」
灰色のローブを纏っていることから学園の講師であることが分かるが、エストはそもそも他の講師に興味が無いため、生徒の方を向きながら男に指をさした。
「この人誰? 知ってる人いる?」
「……ヴライト・ファリン先生です」
小さく手を挙げたミリカが答えると、『ふ〜ん』と興味無さげに反応し、再度生徒たちに別れの挨拶をしたところ、ヴライトは青筋を浮かべながら詰め寄った。
「貴様……この私を知らずに講師をしているのか?」
「ヴライト・ファリン。18年前に土魔術の形成概念理論の魔道書を出した人だね。小さい頃、君の魔道書を読んだよ」
「ほう? 知っているではないか。貴様、生意気だがなかなか見る目が──」
「あれは酷い魔道書だった。読んで後悔した数少ない魔道書のうちの一冊だよ。中身の魔法陣は特に酷かった。構成要素はめちゃくちゃ、魔法文字もぐちゃぐちゃ。魔術というよりは魔法……ううん、君の妄想を綴った一冊だった。何が『魔術はこうであるべき』だ。君のくだらない話で未来の魔術師の道を狭めるな。
……それで? 何の要件で来たのかな?」
完膚なきまでにヴライトを叩き潰す語りだった。
それは知識ある者がしっかりと魔道書を読んだ証であり、エストの評価としては、無数にある魔道書の中で黒々と輝くポエムのようなものだったという。
生徒の数人は彼の魔道書を読んだことがあるが、そこで得た知識が妄想であることは、エストの授業を受けて理解している。
それゆえに、読了者はあまりにも鋭い言葉のナイフを振り回したな、と冷や汗をかいた。
「貴様…………この私を侮辱するのか?」
「侮辱? まさか。君のおかげで僕の生徒は間違いのある魔道書に気づけるようになったんだ。感謝しているよ」
少々の不快感は覚えたものの良き間違いだったと言うエストに、ヴライトの怒りは増していく。
ギリギリと歯ぎしりが聞こえるほどに
「貴様ァッ!!! 汚らわしい獣人風情がこの神聖な魔じゅ──」
怒りの矛先が変わった瞬間、凄まじい勢いの風に飛ばされたヴライトは後方へ吹き飛び、ドアを破壊して廊下の壁に激突した。
一瞬の出来事に生徒らがポカンと口を開けている中、エストは小さく手を振った。
「改めて、また明日」
「最近のアンタは変な奴に絡まれすぎよ」
「全くだ。王国に来てから気が休まらない」
まるで最初からヴライトが居なかったかのように教室を去ると、
元宮廷魔術師団員を叩き潰したこの一件は、本人不在の学園で大きな噂となるが、それをエストが知ったのは少し先のことである。
学園を出た2人は真っ直ぐに王城へと向かう。
衛兵には顔を見せるだけで入れたので、迷うことなく王の執務室の前に来ると、ノックもせずに入るエスト。
「何者っ……エスト殿か」
システィリアが確認と礼をした後に部屋に入ると、ズカズカと踏み込んだエストはソファに座り、一言。
「ロックリア家が僕を取り込もうとしたら、気をつけた方がいい」
「……どういう意味だ?」
「知ってると思うけど、僕は産まれてすぐ棄てられたんだ。この適性のせいでね。で、僕を産んだのがロックリア家だ。賢者になったのを理由に、僕を狙ってる」
「それは……本当なのか?」
フリッカ国王がシスティリアに目線を送ると、縦に頷かれてしまう。
せっかくエストとの関係が落ち着いてきたところに、氷水をぶっかけられたような話が舞い込んできたフリッカは、ペンを置いて片手で顔を覆った。
そこには執務による体の疲れだけではなく、精神的な苦労も色濃く出ていた。
続けて話を聞こうとしたところ、机の上にぷにぷにと柔らかい球体状の赤い何かが2つ置いてあった。
「それ、瞼の上から当てると疲れが和らぐよ」
「…………あぁ………感謝する」
流石に可哀想に思ったのか、エストが出したのは触れる
迷うことなく実践して効果を体感したフリッカは、心底疲れた声色で礼を述べる。
「もしロックリアが僕やシスティに害があると思ったら、殺してもいい?」
「……はっ?」
「一度棄てた僕を都合のいいタイミングで引き戻すなんて、虫のいい話だ。昨日エイスにはちょっとだけ強く言ったんだけど、聞かないようなら敵対してもいいと思ってね」
「……愚者へと堕ちたか、ロックリア伯爵め」
「それで、いい? 無論、あっちが何もしないならこのまま穏便に日常を送るけど」
最後通告と言わんばかりに念押しすれば、
「命は奪うな。動きが見え次第、通達せよ」
「わかった。でも僕の母親を自称されたら絶対に殺すね」
「……話を聞いていなかったのか?」
「聞いてたよ。だけど、僕のお母さんは師匠……魔女エルミリアだけなんだ。このことは言っておかないと、殺した後に言っても罪に問われそうだから」
「……殺せば罪人として裁くぞ」
「構わない。その時は国と敵対するだけ」
あまりにも毅然とした態度で殺人予告をするエストに、不思議と殺しが悪ではないと思い始めたフリッカだったが、即座に首を振って否定する。
まさか敵対という手札を親の自称という一点のために切るとは思わなかったのだ。
その異常性に気づけたのが早かったか、フリッカは新たな手を打つ。
「殺さず、捕えるのでは許せぬか? 儂からロックリアに親として認めないと公言すれば、二度と動けまい」
「ダメだよ。この殺人が許されないのなら、産まれて間もない赤ん坊を森に棄てることが許されるんだけど……君はどう思ってるのかな?」
「…………しかし、お主は生きておろう」
「なるほど、じゃあ殺さずに拘束して森の中に放置しよう。死にかけたら助けてあげればいいんだよね」
それは実質的な殺人である。
この男、異常なまでに意思が固い。
一体どういう
意外にも、簡単なところに答えがあったのだ。
「即刻、ロックリア家に伝書を出す。そして先程お主が申した殺人により裁く場合、我が国と敵対する旨を書こう」
「反逆狙いで母親を名乗るかもしれないよ?」
「……儂は……伯爵家とその他大勢の国民を天秤にかけられぬほど、愚かではない」
苦渋の決断だった。
賢者としてエストを王国に滞在させることを要求した以上、利用、及び敵対する者には国王の名を以て行動せねばならない。
ゆっくり考える時間が欲しかったところだが、生憎エストも伯爵家も待たないだろう。
「まぁ安心しなよ。僕が本当に悪いことをしそうになったら、システィや師匠、お姉ちゃんや先生が止めてくれる」
「……ああ。お主の周りを信用しよう」
僅かにトゲのある言い方だったが、気にせずエストは頷いた。
今回の要件は以上だと、執務室を出ようとしたところ──
「待て。先程の温かい玉を買い取らせてくれ」
余程触れる
だったら、少しでも自身の魔術師としての価値を知っておいてもらおうと、エストは得意げに答えた。
「僕の魔道書に記してあるよ。信頼できる火の魔術師に頼んでね」
自分の魔術を気に入ってもらえたらからか、軽い足取りで城を出たエスト。そんな嬉しそうな表情を見れたシスティリアも笑顔になると、『そうだ』と言って、彼女の前に立った。
左右に広がる庭園の間で跪いたエストは、両手で何かを包むようにしてシスティリアの前に差し出した。
「なぁに? まだ何も……わぁっ」
ポンっと、一輪の赤い薔薇を出現させた。
それを満面の笑みで受け取ったシスティリアは…………あろうことか、薔薇を食べ始めた。
彼女の奇行を見てしまった庭師は唖然とし、花を差し出したエストも苦笑いする。
「……え? アタシ、何かした? これ、エストの味が染み込んでいて美味しいわよ?」
「それ、魔術で作ったけど本物の花だよ」
「へ?」
「え?」
てっきり薔薇を模した食べ物だと思っていたシスティリアは、確かに口の中で広がる薔薇の香りと、植物特有の青臭さを感じ、己の行動を悔いた。
「嘘っ……どうしてアタシ、薔薇を食べちゃったの?」
「…………まだ酔っ払ってる?」
「まさか……ねぇ?」
しかし、システィリアの顔にも疲れの色が薄く浮かんでおり、あまり良い睡眠がとれていなかったことが明白である。
せっかく授業を自習という名の休講にしたんだからと、エストは彼女の手を取った。
「今日はもう帰ろう。一緒にダラダラしよう」
「……ええ、そうさせてもらうわ」
昨夜、エストの服を脱がすのに夜明け前まで労したせいで寝不足だと告げられなかったシスティリアは、大人しく眠ることにした。
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