「私、先輩ならぜんぜんイケますよ」


 飲み会が終わり、終盤の質問ラッシュに疲れた僕は、二軒目を断り、駅に向かおうとしていた。

 角を曲がり、飲み屋街を抜けようというところで、背中に声がかけられた。足を止めて振り返れば、顔をほんのりと赤くした、会社の後輩(名前を思い出せない)が、僕のことを追いかけてきている。


「酔ってる?」


 追いついてきてから笑って尋ねると、後輩は「かもしれないでーす」と言って笑顔を浮かべた。


「誘ってくれて光栄だけど、終電やばいからごめん」

 僕が駅のほうに一歩足を進めると、後輩も一歩足を進めた。


「えー? 明日休みだしよくないですか?」

 いや用事あんだよね。

 朝早いんですか?

 そうそう。


 やり取りが重なっていき、僕が本気で帰ろうとしていることを察すにつれ、後輩の浮かれた声から、温度が消えていく。足を早めた彼女に前に回られ、顔が見える。もうその顔にへらへらした笑いは残っていない。


「さっき飲みの場で辛いって言ってましたよね。あれ嘘ですか?」


 自分から童貞を誘って振られたなんて、耐えられないのだろう。意地になっているのが分かる。


「いや、嘘じゃないけど……」

「じゃあいいじゃないですか!」


 明るい調子を、無理やり取り戻し、後輩が僕の腕を取る。うっすら目が潤んでいて、余裕がないのが伝わってくる。


 過去に一度、女性に誘われたときのことを思い出す。

 童貞の勘違いお疲れ様です! で済ませられればよかったのだが、そういうわけにはいかないところまでずるずるときてしまい、結論から言えば僕ははっきりとその誘いを跳ねのけた。ベッドの上で、自分だけが気持ちを高ぶらせていたことに気づき、恥ずかしさと失望によって、一瞬で真っ青になったあの子の顔。


 誰にも嫌われたくないから、幼い僕は毎日遅刻をしたし、その後だって、周りに喜んでもらえるような嘘をつき続けてきた。


 反面、自分の中に、どうしても消えないものがある。


 でも、そんなものがなんだっていうんだろう。他人に恥かかせてまで守るものか?

 なんだか、どうでもよくなってきて、僕は言う。


「……ごめん、突然すぎて驚いちゃって。予定あるっていうのは嘘。……でも、本当にいいの?」

 

 無理に緊張した顔をつくろって、相手の目を見つめて、弱弱しく微笑んだ瞬間、一つも本当がない自分の顔面と言葉に、心が耐えられなくなった。


「! いいんすよ! やさしくしますね!」


 冗談交じりの嬉しそうな声にのせて、酒臭い息が顔にかかる。身体を寄せられた瞬間、スーツ越しに柔らかい肉が触れた感触に、怖気が走った。心の中の僕が、自分の男性器にカッターをあて、ゆっくりと引いている。


 死ね。

「よろしくお願いします!」


 心と身体が離れていく。

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