第91話 極寒のおやつ
「ふぅ……寒さにも慣れてきた。まぁ、油断したら肺が死ぬけど」
家を囲う雪山が、いっそう銀色に輝く朝。
日課のトレーニングを終えたエストは、気を失っていた間に落ちた筋肉を取り戻していた。
アリアに教わったメニューの量を増やし、細くしなやかなに見える腕は氷を砕く力を得た。
トレーニングのやりすぎは身長が伸びなくなると言われているので、程々にしておく。再会したシスティリアに見下ろされるのは、小さなプライドが許さなかった。
「先生、山に入ってくる」
「ああ。肺は……問題なさそうだな」
「もう4回も潰したからね。冷気は風魔術で適応してるし、治すのも慣れた」
「相変わらずの適応力だな。そうだ、ついでに
「わかった。行ってきます」
杖も持たずに家を出たエストを見送り、片手で読んでいた魔道書から目線を外し、シュンを撫でながら呟く。
「行ってきます、か。律儀な奴だ」
うっすらと数百年前の記憶が蘇る。
まだ魔術が呪術と呼ばれていた頃、紅い眼を輝かせた少女が跳ねるように家を出たが、数秒して戻ってきた。
忘れ物を取りに来たように焦りが混ざった表情で、『行ってきます』と言ってから再度出て行った。
少女は『行ってきます』と『ただいま』、『いただきます』や『ありがとう』など、小さな挨拶を大切にしていた。
「……30年前か。次はいつ顔を出すのやら」
ジオは再び魔道書に目を向ける。
表紙のタイトル『新説:火魔術の新たな形』は、提唱者として『エスト』と太い文字で書いてあった。
「いい天気。みんなで雪遊びしたいな」
家から歩いて1時間ほどで入れる山の中、エストは腰に提げた瓶いっぱいに木の実を詰め込んでいた。
この土地は氷龍から溢れる魔力で植物が強く育ち、実をつける周期がとても早く、果実は甘く大きく実っていく。
そのおかげで寒さに強い動物もよく育ち、魔物が淘汰されるという独自の生態系で成り立っている。
山の奥から流れる沢には白い殻のエビやカニが生息しており、麓の小さな湖に、それらを食べる魚が住む。
氷の地獄という意味で氷獄の名で知られるフラウ公国だが、その最奥である龍の山脈を超えると、美しくも厳しい大自然が広がっているのだ。
軽い足取りで沢の隣を歩くエストは、足元の雪を握って玉にすると、手のひらに乗る雪だるまを作った。
指先で作った三角の雪の塊を付け足すと、食べられない黄色の木の実と枝を埋め込み、小さなシスティリアができた。
「我ながら感心する出来栄えだね。でも、もう少し細かく……ダメ、夜になっちゃう」
こだわりたい気持ちをグッとこらえ、近くに生えていた平たく硬いキノコの上に置いた。
一人では寂しいと思い、白い角のアリアも隣に置くと、沢を上っていく。
少し進んだ先に水が溜まる場所があるので、そこを目指す。道中で見つけた動物のフンで安全を確認すると、目的地の溜まりに着いた。
表面が厚い氷で蓋をされているが、その氷はとても澄んでおり、不純物が少ないことが分かる。
「
何万もの細く鋭い針で氷を分割すると、フォークで果物を刺すように
凄まじく透明度の高い溜まりを覗けば、反射することも忘れた水が川底に住む白く手の長いエビを見せた。
「ここの水は本当に綺麗だ。でも……うぅ、冷たい」
手を突っ込むと、あまりの冷たさに指先が無くなったような感覚がした。明らかに水の凝固点を大きく下回る水温だが、その原因は沢のもっと上流。源泉の少し上にある、氷龍の巣から流れる魔力にある。
氷の魔力を含んだ水は恐ろしく冷たくなり、凍った際は普通の氷より密度が高いせいで重く硬い。
エスト自身が作れる最も硬い氷と比べても、同じくらいの硬度なのだ。
「凄いね、氷龍。今の僕で勝てる気がしない」
魔力だけで充分に感じる強さは、ワイバーンの比ではない。改めて今いる場所が本当の意味で牢獄のような場所だと認識すると、水の中に自身の魔力を落とした。
ぽちゃんと音を立てて透明な魔力が溶け込むと、エストは意識を集中させる。
魔術の原形である、呪術。
