第105話 尻尾は鞄に入りますか?
「おかえりなさい。今日はもう休む?」
「ただいま。尻尾の手入れしたら、ちょっと横になろうかな」
宿に帰ってきたエストは、ローブを亜空間に入れてストレッチを始めた。
歩きながら聞こえていたメルの泣き声に、彼女もまた、自分がシスティリアに向けるような愛情を持っていたことを感じたのだ。
もし再会したシスティリアの隣に知らない異性が居たら、自分が苦しむことは分かっていた。しかし、それ以上の苦しみを他の者が味わうことなど、エストには考えられなかった。
人に対して思慮が浅いと認識するのに、大切な友人を酷く傷つけてしまった。
その事実が、未来のエストに響いていく。
「エスト。今日は優しくないって言ってたけど、自分にも優しくしなかったのね」
「……うん。自分に甘やかしていいのは、頑張った後だけだから。でも、今日はメルに酷いことをした。だから自分にも厳しくしないといけない」
「アタシにも責任がありそうね」
「責任? システィには無いと思うけど」
ストレッチを終えてベッドに腰をかけると、隣に座っていたシスティリアに背中を向けさせ、尻尾に触れた。
細く、柔らかい毛で覆われた強靭な尻尾は、やはり普通の動物のソレではなく、獣人固有のものだと再認識する。
氷の櫛で少しずつ梳かしていくと、システィリアは自身の責任について語り出す。
「幸せになる責任よ。ひとりの女の子が得るはずだった幸せが、アタシの手にあるの。それを捨てようものなら、アタシはどんな罪人よりも大きな罪を背負うと思うわ」
「そう……だね。こう言ったら薄情に思うかもしれないけど」
「なぁに?」
「……好きになったのが、システィで良かった。そうやって他人のことを考えられる人だから」
システィリアが激しく尻尾を振り始めると、ちらちらとエストの顔を覗き始めた。
真剣な表情のエストを見ては、つい抱きしめに行きそうな心を抑え、今はまだチャンスではないとシーツを掴んで我慢する。
深呼吸して尻尾を落ち着かせたら、ブラッシングが再開された。
静かにリラックスできる時間が流れていると、不意にエストの手が止まり、尻尾が僅かに軽くなる。
「ん? 何これ。枝が出てきた」
「あ〜、きっとどこかの森で引っ付いたのね」
「……もう1本出てきたよ」
「アタシの尻尾が綺麗すぎて、枝の方から来たんじゃないかしら?」
「…………また、出てきた」
「お、おかしいわね。そんなに入るかしら?」
尻尾のとりわけフワフワとした毛の流れが集まる部分に、中指程度の長さの枝が3本も絡まっていた。
獣人はひとりだと尻尾の手入れが難しいとはよく聞く話だが、いくらなんでも引っ付けすぎだとエストは立ち上がる。
枝に続いて土や落ち葉なども絡まっている可能性が高いため、強硬手段をとることにした。
「システィ、お風呂に入ろう」
「へ? ア、アンタと一緒に? アタシが?」
「そうだよ。この街は魔道具のおかげで浴場が多いから、一緒に入れると思う」
一緒に、お風呂。
それを聞いて顔全体を真っ赤にしたシスティリアは、凄まじい速度でベッドに飛び込み、枕に顔をうずめた。
バタバタと足を動かしては、心の準備を整える。
「──よし! 行けるわよ!」
「じゃあ行こっか。実は良い感じのお店を見つけてたんだよね」
軽く支度をしてから宿を出ると、改めて綺麗な街だと感心する。
街全体の道がレンガで舗装されており、等間隔に建てられた石造りの家は統一感がある。
子どもがはしゃぎ、老夫婦が散歩し、活気のある声が飛び交う屋台は帝都にも匹敵する元気を感じる。
ただ魔術に関する研究を軸とするのではなく、魔術や魔道具を研究し、常に人の幸せを願っていることが街を見て伝わった。
そんな魔道都市ラゴッドは、他国と比べ大衆浴場の数がずば抜けて多く、お湯に浸かる頻度が高いため病気になりにくい。
そうした魔道具だが、なぜか他国には少なく、帝国でもまだ魔道具師は雑貨屋扱いを受けている。
「ここの魔道具は全部デカいのよ。持ち運びができなかったり、分解できなかったりして、商品としての輸出がかなり難しいんだって」
「へぇ〜。でも、都市が独立できるくらいには人が集まるんだね」
「なんでも、性能向上には手を抜かないけど、軽量化や小型化はロマンに欠けるって、職人がやらないらしいわ」
「……気持ちはわかる。魔術もそうだから」
「そうなの?」
ひとつ頷いたエストが
「理想のために構成要素を足す。これはシスティも理解できるでしょ?」
「ええ。そうしないと実現できないもの」
「でも、こんなに何個も用意してたら、使うのに時間がかかったり、焦った時に失敗するんだ」
じゃあどうするか?
