2.妖怪一万円
台風が有耶無耶のうちに去った後、間髪を容れず二つ目と三つ目の台風が町を縦断して去った。店舗の被害こそなかったものの、隣のファミレスと共用になっている駐車場が荒れてしまった。植え込みが禿げ、看板が曲がり、駐車スペースには近隣から飛んできた瓦礫と泥が散乱した。店長が清掃業者を呼ぶのを渋ったため、
それからすぐにセール期間が始まり、それが終わると半年に一度の棚卸しが始まった。ラックにぎっちりと掛かった古着を一着一着より分けて、価格ごとに分類して全てカウントする。値札の取れた商品は付け直し、在庫期間が長過ぎるものは記録ののち破棄。その間も店自体は営業を続けるので、スタッフ達は疲れと焦りの凝り固まった顔で、レジと売場とバックルームの間を駆けずり回っていた。
新人の私の教育係は、一応、佐藤寺朋美ということになっていたが、そういうわけで始めの二週間ほどは「ごめんね、適当に仕事を探してて」と放置されていた。仕方なく、私は清掃と品出しに徹した。古着は無限にあり、埃と汚れも無限にあった。
ばたばたしている間に、
「水田さんには結局お会いしないままでした」
バインダーに挟まった、角の折れたシフト表を眺めながら、私は言った。
「ああ……」佐藤寺朋美はなんとなく意味ありげな笑みを浮かべ、身支度をしていた
「ねえ、あの人も長かったですよねえ」四蔵は言った。
四蔵も佐藤寺と同年代の主婦だったが、雰囲気はまるで違った。軽めのブラウンに染めた髪を肩の上でふわりとカールさせ、いつもきちんと化粧をしている。アイシャドウのラメが時おりキラキラと光り、口を開くたびに鈴を転がすような優しげな声が耳を打つ。彼女の近くにいると、いつも、甘さと清潔感の混じった良い匂いがした。
「この店って気づくと誰か辞めてるからね」佐藤寺朋美は言った。「ムラさん辞めたときも、ねえ、私がたまたま子供の熱で一週間休んでたときだったから……復帰して二週間くらい見掛けなくて、でもシフト表には載ってたから普通にたまたま休みかなくらいに思ってて。店長から、何言ってんのとっくに辞めたよ? ってさ」
「ありましたねえ」四蔵はふんわりと微笑んだ。
「で、あわててムラさんにメッセージ送ったけどムラさんも、え、なに、今頃? みたいな感じだったし」
「あれ、店長が次のシフト表にも間違って印刷してたからなんですよ」四蔵は笑いながら言った。「もう退職されたのに、村田っていう枠をそのまま残して出しちゃったんです。村田さんは曜日固定だったから、シフト表も弄らずそのまま出してて」
「そうそう、それで誰か二重線引いたら、人の名前に線引くのは縁起が悪い、みたいな話になって……」
「そう、午前組の人達みたいですけど。縁起悪いからって線を引いたシフト表を捨てて、新しいのを出し直したんですよね。出し直すときに村田さんのところを消せば良かったのに、またそのまま同じのを」四蔵は口元を手で覆ってころころと笑った。
「まったくポンコツばっかりよねー、この店」佐藤寺朋美は首を振りながらバックルームから出て行った。
「あれ、もう休憩終わりでしたっけ?」私は腕時計を見て言った。
佐藤寺が売場に戻るのに新人の自分だけ休んでいるのもまずい、と少し不安になったが、四蔵はスマホを確かめながら「ああ、朋美さんは、煙草でしょう」と言った。
「あ、佐藤寺さんは煙草吸われるんですね。ちょっと意外です」お子さんもいるのに、と付け加えそうになって私はふと考え直した。旦那なんか居ない、と言っていた高橋の顔が脳裏を過った。もしや、子供の存在も嘘なのだろうか? 佐藤寺はよく子供の迎えの都合で仕事を切り上げたりずらしたりしているし、まさかそれが丸ごと嘘だとは思えないが……店長は何か知っているのだろうか?