魔力のみで事象を起こすという本質自体は魔法と同じだが、その昔、魔法の使い方で感覚派と理論派が争ったとき、感覚派が勝利したことでその名が付けられた。
魔法は魔力自体の変形を軸にしている。
しかし、呪術は強い意志により魔力を変形させるために、様々な道具を用いた。
エストはひとつ、氷の針を落とす。
水に浮かぶそれを魔力が掴むと、吸い込まれるようにエビの頭の数センチ横を貫いた。
「っ! はぁ、はぁ、はぁ……難しい」
論理的な魔術が好きなエストにとって、ただただ強い思いだけで狩りをしていた昔の人々は輝いて見えた。
生存本能か、あるいは強迫観念か。
非効率的だが、その威力は青天井である。
改めて魔術にて作り出した氷の糸でエビを引っ張りあげると、少し大きめの瓶に突っ込んだ。
「これは潰して焼こうかな。さて、先生やシュンの分も貰うよ。卵を抱えてたら逃がしてあげよう」
そうしてやり方を変えて氷の糸で編んだ網で掬い上げると、程よいサイズのエビだけを締めて瓶に詰め、冷たい水を入れて保存した。
実は、山に来た目的はこのエビである。
もっと言うと、エビ煎餅という名のおやつを確保しに来たのだ。
ここでの生活が始まってから味の濃い食べ物しか口にしていないので、素材の甘みや旨みを感じられる料理が恋しくなったエストは、エビを平たい石で挟んで潰し、そのまま火にかけた煎餅が好きになった。
以前システィリアが石を熱して調理する方法を語った際に、そのようにして作るやり方を聞いていたのだ。
味付けはしなくても美味しいのだが、少量の水に溶かした蜂蜜を塗って焼けば、甘く仕上がるので気分が落ち着く。
今日はどう調理してやろうかと沢から離れた場所を歩いていると、深い雪に足を取られて盛大に転んでしまった。
「びっくりしたぁ。完全に油断してた」
のそのそと雪の中から顔を出すと、目の前に生えていた木の枝の裏に、純白の糸で固められた楕円形の塊が目に付いた。
「怪我の功名、かな。にしても綺麗な繭だ。雪に溶け込むように白いし、君も環境に適応したんだね」
そっと枝から繭を離すと、その美しい白さに感動する。ただでさえ丈夫な糸で守っているのに、雪に近い枝を選び、雪よりも白く見えにくい繭は、外敵となる虫や鳥を巧妙に欺いている。
まさに自然の神秘。進化の美しさを堪能すると、エストは心の中で謝りながら瓶に入れ、水魔術で出した熱湯に浸けた。
「繭を食い破られたら糸がダメになるからね。ごめんね。いただきます」
次々に見つけた
途中から瓶ではなく氷の箱に詰めていったので、その量と大きさは圧巻のものである。
「ただいま。先生、繭集めてきたよ」
「ああ……あぁ!? なんだその量は!?」
「もしかして足りなかった? 明日また──」
「多すぎだ! その蚕は取れる糸の量が多いから、100匹もあれば服が作れる……伝え忘れだ」
そうなの? と首を傾げるエストだったが、確かに繭はそこそこ大きく重たいので、考えれば分かる話だったと理解した。
流石に多すぎても困るとジオが言うので、エストはローブも作って欲しいと言うと、あっさりと了承した。
「熱湯処理もしたのか。賢いな」
「まぁね。師匠がローブに使う生地は知っておいた方がいいって言うから、その時に知ったんだ」
鼻を鳴らすエストの頭にぽんと手を置くと、エストは珍しく、驚きの表情でジオを見つめた。
「近いうちに知り合いの仕立て屋を連れてくる。少々クセが強い奴だ。気をつけろ」
「……気をつけるほど?」
「ああ。アイツは無類の面食いだ。俺やお前みたいに顔が良いと、目の色を変えて口説いてくるぞ」
まるで掴めない人物像に多少の恐怖心を抱きながらも、エストはその時を待つことに。
しかし、ローブや服がかなり楽しみだったので、恐怖と相殺されて何事もなく過ごせた。
ちなみにだが、繭を集める際のリフレッシュとして、甘いエビ煎餅を作って食べていた。
500匹も収集する活力の源は、他でもないエビの力である。
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