シンセシス・シティ冒頭サンプル【期間限定公開】

桃崎とか

シンセシス・シティ







     1


 ベータ世界に来て初めて、あたしは本当の詩穂を知ることができた気がする。

 あたしと詩穂が巡り逢うシチュエーションは無数にあって、そこからひとつを選択しているに過ぎないということを、メモリーバンクにアクセスするまで理解していなかった。あたしが詩穂と出会う前の、詩穂があたしに出会っていた頃の話を詩穂から聞いた。聞いたというよりは、知った。詩穂のテキストが教えてくれた。

 未来から過去へと遡り、あたしと詩穂の出会いを振り返る。修正可能なイベントは、ここですべて書き換える。無数に存在する、あたしと詩穂が出会うすべてのシチュエーションの元始。

 ワールドセルを開けば、そこに書き込まれるのはロストテキスト。ありもしない過去や起こり得たかもしれない未来について書き記される。それは整合性を獲得して現実となる。そういう法則が、ここにはある。

 暗闇にゆらめく合掌をイメージする。それは儀式や呪いを行うための原始の作法。そしてワールドセルが開かれる。

 詩穂のテキストから最も古い記憶をサルベージする。テキスト修正は履歴にない。ここに書き込むのは、あたしが最初のようだ。シティセルを書き換え、何度かリライトを繰り返していくうちに、やがてアルファ世界で再現される。

 ここから、あたしたちの物語を構成していこう。

 それは第二十八平行市街。

 はるか遠い空の上から詩穂の位置が輝いて、あたしに存在を知らせている。

 そこにいるんだね、詩穂。

 あたしは、ここにいるよ。


          ***


 私の街は変貌した。

 大地は砕けて宙を舞い、建物は元の形を失い、草木や海は荒れ狂い、生命は悉く奪われた。空に還るように、大地へ眠るように、人々も日常も、地底の闇へと飲み込まれていく。

 荒廃した街の中心には、鈍色の高い塔が建っている。塔の頂には、峰沢千佳がしゃがみこむ。朱色の長い髪は風にあずけて靡いている。

 私は、塔にかかる脆く軋む梯子を力いっぱい握り、一段一段慎重に登っていく。下を振り返ると足がすくんでしまいそうだったから、千佳を目指して無心で登った。

 頂上まであと十メートルくらいのところで、千佳の緋色の瞳に私の姿を捉えた。

「詩穂!」千佳は私に向けて手を伸ばす。

 千佳に触れたい。千佳の震える手を握りたい。あと少し登れば千佳に触れられる。それから私は、この崩壊した街を元に戻すことができる。だけど、そうすれば千佳は……。

 やっと会えた喜びとは裏腹に、私は逡巡していた。たとえ千佳ともう一度会えても、必ず訪れる運命の選択……この街の、あるいは世界の命運を私が握っているという責任が、千佳の手を掴むことを躊躇わせた。

 だけど、それでも私は千佳と、もう一度ちゃんと話がしたい。

 シティセルはほとんど残されていない。塔の下も、すでに崩壊が始まっている。間もなく世界は消滅する。死んでいった仲間たちの顔や声が頭をよぎると涙が滲む。しかし、ここで立ち止まるわけにはいかない。崩壊する街を走り、大切な人たちを犠牲にしてここまでやってきたのは——すべては千佳に会うため。千佳と決着をつけるため。

「詩穂! 手を伸ばして!」

「千佳……!」

 千佳に触れる寸前で、今までの記憶がフラッシュバックする。楽しかったことや辛かったことのぜんぶ、最後に見た千佳の笑顔は悲しみを湛えていて、なにをしたってやり直すことはできない。

 そして私は決断する。

「ごめんね、千佳、みんな……」

 私は千佳の手を振り払い、梯子からも手を離した。大地に吸い込まれるように落ちていく。

 私に千佳を殺すことなんてできない。千佳を殺すくらいなら、私が死ぬほうがずっといい。私には、千佳を殺す覚悟も資格もない。私が救えなかったものは、どうか、弱い私を許さないでほしい。

「詩穂!」

 千佳が私を呼んでいる。何度も私の名前を叫んでいる。徐々に小さくなる声に、千佳との距離を感じた。長い距離と時間を隔て、千佳の瞳から零れた涙が私に追いつくことは永遠にない。

 私の意識がいつ途切れ、暗闇になったかはわからない。最期に触れた千佳の手が温かかったことを、目を覚ました時に思い出した。

 足裏にひんやりと冷たい鉄の感触。六畳ほどの部屋は四方がコンクリートの壁で覆われている。光源はどこにもないのに、部屋全体を淡い光が満たしている。うしろには空間が伸びていて、突き当りに扉がひとつあるだけ。私は扉に向かって歩き始める。

『第十一平行市街構成情報のダウンロード阻止に失敗しました。第二十八トリガーの内村詩穂はただちにベータ世界へ遷移してください』

 無機質で機械のようなアンアイデンティファイドの声が部屋の中にこだました。アンアイデンティファイドの声は、何度聞いても好きになれない。

 私は扉の前までたどり着く。

『アルファ世界は残り百九十秒後に消失します。再構成はありません。繰り返します。第十一平行市街の構成情報ダウンロード阻止に失敗しました。第二十八トリガーの内村詩穂はただちにベータ世界へ……』

 どうせ私には、他に行く場所なんてないんだ。もう一度千佳に会うには、前に進むしかない。

「待っていて、千佳」私は鳥肌が立つほど冷たいドアノブを握りしめて、「また、すぐ会いにいくから」力いっぱい押し回してやった。

 私の意識は確かに連続していたはずだけど、次の瞬間には扉の閉まる音を聞いた。目の前は黒一色、闇そのものだった。手を差し出してもなにも掴めず、足は地に着いていないのに落ちることはない。ここは私以外、なにもない。私がどこに立っているのかも見えない。まるで深海に浮かんでいるみたい。

 ここはベータ世界。

 メモリーバンクへアクセスして、魂に刻まれた記憶を取り戻すと、ここへは何度も来たことがあることを思い出す。

「ようこそベータ世界へ。内村詩穂の魂よ」

 アンアイデンティファイドに姿はない。暗黒のベータ世界では、アンアイデンティファイドの声はどこからも聞こえてくるようで、どこからも音源をたどれない。

「今度は私がシープ……でしょ?」

 私は早く本題へと移りたかった。ベータ世界でのやり取りは何度も繰り返してきたから、茶番は不要だ。

「ご明察。第十一シープの峰沢千佳は、第二十八平行市街をダウンロードしました。シンセシス・シティに敗れたトリガーである内村詩穂の魂はベータ世界で預かっていますが、預かり続けることはできません。内村詩穂は別の平行市街の器に転生し、ダウンロード実行のシープとなるのです。行き先は第一平行市街です」

「そこにも、千佳がいるんだね」

「ええ。ただし、この世界に数多存在する平行宇宙のひとつですから、記憶の連続性はありません。それでも確かに、峰沢千佳の魂は存在します」

 アンアイデンティファイドは、私にとって最も重要なことを教えてくれた。

「魂はひとつ。代替はありません」

 それだけ確認できればよかった。次の街にも千佳がいる。それだけが希望だった。むしろそうじゃないと困る。私は自分の魂に、必ず千佳の元へ転生するよう契約を書き込んでいるから。

「第一平行市街への転生にともない、内村詩穂には一部の記憶をメモリーバンクに預けていただきます。メモリーバンクに預けた記憶は、再び魂がベータ世界に遷移されれば取り戻せます」

「うん、わかった」

 目を瞑ると、テレビの電源を落とした時のように意識は一瞬で途切れる。私はベータ世界と断絶された。

 目が覚めると、私は第一平行市街の内村詩穂として、昨日からの記憶の連続性を獲得する。

 ……まぶたが重たい。まだ寝ていたい。

 引っ越してきたばかりの部屋は、まだ自分のものだと感じられない。荷物を隅に寄せただけの、物置同然の空間。前の学校の友達と撮った写真が二、三枚コルクボードに貼られている。新しい制服が壁掛けハンガーに吊るされていた。

 寝返りを打つと、壁にもたれるように置かれた日めくりカレンダーが、ぼやけた視界に映る。八月三十日。

 薄手のタオルケットも鬱陶しいくらい暑かった。


          ***


 あたしの名前を呼ぶ声がする。誰の声かはわからない。初めて聞くようで、それでいて懐かしい気もする。千佳、と彼女は叫んだ。千佳、それはあたしの名前。あたしは彼女に向けて、彼女の名前を叫んだけれど、あたしの声だけが聞こえない。ただ、彼女があたしの名前を叫びながら、暗闇に落ちていくのを見ていることしかできなかった。

「夢……か」

 ぼやけた天井をしばらく見つめていると、寝落ちしたことを思い出す。汗をたっぷり吸い込んだシーツの水気が気持ち悪い。まだわずかに眠気があるけれど、目を擦りながら体を起こした。

 八月三十一日。夏休み最終日。時刻は昼の十二時を回っていた。

 クーラーはタイマーで切れていて、窓から差し込む陽が部屋の温度を上げていた。地球温暖化の影響か、今日で八月も終わるというのに、暑さはまったく衰えない。

 あたしはベッドから降りて、カーテンを閉めた。再びクーラーをつける。

 机の上に築かれた未完成の宿題の山が、あたしの焦燥感を煽った。重い腰を上げて昨日から始めた宿題は、参考書から応用を調べなくては解けなくて、その面倒さに嫌気がさしたあたしは、集中が切れたことを言い訳にして仮眠することにした。それから記憶は今に至る。

 参考書やノートをすべて閉じて、まとめて机の隅に寄せる。貴重な夏休み最後日を、終わらない宿題に費やすなんてもったいない。

 あたしはラジオの電源を入れて、電波をチューニングする。毎日正午から放送されるサブカルチャー系番組『オカリオ』のファンで、夏休みはほぼ毎日欠かさず聴いていた。未確認生物とか心霊特集とか、そういう不可思議な話を特集している。あたしの趣味のひとつ。

 番組は始まったばかりで、メインパーソナリティーのトークが静寂を打ち破った。

『パラレルワールドってご存じですか?』

『もちろん知っていますよ。平行世界ってやつですよね。選択次第で世界が無限に分岐する。それらは決して交わらない。子供の頃、この概念を知った時の衝撃は忘れられません』

『このお便りはもしかしたら、そのパラレルワールドなのかもしれませんよ』

『えーっと……知らない人が自分の友人を名乗って現れたってやつですか?』

『そうそう。つまり、リスナーにとっては知らない人でも、別の平行世界ではリスナーと友人だったというわけです。それがどういう理屈かわかりませんが、世界線の異なるリスナーの世界で再会したと考えられませんか?』

『そんなことありますかねぇ』

『さぁ。あくまで推測ですけど』

『けどロマンはありますよね。別の世界では、私と恋人同士だったりする人がいるのかも……』

 あきらかにフィクションだろうというハガキが読まれることもあるけれど、パーソナリティーもリスナーも野暮なことは言わないのが暗黙のルール。事前知識がないと理解できないマニアックな話も多いが、それでもあたしはこの番組が好きだった。空想の話には夢がある。でもこんな趣味を持っている子は、学校中であたししかいないかもしれない。

 あたしの趣味を話せる友人はいない。いや、まともに友人と呼べる人物に心あたりがない。高校に入学してから、あたしには友達がひとりもできなかった。中学でも友達と呼べる人は一人だけだったし、地元から離れた都内の高校を受験したから、中学からの繋がりはすべて断たれてしまった。入学当初は、お昼休みに女子グループに混ぜてもらったことが何度かあったけれど、内向的な性格が災いして会話を弾ませることができず、とうとう孤立してしまった。

 高校最初の貴重な夏休みを誰とも過ごすことなく、こうしてラジオを聴いたり、図書館で涼みながら読書をしたり、暇つぶしに映画を見に行ったりと、ひとりぼっちで過ごした。だからあたしに宿題を見せてもらえるような友達はいない。潔く諦めるしかないんだ。

「つまんない夏休みだったなぁ」机に突っ伏す。「明日から学校かぁ」

 明日からまた空虚な学校生活が始まると思うと憂鬱だ。

 昼を過ぎて気温は上がり続けている。カーテンを捲って外を見ると、太陽がアスファルトを焼いて、陽炎で景色が歪んでいた。こんな暑さでは出かける気も失せる。あたしは頬杖をついてぼんやりとラジオを聴き流した。それも次第に飽きてきたころ、ふとアイスが食べたいと思った。こう暑い日に食べるアイスは格別に美味しい。

 思い立ってすぐ着替え、財布を持って家を出た。そしてすぐに後悔した。コンビニ『オーロラ』までは家から一本道で、さほど遠くないが……。

「あ、暑すぎる……」

 想像以上の酷暑だった。太陽は容赦なくあたしを焦がす。どろどろに溶けてしまいそうだ。普段よりオーロラが遠く感じる。腰まで伸ばした長い髪が、首にべったりと張りついて気持ち悪い。次第に全身から汗が噴きだし、シャツが汗を吸って張りつく。蝉の鳴き声がうるさい。車があたしを追い抜くたびに熱波が押し寄せる。眩暈を起こしそうな暑さの中、一歩また一歩と、オーロラまでの距離を縮めていく。

 道中、汗が頬を伝い顎から滴る刹那に、あたしは一人の女の子を見た。三十メートルほど先で彼女は直立し、あたしと向き合っている。歩く速度を落とすと、世界もあたしに合わせてスローモーションになったように錯覚する。十メートルまで距離を詰めると、まるで電池の切れたロボットみたいに、あたしは立ち止まった。眼前の彼女から目が離せなかった。

 短い栗色の髪は風に揉まれやわらかく靡いて、陽光を返して眩しくさせた。人形みたいに大きな瞳。それからようやく、彼女があたしと同じ学校の制服を着ていることに気がついた。

 誰だろう、知り合いだったかな。どこかで会ったことがある?

