3.異変と痕跡
次の出勤日、少し早めに出勤して喫煙所に顔を出してみると、やはり高橋は居た。
「やあ、持田君だっけ」高橋は私を認めるとふわっとした笑みを見せた。
私は水のペットボトルを買い、少しだけ飲んだ。勤務中にそう何度もトイレには行けないので、飲み物は最低限にしたほうが良い。
「慣れた? もう、買取入ってる?」
「いえ、前回初めてレジに入りました」
「ええ、ほんと?」
「教える暇のある人がいなくて……」
「ああ、まあ、そういう時期かあ」高橋は煙を上に向かって吐き出しながら、呟いた。
残暑がぶり返しており、風もほとんどなかった。喫煙所の屋根の下にいても汗ばんでくる。
「そういえば、先日レジのお金が合わなくて」私は言った。「妖怪一万円って、知ってます?」
「ああ……店長は誰だかわかってるはずだけど」
「内部に犯人がいるんですか」
「君はどう思う?」高橋は意味ありげな目で私を見た。
「いえ……わかりませんけど、
あの人は辞めたはず。
なのに、結局五千円が消えた。誰かのミスなのかもしれないし、店長の数え間違いかもしれない。おかしな客や、初めからコソ泥目的の輩が来ていたのかもしれない。あるいはやはり、スタッフの誰かが。
「そこまで深刻になることはないよ。このへんじゃよくあることだから」高橋は笑った。
「よくあるんですか」
「ヤンキーばっかりだもん。店長も慣れてる。素行が悪そうなバイトは適当に泳がせて、タイミング見て辞めさせる。シフトが合わなくなったとかなんとか、当たり障りない理由でさ。下手に追い詰めて揉めたくないからね」
「……最近辞めた
「まあ、長いったって、うち、一年やってたらもう長いほうだし」
「そうなんですか?」
「そう、入れ替わり激しいんだ。前はそんなじゃなかったらしいけどなあ。……何、水田さん辞めたの?」高橋は面白がるような目で私を見た。
「シフト表見ませんでした? 水田さんの欄は消されてましたよ」
「マジか。まあ、家の都合かもしれないしな」
私は水田の下の名前を知らず、性別すら知らない。高橋の世間話を掘り下げていけば色々知ることはできるのだろうが、知ったところで今後役に立つ情報ではない。へえ、そうなんですね、としか言いようのない話だろう。なにより、この前の
「持田君はこう、落ち着いてるというか、淡々とした人だね」高橋は言った。
「そうなのかもしれません」私はなんとなく自販機の方を見やった。
ダミー商品を覆うカバーガラスの表面に、ぼんやりと私の影が映っていた。痩せて頼りない、猫背のくたびれたシルエット。リュックは下側に荷物が寄って、涙型に大きく膨らんでいる。改めて見ると、我ながらうんざりするほど貧乏くさく、野暮ったい。
「どうしてここでバイトしようと思ったの?」高橋は聞いた。
「さあ、前から何度か使ってましたし……だから、知らない店じゃなかったのと、場所的にもちょうど良かったので」
「でも、持田君なら本屋とか、そっちの方が好きそうだけど」高橋は漠然と、二ブロック先の大型書店の方向を見た。
「好きなものを仕事にしちゃうと、しんどいかなというのがあって」
「なるほど」
「それに……自分は所詮、二百円の人間なので」
「ええ?」
「あ、いや……」ふと口をついて出てしまっただけだったので、私は口篭った。「この店で、ずっと昔に欲しかったおもちゃが二百円で売ってたんです」
「そうか」高橋は笑いもせず、真面目な顔で頷いた。「まあでも、物の値段は物の値段に過ぎないよ」
「そうなんですけど。うちは玩具を買わない親だったので、ちょっと自分にとっては特別だったんですよね。まあ、それだけなんですけど」
「ああ……もしかして、親は医者?」
「いえ。でも、似たような感じかも」
