第88話 幕間 少女の修行
「お〜、やってるね〜」
頭にネフを乗せ、伸びをしながら出てきたアリアは、館の周りを走っているシスティリアに手を振った。
今日で稽古をつけ始めてから丸1年。
2度目の本人不在のエストの誕生日パーティを終えてから、実に一週間が経っていた。
「おはよう、アリアさん。ネフもおはよう」
「おは〜。はい、ネフちゃんも〜?」
『ピィ〜』
早朝にシスティリアを起こし、少ししてからアリアの部屋で待機する。全てのドアの上部に開けられた穴は、ネフ専用の通路として使っていた。
アリアが白い息を吐きながら準備運動を始めると、わずかに気温が上がる。
「エストがどうして剣術や体術が出来ないか分かったことだし、本格的にシスティちゃん用のメニューを作ってきたよ」
「そもそも人間には出来ない動きって時点で、よく槍は使えると思うわ。アイツ、本当に人間かしら?」
「あれは才能だね。さ、やろうやろ〜う」
壁に立て掛けていた木剣をポイッと投げ渡すと、システィリアは目線を動かすことなく掴み取った。
それを見たアリアは、嬉しそうに微笑む。
初日は動体視力だけで剣を取ることができず、ずっと剣拾いをするという悲しい修行から始まったのだ。
投げた物を取りに行く、まるで犬とすら思える屈辱に、システィリアのメンタルやプライドは
「あれだけやったら嫌でも覚えるわよ」
剣を取れば、次は打ち合いが始まる。
そこにはエストにした時のような優しさは一切なく、そもそもが獣人のペースで、更には龍人族の身体能力が必要な領域にまで昇華されている。
目で追うのが精一杯なアリアの剣を、すんでのところで弾いていく。
これまでの修行で先が削れた木剣とはいえ、速度という力が乗ったそれは当たれば痛い。
緩急がつけられた剣の波は、少しずつシスティリアの対応力を上げる。
左肩にひとつ。
右脇腹にひとつ。
両の太腿にひとつずつ。
捌き切れなくなった辺りで、一度休憩を挟む。
冷たい草の上で寝転がるシスティリアのお腹に、魔女から朝ご飯をもらったネフが降り立った。
「朝から頑張っておるの〜、ふたりとも」
珍しく外出用のローブを羽織った魔女が、差し入れの白湯とパンを持ってきた。
「ご主人お出かけ?」
「エルミリアさん、おはよう」
「うむ、おはよう。そろそろ年も変わることじゃし、挨拶回りでもしてこようと思っての」
「……また各国の王様達に?」
「うむ、忘年会というヤツじゃ」
リューゼニス王国やレッカ帝国のみならず、数多の国と親交がある魔女は、年末前に顔を出しては都心の結界を貼り直したり、苦手な酒を飲みに行く。
それを知っている殆どの国は、果実をブレンドしたジュースを出すのがお約束である。
「年末のご主人って感じだね〜。あ、システィちゃんは今年も書くの? 獣人語のラブレター」
「か、かか、書かないわよっ! それにラブレターじゃないし! ただ近況報告とエストを心配してるって書いただけ!」
「ほぉんとぉ? これまでの余罪の数々からして〜、なかなか信じられないけどなぁ〜?」
去年システィリアが出した手紙には、それはそれは想いを隠しきれていない言葉が綴られていた。
ただし、それすら理解しているシスティリアは、エストが分からないと踏んで獣人語で書いたのだ。
あまりにも用意周到な計画に2人は感心していたが、肝心な獣人語が拙いシスティリアは何度も書き直していた。
まるで新理論を書くエストのようだったと、魔女は印象強く覚えている。
「ジオに色々と吹き込まれる前に、ちゃんと想いを告げた方がよいぞ。下手をすれば、このままお別れになる可能性もある」
「えっ……ど、どういうこと?」
魔女の口から出た言葉に、バッと起き上がる。
懐かしい思い出を語るように、魔女はジオがどういう男かを暴いていく。
「奴はとんでもない女好きじゃ。その口説き方は千差万別。言葉に物、顔、金に権力と、使えるものは全て使って女を手に入れようとする」
「……ってことは」
「うむ。奴の恋愛観をエストが持ってしまえば、大変なことになる。わらわはエストが女好きでもいいと思うが、既にお主やメルという少女を落としておるからの」
「エストもまた余罪あり。罪深い男ね〜」
「じゃから、早いうちに『好き好きちゅっちゅ〜』でもしておかんと、他の女に目を向けるかもしれぬぞ」
「だ、誰が好き好きちゅっちゅよ!」
「およ? 前回の手紙に書いておらんかったかの?」
「そこまで下品に書いてない! ……あっ」
語るに落ちるというもの。燃えるように顔を赤くして俯くシスティリアに、アリアは優しく背中を撫でてあげた。
頭を撫でるのはエストの特権だ。
「ま、頑張るのじゃな。ジオのお陰で正しい恋心を学ぶやもしれぬ。どちらに転ぶにせよ、お主はまだエストの隣には立てんからの」
「多分、超強くなって帰ってくるからね。その分システィちゃんも強くないと、置いて行かれちゃう」
「……あるいはそれも見越して、奴はアリアに育てるように言った気もするが……たまたまじゃろな」
「たまたまだと思う」
「たまたまじゃないかしら。とにかく、頑張って強くなるしかないってことね!」
闘志を燃やし、システィリアは立ち上がる。
最近の冒険者にしては珍しく高い向上心を持つ彼女は、更なる領域へと足を踏み込む。
獣人の強みである高い身体能力。
その力をフルに使った戦い方こそ、龍人族や白狼族が人類最強とまで言われた鍵である。
システィリアの土台は充分。
魔道書を読み、着々と魔術の知識も得ている。
エストが育った環境で、システィリアが育つ。彼女にとってはそれこそが今を生きる原動力だ。
「次に会った時、どんな魔術を使うのかしら」
「意外とくだらない魔術かも?」
「まさか…………有り得るけど」
エストのことだ。システィリアの毛並みを完全再現した氷製狼耳カチューシャを作ってもおかしくない。
あれだけの知識を持っていると、見せてくれる魔術の振れ幅が尋常ではなく大きい。
しかし、これだけは確実だと言える。
「面白い魔術でしょうね。絶対」
「だね〜。ウチも楽しみだな〜」
2人がワクワクしているのを横目に、魔女は忘年会へと旅立った。
今日も平和な魔女の森で、少女は修行する。
彼を超えることはできなくても、隣に立てるくらい強くなる。
強く、硬い意思が果ての無い強者への道を歩ませた。
奇しくもその姿は、魔術という暗闇の世界を歩く、白い髪の少年と重なっていた。
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