 突如、けたたましいベル音が響いて、あたしの固まっていた身体は再起動した。うしろから走ってきた自転車に道を譲る。自転車に乗ったおじさんは、あたしに聞こえるように舌打ちをして過ぎ去っていった。ここ歩道なんだけど……。

 しかし、ベルの音でぼんやりしていた頭は覚醒して、オーロラに向かっていたことを思い出す。そして制服の女の子と目が合っていたことを。

「あれ……?」

 目の前にいたはずの彼女は、あたしの視界から消えていた。

 陽炎が揺らめいて幻でも見たのだろうか。

 やがてあたしが見ていた彼女がどんな容姿だったかも、見ていた夢が消えていくように朧げになっていった。



      2


 学業に必要なものとそうでないものも鞄に詰め込み、ファスナーを閉める。ブラウスに腕を通しベストを重ねて着て、スカートのチャックを上げたら準備は万端。一か月半ぶりに着た制服が、やけに懐かしく感じた。

 制服を着た少年少女が通学路に増え始めると、眼前には創立五十年の北成高校が現れる。生徒たちは次々と校門へ吸い込まれていく。あたしも例にもれず校門を通過した。

 中庭はいつもと違う空気に包まれている。そわそわとして、浮ついた雰囲気。十月には文化祭や体育祭のイベントが控えているから、周りはその話でもちきりだった。もっとも、友達のいないあたしにとっては、それらをどうやり過ごすかに注力しなければならないだけの、ただただ面倒なイベントでしかない。

 ローファーから上履きに履き替える。上履きがすこしかび臭い。夏休みの間、下駄箱で眠っていたからか……。面倒でも、ちゃんと持って帰ればよかった。

「おっはよー、千佳!」

 ばん、と背中を叩かれ、急な衝撃にあたしは軽くむせる。

 城野睦月先輩がうしろからあたしを追い越していき、手を内に向けてひらひらと挑発する。それを無視していると、城野先輩は、いたずらっ子のような無邪気な瞳でこちらを覗き込んでくる。金色のウェーブがかかった癖毛が特徴のショートヘアだから、毛先が顔をくすぐってきてむず痒い。それに加えて、いやでも目に入る大きな胸の主張が鬱陶しい。

「夏休みの途中から全然連絡してこないから心配したぞ、千佳」

「いろいろ忙しかったんです。あたしにも付き合いがありますから」

 見え透いた虚勢も、城野先輩は鈍感だから気づかない。

「私がいればもっと楽しい夏休みだったのに! もったいない!」

 その自信はどこから湧いてくるのだろう。あたしにも少し分けてもらいたいくらいだ。

「待ってよ、城野~……」

 小走りでやってきたのは、小早川沙織先輩。黒く長くてきれいな髪で、おっとりしたたれ目が特徴の、やわらかい空気を纏う先輩。家がお金持ちの、いわゆるお嬢様。華奢で運動神経が鈍い。

 城野先輩があたしを見つけて走りだしたから、小早川先輩も急いで追いかけてきたんだろう。肩で息をしていた。

「久しぶり、千佳」白いハンカチで額の汗を拭う。

「お久しぶりです、小早川先輩」

 あたしたちのやり取りをよそに、城野先輩は両腕を頭のうしろで組んで、ため息をひとつ吐く。

「夏休みはいろんな場所に行こうって計画してたのに、結局最初の数日ちょっと遊んだだけで、あとはぐうたらしてたな。終わってみるとやっぱり、もったいなかったって思うんだよな」

 そこは城野先輩に同意する。毎年夏休みは終わってからもっといろいろできたことを反省して、後悔するんだ。

「でも、これから文化祭も体育祭もあるし、楽しみだな! 千佳!」

 それについては同意しかねる。あたしは全然楽しみじゃない。

「私は体育祭が憂鬱なの。運動苦手だし。みんなの迷惑にならないように頑張るわ」小早川先輩は眉を八にして頬に手を添えた。

 まったく同感です、小早川先輩。

「そういえば、千佳に朗報があるぞ」

 城野先輩の朗報……なぜか嫌な予感がする。話半分に聞いておくとしよう。

「今日、転校生がくるらしいんだ」

「へぇ」

「もっと興味持てよ!」

「二年生ですか?」

「いや、千佳と同じ一年生」

 自分と違う学年の情報をどこで手に入れるんだろう。小早川先輩と常に一緒にいる城野先輩だって、交友関係が広いわけじゃないだろうに。

「別に、あたしには関係ないです」

「それはどうかな。千佳と同じ一年三組だって」城野先輩は、あたしの脇腹に肘を押し当てた。「友達をつくるチャンスじゃないか」

 あたしは城野先輩に聞こえるように、わざと大きくため息をついた。

「いいですか城野先輩。もしあたしが転校生だったら、あたしみたいに教室の隅でひとり本を読んでいるような人と友達になりたいと思いません。せっかく新しい環境になるんだから、日々を充実して過ごせるように考えて交友関係を構築するはずです」

 そうだ、あたしに友達は必要ない。いなくても大丈夫。あたしはひとりでも楽しく過ごせるし、困ることもない。

「転校生が女子とは限らないぞ。もしかしたら、友達じゃなくて彼氏になっちゃうかも!」

「えーっ!」小早川先輩は両手で口元を覆う。

「ないない。ありえないですから」あたしはあらゆる可能性を振り払う。

「でも、クラスに友達がいた方が、体育祭も文化祭ももっと楽しめるのに」

 小早川先輩の何気ない一言が、あたしの胸に深く突き刺さる。

「沙織の言う通りだぜ。厚い心の壁を取り払わないと、友達はできないままだぞ?」

 城野先輩の最後の一言は核心を突いていて、反論できなかった。

「余計なお世話です!」

 あたしはぴしゃりと会話を切って、自分の教室へ向かう。

 教室に着くと、あたしは誰に挨拶するでもなく、自分の席へ一直線に進む。クラスメイトも、誰一人としてあたしを見向きしない。この教室であたしは空気みたいなものだ。つまり、そこにあってもなくても同じということ。それをあたしは別に気にしていない。他人に気を遣わないで済むし、むしろ楽だとさえ思う。

 椅子に座り鞄を机にかけて、頬杖をついて窓から空を眺める。これがあたしのルーティン。雲の数を数えたり、校庭を見下ろしたりして時間を潰す。

「今日、転校生が三組に来るらしいよ」

 クラスメイトの会話が耳に入ってくる。聞き耳を立てるわけじゃないけれど、勝手に聞こえてしまうからしょうがない。

「男子? 女子?」「女子だって」

 城野先輩の言った通り、このクラスに転校生がやってくるようだ。女子らしい。

 チャイムが鳴ると、みんなそれぞれの席に戻っていく。担任の小野塚先生が教壇に立ち、ホームルームが始まった。

 小野塚先生は開口一番、転校生が来ることを告げた。みんなのリアクションを見て、ある程度は知れ渡っていることを把握したらしい。「みんな仲よくするように」と短くまとめ、それから教室はざわめきに包まれた。「それじゃあ入って」教室のドアが開かれ、転校生が教室に入る。

 転校生の第一印象は、小柄で可愛らしい女の子だった。栗色のショートヘア。くりくりとした大きい目。身長は低い。華奢な身体でありながら、ふくよかな胸が前面に強調されている。まるでリスかなにかの小動物のような彼女を、あたしは知っていた。昨日、目が合った女の子だった。

 奇妙な偶然に開いた口が塞がらない。彼女から目が離せなかった。漫画みたいだ、と思った。まるでこれから始まる物語の、その運命に導かれたような、不思議な感覚に包まれた。

 彼女はすっと息を吸い込み、自己紹介を始めた。

「内村詩穂です。親の転勤があって引っ越してきました。これからよろしくお願いします」詩穂はぺこりと頭を下げる。

 乾いた拍手が広がった。ありがちな転校理由にさほどリアクションする人はいない。あたしも流れに乗って軽く拍手をする。このまま何事もなくホームルームは終わると思われた。しかし詩穂は次の瞬間、とんでもないことを語り始めた。

「こっちに引っ越してきたばかりで、まだ知らないことがたくさんあるんですけど、このクラスにひとりだけ知り合いがいます」

 詩穂はあたしを指さして「そこの席の、峰沢千佳さんです」と言い、にこりと笑った。

 詩穂の人差し指から放たれた弾丸で心臓を貫かれたような衝撃に、あたしは完全にフリーズした。

 教室は再びざわつく。「峰沢って?」「そんな人いた?」「女子の……あいつ」「ああ」「あいつが峰沢か」教室中の視線があたしに注がれた。突き刺すような視線にいたたまれず、あたしは身体を小さく丸めて俯いた。たぶん、耳が熟れた林檎みたいに真っ赤になっている。熱く火照っているのに、額から冷汗が垂れる。教室では空気同然のあたしが、クラス全員から注目を浴びる存在に変容してしまった。

 唐突な出来事に脳の処理が追いつかず、反論を喉に詰まらせたまま、ついになにも言い返すことなく、ホームルームは小野塚先生によって強制的に締められた。

 混乱と動揺で貧血を起こしそうだった。詩穂の笑顔が網膜に焼きついて離れない。それが動悸とともに歪んで、あたしを馬鹿にして笑っているような気がした。詩穂の顔が渦を巻き原型をとどめなくなると、あたしはかぶりを振った。

「千佳!」城野先輩の声で、あたしは我に返った。「ぼーっとしてたぞ、大丈夫か?」

 城野先輩は眉間にしわを寄せて、鼻先が触れそうなくらい、あたしに顔を近づける。隣には心配そうな表情を浮かべる小早川先輩もいる。いつもと同じ帰り道を、先輩たちと歩いていたところだった。

「す、すみません。大丈夫です」

 そうだ、今日は始業式しかないから、午前で学校は終わったんだ。

「熱中症になったら大変だから、こまめに水を飲まないとだめよ」

 小早川先輩が鞄からスポーツ飲料のペットボトルを差し出す。あたしは遠慮したけれど、小早川先輩がキャップを外して再度差し出してきたから、拒むのも忍びなくて受け取った。保温ホルダーに入っていたおかげで冷たい。舌から喉へと染み渡っていく。

「まさか予言が当たるとは。私、案外占い師とか向いているかもな」城野先輩は顎を指でつまんで唸る。

「城野が? むりむり、似合わないよ」

 城野先輩が黒いローブを身にまとい、水晶に手をかざしている光景をうまく想像できない。どちらかといえば、小早川先輩の方が似合いそうだ。

「それに城野先輩のそれは、予言とは言わないですよ。クラスのみんな、転校生のこと知っていましたから」

「いやいや、ちゃんと予言してるって。千佳と友達になるって言っただろ?」

「あたし、友達になったつもりないんですけど……」

 今やクラス内に留まらず一年生全体で、あたしと詩穂の間に怪しい関係があるという噂が広まっているらしい。冗談じゃない! 転校生の一言で、勝手に友達にされてはたまらない。得体の知れない存在である詩穂は、あたしからすれば、ただ不気味な存在だ。

「え、千佳は私の友達じゃないの?」詩穂は困り顔を見せた。

「いつあんたと友達になったのよ」

「ほら、昨日コンビニの前で会った時だよ」

「あれは会ったっていうか……」なんの違和感もなく詩穂と話していることに気がついて「ちょっと待て!」と、漫画みたいなノリツッコミを披露してしまった。

「なんでここにいるの!?」

「千佳と一緒に帰ろうと思って。千佳はいつも先輩たちと帰ってるの?」

 詩穂はおどけたようにも、真面目なようにも見えた。どこまで本気かわからない。

「へぇ、君が噂の転校生か」城野先輩が詩穂に近づく。

 順応早すぎます、城野先輩。

「内村詩穂です。よろしくお願いします」

「城野睦月だ。こっちは小早川沙織」

「よろしくね、詩穂」

 小早川先輩は詩穂の頭を撫でる。妹ができたみたいで嬉しそうだった。

「ていうか、どうしてあたしの名前知ってるのよ」

「早くクラスのみんなと仲良くなりたいって小野塚先生に言ったら、クラスの名簿をくれたの。そしたら千佳の名前があったんだ」

「だから、どうしてあたしの顔と名前が一致したのかって話で……」あたしが話している途中で、詩穂は城野先輩の元へ逃げた。「って、話聞けよ!」

「せっかくだし、今日は詩穂も一緒に行こうぜ」

 城野先輩はすっかり詩穂を仲間と認識したらしい。犬を撫でるみたいに詩穂の頭に手を置く。いつもの寄り道に同行させるようだ。あたしが拒否したって、どうせ連れていくんだろうな。城野先輩は頑固な性格だから、一度決めたら梃子でも動かない。よほど自分に非がない限り意見を曲げない。あたしは今まで一度も、城野先輩の意見を変えられたことがないんだ。

「どこに行くんですか?」詩穂は首をかしげる。

「とっておきのところさ」城野先輩得意のウインクが弾けた。

 詩穂を加え、あたしたち四人は城野先輩を先頭に、とっておきのところへと向かう。

 城野先輩と詩穂はすっかり意気投合して、笑い声をあげながら揚々と歩いている。城野先輩があの調子では、しばらくまともに取り合ってくれないだろうと思い、小早川先輩を相談相手として選んだ。

「あの、小早川先輩、詩穂のことなんですけど……」

「いきなり千佳の友達発言でしょ?」

 どうして二年生の小早川先輩がそんなことまで知っているんだ。どこから仕入れてきた情報だ?

