第73話 賢者の魔道書


 ネフの鳴き声で目が覚めると、システィリアが抱きついている。

 いつもの朝だ。

 今朝はゆっくりしようと思い、エストは体内の魔力を操作しながら、報酬の魔道書を読むことにした。



「賢者の性癖大全集? 何これ……読まない方がいい気がする」



 タイトルを見て、今読むべきではない気がした。

 ちらりとシスティリアを確認するが、これはひとりの時であっても読むのが憚る、呪いの本だと直感した。


 あのお爺さんはなんてものを渡してくれたんだと思うエストだが、初代賢者が30人の子どもを残したことが有名であり、少々気になる所存だ。


 読むのか、読まないのか。



「……大人になったら読もう」



 今は読まないと決めると、急にやることが無くなった。これと言ってすることは無いのだが、何か目標が無いとやる気が起きない。


 魔術の鍛錬をするのも良いが、たまには趣向を変えて、魔力そのものに意識を向けてみる。


 目を閉じて、体内に流れる力を感じ取る。

 血液と同じように流れるソレは、意識することで流れる向きを変えたり、手のひらに出すこともできる。


 久しぶりに純粋な魔力を手に出すと、透明な液体になっていた。



「おかしいな。3年前は水色だった」



 色が変わった。

 それすなわち、適性が変化している。

 何度やっても、どの角度から見ても魔力は澄んだ透明になっていて、最終的に3年前の水色が間違っていたと思い込むことにした。


 なぜなら、適性が変わることは無いのだから。


 液体化させた魔力を動かして遊んでいると、手のひらから零れた魔力がシスティリアの耳に垂れた。


 ピクりと反応し、モゾモゾと動き出す。

 数回鼻を鳴らすと、とろけた表情で言った。



「……エストの匂い。うへへ〜」


「匂い? 魔力って匂いがあるんだ」



 後で詳しく聞こうと思っていると、システィリアがエストの上に移動し、胸の辺りに顔を擦り付け始めた。

 少し重たい感覚と、女の子の柔らかい感触が絶妙に心地よく、エストの両手は自然と彼女を撫でていた。



「……これ、本当に旅なのかしら」



 突然目を覚ましたシスティリアが、ポツリと呟く。



「どういうこと?」


「なんというか、快適すぎるのよ」


「システィは不便な旅がしたいの?」


「それは……違うけど。でも、他の旅人が見たら怒られそうな生活でしょ? 主にアンタのせいで」



 魔術で立派な拠点を作ったり、屋外なのにベッドで寝たりと、皮の寝袋で生活する旅人から恨まれてもおかしくない。



「僕は楽しい旅にする。その為なら魔術を惜しまない。システィ、僕たちは他の人とは違うんだ。普通を演じなくてもいいと思う」



 普通のフリは学園でやった。今の気分は、異質で楽しい旅をしたい。真っ直ぐに自分の思いを込めて言うと、ひとつ頷いたシスティリアが用意を始めた。



「それもそうね! アタシたちはおかしいぐらいがお似合いだわ!」



 旅への憂いは晴れたのか、表情が明るい。

 いつものシスティリアに戻ったところで、次の予定を決める。



「買い出ししたら次の街に向かおう。確か、歩いて5日だっけ?」


「はぁ!? もう少し休みましょうよ!」


「……わかった。ただ、光魔術は中級に入るからね。ここからは命に関わる怪我を扱う」


「もしかして……痛い?」


「超痛い。覚悟してね」



 項垂れるシスティリアの頭を撫でると、2人はギルドで日課の打ち合いをしに行った。宿で地獄の鍛錬を始める前に、軽く街を観光することに。


 白いレンガの建物が多い公爵領は、暑い夏でも爽やかな気分の人で溢れている。


 午前中は自由行動にして、昼に宿で集まることを約束すると、早速エストは魔道書のありそうな本屋に立ち入った。


 トレントから作られた紙で製本された物が多く並び、表紙の獣皮とインクの匂いが混ざり、独特な空気が漂っている。


 今では珍しい巻物なども置いてあり、エストは興味津々といった様子で店内を眺めている。

 すると、店主であろう高齢の女性が、優しく声をかけた。



「いらっしゃい。本が好きなのかい?」


「うん。魔道書はある?」


「魔術師見習いさんかね。初級の魔道書なら、こっちの棚に置いてあるよ」



 カウンターから指をさされた方を見ると、鈍器になりそうなほど分厚い魔道書が、4つの枠に寝かされていた。


 手に取って表紙を見ると、著者名に驚くエスト。



「リューゼニス……魔道書を遺してたのか」


「偽物だよ。賢者リューゼニスが書いた魔道書は一冊限りと言われてる。世界中で探されているのに、それらしいのは見つかってないのさ」