答えは単純である。
「だから、構成要素を減らす。大事なのは、複数の構成要素をひとつに言語化すること。でもそれが難しいんだよね」
ぎゅぎゅっと詰まっていた魔法陣が10個の円に数を減らすと、魔術における性能向上と軽量化を表した。
「そういえば、アンタの魔術って信じられないくらい複雑よね」
「み、見た目はね。中身は単純な要素を何個も重ねているだけだから、失敗しにくいしかっこいいんだ」
「結局かっこいいからじゃない!」
「だって……魔法陣がブワーって輝いたら派手だし……綺麗だもん」
魔女と遊んだ魔法陣バトルは忘れない。
魔術が好きだからこそ、傍から見れば無駄だけど本当は意味がありそうで、しかし本当に無駄な技術を磨いたりするのだ。
無駄を無駄と言わない。
それがロマンである。
「でも、そういうことなんでしょ? 職人も職人で、魔道具作りを楽しんでいるから高性能で大きな物を作る。悔しいぐらい分かりやすかったわ!」
「なんて言ってたら着いたね」
宿を出て十数分も歩けば、少し値が張るが小さめの浴場を借りられる風呂屋に着いた。
日が暮れると完全に開放されるが、それまでは個人や団体の客しか使うことができない経営方針をしている。
入ってすぐの受付で利用申請をすると、意外な理由で拒否された。
「悪いが獣人はお断りしている。以前は受け入れていたが、排水溝に毛が詰まるもんでな」
下水道が整備されているラゴッドでは、風呂の排水を浄化して運河に流すため、汚れとして落とせない毛の詰まりは悩みの種である。
「……獣人も入れる風呂屋は知らない?」
「オレの知る限りねぇな」
「世知辛いね。でも、差別的な理由じゃなくてよかったよ。これからも頑張ってね、おじさん」
そう言ってエストは、2人分の利用料金をカウンターに置いた。せめてもの感謝の気持ちを伝えたかったらしい。
「お、おい!」
「いつか、その問題が解決した時にまた来るよ」
風呂屋を出たエストはシスティリアの手を引き、宿の裏にある洗濯用の小さな庭に帰ってきた。
宿には事情を話すと快く了承してくれたので、早速エストは
初めからこうすれば良かったと思うが、風呂屋の問題を知れたことは大きい。
「システィ? 入ってきなよ」
「あのねぇ……仮にもアタシは裸なのよ?」
「僕も一緒、大丈夫。それにシスティの裸なら前に一度見てるから」
「……ふ〜ん? へ〜え? そんなこと言うんだ。いいわ、見せて上げる。大きくなったアタシをっ!!」
愛用の
以前見てしまった時とは違い、筋肉で引き締まっているものの柔らかな体型になっており、エストの目を引いた。
「綺麗だ。大人っぽい……」
「ぽいじゃなくて大人なの! 16歳よ? お酒も飲めるしちゃんとしたオ・ト・ナ! 分かる?」
「う〜ん……子どもっぽい」
「どこが!? こんな立派なレディ、世界中どこを探しても居ないっていうのに」
「そうだね。今も充分可愛いけど、もっと綺麗なレディになるためにちゃんと洗おうね」
「んなっ、う、うん……はい」
甘い言葉にたじたじになったシスティリアは、浴槽の横に作られた箱椅子に座った。背後に立ったエストが少し目を瞑ると、湯浴みに使う温水の術式を構築する。
頭上に現れた青い多重魔法陣から、温かいお湯がバケツをひっくり返したような勢いで流れ出た。
システィリアの全身を濡らしたお湯は、あまりの勢いで着けていたタオルまで落とし、尻尾は濡れそぼって筆のように細くなっている。
「ごめん、威力間違えちゃった」
「……そ。て、てっきりアタシの裸を見たいんだと思ったわ」
「見たいけど、事故だから。もう1回流すね」
改めてゆっくりとお湯を流すと、頭皮のマッサージをするように揉んでいく。石鹸を買うのを忘れていたため、一般的なマッサージスタイルの入浴法である。