「城野から聞いたよ」

「それは誤解で、あたし別に詩穂の友達なんかじゃないですよ」

「そうなの? 仲よさそうだけど」

「昨日、たまたまコンビニへ行く途中で顔を見ただけというか、目が合っただけっていうか……」

「それで知り合ったんだね」

「そういうことになるんですかねぇ……」

 なんだか腑に落ちない。

「友達でいいじゃない。詩穂は転校してきたばかりで心細いのよ。きっと、それをきっかけに友達を作りたかったんじゃないかな。かわいいもんじゃない」

 あたしはいまひとつ納得できなかったけれど、小早川先輩には、あたしと詩穂は友達として映っているんだろう。それはあたしが詩穂のことをどう思っていても、詩穂がなにを考えていたとしても。

「おーい、早く来いよ! 売り切れちゃうかもしれないだろ」城野先輩は大手を振る。

 城野先輩と詩穂は燃えるような夕日に照らされて、顔に影を落として表情を伺い知ることはできなかった。

 城野先輩を小早川先輩が追いかけるから、あたしもあとを追った。

 もうしばらく暑い日が続きそうだ。

 鯛焼き屋『潮屋』は夏休み前と変わらず、ひっそりと店を構えている。古い木造の家を改築した店は、良い言い方をすれば年季が入っていて趣がある。店主のおじさんは百年続く老舗だと言っているが、本当のところはわからない。あたしたちが通うことで夏の潮屋の経営を支えているんじゃないかとさえ思っている。夏はかき氷でもやったらいいじゃないかと助言したこともあったけど、おじさんはやんわりとそれを断った。

 あたしはあんこが好きで、城野先輩と小早川先輩はカスタードクリームを食べることが多い。およそ一か月ぶりの鯛焼きは、もちろんあんこに決めた。

「私も千佳と同じやつにしよう」詩穂はあんこの鯛焼きを注文した。

 数分待つと、できたての鯛焼きが提供される。カスタードから先に二つ提供され、それからあたしと詩穂の分のあんこが手渡された。湯気が立ち、包み紙越しに内包された熱を感じる。

 あたしには自分流の食べ方があって、いつものように鯛焼きを半分に割る。そして中の熱を逃がしながら適温を目指す。ふと隣を見ると、詩穂はあたしにならって、半分に割って食べている。時折、熱さに息を漏らしながら、ちまちま食べる姿はまるでハムスターかリスみたい。

「おいしい」詩穂は目を丸めて感嘆した。「千佳と食べてるからかな」

「え?」

「友達と一緒に食べると、もっとおいしくなるでしょ?」詩穂はあたしに微笑む。

 詩穂はあたしのことを友達だと言った。出会って間もないのに、たいした話を交わしたわけでもないのに。詩穂はなぜ、あたしを友達に選んでくれたんだろう。クラスメイトは他にもいるのに、どうしてあたしと友達になりたいと思ったんだろう。たった一度、街中で目が合っただけのあたしに、詩穂はなにを感じたのかな。

 そういうあたしは、詩穂のことをどう思っているんだろう。変な奴? 天然? 小動物? わかっていないのは、あたしだけなのかな。

 詩穂は口の端に餡をつけながら、夢中で鯛焼きを食べている。

「変なやつ……」

「ん? なにか言った?」

「いや、なんでもない」

 あたしは残った鯛焼きを口に放りこんだ。まだ熱くて、なかなか飲みこめない。

 詩穂はあたしたちの顔を覗き込んで、眉間に細い皴を作った。

「そういえば、千佳と先輩たちは、どうして知り合ったの? 一年生と二年生が同じ部活でもないのに、珍しいよね」

「私が千佳を誘ったんだよ」城野先輩は親指を自分に差し向ける。「放課後暇なら、私たちと一緒に遊ぼうぜーって。一年の六月になっても、いつもひとりぼっちで下校してたし、傘忘れて帰れなくなってる時に声かけたんだよな」

 城野先輩は性格に似合わず、細かいことまでよく覚えている。

「そうそう、千佳の髪は遠目からでも目立つのよね。それで私たちも覚えていたのよ」

 確かに、朱色かつ腰まで髪が伸びている生徒は、あたし以外にいないだろう。小早川先輩の日本人形みたいな黒髪も、城野先輩のシルクみたいな金髪もなかなか珍しいと思うけれど。

「そっかぁ。千佳は城野先輩たちに声をかけてもらうまで、友達がいなかったんだね」

 詩穂は平然と人の心をえぐる発言をする。いや、はっと気づいて気まずそうに鯛焼きをほおばっているのを見るに、やっぱりただ天然な子なのかもしれない。

「今もクラスに友達はひとりもいないけどな」城野先輩が笑って言う。

「大きなお世話ですよ!」

「でも今は、詩穂がいるじゃないか」

 城野先輩は詩穂の頭をくしゃくしゃと撫でる。本当に小動物として扱われているな。

「よかったね、千佳」

 小早川先輩のそれは、たぶん本心で言っている。

 なんだか、頭が痛くなってきた……。

「……そろそろ、あたし帰ります」

 今日は色々あって疲れた。早く帰って寝よう。ちょっと具合も悪い気がする。

「えー、千佳もう帰っちゃうの?」

 城野先輩は解散を渋った。久々に集まれて楽しいのはわかるけど、そのテンションで振り回されては、帰りが何時になるかわからない。あたしの様子を察してか、小早川先輩も帰ると言ってくれた。今日はこの辺でお開きという空気に、しぶしぶ城野先輩も解散を受け入れる。

 鯛焼きの包み紙をゴミ箱に捨て、鞄を肩に掛ける。あたしは三人とは反対方向に帰る。

「千佳!」

 あたしを呼んだのは詩穂だった。

「また明日!」詩穂は顔の高さで小さく手を振っていた。夕日を浴びて頬に赤が差している。

「……また明日」あたしも手を振り返した。どこかぎこちなく、不器用に。

 あたしが歩き出しても、しばらく三人の足音が聞こえる様子はなかった。

 少し歩くと、架け橋から真っ赤な夕日が見えた。地平線に沈みかけて、波に色を写していた。

 久しぶりにローファーを履いて歩いたから、踵がすこし痛い。明日もこれを履いて登校するんだ。明日も学校か、と一瞬憂鬱になったけれど、なぜか不思議と嫌な気分になりきれなかった。明日、また教室で詩穂と会うだろう。なにか話すかもしれない。昨日は楽しかったね、今日は放課後どこ行く? 詩穂は部活に入るの? クラスの視線が気になるかもしれないけれど、明日はひとりじゃないんだ。

 家に帰ると、疲労にまいったあたしは制服のままベッドに身を投げる。枕元に置いてあるラジオのスイッチを惰性で押した。オカリオの放送が始まる。

『今日はデジャヴについてのお便りを読んでいきます。ラジオネーム音速二百キロさん。私のデジャヴ体験は小学生の頃、自然学校に行った時のことです。友達の女の子と近くの森を探検していました。探検に夢中になって、いつの間にか森の深いところまで来てしまい、迷子になってしまいました。しかも、友達の子とはぐれてしまったんです。私は泣きつつも、ふと、前に同じ光景を見た気がしました。そして、私自身がそのとおりに行動するのです。私の意志で動いているのに、まるで誰かに操られているような、不思議な体験でした。そして驚くことに、友達を発見し、森の入り口まで戻ってくることができたのです。長いデジャヴ体験でした。今思えば、なにか大きな力が働いていたようにも思います……とのことです』

『すごくないですか、これ。私鳥肌立ちましたよ』

『世界が同じ事象を何度も繰り返し、それを脳が記憶していて、前世での体験をリフレインしていたのかもしれません……』

 世界が何度も繰り返されていると聞いて、半分ばかばかしいと思いつつ、もしそれが真実なら、詩穂の言動に辻褄が合うというのが半分。つまり、詩穂がなぜ、あたしの顔と名前を一致させたのか……前の世界で、詩穂はあたしに知り合っていた……?

「ばかばかしい……」

 そんなことあるわけないと、指で瞼を押す。疲れているから、変なことばかり考えるんだ。

 ラジオを消した。読みかけの本を読むが、集中できない。寝るにはまだ早いけれど、もう寝てしまおう。さっとお風呂に入って、布団に潜り込む。

 目を瞑り、今日を思い返してみる。

 口にあんこを残した詩穂が、強く印象に残っていた。



      3


 あたしはシャワーが好きだ。体の汚れを落としてくれるのはもちろん、あらゆる憑き物も落としてくれるような気がするから。身体の芯から温まり、身体を伝う水とひとつに溶け合うと、呆けた意識が整っていく。前髪の先から滴り落ちる雫を、ぼんやりと眺めていた。

「いた……」

 今日から生理じゃなかったら、どれほどよかっただろう。バレーのテストは生理を理由に休んでもいいことになっているけれど、放課後に居残りで追試を受けるのは、ごめんこうむりたい。

 せっかく早起きしたのに、憂鬱な気分。

 あたしの気分と関係なく、空は雲一つない快晴だった。

「おはよう、千佳」小早川先輩は目を細めてはにかんだ。絡まりのない黒髪は、陽の光を返して美しい。「なんかいいにおいする」小早川先輩はあたしに顔を近づけて、目を瞑り嗅覚を研ぎ澄ます。

「シャンプーのにおいですかね。朝シャワー浴びたので」

「その長い髪で朝にシャワー浴びてるの? 乾かすの大変じゃない?」

「もう慣れました」

 ふぅん、と小早川先輩は眠そうな垂れ目であたしを覗き込む。

「千佳は朝ギリギリまで寝るタイプだと思ってたけど、ちゃんと規則正しい生活しているのね」

「そりゃあもう、健康第一の生活ですよ」あたしは胸を張った。

 夜ご飯を食べ損ねて、朝から大盛カップラーメンを食べたことは伏せておこう。

「おっす、二人とも!」城野先輩が頭に腕をまわす。「今日も放課後、どこか寄り道して帰ろうぜー」

 城野先輩の誘いもすっかり習慣化して、最初は嫌々付きあっていたあたしも、今では何の抵抗もない。今はむしろ、城野先輩らと放課後に寄り道することが高校生活のささやかな楽しみで、クラスで充実できないあたしの心の支えにもなっている。部活に入っていないから、時間はたっぷり余っているんだ。

 入学したばかりの頃は、いくつか入ってみようとした部活もあった。運動部は最初から考えていなかったから、文化部の中でも比較的活動に力が入っていない、ゆるいところを探した。文芸部と手芸部で悩んでいた頃、クラスでグループが次々と形成されていくことに焦っていたら、いつの間にか六月になっていた。そのまま部活に入るタイミングも逃した。そして、とある雨の日に、城野先輩に声をかけられて……いけない、予鈴のチャイムが鳴っている。

「じゃあ千佳、放課後、いつものところで!」

 城野先輩らは急いで上履きに履き替え、二年の教室へ走って行った。

 あたしも急いで自分の教室へ向かう。遅刻間際の生徒たちが数人、あたしと同じように教室へ流れ込んでいく。ホームルームにギリギリ間に合った。読書をする者、ホームルームが始まるまで談笑する者、それらの中、詩穂を見つけた。机に座って授業の準備をしている。

 まぁ、挨拶くらいはしてもいいだろう。

「詩……」

 声かけを躊躇ったのは、詩穂の周りにクラスメイト数人が集まって楽しそうに話し始めたから。詩穂の机を囲むようにして笑い声があがる。中には男子もいた。

 あたしは、ふと我に返った。そうだ、詩穂は別にあたしじゃなくてもいいんだ。あたし以外にも友達を作って、高校生活を楽しく過ごすだろう。少し考えればわかる。詩穂にとって、あたしは数あるクラスメイトの一人でしかない。人気者たちのグループに混ざることができたら、あたしと話すこともなくなるんだろうな。

 そう思うと、あたしはなんだか馬鹿らしくなって、黙って自分の席に座った。

 一限目は腹痛腰痛に耐えながらなんとか乗り切った。そして二限目は、憂鬱な体育。どれだけ拒んでも、テストはみんなに等しくやってくる。朝からテストを回避する言い訳を考えていたけど、結局なにも思いつかなかった。あたしは観念して、体操服を持って更衣室へ向かう。

「千佳!」

 あたしを呼ぶ声に振り返る。

 詩穂が宝物を見つけたみたいに目を輝かせて、あたしに向けて手を振っていた。華奢な腕で体操服を抱きしめ、主人の元へすり寄る子犬のように、あたしの横に並ぶ。詩穂はなぜか嬉しそうに、にこにこしている。

「今日は遅刻しそうだったね」

「うん、先輩たちと話してて……」

 自然と会話しているようで、どこかぎこちない。うまく言葉が紡げない。当たり障りなく笑えない。

「今日も放課後どこか行くの?」

「うん。けど、詩穂は来ないでしょ」

「どうして?」

「……他の子たちと、仲よさそうにしてたでしょ。あたしなんかより、そっちとつき合っていった方が絶対いいって」

 あたしは自分で言って、なぜか泣きそうになった。

「私は千佳とも遊びたいよ。だって友達でしょ?」

 それから詩穂は、あたしと目を一度も合わせることなく、体操着を力強く抱きしめて、さっさと更衣室まで走って行ってしまった。

「友達……」

 一体、いつからあたしは詩穂と友達になったんだろう。転校してきてまだ二日目なのに、詩穂は昔からの友達のように接してくる。これがデジャヴってやつなのか。前世であたしと詩穂は、仲のいい友達だったとか? ふと、前に読んだ本に書いてあった一文を思い出す。友とは作るものではない、成っているものだ。

「なんなの、一体……」

 体育館は熱気が籠って蒸し暑い。一定のリズムで足音が連なり、体操靴がキュッと音を立てると、体育館内のすべてが一瞬、制止する。それから間もなく、豪速でバレーボールが床をたたきつける。体育館全体を揺らすような振動に、あたしの体も共振した。

 みんなスパイク上手いな、などと悠長に構えてはいるものの、テストを前に内心ドキドキしていた。

 交代でネットの前に立ち、頭上に上げられたボールをスパイクして、相手コートに入れれば合格。身長が低く届かない人は、トランポリンの使用が許可されている。あたしは女子の中でも身長が高い方だから必要ない。けれど、ジャンプのタイミングと腕を振りおろすタイミングが合うかどうかは、身長の高低とはまったく関係ない。あたしはとにかく運動が苦手で、特に球技はまるで駄目だ。授業中、一度もスパイクに成功したことがない。

「詩穂は運動得意なの?」

 あたしの隣で、手を背中に回して組んでいる詩穂に話しかけた。

「ううん、全然ダメ。球技も走るのも、ダンスも苦手なんだ」

 あたしと同じだ。

「私はトランポリン使わないといけないけど、ぼよんぼよんして、逆に難しいんだよね。いいなぁ千佳は。身長が高くて。羨ましいよ」

「そう? うどの大木よ」

「なにそれ」

「でかいばかりで中身が伴ってないってこと」

「じゃあ千佳も苦手なんだ」

「まぁね」

 結果、あたしと詩穂は仲よく追試を受けることになった。

 放課後、どうにか三十分で追試を終わらせた(体育教師笹本の多大な恩赦による合格)あたしたちは、体操着から制服に着替えて、城野先輩らの待ついたち公園へと向かう。わざわざ走っていくほどの用事でもないと、歩いて向かう。

「転校早々追試になるなんてね。前の学校じゃバレーやってなかったんでしょ? 優しい笹本先生なら、てっきりテストはパスするんだと思った」

「実は、私は自由参加だったの」

「えっ、なんだ、それならわざわざ苦手な体育のテストなんて受けなくてもよかったのに」

「うん……でも、千佳はテスト受けるから。それなら私も一緒がいいなって思って」

「……わざわざあたしにつき合ってくれたの?」

「嫌味になっていないといいけど」

「ううん……ありがと」

 いいやつ、そう思った。あたしの友達なんてもったいないと思うくらい。

「千佳は、いつからこの街にいるの?」

 急に話が変わって、あたしはひとつ息をのむ。

「いつって、生まれた時からだけど。一度も引っ越しとかしてないし」

「本当に?」

「どういう意味?」

 あたしには、詩穂の言っている意味は理解できても、あたしから何を聞き出そうとしているのかまではわからなかった。

「やっぱりそうなんだ。何も覚えていない。ぜんぶ、あっちに置いてきたんだ……」

 詩穂がなにかぶつぶつ言っている。なんだ? 急にどうしちゃったの?

