飛梅と小説家《薄氷奇譚》3


 であるならば、話は早い。

 私は窓枠に足をかけグッと力を込めた。

 が、その途端、無様にも結露を踏み足が滑り、派手な音を立てて裏庭に転げ落ちてしまう。

 痛い。

 非常に痛い。

 着流しの裾がみっともなくはだけて、露出した膝には薄っすらと血が滲んでいる。

「くっ、これは――天罰覿面てきめん、か?」

こんこんちきのスットコドッコイときたもんだ。

「ちきしょう。神は小早川こばやかわ君の味方か。神ならば私の味方であるべきだろうよ」

 思わず恨み言を呟く。

 すると次の刹那、ケタケタと笑う甲走った声が私の耳元まで届いた。

「誰だ?」

 見やると、すぐ脇の路肩にて、童男おぐなが1人大層陽気な様子で遊んでいる。

 転げ落ちた私を目撃して笑っているという訳ではないようである。

 とにかくしきりに薄氷うすらいを踏み割り、飛び跳ねては笑い、無邪気にはしゃぎ続けていた。

「いったい何処の坊主だ?」

傍近ぼうきんに住んでいる子供であろうか。しかしそれにしては、とんと見覚えがない。

「それに、このような場所に、薄氷うすらいが出来ているなど……珍しい」

 この辺りは水捌けが良く、薄氷どころか水溜りすら滅多にできない。

 私は、どうにも胡乱うろんげな物を眺めているような心持ちになり眉をひそめた。

「いやいや!」

咄嗟に首を横に振り、考えを改める。

「小さな子供を疑うもんじゃない」

職業病のせいもあるとはいえ、そう何から何まで安易に怪異に結びつけるものではない。

 そのような疑い癖がついているのだとすれば、まこと意地の悪い事である。

「心を改めねば」

私は自らに言い聞かせた。

「昨晩の花冷えで、荷馬車のわだちに水が溜まって、それで凍ってしまったのやもしれぬではないか」

 童男は、未だ楽しげにその場で跳ねている。

 その内に私は、何故だか、その笑い声に目眩を感じ始めた。

 一足飛びに気力が失われてゆく。

「あ。こりゃ駄目だ。睡眠不足だ。目が回る」

 私は、白紙の原稿から逃げることなど、もはやどうでも良くなり、裏庭から玄関に回りすごすごと書斎へ戻ると、再び文机ふづくえの前へ腰を下ろした。

「小早川君が来たなら来たで、もう逃げも隠れもせん。書けんものは書けんのだ。開き直ろう」

 湯呑みを握り、とうの昔に温くなっている茶を少しだけすする。

 そうしてその後は、他に何を感じるでもなく、幼子の笑い声にただじっと耳を傾け続けた。


「どうせ世の中は、有形無形ゆうけいむけいが、一切合切揃って現実逃避を繰り返しているようなものなのだ。見慣れぬ童男おぐなと薄氷如き、何の珍しい事があるものかよ。なァ……兄弟よ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る