高橋のくれた情報がデマではないという確証も無い。その可能性まで考え始めると、無限に疑いが広がるばかりで、キリが無い。
時間になったので売場へ出ると、佐藤寺朋美はもう作業カウンターに入っていた。
「すみません、煙草休憩中かと」私は慌ててカウンターに入った。
「一服しようとしたら先客がいてさ」佐藤寺は苦笑いとともに溜息をついた。「気まずいから吸わずに帰ってきちゃった。ていうかあの人、なんで来てたんだろ」
「誰ですか」
「持田君は会ったことないと思うけど、高橋さんっていう」
「ああ、高橋さんなら」
「知ってるの?」
「男の人ですよね、背の高い……初日に会いましたよ」
「ええ? ウケる……居座りすぎでしょ」
確かに、高橋は十四時半までのシフトだったはずだ。私はバックルームで見たシフト表を思い返した。私のシフトは十五時からなので、本来なら鉢合わせる機会は無い。初日に会ったときも、本日も、高橋は仕事を上がってから三十分は喫煙所にいたことになる。帰りの一服にしては長いかもしれない。
「なにか、時間を潰してるんでしょうかね」私は言った。
「だったら手伝ってほしいわー」
「まあ、確かに」
その日はようやく、レジの打ち方を教えてもらった。値札を見て一つ一つ金額を打ち込むので、難しくはないが神経を使う作業だ。レジ打ち自体は幾つかの他のバイトで経験したことがあったが、どこもバーコードを読み取るだけだったので、レジの入力キーをこんなにごちゃごちゃ触るのは初めてだった。
佐藤寺朋美は流石にベテランで、テンキーとその周りの様々なファンクションキーを、ほとんど手元も見ずに高速で打ち込んでいた。
「だいたい、うちの商品でよくある金額って決まっているから、慣れると合計の数字見るだけで何か間違ったかなって分かるようになるよ」佐藤寺は言った。「セール品なら百十円か二百二十円、あとは五百、八百、千、千五百とか……たまに消費税が古いのが混じってて、端数が変な数字になるんで混乱するけど」
レジに早く慣れるため、ということで、その日はずっとレジばかりやらされた。レジに立つようになると必然的に客とのやり取りも増え、ようやくこの店のスタッフとして働いている実感が湧いてきた。
その日、退勤しようとすると店長がレジを開けて弄りながら深刻な顔をしていた。
「どうしましたか」私は帰る前の挨拶を兼ねて軽い気持ちで聞いた。
「一万円足りない」店長は手元のメモ帳と、電卓と、レジの管理画面を順に睨み付けながら唸った。
「まだ出るんですか? 妖怪一万円」カウンターの向こうの
綿は私より数歳下の、まだ少年っぽさの抜けない若者だった。学生ではないらしいので、いわゆるフリーターなのだろう。丸眼鏡のフレームが少し歪んでいて、いつも微妙に傾いている。
「妖怪一万円って?」と、私は聞いた。
「レジの金を一万円抜く妖怪です」綿はニヤニヤ笑った。「あれ? でも、あの人は辞めたんじゃ……」
「綿君。シーッ」店長が素早く振り向き、大袈裟に怖い顔をして、人差し指を口の前に立てた。
「あ、はい、シーですね」綿は首をすくめ、何度も頷いた。
「妖怪……じゃないですよね」私もなんとなく首をすくめて、小声で言った。
閉店まで一時間を切っており、店内に客は居なかったので、実際何を警戒すれば良いのかは分からなかった。
「もしかすると、何かミスをしたかもしれません。今日初めてレジに入ったので」私は言った。
「ああ……いや、打ちミスならこうはならないからなあ。お釣りのミスでもないだろうし。金額的になあ」
「もうこの店、呪われてるんじゃないっすか」綿は言った。
「いやほんと、マジで妖怪かもしれん」店長はレジを開け放したまま店長室へ走って行った。
そして数分後、げっそりした顔で戻って来た。「ごめん、俺のミス」
「ちょっとお」綿は半笑いで叫んだ。
「ごめーん、ごめーん」店長は変な節回しで歌いながら、銀色の棒状にまとめられた小銭の束を二本、レジの隣に置いた。
「金庫からこっちに移そうとして、忘れてたわ、途中で電話があって」
「何してんですかもう。俺にはいっつも、ちゃんとしろって煩いのに……」綿は作業を終えてレジの方へやって来た。店長の持って来た小銭の束を取り、「あれ、でもこれ、五十円玉ですよ」
「ああ? そうだよ、五十円玉そろそろ足りないだろう。それで補充しようと」
「いや、五十円ならこれ、二千五百円でしょ。二本で五千円」
「あ、あれ?」店長は真顔に戻り、綿の手元をまじまじと見た。
店長と綿は互いに何か言いたげな目で、顔を見合わせた。
「じゃあ結局五千円足りないってことですか?」私は聞いた。
店長は大きく息を吸い、少しの間沈黙してから、何かを切り替えるように口調を変えた。
「まあとにかく、持田君はもう上がりだよね? 今日は帰りなさい。とりあえず、まあ、こっちの話だから」
「今度は妖怪五千円かあ」綿は呆れたように首を振った。「レジ締める側の身にもなってほしいよ。盗むんだったら、数字が合うように直しとけって……」
「綿君! シーッ」
自動ドアが開いて二人連れの客が入ってきたので、店長は素早く綿を黙らせ、レジにザラザラと小銭を戻しながら「いらっしゃいませえ!」と、やたら張りのある声で叫んだ。
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