1.嵐の前

「エプロンに入れるものはメモ帳とペンだけね、ティッシュとかハンカチとかは自分のズボンに仕舞うこと。ポケットがなかったりしたら、まあ、しょうがないけどね。あ、あと付箋。付箋はあった方がいいかも。何かと使うから。でもまあどうせすぐ足りなくなってチラシを千切ったのとか皆んな使ってるけど。それと、店長にも言われたかもしれないけど、シャチハタを用意してきて。自分の苗字のね。ごめん、何さんだっけ……」

「持田です」

「そう、モチダさん、そうそう。で覚えてたのに。ごめんね。忘れっぽくてさ」


 とう、と名乗った彼女は三十代の主婦だそうだ。癖っ毛をお団子にまとめて、横髪にピンを差しまくっている。勤務中は汗だくになるので化粧はしない、と言っていたが、眉だけは太めに描いてあった。子供の迎えがあるのであと三十分ほどで退勤だそうだ。しかし、顔立ちや身嗜みにはあまり所帯染みた雰囲気がない。

「佐藤寺ってこの辺には多い名字なんだけどシャチハタ売ってないんですよね。持田さんならたぶんある? ちょっと珍しい気はするけど……」

「まあ、たぶんあると思います」

「あるよね。ま、来月とかでいいから。最初のうちは品出しとか掃除とかメインで、シャチハタ使う場面ないからね……どうしても必要になったら、手書きサインで良いし。ただ買取繁忙期になると手書きの一秒が惜しくなるからさ、シャチハタ必須ですよ。佐藤寺ってほぼ無いから、注文して取り寄せになっちゃって、このシャチハタ高かったんだわ。時給一時間分より高かった」佐藤寺は自分のエプロンのポケットからシャチハタを取り出して見せた。

「ここらへん、時給低いですもんね」私は曖昧に苦笑いを返した。

「そうそう、でも、これでもこの数年で一気に上がったよ……私ここに入ったとき九百とかだったもん。それでも周りのコンビニなんかよりちょっとだけ高かったの。その代わり、交通費出ないのね。交通費ぶん差し引いたら微妙にコンビニより安いのね、うちの店長ほんとセコくってさ」

 ホールと呼ばれている広い売場を横切って案内しながら、佐藤寺のお喋りは止まらなかった。新人に仕事を教えるのには慣れているらしく、売場の区分けや備品の名称、指示でよく使われる略語など、説明は明快で無駄がない。ただ、あまりに滑らかに必要な説明から無駄話へ、無駄話から必要な説明へ、と切り替わるので、私はメモ帳とペンを構えながら何を書き留めれば良いのかわからなくなって、後半はほとんど聞き流していた。


 照明を絞っているようにも見えないのに、微妙に薄暗い印象の売場だった。台風の先駆隊のような雨雲が空を覆っているせいなのかもしれない。屋内を照らしているライトはかなり眩しいはずなのだが、どうしてか全てが青白く沈んでいる。金属製の無骨なハンガーラックにぎっちりと詰め込まれた服はどれも、本来の色より一段くすんで見えた。白は灰に、黄はベージュに、赤は茶色に、紺は黒に。


 この店舗の現状の設備で営業する限り、この店が繁盛することはないだろう、とぼんやり思う。しかしそれは私には関係ないことだ。


「こっちが店長室ね」佐藤寺は売場の最奥まで来て、STAFF ONLYと書かれたドアを素早くノックして開けた。「店長、いますー?」

「おお、持田君かな」デスクと椅子の間に嵌め込まれるような形で収まっていた巨体が、ゆっくりとこちらを向いた。


 店長の矢田は、もうすぐ日常生活に支障が出そうなほど太った、五十がらみの男だ。背もかなり高いので、まさに巨漢という言葉がぴったりだ。事務椅子の軋みが切実な悲鳴に聞こえる。


 この男とは先ほど必要書類を交わしたばかりなので、私から改めて伝えたいことは特に無かった。

「どう、佐藤寺さんの案内は。わかりやすい? 配置はもう覚えた?」

「一度で全部は無茶ですって」佐藤寺はからからと笑った。

「まあでも、持田君は頭良いでしょ。たぶんもうほぼ覚えたでしょ。大学院生だし、しかも理系だし」

「はあ、まあ理系……ですけど」私は思わず口篭った。


 私は大学を既に卒業していて、現在大学院にいる。店長は私の履歴書に疑問を持たなかったようだが、私が今受けているカリキュラムは、本来は三年前、大学卒業直後に受けるべきだったものだ。周りは三つ年下の若々しい後輩ばかり。私はまだ社会にも出ていないうちから、大きくつまづいている。

 だから、頭が良いはずなどと言われると、どうしようもなく苦痛だった。


「ま、気楽にねえ」店長はいかつい顔に作り笑いを浮かべ、取りなすように言った。「うちの仕事は高校生でもできるから、難しいこと、なんもないからねえ。持田君には物足りない仕事だろうけど」