「千佳」詩穂はゆっくりとあたしを見た。

 それから詩穂は、突拍子もないことを言いだした。

「この街は構成されているんだよ」

「え? なんだって?」

「この街のすべては、シティセルで構成されている。この街の保有するシティセルと、別世界の街が保有するそれらを複合して生まれた街なの」

 急になんだ、詩穂は何を言っているんだ? 暑さでおかしくなってしまったのか? いや、あたしがおかしくなったのか? 詩穂の言っていることが、ひとつも理解できない。なんだかオカリオを聴いているような気分だ。

「なにかの映画の話?」あたしには、それが精一杯の返しだった。

「ごめんね、突然こんなこと言って……」

 詩穂は眉を八の字にして、困った顔を見せた。困りたいのはこっちだ。

「でも、本当なの……」

 消えゆくようなか細い詩穂の言葉が、喉に痞えた小骨のように、あたしの胸中に留まり続けた。

「遅いぞーっ!」

 いたち公園から城野先輩の声が響く。滑り台の前、仁王立ちで頬を膨らませている。小早川先輩はブランコを小さく揺らして手を振っていた。

「今日は体育の追試があって……」

「言い訳無用!」城野先輩は掌を突き出す。

 なにを言っても聞き入れてもらえそうにないな。炎天下、日陰のない公園で、城野先輩はあたしたちをずっと待っていたんだ。頭上で怒りゲージがカンストしているのが見える気がする。忠犬も逃げだす暑さだというのに、変なところで頑ななんだから。

「罰としてジュースおごりな!」

 まぁ、それくらいならいいだろう。

 あたしは来た道を翻して自販機へ向かう。安いジュースをふたつ買って、先輩らに手渡す。

「今日はなにをするんですか?」詩穂がわくわくしながら聞いた。

 城野先輩はジュースを一気に飲み干すと、おくびを我慢して宣言する。

「今日もツチノコを探すぞ!」

 暑くてツッコミを入れるのも億劫だ。小早川先輩に処理を任せようと思ったが、小早川先輩は両手で缶を持ち、ジュースを飲むのに一所懸命だった。仕方がない、ツッコミ待ちで静止している城野先輩を見ているのも耐え難くなってきたところだ。

「ツチノコ探しなんて初耳なんですけど……」

「そうだっけ? まぁ、細かいことは気にするな!」城野先輩は笑ってごまかした。

 ああ、頭が痛い。お腹もキリキリ痛む。生理痛か熱中症か、どちらにしても涼しいところで早く休みたい。

「もうちょっと歩くと、大きい公園があるだろ? さくら御苑だっけ。そこで目撃情報があったんだって。みんなで行ってみようぜ!」

 まったく城野先輩という人は、いつどこでそんな眉唾な情報を仕入れてくるんだろう。城野先輩にもうすこし情報の信憑性を精査する力があれば……いや、あっても関係ないか。城野先輩はあの性格も含めて城野先輩だ。なんでもやってみる、トライ精神豊富な性格があってはじめて城野先輩になりうるのかもしれない。

 城野先輩を筆頭に、ツチノコが出るらしいさくら御苑へと向かう。

「二人とも、一緒に追試受けてたの? もうすっかり仲よしだね」と小早川先輩。

「まぁ……」あたしはなんだか恥ずかしくなって、髪を耳にかけて誤魔化した。

 詩穂はにこにこと笑っている。

「二人とも、教室でどんなこと話してるの?」

「この街のことです」小早川先輩の質問に、詩穂は間髪入れずに答えた。

 この街は構成されている、という詩穂の言葉が頭の中でリフレインする。

「詩穂はこっちに転校してきたばかりだもんね。前はどこに住んでたの?」

「遠いところです」

「まさか海外?」

「もっと遠いところです」

「?」小早川先輩の頭上に疑問符が浮かぶ。

「私は、この街とは別の街の人間でした。もう戻ることはできないけれど、いいんです。千佳や先輩たちがいるこの街に来られた。私は、それだけで満足です」

「はぁ……」小早川先輩は困惑し言葉を失った。

 気持ちはよくわかりますよ、小早川先輩。

 ここは、あたしが話を変えるしかないな。

「ま、まぁ、他愛のないこと話してますよ。今日は天気がいいね、とか。ね、詩穂」

「うん、そういうことも話すよね」

 やれやれ、話を逸らすのも一苦労だ。

「へぇ……」って小早川先輩、ひいちゃってるじゃん。

「この街のことなら、私に任せな! 私の庭みたいなもんだからさ」城野先輩があたしと詩穂の首に腕を回す。

 暑苦しくて鬱陶しいと思っているところに、詩穂が口を開く。

「この街は、トリガーである千佳を中心とする半径十キロ平方メートルしか存在しません。それより外側は無です。時空を隔てる重力波が満ちていて、飲み込まれれば捻じれて消えます」

 突如饒舌になる詩穂に、あたしたち三人は言葉を失った。突然、あたしたちとは別の言語を話し始めたのかと思う。詩穂がまるで異星人にすら見えてくる。

 詩穂は続ける。

「外側を認知できないのは、それがすべて造りものだからです。例えば海外も、情報しかない幻想です。千佳の移動範囲に合わせて、シティセルは街の面積の再構成を繰り返しているんです」

 城野先輩は無意識に、詩穂から腕を外した。

 数秒の沈黙のあと、あたしたちを置いて先に進む詩穂が立ち止まり、振り返った。詩穂と目が合った。いつものくりくりの、かわいい瞳だった。

「今日は用事を思い出したので帰りますね」そう、詩穂は笑って言った。

 この時、あたしと先輩方は同じ思いであったはずだ。意味不明な単語を並べ語った詩穂に対して、これからどのように接していこうか決めかねていた。本当にあたしたちの仲間に引き入れていいのかと困惑した。しかし、あたしはそれよりももっと嫌な胸騒ぎを覚えていたことを、この時、二人にはあえて言わなかった。

「また明日」

 詩穂はあたしたちに向けて手を振り、逃げ去るように帰っていった。最後に見せた笑顔は、いやに不気味に見えた。

 内村詩穂……彼女は一体何者なのだろう。天然キャラを定着させようとしているのか、あたしたちをからかっているのか、どこまでが本気で、どこまでが冗談か分からない。あたしの追試につき合ってくれた詩穂と、一方であたしたちをからかっている詩穂も透けて見えるような気がして、どっちが本物の詩穂なのか見分けられない。本性がわからないと、詩穂という人間のぜんぶが曖昧になっていく気がした。

 あたしは詩穂を、どうやったら信用できるんだろう。詩穂はあたしのことを友達だと言ってくれた。それは間違いない。だからこそわからない。

 詩穂があたしの信じる詩穂じゃなくても、それでも、あたしは詩穂のことを友達と思えるんだろうか。



      4


 詩穂を観察して、いくつかわかったことがある。

 詩穂は、教室ではあたし以外の女子とも話していて、たまに男子からも話しかけられている。あたしは本を読んでいるふりをして聞き耳を立てたけど、なにを話しているのかは聞き取れなかった。それでも横目で見た詩穂は、なんだか楽しそうに見えた。男子とも別け隔てなく話せる高いコミュニケーション能力がある。それはもちろん、あたしにも適用されているといえる。

 詩穂は、あたしと同じで勉強はあまり得意そうではなかった。先生が板書している内容を、小首を傾げながらペンを顎に押し当て、理解しているのかどうか、必死にノートに書き写していた。時々、暑さに耐えかねてシャツのボタンを二つほど外し、手のうちわで胸元へ風を送り込んでいる。それを男子たちは見逃さず、詩穂と目線を外しながら覗き込む。はたからは、こうも滑稽に見えるものなのか。詩穂のだらしなさにも男子の気持ち悪さにもうんざりして、逆に授業に集中できた。

 詩穂は、休み時間になるとあたしに話しかけてくる。一日に三回程。遠くから詩穂に絡みたそうな視線を送るクラスメイトをよそに、詩穂はまるでそんなことを気にしていないように、わざわざ本を読んでいる(ふりをしている)あたしの机まで、他愛のない話題をもってやってくる。登校中に出会った犬の話だとか、今日は道に朝顔が咲いていたとか、部屋の掃除をしていたらアルバムを見つけて進まなかったとか、そんなどうでもいい話を飽きもせず持ってくる。「へぇ、そうなんだ」と、あたしは相槌を打つだけ。もっと気の利いたことを言えればいいなと、自分でも思う。

 詩穂は、詩穂は、詩穂は……。

 それから一週間、あたしは詩穂を観察し続けた。詩穂の不可思議な言動の裏に隠された顔がいつ現れるのかと待ち構えた。そして、最終的にたどり着いた結論はこうだ。

「詩穂は、どこにでもいる普通の女の子ですね」

 あたしの言葉に、城野先輩は口元まで運んだフライドポテトを落とした。

「そんなわけないだろ!」久しぶりに城野先輩のツッコミを見た。「あのヘンテコ電波謎発言は、どう説明するんだよ。いいか、千佳。詩穂は、少なくとも普通じゃない。絶対、大きな秘密を隠しているに違いない!」千佳調査員には失望した、とつけ加えて城野先輩は胸を前に突き出し、Lサイズのコーラを勢いよく啜った。

 あたしだって城野先輩と同じ意見だ。以前、詩穂の口から摩訶不思議なワードが飛び出してきたことについて、どれだけ考えても合理的な説明ができない。

 だけど、クラスでの詩穂は至って普通の女の子で、微塵もおかしなことを言う様子はない。むしろ、あたしたちと一緒にいる時の詩穂が別人なんだと言われれば、まだ納得できる気さえする。それほど詩穂は自然に、どこにでもいる女子高生……とも言い切れないのは、この前、いたち公園で詩穂があたしに向けた目が、確信を揺さぶっているからだ。詩穂の眼の奥に潜む魔獣のような眼光を思い出す。

「詩穂の正体、なんとか丸裸にできないかな」小早川先輩はストローを咥え、アイスティーを吸い込む。

「それだ!」城野先輩は謎が解けた探偵のように大声を上げた。

「いきなりどうしたのよ、城野」

「裸だよ裸。裸のつき合いをすれば、詩穂も私たちに本心を打ち明けてくれるかもしれない!」

「裸って、そんな昔の人みたいなこといって……」小早川先輩は頬を赤くする。

「銭湯だよ、銭湯! この前近くにオープンしただろ? そこに四人で行こうぜ」

 銭湯か……あたしは銭湯が苦手だ。他人の前で裸になることに抵抗があるし、人の目が気になって気が休まらない。正直、行きたくない。あたしの心の壁が厚いと言われれば、なるほど、逆説的に銭湯が嫌いだからなのかもしれない。

「城野先輩、あたしは……」

「よし、さっそく明日の放課後に行こう。決まりな!」

 一度決めたことを、あたしの個人的な反対を理由に曲げる城野先輩ではないことは理解している。とっさに断る言い訳が思い浮かばなかった。銭湯にアレルギーがあればいいのに。

 強引に決めた城野先輩を横目に、小早川先輩は特になにも考えていない様子で、ポテトを一本ずつちまちま食べていた。小早川先輩は銭湯が苦手というわけではなさそうだ。

「沙織は私とよくお風呂入るもんなー。修学旅行とか、いつも一緒の班だったし」

 なるほど、そういうことか。

「そうと決まれば今日は解散! また明日、いたち公園に集合な!」城野先輩はポテトの箱を掴み、残りを流し込んだ。

 城野先輩の大きな胸を見て、あたしの貧相な胸に手を当てると、やっぱりいい気はしない。そういえば詩穂の胸も城野先輩に負けず大きい。べつにだからどうというわけではないけれど、やっぱり銭湯は憂鬱だ。

 家に帰って、いつもの癖でラジオをつける。オカリオ夜の部(昼の部の再放送)が放送されている。

『世界は五分前に作られたという仮説を覆すことができない。これを世界五分前仮説と言ったりするんですけど、知ってます?』

 制服をハンガーに吊るして、ブラウスを洗濯機に投げ入れる。

『世界が五分前にって、そんなことありえないでしょ。記憶だって五分以上前のものがあるのに』

 シャワーで汗を洗い流し、ドライヤーで髪を乾かす。

『それらすべて作り込まれた状態で五分前に一斉に動き始めた、という仮説なんです』

 ラジオを聴きながらそこらへんにあった本に目を通していると、いつの間にか日付が変わっていた。

 その日の夜見た夢は、あたしの深層心理をよく象徴していた。

 いつもの教室で詩穂がクラスメイトと談笑しているのを、あたしは遠くから眺めていた。そして突然、どこからともなく悲鳴があがると、一気に騒がしくなる。詩穂の胸がどんどん大きくなっていくのだ。空気を注入された風船のように巨大化していき、やがて教室は詩穂の体重を支えきれなくなって、床が抜け落ちてしまう。当然あたしも崩れた床に吸い込まれていき、身体が跳ね上がると同時に目が覚めた。

「変な夢……」

 そのことをなんとなく詩穂に話すと、詩穂はお腹を抱えて爆笑した。

「あーおかしい、千佳ってほんとにおもしろいね」

 こうして笑っている詩穂を見ていると、やっぱりあたしたちが疑っている詩穂が偽物のような気がしてならない。疑念を抱えたまま過ごすストレスに比べると、銭湯に行くことはたいしたことじゃないと思えた。

 授業がすべて終わったら、詩穂を銭湯に誘うのはあたしの役目。詩穂に声をかけずに、城野先輩には詩穂に断られたと嘘をつけば、その場はしのげると思う。しかしそれを実行した場合、あとで城野先輩になにを言われるか想像に難くない。詩穂も銭湯が嫌いだったらいいのに。

「私、銭湯行ったことないんだぁ。行きたい! 楽しみだなぁ」

 詩穂の即答で、いくつか考えた詩穂を諦めさせる口実は水泡に帰す。

 いつもの流れでいたち公園に集合したあと、あたしたち四人は銭湯へとやってきた。

 銭湯『旅人の丘』は落ち着きのある木造風の建物。紺色ののれんをくぐると、古き良き下町銭湯をイメージした内装が広がる。濃く渋い木の床に明るすぎない証明と、癒し効果のありそうなクラシック音楽。なかなかいい雰囲気の銭湯だった。

「さっそく入ろうぜ」

 城野先輩を筆頭にあたしたちは受付を済ませて浴場へと向かう。制服のまま来てしまったけれど大丈夫かな。

「ちょっと恥ずかしいね」詩穂はタオルで身体を隠しながら、丁寧に制服を脱いでいる。

 気持ちはわかる。あたしも恥ずかしい。

「詩穂はスタイルいいんだから、堂々としていればいいのに」

「そんなことないよ。背は低いし、着やせするタイプだから、けっこうお肉あるんだ。千佳はいいな、細くて背が高くて」

 あたしが貧相と思うこの身体も、詩穂からはそう見えているのか。女性として魅力的なのは、背が小さくて胸が大きい詩穂のような人だと思うけれど、それはただの主観でしかないと思い知る。

