第2話 青い空と青い瞳

 ペラ、ペラ……。紙を繰る音が密閉された空間に響く。私は、紙に印刷された文字を目で追っていく。主人公の早紀さきが仲間たちと絆を深める話。


『早紀は自転車のハンドルを握りしめ、急な坂を勢いをつけて駆け抜ける。風が耳元でビュンビュンと鳴いた』

 

 風って鳴くのかな。私は不思議に思った。朝食を終えた後、私はいつも唐松様から貸していただいた本を読んで過ごす。本のおかげで、私はいつトラックに轢かれて異世界に転生してしまうかも分からない外に出ることなく、安全に過ごすことができている。


 灰色の、コンクリートという素材に囲まれた部屋を見回す。唐松様やその上司は、母親に虐待された私を『保護』してくれた。私はとても感謝している。


 ちなみにこの本は一度読んだことがあって、最後は早紀たちが真っ青な空を見上げて笑い合っていた。五歳までは外にいたはずなのに、私は空の色をあまり覚えていない。きっとそんなものに価値もないから、どうでもいいけど。


 ギギギと扉が開いた。唐松様が顔を覗かせ、「藍羽ちゃァん、ほい」と紙切れを渡す。一度目を通してから、噛まないようにゆっくりと読む。


「10月9日午後一時五十二分坂出クリニッが放火され、診察に来ていた患者が全員死亡します。……あの、唐松様」


「藍羽ちゃァん?」


 唐松様は威厳のある笑みを浮かべる。おかげで、私は気づくことができた。勝手に喋っちゃいけないんだった。


 私の口から出る言葉には全て『言霊』が宿っていて、思うままに喋ろうものなら言霊がどのように周りに影響してしまうのか分からない。迂闊に言葉を発してしまえば、ちょっとした解釈の違いで大変なことになってしまう。


『申し訳ありません』そう言う代わりに頭を下げた。


「よろしい」


 唐松様は満足そうに頷く。唐松様が部屋を出ていくと、灰色の空間に静けさが満ちた。再び本を手に取ろうとしたそのとき。


バーーーーーーーン


 聞いたこともないような轟音が響いた。

 

 にわかに、外が騒がしくなる。耳を済ましてみると、「侵入者だ!」「とっ捕まえろ!」と聞こえた。


 扉の外で何が起こっているのだろう。よく分からないけれど、すごく不安になった。胸の前で手をギュッと握る。


 しばらく耳を澄ませていると、誰かがこっちに向かって近づいてくる足音が聞こえてきた。唐松様だろうか。身を乗り出した瞬間、頑丈なはずの扉が蹴破られた。背の高い青年が、部屋の中に入ってくる。


「……誰?」


 私に言えたのは、たったそれだけだった。戸惑っていただけかもしれないし、言霊で周りに影響を与えないように無意識に気を付けていたのかもしれない。


 その人は長い前髪の間から覗く切れ長の目で、私をじっと見つめる。海の底みたいに深くて、暗くて、綺麗な瞳だと思った。実際に海の底を見たことはないのに、なぜかそう思った。


 薄い唇が開かれる。


紫揮しき、だ。お前を誘拐しにきた」


「ゆ、ゆうかい?」


「失礼」


 紫揮と名乗ったその人は、私を掬うようにして抱き上げると、そのまま走り出した。


「え? え? え? ええええぇぇぇ!?」


 突然のことに、目を白黒させる。待って待って、何これどうなってるの!?


 ずっと変わらないと思っていた世界が、突然現れたこの人によって壊されようとしている。『世界』が、ガラガラと崩れていく音がした。


 でも、なぜか嫌じゃなかった。


 目の前の景色が次々と変わっていく。今、私の目の前にあるのは見慣れた灰色の壁じゃなかった。傷のついた白い壁。その隅に設置されているホースのついた赤いタンク。長く、長く続く真っ直ぐに伸びた廊下。


 本は教えてくれなかった何かが、そこにあった。


私の目に飛び込む全てが、新しい『世界』だった。


「おい! 藍羽!!」


 そのとき、耳慣れた声が耳に届いた。紫揮の肩越しに後ろを見ると、唐松様が壁に手をついて息をぜいぜい吐いていた。


「唐松様!」


「なんだあのジジイ」


 紫揮も、足を止める。


「あァ、藍羽ァ。戻っておいでェ。そんなやつの所へ行っちゃダメだよォ」


 紫揮は、冷たい目で唐松様を、そして私を見下ろす。


「抵抗するのか? 無駄だからやめとけ」


「ハァ? 無駄な訳ないじゃァん。自分の立場分かってるのォ? 侵入者ちゃァん。そいつはアホみたいなに強力でェ、僕に従順な言霊遣い。藍羽ァ、そいつに向かって『死ね』って言ってくれるよねェ」


「え、えと……」


 いつもの私なら一つの間もおかずに、すぐに命令に従っただろう。だけど、今日の私はどこかおかしかった。


「わ、私は……」


 唐松様の命令に、逆らおうとした。


「言ええええええええええええ!!!」


「……っ。紫揮、死んでっっっっ!」


 でも、反射的に叫んでしまっていた。ギュッと目を瞑る。


 死亡。死亡。死亡。死亡。ずっとそんな言葉を使ってきたけど、私は人が死ぬところを見たことがない。真っ赤な血が大量に吹き出し、体は冷たくなって動かなくなるらしい。


 本で読む分には平気だったけど、現実は無駄にそこに鮮明な色と音と匂いと感触を加えてくるんだ。


「……バカバカしい」


 彼は冷たくなって動かなくなるはずだった。なのに。


「なんで……」


 彼は再び私を抱えてなおして走り出した。


「ばば、ばばばば、馬鹿な!」


 遠くで、唐松様が叫んでいる。紫揮が、顔を歪めて笑った。まるで世界の全てを嘲るみたいに。


「効かないんだよ。お前の言霊、俺には」


 紫揮の足が、ぼろぼろに大破した扉を駆け抜けた。柔らかい光に包み込まれる。私の知っている青を全部詰め込んだみたいな、そんな空が広がっていた。






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