「医者の家とかってよく、テレビ禁止とかスナック菓子禁止とか、変わった家が多いよな。俺んち、子供のとき隣の家がそのタイプだったから、母親が感化されてうちもテレビとポテチ禁止にするって言い出してさ……結局三日も続かなかったが」
「普通が一番ですよ」と私は言った。「こうして、二百円の玩具にズルズル拘るような安い人間になっちゃうんですから」
「確かにその言い方には恨みと拘りを感じる」高橋は柔らかく笑った。
「それでも自分はまだマシな方です。妹はグレて拗らせちゃったから」
「妹、いるの」
「はい。グレてから実家に寄り付かなくて、もう今はどこで何してるのかも知りません」
「まあそういうところは、女の方が行動力あるっていうか、シビアだからな」
それからなんとなく最近の売場の様子や店長の口癖などの話になり、時間が来たので私は店に入った。
建物はほぼ正方形に近い、一階建ての箱だ。南向きに客用の自動ドアが二つあり、スタッフもそのどちらかから出入りする。正面奥の左側の角にバックルーム、右側の角に店長室がある。おそらく、本来は左右半分ずつで別々のテナントが入る設計だったのだろう。スタッフの居室と店長の居室が店の端と端に離れているので、休憩の際などに気兼ねしないで済むのは良いが、用事があるときには不便でもある。
私はバックルームのロッカーに荷物を入れ、エプロンを身に付けて支度をした。いつもこの時間に休憩をとっている佐藤寺朋美が、今日はいなかった。他のスタッフもいない。無人のバックルームに出勤するのは初めてだった。
スタッフが出払う場合は最後の者が鍵を閉めて出るルールではなかっただろうか。はっきりそう教わってはいないが、他の大抵のバイトでもそうだったし、今までの出勤日には誰かが鍵を管理していた。共用テーブルの上や空きロッカーの中を探してみるが、鍵は見つからなかった。
私はバックルームを出て売場を横切り、店長室へ向かった。これも絶対の決まりではないが、出勤したら一言店長に挨拶を入れた方が良いと教わっていたし、ついでにバックルームの鍵をどうすべきか聞こうと思った。
メンズ小物と半袖Tシャツが山のように積まれたワゴンを横目に売場を横切りながら、店内が静かすぎると気付いた。いつもは気に留めていないが、開店中はピアノ曲のBGMを掛けているはずだ。それが今日は止まっている。自分の足音がやたらと響いて耳につく。レジに入っているらしい
店長室のドアをノックして、一呼吸待ってからノブを回した。鍵は掛かっていなかった。
部屋の明かりは消灯しており、暗闇に近かった。北向きの換気窓から弱い外光が入っていた。デスク前の椅子には、店長の巨体の代わりに段ボール箱が二つ重ねて置いてあった。
今日は店長は休みの日だっただろうか。流石にこちらの部屋に鍵が掛かっていないのは不用心だ。店長室の奥には金庫がある。
私はドア横の壁に並ぶスイッチを押し、照明をつけた。蛍光灯の白い光が部屋を満たす。それからドアをもう少し押そうとして、妙な抵抗を感じた。ドアの内側に何か置いてあったらしい。商品を詰めた段ボールか備品の類だろうと思って何気なくドアの裏を覗き込んだ途端、無意識に大声をあげていた。
ドアの裏に佐藤寺朋美が身体を丸めて倒れていた。
「佐藤寺さん? どうしたんですか」私は屈んで彼女の腕に触れた。まるで無機物のように冷たい。単に意識を失っているだけではない、と直感して私の心臓は早鐘を打った。
顔色を確かめようと、彼女の頭に手を伸ばす。両手が自分のものとは思えないほど震え出していた。
佐藤寺は右側の頬を床に付けてほぼうつ伏せている。そっと持ち上げると、床と頬の間にべったりと血が広がっている。その顔色は人の肌の色とは思えないほど青黒く、固く目を閉じ、歯を食いしばったような表情のまま硬直していた。
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