「ないものねだりだね」

「そうだね」

 そんな話をしているうちに、城野先輩と小早川先輩はさっさと脱いで浴場に行ってしまっていた。あたしたちも急いで服を脱ぎ、浴場へと向かった。

 天然湯をひいている露天風呂に、さまざまな効能があるお風呂、ジェット噴射のあるお風呂、サウナに水風呂と、あたしが今まで入った銭湯の中で一番規模が大きい。どこから入ろうか迷ってしまうほど充実していた。

 体を洗ってから、初めに肌がすべすべになるというお風呂に入った。白濁のお湯で、とろみがあるような気がする。腕を撫でると、本当にすべすべになったみたい。ゆっくりと肩まで浸かり、肺の中の空気を天に向けて吐き出した。

「はぁー気持ちいい……」

 極楽とはこのこと。身体から力が抜けて、溶けてしまいそうになる。

 詩穂も続いて温泉に浸かって、ん~、と声を漏らした。

 城野先輩と小早川先輩は露天風呂へ直行している。すこし浸かったら、あたしも露天風呂の方へ行こうかな。

 そんな考え事をしていると、いきなり顔にお湯がかかる。驚いて、思わず顔を手で覆う。お湯を払って詩穂を見ると、両手を握り噴出口をあたしに向けていた。してやったり顔が小憎らしい。

 あたしも仕返ししようとして、両手に水を含んで握るけれど、上手く飛ばない。それがわかると詩穂は逃げる素振りを見せずに、あたしの隣で悠々と首いっぱい湯に浸かる。

「私の家、お風呂が小さくて窮屈なの。こうやって体を伸ばして浸かれるのって気持ちいいね」

 詩穂はあたしの隣で身体を大の字に広げている。さっきまでの羞恥心はどこへいったのか。詩穂の頭の上にはタオルが置かれていて、かわいい。子供のような童顔とは対照的に、海原に浮かぶ二つの島みたいな胸が気になった。

「本当に浮かぶんだ……」

「え? なにか言った?」

「いや、なんでもない」あたしはすぐに誤魔化す。

「胸、見てたんでしょ」詩穂はいたずらっ子みたいに笑う。

 ばれてた。あたしもクラスの男子と変わらないじゃないか。

「ごめん。大きいなって思って見てた」

「千佳は小さいもんね」

 はっ倒すぞ。

「べつに千佳にだったら見られてもいいけどね」

「ふーん……」

 それは一体どういう意味?

 詩穂はざぶんと湯をひっぱって立ち上がり、上からあたしを見下ろす。髪先から湯を滴らせて、じっとあたしを見つめている。あたしより背の低い詩穂に見下ろされることはないから、なんだか不思議な気分だった。

「ねぇ、露天風呂行こうよ」

 詩穂が手を伸ばしてきて、あたしはその手を掴んだ。

 露天風呂への扉を開けると、城野先輩たちとすれ違いになった。タオルを肩にかけ、隠すという概念がない城野先輩と、タオルを広げて前面をすべてカバーする小早川先輩。城野先輩もすこしは小早川先輩の恥じらいを見習えばモテそうなのに。もったいないな。

「露天風呂、最高だったぞ。千佳たちも早く行ってこいよ」

 城野先輩の背後には湯気が立ち込めて、まるで秘密の場所を隠しているようだった。

「行こ」

 詩穂はあたしの手を引いて、露天の方へと歩いていく。足裏を殴るように隆起する岩の床を歩く。肌を撫でるひんやりとした冷たい空気は、残暑が過ぎ去って嫌な暑さが抜けている。山が街からこの場所を隠していて、尾根は空間をなめらかに裂いている。雲がまばらに浮かび、静止した時の中でゆったりと動く。

 湯は熱すぎずぬるすぎず、身体を優しく包み込んだ。詩穂の隣に座って、同じ景色を見やる。もう少ししたら、一面を紅に染める山が展望できるだろう。

「きれいだね」

「うん」

 あたしは知らなかった。この街に、こんなきれいな景色があったこと。詩穂と出会っていなかったら、知り得なかったかもしれない。

 時間がゆっくりと流れていく。あたしたちは言葉を発さない。この感動を言葉にした途端に、手にしているものが瓦解してしまうような気がしたから。詩穂もそれをわかっているんだろう。今はただ、悠久を感じていたい。

 なにか大事なことを忘れている気がするけど、思い出せないならたいしたことではないのだろう。今はただ、この温泉の極楽に身を委ねるとしよう。

 しばらく浸かっていると、他の客が入ってきた。そして詩穂は、それを皮切りに話し始める。

「ねぇ、千佳。この前言ったこと、覚えてる?」

「この前? なにか言ったっけ?」

「この街が構成されているって話」

 詩穂の一言で、一気に現実に引き戻された。

「うん」あたしは小さく返す。

 そうだ。今日はそのことについて、詩穂を問い詰めようと来たんだった。だとすれば、城野先輩の目論見は成功だったといえる。言い出し人である城野先輩がいないけれど、まぁいいだろう。あたしが聞いて、あとで先輩たちに話せばいい。

「千佳には前もって伝えておかないといけないことがあるの。話しておかないとフェアじゃないから。話が飛び飛びになるけど、最低限、必要なことだけでも話すね」

「うん」

「この街は、例えるならジオラマみたいなものなの。精巧に作られたがらんどうの街。有機的なものはひとつもなくて、それでも確かに存在しているのは、私たちの魂だけ。私たちの魂は、この街の器に入り込んで夢を見ているだけ……」詩穂はお湯を掬って、すぐに指の隙間から零した。「私も千佳も、夢を見ているの。こうしてなにかに触れる知覚も、ぜんぶ脳の錯覚。この街も人もすべて、八月三十一日からの歴史しか持たない。それより前の記憶や歴史は、ぜんぶ作り物のまがい物」

 似たような話をオカリオで聞いた気がする。そうだ、たしか、世界五分前仮説って……。

「この街は、私が作ったんだよ」

 温泉に浸かっているのに、悪寒が背中を駆け抜けた。

「この街を詩穂が作った? そんなわけ……」

「一度にたくさん話しても、理解してもらえないと思う。わかってる。私も、理解してもらえるなんて思ってない」詩穂は続ける。「でも、これだけは信じてほしい。私は千佳とはただの友達でいたいと思ってるの。ただの……」詩穂は、それが叶わぬ夢であるみたいに話した。

 詩穂の言うことって、そんなに難しいことなのかな。もしかしたらそれはもう、叶えられているんじゃない?

 あたしは馬鹿だから、詩穂の言っていることは一ミリも理解できない。もっと賢かったら、詩穂の言葉から汲み取れるものはたくさんあるのかもしれない。だけど、それでもあたしはたったひとつだけ、伝わったと確信できることがある。

 詩穂は苦しんでいる。心の痛みを暗喩して、あたしに訴えかけているということ。

あたしには親しい友人がいないから、友達が困っているときや悩んでいる時、苦しんでいる時、どういう手段で助けを求めてくるのか、よくわからない。そんな時、あたしに何ができるのか、何をしてあげられるのか、正しく選択できる自信がない。

だけど、この街を私が作ったなんて、べらぼうにおかしなことをいう詩穂が普通じゃないことくらい、あたしにだってわかる。

 詩穂はあたしのことを友達だと言った。そんな詩穂が困っているのなら、あたしが取るべき選択は、ただひとつ。

「なにか困ったことや辛いことがあったら、あたしが詩穂の力になるから」あたしは詩穂の手を握り、目を見て話す。

詩穂は顔を赤らめて、弱い力で握り返してきた。すこし笑っていたようにも見えた顔が、徐々にぼやけていった。ぐわん、と景色がひっくり返ると、それからあたしの記憶はない。

 気がつくと、脱衣所のベンチにタオル一枚かけられて横たわっていた。目が覚めて、最初に見たのは城野先輩の顔だった。

「おい、千佳、大丈夫か?」

 覗き込む城野先輩のくせ毛が顔をくすぐる。隣で小早川先輩がうちわで風を送ってくれている。

「のぼせちゃって大変だったんだから。温泉の中に沈んでいって、詩穂もパニックになっちゃって。結局おばちゃんたちが協力してここまで運んでくれたんだけどね」

「そう……だったんですか」

「まったく、気をつけろよな」

 城野先輩は自販機で買ったコーヒー牛乳の瓶をあたしの枕元に置いた。

「ありがとうございます」

「サウナがめちゃくちゃ良くてさ、千佳たちも誘おうと思ったんだけど……千佳はやめておいたほうがいいな」

「城野ってば、暑さに弱いくせに、自分の限界知らないから、千佳と同じで茹で上がるまで入り続けるの。付き合う私の身にもなってほしいわ」

 小早川先輩も苦労しているんだな。お似合いのコンビだと思うけど。

「限界は超えるくらいがちょうどいいんだ。な、千佳」

「遠慮しておきます……」

 あたしは自分が思うより熱に弱いようだ。長湯は今後も控えよう。

「千佳!」

 更衣室の奥から詩穂が駆け寄ってきた。両手にフルーツ牛乳の瓶を持って。

「具合はどう? 気持ち悪くない?」

「うん、大丈夫。ありがとう詩穂。詩穂がいなかったら、あたし死んでたかも」

「なに縁起でもないこと言ってるの!」

 詩穂があたしの手を握り、額に張り付く前髪を掻き分けた。

「死んじゃだめだよ、千佳」

 その言葉はなんだか意味深に聞こえた。

 コーヒー牛乳とフルーツ牛乳を飲み干して、制服に着替える。すこし頭がぼんやりとしているけれど、思考や運動に関しては何の問題もない。あらためて、詩穂が傍にいてくれてよかったなと思う。発見が遅れていたら何かしらの後遺症が残ったり、最悪、本当に死んでいたかもしれない。今度なにかお礼をしなくちゃ。

 銭湯のドアを抜けると、いつもとはすこし違うにおいの風が吹く。涼しくて気持ちよかった。もう秋だ。

「結局、今日はなんの成果もなかったな」城野先輩は残念そうに小石を蹴った。

「成果ってなんですか?」

 なんのことを話しているのか、詩穂だけがわかっていない。

「なんでもないよ」

「ツチノコですか?」

「まぁ、そうだな」

 温泉に夢中で本来の目的を忘れていたのは、あたしだけじゃなかったようだ。物理的に丸裸にすることに成功しても、詩穂の本意は分からずじまいだった。

 詩穂がなにかに困っていることはわかったけれど、それもあたしの思い込みかもしれない。真実は言葉になっていない。詩穂を理解したつもりになって、現実から逃げているだけなのかも。きっと、もっと詩穂に本気でぶつかっていかないとわからないのかな。たとえそれでどちらか、あるいはどちらも傷つくとしても。

「またみんなで行きたいね」小早川先輩はにこにこしながら、売店で買った小さいソフトクリームを舐めていた。

「ぜひ!」詩穂は明るく努めている。

「よーし、今からシャーロッテに行こうぜ! まだ時間あるし。いろいろ見て回ろう!」

「シャーロッテ?」

 詩穂は引っ越してきたばかりだからわからない。『シャーロッテ』は駅に併設されたビルの中にある、雑貨、服屋、食料品まで幅広いジャンルの店が並ぶ複合商業施設だということを教えてあげた。

「ちょっと城野、千佳は病み上がりなんだから、今日はもう帰りましょうよ」

「そっか、それもそうだな」

 小早川先輩の制止をすんなり受け入れる城野先輩も珍しい。

「あたしは大丈夫ですよ」

 しかしあたしも珍しく、さらにそれをひっくり返す。

 大丈夫というのは嘘じゃない。実際、身体はもうなんともない。一度のぼせて、逆に頭がすっきりしたのか、温泉に入る前より元気になったくらいだ。

「千佳は帰って、安静にしたほうがいいわよ」

 小早川先輩の気遣いを無下にしたくないけれど、あたし自身、みんな楽しみにしていた今日を台なしにしてしまったという気持ちが拭えないでいたから、もっと遊んでから解散したかった。

「本当に平気ですから。さあ、行きましょう!」あたしは三人を置いて速足で歩き始めた。

「おい! ちょっと待てよ、千佳!」と城野先輩。

「わかったから、そんなに早く歩かないの! 転んじゃうでしょ」と小早川先輩。

「千佳が元気ならいいけど……」と詩穂。

 あたしのあとに三人がついてくる形で、陽が落ちるまでシャーロッテを歩き回った。久しぶりに訪れた雑貨屋は見慣れない商品が並んでいて、学校でも使えそうな小物類がたくさんあった。詩穂も交えての買い物は、いつもより楽しかった。秋物の洋服を物色して、家電コーナーでは買いもしない家電を片端から触った。

 そしてあたしは大満足で帰路へとついた。

 結果だけいえば、やはり銭湯から直帰していればよかった。

 翌日、あたしは三十九度の熱を出して学校を休むことになった。



      5


「ごほっ」

 朝から枯れた咳が続いていた。喉がイガイガして、唾を飲むたび激痛が走る。断続的な苦痛は精神的にきつい。

 寝たり(ただ気絶していただけかもしれないけれど)起きたりを繰り返して、現在時刻が曖昧になる。時計を見ると、時針は一時を指している。三十九度と表示された体温計を見て眩暈を起こし、気を失ったことを思い出した。

 着替えて病院へ行こうとしたけれど、ドアを開けた瞬間に熱波が押し寄せ、無理に外に出て途中で倒れては元も子もないと、諦めてそっとドアを閉じた。

 そういえば、朝からヨーグルトしか食べていないな。ママが作ってくれたご飯も、まったく喉を通らない。時々水分を水筒から補給して、喉の痛みを和らげる。ママはどうしても外せない仕事があるらしく、今、家にはあたしひとりだけ。小学生の頃は仕事を休んでくれたママも、高校生にもなれば一人でなんとかなるでしょうと、食事や薬など、最低限の用意だけして行ってしまった。

 ここ最近は詩穂たちと騒がしい日々を過ごしていたから、ひとりぼっちの家が、より静かに感じる。心細いという感覚を得たのは久しぶりだった。秒針が進む音を聞きながら、あたしは再び眠りについた。

 目を覚ますと、あたしは見慣れない喫茶店でコーヒーを前に、向かいの席に座る人を見ていた。アイスコーヒーは汗をかいて、敷かれたコースターの色を変えている。水滴がひとつ落ちるのを見つめていると、それが滴るより先に目の前の人がグラスを持ち上げ、飲み干した。

「千佳は、私のことを信じてくれる?」

 声にノイズがかかってうまく聞き取れないけれど、もしかして詩穂? 逆光で顔がよく見えない。しかし髪型とシルエット、挙動や雰囲気が、詩穂を彷彿とさせた。

「私の言うことを疑わないでいてくれる? 根拠も理由も、意味も示せないかもしれないけれど、それでも私の言うことを最後まで信じてくれる?」

「わからないよ、詩穂。詩穂がなにを言いたいのか、私には……」

「この街は構成されていて……」

「それはもう聞いたよ」あたしは声を少し強くした。

「じゃあ、なに?」

「あたしが聞きたいのは、詩穂のことだよ。なにか悩みがあるなら話してほしいの。あたしが力になれることがあればなんでもするよ。だからもうそんなおかしなこと、言わなくてもいいんだよ」

 詩穂はグラスの水滴を優しくなぞって、濡れた指先を机で拭いた。

「千佳は、なにもわかってない。私が言っていること、伝えたいことを、なにも信じてくれないんだね」

 詩穂は立ち上がって、喫茶店を出ていってしまった。詩穂を追いかけて店を出ようとすると、店員に腕を掴まれ引き留められた。まだお金を払っていなかった。あたしはポケットに手を入れて財布を探したが、見当たらない。早鐘を打つ心臓を抑えながら、どうやって乗り切ろうかと考えを巡らせる。こうしている間にも、詩穂はどこかへ行ってしまって、うしろ姿が遠くなっていく。

「詩穂!」

 叫んでも聞こえていないのか、詩穂は振り向かない。

「詩穂! 戻ってきて! お金がないの!」

 もうだめだと諦めかけた時、詩穂はこちらを振り返る。

「千佳?」

 いつの間にか、詩穂はあたしの頬に手を添えて、あたしを見おろしていた。あたしの視界から照明を隠し、幼顔に影を落として。

「私はここにいるよ、千佳」詩穂はあたしの頬を撫でる。

「夢……?」

 制服を着た詩穂があたしの部屋にいる。なんで?

