ニッチ

森戸 麻子

プロローグ

 父は弁護士だったので、私の家は決して貧しくはなかった、というより、裕福な方だったはずだ。物心ついたときには新築の洒落た一軒家に住んでいて、車が二台あり、うち一台は外車だった。輪投げの輪を組み合わせたようなロゴだ、と幼い私が無邪気に言ったのを両親は面白がって、その車は「わなげの車」が通称になった。

「あとで、洗剤買いに行かなきゃいけないんだけど」「ああ。どっちの車で?」「わなげの車で」といったように。

 この通称は、特に母がお気に入りで、事あるごとに、他人の前でも、平気で使った。今思うと、わざと他人に聞かせていたのだろう。私の同級生の母親などから「わなげの車って?」と聞き返されると、母は得意げにその由来を説明した。そして、おそらくその度に苦笑いと共に距離を置かれていたのだろうが、母にとってはそれが却って快感のようだった。

 そういう家庭だったから、もともと中流以上の家が多いその住宅街の中でも我が家はひとつ抜きん出て裕福な家と見做されていたが、それでいてまたびっくりするほど何も買ってもらえない家だった。服や学用品は全て従兄弟からのお下がりで、私は長男なのに新品の服を下ろしたことが無かった。絵本や教材も、本棚も机も椅子も、誰か知らない子供の汚した跡や名前が残っていた。家族でレジャーや旅行に出た記憶もない。ただでさえ地方都市の郊外だったから、普段の移動は常に車で、私は高校生になるまで電車の乗り方を知らなかった。そして最も私の子供時代の記憶にしこりを残したのは、玩具を買ってもらえないことだった。

 ゲームを持っていない子とか、キャラクターグッズを持っていない子とか、漫画を一冊も持っていない子、などは、それぞれ少数派であってもクラスに数名はいたような気がする。洒落た一軒家の立ち並ぶ住宅地だったから、教育熱心なあまりに様々な制約を子供に課す家庭も多かった。しかし、本当に何から何まで一切の玩具を持たない子となると、学年中で私一人だったはずだし、小学校の全学年を探してもおそらく私と妹だけだったのではないか。うちにある唯一の「玩具」と呼べるものは、石が二つ足りないオセロで、盤面の裏に従兄の名前が書いてあった。幾つかの石には怪獣のシールが貼ってあった。私と妹はうんざりするほど沢山オセロをした。あるいは、オセロの石をおはじきのように使ったり、小銭に見立てたり、タイヤに見立てたり、弾丸に見立てたりして、ありとあらゆる空想ゴッコに耽った。その創意工夫がまた、母の自慢の種になった。

 うちは玩具がない家、買わない家。初めからその意識を叩き込んでいれば、欲しくなることも、欲しがってみようかと悩むこともない。スーパーマーケットで、ファミレスのレジ横で、ショッピングモールで、学校の行き帰りに通りかかる文具屋で、友達の家で、手を伸ばせば届く場所に並ぶあのキラキラした物たちが、私にとっては月か星のように遠い別世界の光だった。私はそれらを眺めながら心の奥底で「欲しい」「羨ましい」と思っていたのかもしれないが、その気持ちが意識の表面に浮かび上がることは無かった。「物欲がない」「物をねだらない」と、私はよく周りの大人から、それが善いことであるかのような言い回しで褒められた。私にとっては、初めから手に入るはずのないものであって、それを買ってくれと親に頼んでみようという発想が全く無かっただけだ。月を取ってきて食べたい、などと思い付かないのと同じであって、実際私は手に入るはずとわかっているものについては、特に我慢強いわけではなかった。

 一度だけ、親にねだってみようかと真剣に悩んだことがあった。映画館の売店に並んでいた、戦闘機のプラモデルだった。親に映画館に連れて行ってもらったのはその一度きりで、なぜそのときだけ父が気まぐれを起こして子供向け映画など観に連れて行ってくれたのか、よくわからない。映画の内容は忘れてしまった。戦闘機はそれとは別の大人向けの映画に出てくるもので、パーツのいくつかに蓄光塗料が使われていて、暗闇で光るという触れ込みだった。

 欲しい、という気持ちが身体の内側を狂おしく蝕むような強さで駆け巡った。事実私は眩暈がしそうになり、胃のむかつきを覚えた。売店の狭い通路の隅に立ち尽くしたまま、私はたっぷりと一分はその戦闘機のパッケージを睨んでいた。

「なんだ、欲しいのか?」先に行っていた父が引き返してきて、無感動な口調で聞いた。

「いや、ううん」私は慌てて目を逸らした。胸の高鳴りを悟られないように大きく腕を振って歩き出し、その場を離れた。父に知られたくない、恥ずかしい、という気持ちが一気に湧き出て、他の感情を押し流した。

 それ以降、親に映画に連れて行ってもらう機会もなく、玩具を親に買ってほしいと思うことも二度となく、数度の受験を乗り切るあいだに玩具を親にねだるような年齢でもなくなって、私という一人の空虚な大人が出来上がった。


 あのとき欲しかった玩具が、今ここにあった。


 古着屋の最奥に押し込まれた「衣料以外の日用品」という雑なカテゴリの金属棚の、更に一番隅に積み上げられた埃まみれの箱の数々。角が潰れ、他の箱に押されて歪み、封をするためのセロハンテープが茶色く乾いて割れ始めている。しかし、あの戦闘機に間違いなかった。あの日、欲しいと思ったことすら否定して、二度と思い出すこともなかった、他の数多の玩具と同じように私の手の届かないところで勝手に輝き続けただけの、キラキラしたもの。

 腹の奥底にわだかまるモヤモヤしたものがどんな感情なのか、私には相変わらず感じ取れず、ただぼんやりと他の箱を押し除けて、その箱を手に取った。

 220、と印字された小さなシールが貼り付けてある。この古着屋で付けられた中古品としてのこの玩具の値段だ。特にプレミアも付かない程度のプラモデルなのか、あるいは付いていたとしても、保存状態とこの店の客層を考慮すればこの程度が妥当、といったところなのかもしれない。

 二十五年の人生を振り返る。そのうちのかなり多くの年月を、もがいて、真剣に生きてきたつもりだった。何が自分にとっての価値で、意義なのか、わからないまま。わからないからこそ、馬鹿がつくほど真面目で、必死だったのだろう。

 今はすべてがわかる。私の魂を揺さぶった憧れと望みの価値は、二百円なのだ。あのときやっぱり買うべきだったのか、親と大喧嘩してでもねだって手に入れるべきだったのか、などと悩む必要すらなかった。買っても買わなくてもたいした違いは無かったし、良い意味でも悪い意味でもまったく取るに足らない、くだらないものだった。

 虚しさと晴れやかさが同時にあった。たぶん私の人生全体の価値だって、二百円くらいなのだ。出すところに出せばプレミアがつくのかもしれないが、現実には古着屋のような店で持て余されて、埃だらけで投げ売りされる程度の。

 私はそれを棚に戻して、古着を二点買って帰った。数ヶ月後、その店でアルバイトとして働き始めたとき、さりげなく棚を確認するとその戦闘機のプラモデルはもう無くなっていた。売れたのかもしれないし、在庫期間が長すぎて廃棄になったのかもしれない。


 どちらでも同じことだし、どちらであっても私の子供時代のしこりの末路に相応しい、と思った。

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