「一冊限り、ね」



 エストの頭に、膨大な数の疑問符が浮かぶ。

 賢者は6大属性全てを扱えると言われ、長い年月は要したものの、最終的にはその全てを極めたとされている。


 魔術の基礎体系が出来る前だとしても、魔術の面白さが分からないとは思えないのだ。


 ひとつの属性を極めるならば、あれもこれもとやりたいことが思い浮かび、他の属性と掛け合わせた場合の変化は新たな発見があるはず。


 既知と既知を足して未知を生む。


 それが魔術の醍醐味でもあるのに、初代賢者が一冊しか魔道書を書かなかったというのは、信じ難い話である。



「光属性の魔道書は置いてないの?」


「おや、光の適性なのかい? なら教会に行った方がいいよ。光の魔道書は、ユエル教会が管理しているからね」


「そっか。じゃあこっちの水の魔道書を買う」


「……30万リカだよ。買えるのかい?」


「はい。これで暇つぶしになる」



 ポンと大金を支払うと、エストは軽い足取りで本屋を出た。杖を持ち、魔術師らしい格好をした少年と言えど、これだけの額を簡単に出せると思っていなかった店主は呆気に取られた表情で見送った。



「他は何を買おう。師匠へのお土産……は、まだ早いか。じゃあ手紙……もダンジョンの件が片付いたらでいいや」



 約束の時間までまだあるので、一度宿で杖や荷物を置いたエストは、公爵領の南西部。小高い丘に建っている領主邸……の、隣に建てられた教会に来た。


 白い石のレンガで出来た教会は、神聖さも然ることながら、淀みのない清潔感に溢れていた。


「意外と遠いなぁ。朝走るのに良さそう」


 などと呟きながら街を見下ろしていると、教会の外に居たシスターがエストを見つけた。



「ようこそ。お祈りですか?」


「あ……ううん。光の魔道書ってある?」


「まぁ! 光の適性をお持ちなのですね! では是非こちらへ、さぁさぁ!」



 強引に手を引かれて教会の中に入ると、木製の長椅子が連ねられた空間が広がり、前方にある祭壇の奥には立派な女神像が鎮座していた。


 見上げるほど大きな女神像は、ステンドグラスから差し込む光を浴びている。


 エストは更に奥の部屋に連れ込まれると、縦に整列された魔道書がずらりと並ぶ、シスターの勉強室に入った。



「まずはこちらを読みましょう」



 そう言って手渡された魔道書を見て、エストは頬に力が入る。椅子に座る前、シスターにひとつ質問した。


「『光の祖ラカラの教え』ね。これ原本?」


「いいえ、原本は教会本部にありますよ」


「知ってる。だから言うけど、これ偽物だよ。使ってておかしいと思わないの? 45ページの閃光ラシュの魔法陣、明らかに構成要素が足りないでしょ」



 唐突に偽物だと言い張るエストに、シスターは優しく微笑んだ。紡がれる言葉に怒気を混ぜ、諭すように言う。



「こちらの魔道書は光の精霊、ラカラ様の教えを記した物です。それを間違っていると言うのは、ラカラ様が間違っていると言うようなものですよ?」


「あっそ。じゃあラカラが間違って──」



 言葉の途中で、エストの前に単魔法陣が向けられた。奥歯を噛んで怒りを見せながら向けた魔法陣は、言葉が掛けられるよりも早く、霧散した。



閃光ラシュの光を集めたら目を焼くんだよ? 人に向けちゃダメ。この偽物にも書いてあるでしょ? ちゃんと読みなよ」


「……何者、ですか?」



 その言葉にムッとしたエストは、ため息を吐いてドアを開けた。勝手に連れ込んで攻撃までされかけたのだ。相手の信仰心を見誤っていたとはいえ、気分が悪い。



「こんな魔道書が広まってることを知ったら、ラカラは泣いちゃうよ。ラカラが間違いを嫌う精霊ということは、君たちが一番知ってるでしょ?」



 魔術の祖である精霊。

 初代賢者リューゼニスですら、一度しか見たことがない伝説の存在。今では精霊を信じている者は少ないが、エストは居るだろうと思っている。



 理由はいくつかあるが、最も大きな理由はひとつ。


 なぜ、魔法陣が陣と呼ばれているのか。



 魔術でも呪術でもない、魔法という概念。

 言い間違いや書き間違いでもなく、精霊のみが理解しているその言葉こそ、存在の証明だと言いたいのだ。



「魔術師なら、魔法陣を疑いなよ」



 教会に伝わる光魔術の一片を知ったエストは、静かな怒りを燻らせる。魔術に対しては誰よりも本気で向き合うだけに、偽物の流通が気に食わなかった。


 ユエル神国の教会本部に行った際には、文句の千や一万を言ってやろうと思いながら、宿に戻るのだった。

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