「だいぶうなされていたけど大丈夫か? 千佳が休んだって詩穂から聞いて心配したぜ。昨日、あんなことがあったあとだしな。だから今日はみんなでお見舞いに来たんだ」

 城野先輩は胡坐座りで、勝手に本棚から漫画を取って読んでいる。読み終えると、次の巻を手に取り読み始めた。果たして、お見舞いに来たのか怪しいところだ。

「鍵、開いていたから勝手にお邪魔しちゃったわ。まったく不用心なんだから、気をつけなきゃだめよ?」小早川先輩はあたしの額に冷えたタオルを置く。「いろいろ買ってきたわよ。ゼリーとかスポーツ飲料とか。アイスもいくつか買ったから、好きなの食べて」小早川先輩はビニール袋からひとつずつ取り出して、枕元に並べる。

「ありがとうございます……」

 鍵が開いていたのは、病院に行こうとして、そのまま鍵を閉め忘れたからだ。でもそのおかげで、みんながお見舞いに来てくれた。

「私の名前を呼びながらうなされていたけど、どんな夢を見ていたの?」

「あ、いや……」

 説明しようとして、どんな夢だったか、もう思いだせなくなっていた。目覚めてからの情報の多さに、記憶が上書きされてしまった。

「もう思いだせなくなっちゃった」

「エッチな夢?」

「なんでそうなるのよ……」詩穂の慣れない冗談に、うまく返せない。

 あたしは体を起こして一息つくと、それから深呼吸する。たくさん汗をかいて、しんどかった身体がずいぶん楽になった。朝よりずっと体が軽い。

 そしてあたしは、詩穂の手を握り続けていることに気がついた。ゆっくり手を開いていくと、しびれた感覚があった。力を込めて握っていたらしい。

「ごめん詩穂、痛かった?」

「ううん、大丈夫。それより千佳、すごい汗だよ。シャワー浴びたら?」

 詩穂はあたしの首元に手を伸ばして、襟を軽く捲った。じっとりと汗を吸い込んだパジャマを触られたのと、下着をつけていないという恥ずかしさで、詩穂の手を払うようにパジャマを奪い返した。詩穂には銭湯で裸をさらしているのに、なぜか自分の部屋だと恥ずかしい。

「千佳、この漫画の続きは? いいところで終わったんだけど」

 城野先輩は今すぐお帰り願います。

「千佳、新しいパジャマはこれでいい?」

 小早川先輩がクローゼットからパジャマと下着をまとめて用意してくれた。あたしはパジャマを受け取り、布団を捲る。立ち上がるとすこし眩んだけれど、さほど問題ない。このままゆっくり休めば、明日には学校に行けそうだ。

「よし、千佳の入浴現場をカメラに収めたら帰るとするか!」

「城野先輩だけは今すぐ帰ってください」

「……冗談だって」

 うしろに回した手にインスタントカメラを隠し持っていることはわかっている。だから冗談に聞こえないんだ。

「それだけ元気にツッコミできるなら大丈夫そうだな。明日、学校で待ってるぞ」

 城野先輩は読み途中の漫画本を鞄にしまい(有無を言わさず借りていくようだ)、代わりに栄養ドリンクを枕元へ置いた。小早川先輩がいれば城野先輩はあれこれと世話を焼く必要がないと思ったのか、城野先輩なりに元気づけようとしてくれていたのかもしれない。冗談半分でふざけているように見えて、実はちゃんと考えているようで、もしかしたら本当のところはなにも考えていないのかもしれないところが、城野先輩の良さだと思う。あれ、どこか逆か?

「あの、ありがとうございます……」

 あたしは三人に頭を下げた。

「じゃあ私たちは帰るから、また学校でね」

 詩穂は鞄を肩にかけ立ち上がり、先輩二人を押してあっという間に家を出ていった。

 嵐が通り過ぎた朝のように、家は再び静寂を取り戻した。しかし、さっきまでの静けさとは別に、寂しさはかけらも感じなかった。

 シャワーを浴びて服を着替えると、自分が風邪をひいていたのが嘘みたいに思える。熱を測ると、微熱くらいまで下がっていた。

 なにか、詩穂たちにお礼をしないといけないな。銭湯でのお礼も兼ねて。お菓子の詰め合わせでも振舞いたいところだけれど、あいにく、お小遣いはほとんど残っていない。最終手段として、あたしは家の中の戸棚を端から開けていった。お菓子の詰め合わせに相当するなにかが入っていると思ったからだ。ママは時々、お客さんからもらったとお菓子の入った小箱を会社から持って帰ることがある。親子二人では食べきれずに戸棚に仕舞うことも多いから、唯一あてがあるとすればここだった。そして、二段になった戸棚の上に、ラッピングしたままの箱を見つけた。小さい椅子を台として、つま先立ちで手を伸ばす。

「あとちょっと……」

 指先がわずかに箱の端にひっかかると、足の指が限界を迎え、あたしはバランスを崩しておしりから床にたたきつけられる。

「いったぁ……」

 学校の床は、家の床と違って固かった。昨晩と同じところを打ちつけ、おしりがじんじんと痛む。

「大丈夫、千佳?」詩穂が手を差し伸べてくれる。

 あたしは詩穂の手を取って、立ち上がった。

「病み上がりで元気なのはわかったから、もうちょっと落ち着けって」

 あたしたちの中で最も落ち着きのない城野先輩に言われると、なんか癪だ。

「ここ人通りが少ないから、夏休みに塗ったワックスがまだきいていて滑ったんですよ」

「気をつけてね」

 小早川先輩はあたしのスカートについた埃を払ってくれた。小早川先輩の優しさに甘えて生きていたい。

「で、重大発表ってなんですか?」

 わざわざ昼休みに召集をかけるほど緊急性の高い内容なのか。あるいは早く言いたくて耐えられないほどの情報か。

「まぁそう焦るなよ、千佳」

 お昼を後回しにしてまで旧校舎の渡り廊下角まで集まったんだ。早く発表してほしい。

「じゃーん。これはなんでしょうか!」

 城野先輩は新しいおもちゃを見せびらかす子供みたいに、二枚の紙をちらつかせた。ひらひらとはためかせて、あたしたちからのリアクションより早く、それをひっくり返した。

「なんと、プラネタリウムの無料招待券を手に入れたんだ! 二組無料が二枚! 今週末、みんなで行こうぜ!」

「いいですね。賛成です!」

 詩穂は渡された一枚を両手で大事に持って眺める。

「手に入れたのは城野じゃなくて、私なんだけどね」と小早川先輩。

「え、そうなんですか?」

「ええ、親戚がいらないからって貰ったの。私の家、貰い物が多いから」

 小早川先輩が良い家柄のお嬢様だということは、なんとなくは知っていたけれど、これっていわゆる株主優待ってやつなんじゃないの?

「ま、まぁいいじゃないか細かいことは。とにかく、週末はみんな空けておけよ」城野先輩が話を切り上げた。

 そのままあたしたちはその場でお弁当を広げる。食べ終わりの頃に、あたしは棚から拝借したお菓子をみんなに振舞った。蓋を開けると、中身は外国のクッキーだった。みんなおいしいと言ってくれて、すぐに空になった。喜んでもらえたらなにより。まだあれだけ棚にお菓子が眠っているんだ。ママにもばれないだろう。

 しかし食後にクッキーというのは……

「重っ……」

 病み上がりにも関わらず日直当番となったあたしは、クラスのみんなから集めたノートを職員室に運んでいた。その道中、こちらへ向かって歩いてくる一人の生徒と目が合った。

 彼女の名前は確か……そうだ、相川莉香さん。学級委員長で、太い黒ぶち眼鏡がよく似合う黒髪の子。長い髪の毛をうしろでひとつに結んでいる。あたしと違って、スカートも膝上の長さで着こなしていた。まじめを絵に描いたような人で、クラスメイトに関心の薄いあたしでも彼女の名前は覚えていた。

 相川さんはあたしと目が合うと、わずかに口角を上げてほほ笑む。

「峰沢さん、日直? ノート運びご苦労様」

「ど、どうも……」

「手伝ってあげたいけれど、生徒会で仕事があって急いでいるの。ごめんなさいね」

「あ、いや、あたしの仕事だから……」

「小野塚先生は職員室にいるわ。頑張ってね」

「うん、ありがとう」

 相川さんと初めて話したけど、あたしが思っていたよりずっと話しやすい人だ。スカートの長さを注意するような堅物な学級委員長かと思ったけど、何も言わず見逃してくれたし、きっと柔軟な考えの人なんだろう。

 相川さんはあたしをよけて生徒会室の方へと歩いていった。

 ふと、あたしは相川さんに詩穂のことを聞いてみようと思った。学級委員長の相川さんなら、詩穂の言動について何か知っているかもしれない。転校してきてから意味不明な言動を繰り返す詩穂のこと、その意味や意図について、あたしよりはるかに頭のいい相川さんなら答えを持ち合わせているかもしれないと思った。あたしはほとんど反射的に振り向いて「相川さ——」相川さんの姿を捉えようとしたけれど、すでに相川さんはいなくなっていた。

「あれ……?」

 この長い廊下を、ほんの一瞬目を離しただけで、相川さんは歩き去っていったのだろうか。

「そんなに急いでいたのかな」

 あまり深く考えず、再び職員室に向かう。

 また相川さんと話す機会があれば、それとなく聞いてみよう。

 詩穂は摩訶不思議な言動こそあれ、それがあたしたちの関係に大きく弊害をきたしていることはなく、詩穂の正体こそわからないものの、衝突もない。詩穂が転校してきて一か月弱、良い感じに友好関係を築いている。と、思う。詩穂の正体の究明を急ぐことはない。

 それより今は、職員室にたどり着くまでに、あたしの腕がもつかどうかが心配だ。



     6


 週末は折よく、雲ひとつない晴天だった。朝一番に家を出ると、登校する時とは別の空気感が街にはあった。大気は冷たく、しんと静かで、鳥の声がいつもより大きく聞こえる。夏休みは毎日のように夜更かしをして、暑苦しい正午に起きていたからつい忘れそうになるけれど、街は毎日静かに朝を迎えている。

 昨夜はなかなか寝つけなかった。高校生にもなってプラネタリウムが楽しみで眠れないなんて、特に城野先輩には口が裂けても言えない。そんなあたしとは打って変わって、詩穂は「今日が楽しみで、昨日はなかなか眠れなかったです」と素直に白状するから、あたしは苦笑いしてその場を流した。

 電車で街を北上して、プラネタリウム会場を目指す。車内は適度に冷房が効いて気持ちいい。わずかにかび臭いにおいがするけれど、田舎特有のぼろ列車だから仕方ない。むしろ、たまに吸うこのにおいが旅の楽しさを倍増させているともいえる。あたしは嫌いじゃない。唯一のマイナスポイントを挙げるとすれば、車内が不快なくらい混雑していること。隣で揺れてよろける詩穂の足取りを見守り、無事着地したところを見届けてため息をつく。気が休まらない。

「もう、気をつけなよ」

「満員電車に慣れてなくて、背が低いから吊り革も掴めないし……」

「あたしに掴まって」詩穂に左腕を差し出す。

「うん」詩穂はあたしの腕を抱き、身体を密着させた。

 いや、そんなにくっつかれると暑いんだけど。でも、まぁいいか。

 二の腕に冷たい感触がして、詩穂の髪にヘアピンが留められていることに気がついた。黒い三角の形状のそれは、耳にかけた髪が崩れないように留めてある。

 あたしの視線に気づいた詩穂は、にこりと口角を上げてほほ笑んだ。

「転校する前の街で買ったの。私、癖毛だから、ヘアピンしても変になっちゃうの。だから学校にはつけていかないんだ。お気に入りなんだけどね、これ」

 今日の詩穂は肩が露出した白のフリルのついたトップスに、夏らしい透明感のある水色のスカート。それも前の街で買ったものだろうか。こんな田舎町では買える服も限られるから。

「服もヘアピンも、似合ってるよ」

 なんだかあたしらしくないことを言ったかもしれない。友達の接し方は、距離感はこれで最適なんだろうか。

「ありがと」

 詩穂の頬が赤みを帯びているような気がする。やっぱり詩穂も暑いんじゃないか。

「また負けたーっ」

「城野うるさい。電車では静かにしなさい」

 席に座っている城野先輩がポケットゲームで騒いでいるのを、隣で小早川先輩が注意している光景を見ると、本当に二人が同級生であることが疑わしい。見た目はともかく、姉妹みたいだ。もちろんどちらが姉か妹か、言うまでもない。

 城野先輩はフードのついた白いパーカーに短パンという軽装。車内の男性の視線に気づいたのはあたしと小早川先輩で、それが城野先輩に向けられていることもわかった。城野先輩のゆったりしたパーカーの上からでもわかる胸のシルエットと短パンから覗く太腿を、彼らはちらちら見ている。男の人って視線に気づいていないと思っているのだろうか。そして彼らは、あたしたちの視線に気づかないのだろうか。