そうして頭部全体のマッサージが終わると、今度は狼の耳も優しく揉みほぐす。
普段から耳を動かすことが多い獣人は、こうしたマッサージをしないと可動域が狭くなったり、聴力の低下に繋がってしまう。
しっかりと揉みほぐした後に柔らかい布で耳の中を掃除してあげると、システィリアは気持ちよさそうに表情を緩めた。
「思ったより上手ねぇ〜」
「師匠やお姉ちゃんに教えてもらったんだ。次は筋肉をほぐすから、こっちにうつ伏せになって」
エストが背後に狭い土のベッドを作り出すと、言われた通りにうつ伏せになるシスティリア。
傷ひとつない綺麗な肌は血色が良く、風呂場だと更に色っぽく見えることに気づいたエストは、一度深呼吸してから首の辺りに手を置いた。
筋肉の動きが見えるアリアには、それはもう丁寧にほぐし方を教わっている。
ちゃんとストレッチやトレーニングをしないと、いざという時に怪我をしてしまう恐れがある。
敵の攻撃ならまだしも、自分で勝手に怪我をしては仕事にならないため、アリアは細かく指導した。
適度な力で揉みほぐし、疲れを落とす。
「あああぁぁ……気持ちいぃ……」
「凄いね、筋肉のつき方にばらつきが無い。彫刻みたいに綺麗だよ」
「えへへぇ、ありがとぉ」
「本当によく頑張ってる。尊敬してるよ」
マッサージが終われば、お湯に浸けた布で拭いていく。アリアや魔女から、女の子の肌は優しく扱えと言われているので適度に力を抜いている。
腰の辺りまで拭き終わると、お湯で流してから尻尾の付け根を中心に、柔らかい布を太ももに被せた。
尻尾から出た土や砂で汚れないためにも、こうしたひと手間が健康に関わるのだ。
再度お湯で尻尾を濡らしてから筆をほぐすようにして毛をばらけさせると、予想通り落ち葉や泥が隠れていた。
「システィ、ブラッシングはしてないの?」
「道具を持ってないのよね。アンタの櫛以外じゃ満足できないから、ブラッシングしてもかなり雑な仕上がりになるし」
「……作って渡せばよかった。ごめんね」
「いいのよ。これからはエストがしてくれるんだもの。アタシをもっと綺麗にしてくれるんでしょ?」
圧をかけるように。それでいて、どこか安心したように彼女が言う。するとエストは──
「うん。世界一綺麗な獣人にする」
「っ! も、もう!」
自信満々に言い切ると、両手で掴むようにして尻尾を洗っていく。濡れて濃い水色になった毛束を親指でほぐすように洗うと、風呂屋の店主が言っていたように、かなりの毛が手に付いていた。
これは確かに詰まる要因になると、店主の苦悩が分かってしまう。
「どさくさに紛れてお尻触らないでよ?」
「触ってないけど……あ、もしかしてフリ?」
「どつくわよ? まぁ、別に? 1回くらいならアタシのぷにぷにを堪能させてあげても? いいと思ったりして……」
「一応言うけど、お尻もほぐすから触るよ?」
「…………あっそ。変態」
「墓穴を掘る……お尻だけに」
その瞬間、膝を曲げたシスティリアの足がエストの頬に直撃する。
渾身のギャグに反応が遅れてしまい、エストは大きく前方に吹っ飛んだ。かろうじて受け身をとれたが、壁が凹むほどの威力だった。
「し、死ぬかと思った」
「ちょっと、先に死なないでよね!」
「……殺された場合は例外」
「だ〜め。それより、大丈夫? アタシがやっといてアレだけど、結構良いの決まっちゃった……」
反射的に
心配そうに顔を上げるシスティリアの前に立つと、わしゃわしゃと頭を撫でた。
「平気だよ。でも、もう受けたくないな」
「アタシってば、エストを吹き飛ばすくらい強くなっていたのね。ちょっと驚いてるわ」
どうやら彼女は、自身が思っている以上に強くなっていたらしい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます