第148話 疼く本能


「システィ……バケツを……」



 ベッドで横になっていたエストは、青白い顔で手を伸ばした。

 念の為にと用意したバケツを持ってきたシスティリアが背中をさするが、顔ではなく手を突っ込んだエスト。


 すると、川のように紅い半透明の魔力が注がれていく。



「……ふぅ、スッキリした。ようやく外に出せるくらい本来の魔力が回復してきたよ」


「凄い匂い……頭がクラクラしちゃう」



 バケツ一杯の魔力は彼女にとって芳醇なワインを嗅いでいるような気分になる。

 普段のエストと同等以上に強い匂いは、システィリアには少々刺激的だった。


 鼻をつまんで掛け布団で顔の半分を隠すと、流れるように造られた氷のバケツに同じ魔力が注がれていく。



「ごめん、我慢してね」


「うぅ……熱は大丈夫なの?」


「わからない。もう少しだけ寝て様子を見てみる」



 次々にバケツが満杯になっていく様は、視覚的にエストの魔力量が明らかにする。

 まるで泉のように手のひらから湧き出る紅い魔力が薄くなると、まだ調整が足りないのか小出しにして濃度を合わせ始めた。


 そうして、42杯ものバケツで炎龍とエストの魔力が半々になるように抜き出しが終わり、亜空間へと仕舞われていく。


 しかし、残り香はシスティリアを酔わせるのに充分であり、ヘロヘロになった彼女はエストにしなだれかかった。



「うぇへへ……ん〜っ、エストの匂い……」


「まさか……魔力の匂いで酔っちゃったの?」


「酔ってないよぉ? んふふっ」



 衣服をはだけさせ、大人の色香を放つシスティリア。その瞳はとろんと覇気を失っており、理性が失われつつある。


 彼女の細く力強い手で押し倒されたエストは、まだ熱があるせいか上手く力が入らない。


 おまけに、炎龍の魔力が宿ったからか生理的欲求が非常に強くなっていて、こちらもまた理性との戦いを繰り広げていた。


 より優秀な遺伝子を残そうとする本能と、彼女の体調や旅のことを考える理性。

 歯を食いしばって誘惑に耐えながら別のことへ思考を移す。


 苦し紛れに顔を窓の方に向けるが、片手で頬に添えられた手が強引に正面を向かせ、容易く唇を奪う。



「んむっ……ああもう、ごめん! 催眠ダーラ!」



 パッと出した黒い魔法陣が額に浮かぶと、糸が切れたように眠るシスティリア。

 今回は本気で危なかったと思い、彼女のはだけた衣服を直しているとドアが開けられる。




「あっ…………す、すまん!」




 籠に溢れんばかりの果物を盛ったガリオが顔を見せると、来るタイミングを間違えたと部屋を出る。

 部屋に充満する異質な空気感とフェロモンは、大人のガリオだからこそ即座に下がる判断ができた。



「勘違いさせちゃったかな……まぁいっか」



 完全にそういうことをしていたと思われたが、別に構わなかった。

 ガリオらはエストとシスティの関係を知らないだけであり、きちんと恋仲だと言えば納得するからだ。


 無理に一緒に居るわけでもなく、時たまああいった事故が起きるだけのこと。


 ……しかし。



「顔……熱い。そんなに恥ずかしかったかな」



 落ち着いた思考とは裏腹に、体が今の気持ちを雄弁に語っていた。

 寝息を立てるシスティリアを隣に動かすと、先程やられたように頬に手を添える。


 いつもやっていることだ。

 それなのに、どうしてか心臓の音が大きくなる。


 白い肌が。柔らかい感触が。ほのかな匂いが。

 まるで内側に居る自分の手を引くように、感情を表に連れ出してくる。



「……あれ、アタシ……寝ちゃってた?」


「うん。おはよう、システィ」


「おはよ……んふふ、気持ちいい」



 触れていた手をそっと重ねると、擦り付けるように堪能する。

 耳をピクピクと動かし、緊張の糸がほどけた表情で楽しむ姿が、エストの愛情を高ぶらせていく。


 魔力が混ざっただけなのに、まるで自分じゃないみたいに本能的になっている。だが、その事に違和感は無く、むしろ隠していた気持ちを前に出させてくれたと感じるのだ。


 それが正しいことか、エストは知らない。

 ただ少し、気持ちに正直になるだけで、随分と心の起伏が大きくなったと感じたのだ。



「エスト? ぼーっとしてどうしたの?」


「……理性が負けそうなんだ。君を見ているだけで心が落ち着かなくなる。心と体が……システィを求めるんだ」


「あら、随分な夜のお誘いね! ふふっ、今からでもいいわよ?」



 頬の手を唇の前に持ってきたシスティリアは、わずかに冷たいエストの指先に舌を這わせた。

 あまりにも妖艶な仕草に、エストは顔を赤くして手を引っ込めた。



「ち、ちち違う! 炎龍のせいで、体がちょっと変なんだ! だからあまり誘惑しないでほしい!」


「……そういうことなら。にしても、本当に珍しいわね。ここまで顔に出たことなんて、一度も無いわ」


「よく……わからない。魔術師としてはダメだって理解してるけど、僕自身としては……受け入れている」



 魔術師は理性が──自制心が求められる。

 魔術はひとつ構成要素がブレるだけで効力が増減する危険なもの。

 それを今まで完璧に抑制していただけに、エストは新たな道を見つけたような感覚になった。


 ただ、今はその道に進まない方がいい。

 そう直感で判断した。











「──エストとシスティリアが婚約だと!?」


「ビ、ビッグニュースニャ!! まさかエストっちが獣人に……それも孤高のシスティリアに!」



 夕方になる頃にはエストの熱はかなり下がっており……それはもう、冷たく感じるいつもの平熱に戻ったのを知ると、ガリオたちは酒場で夕食を共にしていた。


 驚く4人の視線の先には、ツンとした表情をしながらも尻尾を振るシスティリアと、普段と変わらない様子のエストが居た。



「実にめでたいな。だが、ブロフ殿は居心地が悪いのではないか?」


「ああ、悪いぞ。だがそれ以上に得られる物が大きい。お嬢の剣技にエストの魔術。それを間近で見られるなら、どうってことない対価だ」



 騒がしい席を他所にディアとブロフは酒を酌み交わしていた。

 どうやら同じ前衛職ということで話が合ったらしく、一歩引いた目でガリオたちの話を聞いていた。



「じゃ、じゃあその、エスト君はもう……したの?」


「したって、何を?」


「え、えっと、それは…………きす、とか」


「毎日してるね。そうしないとシスティが朝起き──」



 咄嗟に朝の様子を暴露する口を塞いだシスティリアは、何度もシー! と口の前で指を立てていた。



「マリーナ、お前質問が初心うぶすぎるぞ」


「私だって知らないことだもん!」



 手に持ったジョッキを呷り、頬を赤くしながら言うマリーナに、過去の話が掘り起こされる。



「昔、エストのことが好きとか言ってたよな?」


「言ってたニャ。でもパッタリ言わなくなったニャね」


「……対抗戦で完敗したから」


「メルのことよね、アタシも知ってるわ。本人から聞いていたし」


「エストお前、修羅場をくぐり抜けたのか」


「修羅場……?」



 ガリオが懇切丁寧に言葉の意味を教えるが、エストは別にそうではないと言い切った。



「向こうの好きと僕の好きが違っただけだからね。僕は魔術が好きな人は等しく好きだよ。ただ、人生を捧げられる人はシスティだけって話をしたんだ」



 なんの躊躇いもなく放たれた心からの言葉に、他の客からも『おおっ』と声が上がる。



「も、もう……! ありがと」


「それに、互いに持ってない物を高い水準で持ってるからね。出会った頃はそうじゃなかったけど」


「へ〜、出会った時はどんな感じなのニャ?」


「……うるさい子供。自尊心が大きくて、才能に溺れて、とにかく噛み付く犬って感じかな。でも、一緒に死にかけたり、魔術を教えていくうちに、どんどん魅力的に感じるようになったんだ」



 Aランク冒険者の昔話など中々に貴重な話だ。

 それも同等以上の力がある者からの視点は、改めて聞くシスティリアでさえ『そうだったんだ』と漏らす程である。


 自身よりも圧倒的に上の才能に食らいつく姿はまさに狼。たゆまぬ努力があったから今のシスティリアがあるんだと、エストは熱弁した。



「……途中から惚気話だったな」


「聞いてるだけで甘ったるいニャ。はぁ〜、塩塩。塩でも舐めたい気分ニャ」


「学園に居た頃とは全く違う人だよ」




「まぁ、それ以上の苦痛を味わってきたからね。僕は毎日魔力欠乏症になるギリギリまで魔力を使って、四肢を食べられたりしてたし、システィだって今の強さを得るために何度も泣いていたよ」


「そうね。いきなりワイバーンの前に放り投げられて『頑張って倒してね』とか、今考えたら無謀すぎるもの」




「……楽しいだけじゃなかったんだな」


「うん。だから、ガリオさんたちとダンジョンに行ってた頃は、ただ純粋に楽しかったよ」


「俺は気が気じゃなかったけどな。強すぎるんだよ、エストの魔術はよ。だが今ならちっとは分かるぜ?」


「言うね。僕の弟子一号機」


「誰が弟子だ! 明日、ギルドの裏で打ち合おう。お前が居たら多少派手にやっても大丈夫だろ?」



 光魔術があるなら、そこそこの怪我をしてもその日の仕事に影響しないと踏んでの誘いだった。



「もちろん。これでも殆ど毎日システィと打ち合いしてるからね。あの時とは大違いだよ」



 お互いにニヤッと笑いながら顔を合わせた。

 友と呼ぶより兄弟に近いような距離感に、ミィやシスティリアも仕方なく頷くしかなかった。




「Aランクの実力、見せてやるよ」

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