「あー、また負けちゃった」

 本人が気づいていないから、きっと個人差があるんだろう。

「電車でゲームしていると酔うわよ。きりのいいところでやめなさいよ」

 小早川先輩は薄桃色のワンピースで、藁で編み込まれたサンダルを履いている。綺麗な黒髪と相まって、清楚な雰囲気を纏っている。

 あたしの服装はとにかく涼しくて動きやすいシャツとパンツの組み合わせ。みんなと比べて特筆するようなことはない。

「電車飽きたー。あと何駅で着くんだ?」

 足をプラプラさせて子供みたいに駄々をこねる城野先輩の手の甲に、さりげなく手を乗せた小早川先輩は、直筆の時刻表を確認した。

「あと二駅で着くわ。そこからバスで三駅。もうすこしよ」

「早く着かないかなー……」城野先輩はそわそわしつつ顔を綻ばせる。

 今日が楽しみだったのはあたしも同じだ。

 目的の駅に到着すると、城野先輩は一番に電車を飛び出した。しかし、すぐに駅内の熱気に包まれて肩を落とす。あたしたちは自販機で飲み物を買ってから改札を出た。日曜日だからか、駅構内は人で溢れていた。バス乗り場まで離れないよう、あたしは詩穂と手を繋ぎ、小早川先輩は城野先輩に手を引いてもらって行った。人の海を抜けて、やっとの思いでバス停についた頃には、全身汗だく。外は三十度を超えている。

「一気に暑くなっちゃったね」

 小早川先輩はハンカチで汗を拭い、それから城野先輩の額の汗も拭いてあげている。あたしと詩穂もハンカチで仰いで身体を冷やそうとしたけれど、送られてくるのは熱波だけで、ちっとも涼しくならなかった。

 それが一転、冷房が行き届いたバスの中はオアシスだった。身体を撫でる冷風がたまらなく心地いい。

「生き返るねー」詩穂は顔を真っ赤にして、汗を拭き続ける。

「詩穂、水分摂ってる? ちゃんと水を飲まないと熱中症になっちゃうよ」

「うん、大丈夫。こまめに飲んでるから。ありがとう千佳」

「それならいいけど」

 やがてバスは会場の前に停まる。あたしたちはバスから降りるとすぐに、建物の大きさに圧倒された。プラネタリウム専用に設計された『シリウス』は、ドーム状に造られた建物で、蜘蛛の巣を張り巡らせたような網模様が特徴的だ。

 自動ドアをくぐると、まるでドームに包まれているかのように広がる空間があたしたちを迎えた。天井は高く、程よく太陽を反射し、やわらかい光だけが室内に届いている。もちろん空調は完備されていて涼しい。宇宙や星に関する展示物が見受けられる。あたしの興味は、そこに強く惹かれる。

「大きなところだなー。ここでプラネタリウムが観られるのか。な、千佳。すごいな!」興奮した城野先輩はあたしの肩をばんばんと叩く。

「ちょ、城野先輩、痛いです」

「開演まですこし時間があるから、とりあえず受付だけ済ませて、それからこのあたりを散策しましょう」

「沙織の言う通りだな。よし、まずは受付だ。うちらのチケットは沙織が持ってるから、千佳と詩穂は渡したチケットで受付してくれ」

 そういうことなら、受付は詩穂に任せるとしよう。あたしたちが入場する分のチケットは、詩穂に持たせてある。

「はい。ちゃんと用意……して……あれっ?」

 詩穂が鞄の中を漁ってチケットを探すが、なかなか出てこない。あれー、あれー? と疑問符を頭上に浮かべながら、やがてその場でしゃがみこんで探し始める。

「お、おい、詩穂。冗談だよな?」城野先輩も一緒にしゃがんで、鞄を漁る。

「え、えっと、おかしいなぁ……」

「詩穂? よく探して? どっかにあるはずよ」小早川先輩は固唾を飲んで見守る。

「たしかここに……あれ?」

「詩穂……?」

 怪しい雰囲気になってきたけど、大丈夫?

「待って! ある! あるから!」

 あたしたちは詩穂がチケットを探し出すのをじっと待つ。お願い、詩穂、どうにかチケットを探し出して。もしチケットを失くしたとなれば、城野先輩に何を言われるかわからない。城野先輩、楽しみにしていたからなぁ。

「あ、あった! ありました!」

 詩穂がバッグからチケットを発見して、あたしたちは大きくため息を吐いた。一時はどうなるかと思ったけれど、これで四人全員プラネタリウムを鑑賞できる。受付ギリギリまで探していたから散策する時間はなくなってしまったけれど、散策だけして帰ることにならなくて本当によかった。

「詩穂……心臓に悪いからやめてくれ……」

 元気が服を着て歩いている城野先輩の疲れ切った顔を、まさか一日の前半で見ることになるとは思わなかった。

 小早川先輩がチケットをまとめて受付に渡す。スタッフが確認を終えると、あたしたちは本館へと通された。プラネタリウム会場の手前の扉までたどり着くと、もうひとり別のスタッフが待ち構えていた。

「本日はプラネタリウム・シリウスにお越しいただき誠にありがとうございます。最後までごゆっくりとお楽しみください」

 扉が開かれると、巨大なドーム状の空間が眼前に広がる。天井には透き通ったスクリーンが無数に貼られていた。暗いのに明るいという矛盾が同居する不思議な場所だった。中央に巨大な投影機が据えられていて、三百人を収容するホールには、すでに客が点々と座っていた。

「おおー! ここでプラネタリウムが観られるのかぁ」城野先輩は興奮しっぱなしだ。

 軽々と階段を降りていく城野先輩を、小早川先輩が追いかける。城野先輩は席に着くと勢いよく腰を落として、畳まれたままの小早川先輩の分の椅子を広げた。

「私ここ! 沙織は私の隣な」

「はいはい」

 小早川先輩が小さい子供につき合ってあげるお母さんのように見えてくる。

「私たちはここだよ」

 詩穂に誘導されて、小早川先輩の隣の席に並んで座る。椅子がすこし傾いていて、首の負担を減らして鑑賞できるようになっている。程よく冷房が効いていて、このまま暗くなったら眠ってしまいそうだ。

 やがて辺りのライトは徐々に消え、暗闇に迎え入れられる。不思議な浮遊感もある。そして上空に点々と光が灯っていく。星の光だ。もちろん投影機から映し出される光ではあるけれど、風や草木の揺れる音がバックグラウンドから聞こえると、本物の空を見ていると錯覚する。それから優しい女性の語りでプラネタリウムは始まる。天に星々が伸びて、煌びやかな絨毯となって彩られる。

『七夕で有名な彦星は、わし座の一等星、アルタイル』

 アルタイルが強く光る。

『天の川をまたぎ……』

 アルタイルの向かいの星が強く光る。

『織姫と呼ばれる、こと座の一等星、ベガ』

 星たちはゆっくりと動く。けれどそれはとてつもない時間の経過で、光速をもって過ぎていく星に、この惑星の歴史を感じる。煌く星のひとつひとつが、悠久の時間を抱き、あたしの体に流れ込んでくるみたい。それを感じた時、鳥肌が立った。風が吹きすさぶ音に、草木が擦れ合う音に、鳥の羽が空を叩く音に、鈴虫の夜を鎮める歌に。今あたしがいるこの世界を構成しているものすべてと繋がった気がした。今こうして生きている奇跡に、柄にもなくあたしは涙を流していた。

 あたしの手が温かいものに包まれた。隣に座る詩穂が手を握っている。いきなりのことで驚いたけれど、心地よかった。詩穂はあたしの涙を見たわけじゃないと思うけれど、詩穂の体温と握力が、あたしの心に寄り添ってくれているような気がした。

 帰りがけの夕日がいつもより綺麗に見えたのは、プラネタリウムの感動がまだあたしの中に残っていたからかもしれない。バスを待っている逢魔時の、夕日の眩しさが嫌じゃなかった。

「すげーよかったな! またみんなで行こうぜ」

「うん、私感動しちゃった」

「私も感動しました。ね、千佳」

「うん」

 あたしたちはバスに乗って、それから電車を乗り継ぎ、他愛もない話を続けた。学校の話、勉強の話、芸能人の話、美容の話、お菓子の話、ゲームの話、将来の話。あたしも詩穂も城野先輩も小早川先輩も、みんな時間を忘れて話していたから電車のドアが閉まるアナウンスで降りる駅だということに気がついて慌てて飛びだした。飛び出たホームに吹き込んできた風は生ぬるかったけど、すこしだけ秋のにおいを乗せていて、あたしたち四人をやさしく撫でた。先輩らはあたしたちと帰る方向が逆だから、駅で解散になる。

「あーあ、もう休みが終わっちゃった」

 城野先輩が解散を惜しむように話を引き延ばす。

「また明日会えるじゃない」

「そうだけどさぁ」

「ほら、帰るわよ」小早川先輩は、帰ろうとしない城野先輩の背中を押す。「じゃあね二人とも。また明日」

「はい、また明日」

 手を振る小早川先輩に向けて、詩穂はいつか見た時のように、小さく顔もとで手を振っていた。

「私たちも帰ろうか」

「うん」

 あたしたちはぽつぽつと続く街灯に沿って歩道を歩いていく。人通りが少ないから、横にならんで歩いた。時々車が過ぎ去っていくのを目で追いかけた。

「この街はなんにもないね」

 ふと、あたしがなに気なく言うと、詩穂はすぐに「そんなことないよ」と返してきた。「千佳と食べた鯛焼きも、温かい銭湯も、みんなと集まるいたち公園も、私は大好きだよ」

「……そっか」

 あたしは、詩穂にずっと聞きたかったことを聞くことにした。

「ねぇ詩穂、あたしたち……友達だよね?」

「うん。あたりまえじゃん」詩穂は即答した。

「ありがとう。あたしも詩穂のこと、友達だと思ってるよ。だから、詩穂に隠しごとはしてほしくない」

 詩穂は黙ってしまった。

「詩穂が言ってた、この街は構成されているっていう話なんだけど、あたし、馬鹿だからよくわからないんだけどさ……その、詩穂が言うことなら、信じてみようと思うんだ。だから、できるなら、あたしにもわかるように話してほしいんだ」

 あたしは詩穂を置いて歩き続けて、数歩進んで立ち止まる。振り返ると、先に進んだあたしのことを詩穂はじっと見つめていた。今にも泣き出しそうな顔をしているような気がする。

「千佳は、平行世界って知ってる?」

「パラレルワールドのこと?」

「そう。この世界は選択した可能性の数だけ、未来を分岐させて進む。そしてそれらは本来干渉することがない……はずだった」

 詩穂はぐっとこぶしを握り、続ける。

「数多ある世界同士で、互いの情報を取り込み、ダウンロードし始めた。ダウンロードされた側の世界は消滅する。世界の歴史ごと、この宇宙から消滅する。この事象は『シンセシス・シティ』といわれている」

 突然の告白にあたしは口を開けたまま、何も言えないでいた。あまりにも唐突な話に理解が追いつかない。

「ど、どういうこと? 平行世界って、そんなの本当にあるわけ……」

 言い切るより先に詩穂の瞳の気迫に気圧されて、あたしは口を噤む。

「世界は原子で構成されている。物質的な原子のことを『シティセル』っていうの。一方の世界が、もう一方の世界のシティセルをすべてダウンロードすれば、やがて街は街の形を保てなくなって、世界は消滅する。けれど、ダウンロードされる側の世界の救済措置として、シティセルが残り一パーセント未満になると、シンセシス・シティは発動する。無作為に選ばれた人間を中心に世界の外側は消滅して、残った街の中央に塔が建つ。その塔の頂上に、ダウンロードする側の世界の人間が配置される。その人間に……直接会うことでダウンロードを阻止できる」

 無意識につばを飲み込むまで、喉が渇いていることに気づかなかった。

「塔に配置される人間って……」

 あたしの問いに、詩穂は用意されていたかのような言葉を返す。

「私だよ。私の役割を『シープ』っていうの。そして無作為に選ばれた人間っていうのが、千佳のこと。千佳の役割を『トリガー』っていうの」

 そして、詩穂は涙声になりながらも話を続けた。

「私はこの世界の人間じゃないの。この街と似た別の平行世界からきた、この世界のシティセルを私の世界にダウンロードして終わらせるために送り込まれた人間なの」

 詩穂がこの世界の人間じゃない? そんなことを言われても、すぐに受け入れられるわけがない。だって詩穂は、何の変哲もない普通の女の子だ。おっちょこちょいで鈍感で、甘いものが好きで、そんなどこいでもいるような、普通の女の子。そうでしょ、そう言ってよ、詩穂……。

「この街のシティセルは、じきに一パーセントを切る。それからすぐ街の崩壊が始まるから、千佳は塔に向かって走って、私に会いに来て。そうすれば……この世界のダウンロードは停止して、世界は元に戻るから」

「それから……詩穂はどうなるの?」

 詩穂は黙った。それがどういうことを意味するのか、察しの悪いあたしにも理解できた。

「私はこの世界から消える。もうこの世界に来ることはないの」

 詩穂の話が本当かどうかは、詩穂の目を見ればわかる。嘘をついている目ではない。人を騙そうとする声色ではない。いつかあたしが考えていたような、詩穂の言動は言いづらいことを遠回しに伝えているという仮説はまったく無論となった。

 さっきまで夕暮れの陽があたしたちを照らしていたのに、気がつくと街灯だけがあたしたちを際立たせている。

 あたしは詩穂に何も言えずに、再び帰路を歩く。それからお互い言葉を交わすことなく、鈴虫が鳴く田舎道を歩いた。足音が聞こえるくらい静かで、なんでもいいから他愛のない話を詩穂にしようと思ったけれど、声を出す直前になって、泣きそうな詩穂の顔がフラッシュバックして、何も言えなくなった。それを繰り返して、あたしは詩穂より先に家についた。