「えーでも、難しいですよお」佐藤寺はここぞとばかりに愚痴った。「この間だって買取で……」

「そりゃ佐藤寺さんじゃあーね」店長は戯けたように口を窄めた。

「え、何、どういう意味ですか。それってパワハラですよ?」

「あ、パワハラで思い出した、もう一人の佐藤寺君がさ……」店長は薄い引き出しが幾重にも重なった形の書類ケースを引っかき回し、紙束を取り出した。

「ちょっと、流石に思い出し方が酷い」

「これ」店長は佐藤寺の苦笑混じりの抗議を無視して、紙束を彼女に押し付けた。

「これ何ですか?」

「来月のシフト。持田君の枠を足して刷り直したから、バックルームに置いといて」

「はーまた、雑用」

「うっせえよ俺ゃ店長だぞ」

「ハイハイ、テンチョーテンチョー」


 店長も佐藤寺も、私に対しては真面目で他人行儀だが、普段のやりとりは随分気安いようだ。その雰囲気に乗れる自信は無かったが、ギスギスした職場よりはきっと働きやすいだろうと思った。


 シフト表は縦にスタッフの名前、横に来月の日付が並んだ方眼紙のようになっており、マスにぽつぽつと円や星のマークが入っていた。欄外にマークの凡例があり、黒丸は九時から十五時、白丸は十五時から二十時、黒い星は十三時から十八時……等、シフトの種類を示すらしい。


 並んでいる名前は一番上が矢田店長、その下に佐藤寺(朋)、水田、四蔵、佐藤寺(勇)、綿、高橋(一)、持田。


「佐藤寺さんがもう一人いるんですね」私はシフト表を眺めながら言った。

「そう、この人が佐藤寺朋美さんで、もう一人は佐藤寺勇人君」

「親戚とかですか」

「いやいや、全然。あり得ない」佐藤寺は両手と首を一斉に振り回した。

「ここらへん佐藤寺って多いんだよ」店長は言った。「全国的にもここだけらしいね。昔の若林町のさ、西側の田んぼのところ。あそこにガーッと固まってる。お客さんでも結構いるよね、佐藤寺」

「こっちに住むようになって初めて見た名字です」私は言った。

「でしょう。珍しいよな。佐藤なら普通だけどさ」


 私の勤務が本格的に始まるのは来週で、今日は書類と店舗の案内だけで終了だった。佐藤寺朋美は退勤前に夕方分の清掃をすると言って小走りでいなくなり、私は一人で店を出た。


 もし、煙草を吸うなら店舗裏側の喫煙所もチェックしていって、と店長に言われたので、私は喫煙者ではないが一応そちらに足を向けた。


 四角い建物の裏側に貼り付くように、雨風を凌げる衝立が設置されていた。柱のついたパネルが頭上で九十度近く折れて、そのまま屋根になっている。少し、近所のバス停にも似ていた。


 誰も居ないと思って覗き込んだら、赤い自販機に持たれて一服している男としっかり目が合った。

「おっ、あれ?」男はびくっと身体を起こしかけて、私の顔をまじまじと見つめ、「あ、新人さん? そこの?」店舗の方を眼で示した。

「来週から入ります、持田です」

「おお、そうか新人かー」男は頷いた。「学生さん?」

「はい、一応……」

「じゃあ午後の人か。佐藤寺さんに会った?」

「はい、女の人のほうに」

「朋美さんだな。あの人は一番長いし出来る人だから、言うこと聞いてりゃ間違いないよ」

「そうなんですね」

「ふふ」男は笑った。「真面目っぽい人だな。まあ不真面目な人に来られちゃ困るか。このところロクなバイト来なくって、店長も懲りてるだろうから」


 店長ほどではないが、この男もだいぶ長身だった。太ってはいない。しかし何かスポーツをしていそうな、そこそこ筋肉質な体格で、七分袖のシャツから伸びる腕は日焼けして逞しかった。

 それでいて、顔立ちは妙に柔らかく、笑うと細くなる眼は妖しく捉え所がない。


「あの、すみません、お名前は……?」

「ああ、俺は高橋」

「ああ……」先ほど渡されたシフト表にその名前があったはずだ。「来週から、よろしくお願いします」

「あれ、今日は?」

「今日は誓約書とかだけで」

「あ、そっか。ほんとに最初の最初か。じゃあもう帰り? 帰る前に一服?」

「いえ、吸わないんで……」店長に言われて一応立ち寄っただけだと、私は口籠もりながら説明した。

「まーそりゃ、そう、吸わない方が百倍賢い」高橋は快活に笑った。「年々値上げしてくんでマジで目が死んでるよ。目が死にながら、どんどん吸う量が増えるね。正気じゃ煙草は続けられん」

 言いながら高橋は、長くなった灰を手元の小さな携帯用灰皿に落とした。


 喫煙所の中央に置かれているレトロな形のスタンド式灰皿は、既にいっぱいだった。上皿に空いた灰落とし用の穴すべてに、吸殻が数本ずつ詰まっている。


 なんとなく間が持たなくて、私は高橋が寄りかかっていない方の青い自販機でコーヒーを買った。蓋付きの缶なので、一口だけ飲んでからリュックに押し込んだ。


「そういやさ、女の方の佐藤寺さんだけど」高橋は次の煙草に火をつけながら何気ない調子で言った。「旦那の愚痴とか言い始めたら絶対に返事しちゃ駄目な。何言っててもスルーで、すぐ忘れること。後から誰かに蒸し返されても、さあー記憶にありませんねー、つって絶対にノーコメントを貫くんだ」

「何か、あるんですか」と私は聞いた。


 高橋は深く煙を吸ってゆっくりと吐き、衝立の向こうの暗雲垂れ込める空を物憂げに見やった。


「旦那なんて居ないんだよ」

 高橋はふわりと目を細めて笑いながら、全く感情を含まない声色でそう言った。

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