「詩穂、また明日」

 あたしは詩穂に別れを告げても、詩穂はひとつ頷くだけで、ついに顔も見られないまま、詩穂の背中を見送ることになった。

 また明日学校で会えるけど、もう少し詩穂と一緒にいたかった。詩穂に寄り添ってあげたかった。詩穂に手を握ってもらった時の心を、詩穂にも分けてあげたかった。

 夜は無常に更けていった。

 あたしと詩穂が過ごす、最後の夜だった。



     7


 目覚まし時計より早く目が覚めた。二度寝しようとしてもできなくて、体を起こす。カーテンの下から入り込む陽光は、いつもよりやさしく感じた。

 ラジオをつけると、普段聴かない朝の番組が流れ、知らない司会者が今日の運勢を発表していた。

『今日絶好調なのは、しし座のあなた。ラッキーアイテムは栞。ラッキーカラーは緑』

 それから特に面白い話もなくて、あたしはラジオの電源を落としてアンテナを畳む。そろそろ最新型を買ってもいいかもしれない。

 ブラウスに腕を通して、リボンは鞄に仕舞う。ソックスを履いたら準備完了。忘れ物なし。

「行ってきます」

 あたしの声はがらんどうの家に虚しく響き渡った。今日もママは遅くなるらしい。

 九月中旬だというのに、すこし歩いただけで玉のような汗が顔を伝う。残暑はまだ続くみたいだ。焦げるアスファルトをローファーで踏みしめていく。

「おはよっ、千佳」

 残暑より暑苦しい城野先輩がやってきた。

「おはようございます」

「なんだ、元気がないぞ千佳! 今日からまたツチノコを探すんだから、そんなんじゃ倒れちまうぞ。体が資本だからな、なにごとも」

「また凝りもせず探すんですか……これまで痕跡すら見つけたことないのに」

「今まで見つからなくても、今日見つかるかもしれないだろ? 諦めたらそこで試合なんたらだぞ」

「そこまで言うなら最後まで言ってくださいよ」

 そんなやりとりをしながら学校までの距離を縮めていると、目の前に手を振る小早川先輩が現れる。

「二人ともおはよう。今日は早くに目が覚めちゃって、いつもより早く家を出たの」

 小早川先輩はこの暑さの中でも涼しそうに見える。手入れの行き届いた黒髪は、もれなく太陽光を吸収しそうだけど。

「なんだ、沙織もか。私も今日はめっちゃ早起きしたんだよなー。こういうのなんていうんだろうな、虫の知らせ?」

「それはよくないことが起こる予感がする時に使う言葉だけどね」

 小早川先輩の言葉に胸がどきりとした。あたしも早起きをしたから。

「千佳は?」

 二人の視線があたしに集まる。なんてことはない、他愛のない日常の会話だ。あたしが早起きしたからといって、それがなにかの必然性を持つわけじゃない。気にしすぎだ。だから嘘をつく理由なんてない。

「あたしはいつも通り起きました」

 言い終えてあたしははっとしたけれど、二人は気に留めていないようだった。

「千佳もたまには早起きした方がいいぞ。早起きは三文の徳っていうからな。早起きしてもすることないから、ラジオで占いを聴いてきたんだ。沙織はてんびん座だから、ラッキーアイテムは腕時計。私と千佳は同じしし座だから……」

「栞」あたしはつい、城野先輩に被せて口を出してしまった。

「あれ、千佳もラジオ聴いてたの?」城野先輩は目を丸くした。

「あ、えっと、その、最後のあたりをちょっとだけ……」

 苦しい言い訳だったけど、「そっか」と城野先輩は軽く流した。

 なんだか調子が狂うのは、きっと残暑のせいだ。

 こうして歩いていると、あたしたちの隣に詩穂がいないことに違和感がある。それだけ詩穂が、あたしにとって身近な存在になっている証拠で、だからこそ、詩穂に対する猜疑心を早く取り除きたかった。

 詩穂がいうシティセルは物質的な原子のこと。あたしが着ている制服も靴も、アスファルトも花壇も公園の遊具も柵も車も自転車も電車も家も信号も学校も、この街のすべてが目に見えないほど極小なシティセルの集合体。あたしの身体も、シティセルが構成しているということになるのかもしれない。

 それらが、詩穂の本来いた平行世界にダウンロードされているらしい。

 もしそれが本当だとして、一体あたしに何ができる? 詩穂のいう通りに塔が現れたとして、そこに走って向かえばいいとかそういうことではなくて、あたしは詩穂に何をしてあげられる?

 詩穂は、この街が崩壊すると言った。シティセルが失われて、街が街の形を保てなくなる。もしも詩穂が言う通りに街が変容するなら、あたしは詩穂になんて言えばいい? 詩穂とこの先、どんな顔をして会えばいい?

 頭の中がもやもやしたまま学校に着いた。下駄箱で上履きに履き替えて、あたしは城野先輩らに別れを告げて自分の教室へ向かう。足取りが重たい。いや、身体ぜんぶが重たい気さえする。鉛の像を背負っているみたいに。教室と廊下を隔てるドアの建つけが悪い気すらした。実際悪いのかもしれないけど。

 この扉の向こうには崩壊した教室が広がっていて、次第に大きな地鳴りとともに学校は崩れ始め、塔が大地を突き破って空へ伸びていくようなことが起こったら……なんて馬鹿げた妄想をした。そんなこと起こりえない、大丈夫と言ってほしい。ほかの誰でもない、詩穂に。

 教室に入ると、そこは思い描いていた景色とはまるで違う光景が広がっていた。いつもどおりの教室、談笑するクラスメイト。「ごめん、通るね」と日直はあたしとすれ違うように慌てて教室を飛び出していった。教室の入口で立ち止まるあたしを追い抜かして、クラスメイトが一人、また一人と教室へ入っていく。冷房の効いた教室が汗を消し飛ばす。

「おはよう、千佳」

 奥の席から詩穂はやってきた。いつもと変わらない栗色のくせ毛に、控えめな身長と相反するサイズの胸。おっとりしたリスのような女の子。いつもと変わらない、あたしのよく知っている詩穂がいた。まるで昨日の夜のことなんてなかったみたいに。

「おはよう、詩穂」

 あたしはなんだか拍子抜けしてしまう。まったくあたしは何を考えていたんだろう。詩穂が平行世界から来た別世界の人間で、あたしの街を崩壊させる存在だなんて、そんなことあるわけないじゃないか。いけない、つい信じてしまいそうになった。ここまで突飛だと逆に嘘だって、すぐにわかるはずなのに、詩穂が真面目に語るもんだから、こっちだって真剣に向き合ってしまった。やられた、あたしが都市伝説とか怪奇現象が好きだってこと、詩穂には言っていなかったけれど、偶然だろうか、詩穂はあたしの好奇心を上手にくすぐったんだ。ぜんぶ、あたしの思い過ごしだったんだ。

 昨日のことは、ぜんぶあたしの勘違い。きっとそう。

「千佳、昨日の話なんだけど」

「うん」

 ドッキリ、でしょ? そうでしょ、詩穂。

「この街の崩壊がいつ始まるか、私にもわからないの。だから千佳、今日は早退して、できるだけ走りやすい格好に着替えて……」

「詩穂、もういいって、そういうのはさ」あたしは詩穂の話を遮る。「もう、そういう話をして、無理してあたしの気を引こうとしなくもいいんだよ」

 あたしが詩穂の不安を取り除くためにかけられる言葉があるとすれば、それはあたしが詩穂のことを、ちゃんと友達だと思っているということ。詩穂はきっと不安なんだ。あたしがいつも斜に構えて、つまらなそうな仏頂面でいるから、一緒にいて楽しくないんじゃないかって不安を与えてしまっていたんだ。だから、あたしがしっかり詩穂の不安を取り除いてあげなければいけない。あたしと詩穂が、これからも友達であり続けるために。

「何言ってるの、千佳」

「だから、嘘でしょ、その話。実はあたし都市伝説とかオカルトとか好きでさ、詩穂のそういう話も嫌いじゃないから、今度ゆっくり……」

「嘘じゃないよ。嘘なんて言うわけない。私、千佳に嘘は言わないよ」

「じゃあ何? 詩穂は本気で、この街が崩壊するっていうわけ?」

「ずっとそう言ってるじゃない。千佳は私のこと、信じてなかったの?」

 互いに語気が強くなる。周囲の人たちから好奇の目を向けられる。

「信じるわけないじゃん、そんなこと。嘘でも、もうちょっとマシな嘘つくって」

 あたしの言葉に、詩穂は目じりに涙を溜めて唇を結んだ。

 泣きたいのはこっちだ。詩穂はあたしに嘘をつき続けて、なおもそれを突き通そうとしている。馬鹿にするのも大概にしてほしい。

「そんなにあたしのこと馬鹿にして楽しい?」

「馬鹿にしているのは、千佳のほうでしょ?」

 詩穂のその一言に、あたしはなぜか無性に腹が立ち「ふざけないで!」と教室にいることも忘れて、つい大声で叫んでしまった。あたしの声は教室を天井から押し潰すように、クラスのみんなを黙らせた。詩穂も身体を縮めて黙り込む。

「……よくわかったよ。詩穂はあたしのこと、そう思っていたんだ。そんな突飛な話を信じ込むあたしのことを見て、腹の底では笑っていたのね」

「ご、ごめんなさい。本当は私、そんなこと……」

「言い訳はもういいよ」涙を潤ませ声が震える詩穂に被せた。「勢いに任せて、本心が出たんでしょ。ああ、そうだよ。たしかにあたしは、詩穂の言っていること、ちょっとだけ信じたよ。でもそれは……」

 詩穂のことを友達だと思っていたから。

 そう言うだけなのに、どうして言葉が詰まるんだろう。

「ごめんなさい、千佳……」

 詩穂は今にも泣きだしそうで、あたしはたまらず目を逸らした。

「こんなことになるなら、詩穂と友達にならなきゃよかった」

 ……あたし今、なんて言った? 思ってもいないことを口にしてしまった。言わなくていいことは自分でもわかっていたのに、だけどとことん吐き出さないと、沸騰しそうな頭も、ぐるぐる騒ぐ腹の奥も、怒りで満たされて鎮まりそうになくて。

 衝動に任せて言い放つと、足元まで押し寄せていた波が沖の方へ引いていくような感覚が残った。最低なことを言ってしまった。それはわかった。

 我に返ってすぐに謝ろうとしたけれど、詩穂は切なさと悲しさと虚しさをその顔にたたえていて、ごめんなさいでは取り返すことができないものがあることを理解して、言えなかった。

 口の中が渇いて、言葉が声にならない。ただ、とうとう我慢がきかなくなった涙が頬を流れた詩穂を見ていることしかできなかった。

 あたしはたまらなくなって教室を飛びだした。廊下を落ちるように駆け降りて、登校する人たちをかき分けて、詩穂から逃げた。

 詩穂は、あたしを引き留めるために声をかけてはくれなかった。

 校門を飛び出して、街を駆ける。走った分だけ詩穂から遠ざかっていく。身体が熱を持つけれど、それはあたしの羞恥心をごまかしてくれた。どれだけ走っただろうか、一キロも走っていないと思うけれど、ついにスタミナが底を尽きた。走る勢いは衰え、やがてとぼとぼと歩くようになって、いよいよ歩みをやめると、身体は思いだしたように汗を噴出する。

 屋根のあるベンチに腰をかけて息を整える。呼吸のリズムが一定に戻っていくと、頭の中の靄も消え去った。そして再び思考が巡ると、今度は胸の中がもやもやし始める。

「あたしはなにを信じればいいの……」

 それからあたしはいつの間にか見たことがない景色の中を歩いた。いや、ただ彷徨っていただけだ。田舎の街を抜けると、ちらほらと人が見える大通りに出る。左手側にシャーロッテが見えることから、城野先輩の家の方向まで歩いてきたことがわかった。いつの間にこんなところまで歩いてきたんだろうと、ようやく正気に戻る。

 立ち止まると、あたしだけを街に取り残して、ほかのものがものすごい速さで未来へ向かっていくみたい。めまぐるしく通り過ぎていく人の波に打たれる岩のように、みんながあたしを避けて歩いていく。まるであたしなんか見えていないみたいに。こんな最低な私なんか、誰も見たくもないか。

 周りの景色が薄暗く色を落としているように見えたのは、空が曇っているからだった。朝は嫌がらせみたいに日が出ていたのに、今では雨が降りそうなほど鼠色に染まっている。

 群衆から空を指さす腕が見えて、あたしはその方へと目を向ける。気がつけば、みんなが同じ方向を向いていた。次々と空を指さす数が増えていく。

 指さす方向にシャーロッテがあるのはわかっていた。だけどあたしの目にシャーロッテは映らない。あたしにはシャーロッテが、さっきと違わぬ姿で見えると思っていた。しかしシャーロッテは、百余年経過したみたいに老朽化していた。さっきまで目の前にあったものが、突如としてその形を変えていることに脳が混乱する。

 周囲がざわつきはじめると、どこからともなく声が上がる。

「建物がぼろぼろになっている!」

「看板が落ちてくるぞ!」

「アスファルトが割れている!」

「木が枯れ始めた!」

 混乱に陥る群衆から飛び交う言葉が確かに現実であることを、あたしは目の当たりにした。

「なにこれ……どういうこと?」

 あたりを見渡すと、どこもかしこもが倒壊し、瓦礫の山が積みあがっている。瞬きをするたびに、息を吸い吐くたびに、家もビルも標識も道路も車も草木も、なにもかもが一瞬のうちに崩壊していく。やがて街に生きる人々も死に絶え、抜け殻がそこらに横たわる。

 混乱するあたしの頭を正気へと引き留めたのは、崩壊が進む街の景色の中にそびえたつ鈍色の塔だった。遠くから見ると、堂卿タワーの赤と白の鉄骨が無数に組み合わさった電波塔の形に酷似している。全長がおおよそ二百から三百メートルほど。曇天の景色に溶け込んで輪郭がぼやけて見える。学校のある方向だった。

 脳裏に詩穂の顔が浮かんだ。それから記憶が脳の奥深くから溢れ出して、詩穂の言葉があたしの血に溶けて全身へ巡る。

 力が抜けて、肩から鞄がずり落ちた。道路に落ちた鞄は、元の形を失って道路に広がった。

「ぜんぶ、本当だったの……?」

 詩穂があたしに言っていたことはぜんぶ本当で、詩穂は信じ難い話を必死にあたしに伝えようとしていたんだ。不器用に、必死に、懸命に。何度あたしに疑われても、あたしが詩穂に怒鳴っても。

 詩穂は私を見ていた。宝石みたいに透き通った瞳はあたしを映していた。あたしは、いったい詩穂のなにを見ていたんだろう。わかっている。なにも見ていなかったんだ。なにも。

 あたしはすべてを悟って、その場にへたり込んだ。目の前が真っ暗になる。身体のどこにも力が入らない。罪悪感に押し潰されそうだ。このまま街と一緒に、あたしも終わってしまえばいいのに。

 やがて街に轟音が鳴り響き、それから大地を割る大きな地震が来た。

 それが、シンセシス・シティの始まりの合図だった。

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シンセシス・シティ冒頭サンプル【期間限定公開】 桃崎とか @momosakitoka

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