愛の旅路、あるいは教育死刑

mimiyaみみや

第1話

 僕の父親は最初から狂っていた。町唯一の医者だったが、来る患者すべてにアスピリンを処方するヤブだった。生意気な患者が「腹イタで来たのにアスピリンとは何事か」と文句を言おうものなら、ゴルフボール入りの靴下で患者の頭を殴りつけ、「痛い、痛い」と患者が言うと、「頭痛だな」とアスピリンを処方していた。


 父親がうっかり患者を殺して刑務所に入ってから、僕の母親は狂ってしまった。医者であるという一点の理由のみで父と結婚した母は、父が医師免許を剥奪されてから、僕を医者にするため椅子に縛り付け勉強させた。たまにさぼろうものならヒステリーを起こし、「教育教育教育教育教育教育教育教育死刑死刑死刑死刑死刑死教育教育教育教育教育教育」と叫びまくった。そういうわけで、僕は父親の貯金と母親のへそくりを持って、家を出た。


   *


 道中かっぱらった三輪バイクで海沿いを走っていると、僕に向かって手を上げる女がいた。止まったのはひとえに彼女がいい女だったからだ。


「遠くへ」


 女が言った。


「悪いけど、営業車じゃないんだ」


 僕は答えた。


「じゃ、タダでいいわね」


 女が後ろに乗り込んできたため、僕はそのままバイクを走らせた。バックミラー越しに彼女と目が合い、僕はミラーの角度を調整した。


「童貞なの?」


「セックスは目でするものじゃない」


「セックスは目でするものよ、童貞くん」


「ブライだ。ブライ・テディッカ―」


「私はオニギリ」


「遠くってどこへ?」


「遠くは遠くよ」


「目的地に近づけば、近くだ」


「じゃ、ずっと走って」


「それじゃまるで亀を追うアキレスだ」


「アキレスが亀に近づく以上、不適切な例えだわ」


 僕はやりこめられてムッとして、急ブレーキを踏んだ。彼女が前のシートにしたたかに頭を打ち付けるのを見て、「ハハハ」と声を出して笑った。


 彼女は無言でタバコに火をつけた。


 気まずい沈黙に僕は耐えられなかった。


「ごめん」


「いいわ」


 たどり着いた町の入口には、「Welcome」の看板が立っていた。木造の宿は質素だが、悪くない。併設のレストランで、彼女はサラダを頼んだ。


「君は――」


「名前で呼んで」


「オニギリは、ヴィーガンなのかい?」


 彼女は独占していたメニューを寄越してきた。そのメニューに肉はなかった。僕はすこぶる腹が減っていたが、彼女に倣ってサラダを頼んだ。他にも客は数組いたが、皆サラダを食べ、サプリメントと睡眠薬を飲んで自室に帰っていった。


 ウエイターに聞けば、この町の人間はとても健康意識が高く、日の出とともに起きて運動し、ナッツとサラダとサプリメントで生きているらしい。その話をする間、ウエイターは五度も時計を見た。


「ロクな町じゃないみたい」


 その晩、彼女はベッドで寝て、僕は床で寝ることになった。床の板は堅く、おまけに隙間風が甲高い音を鳴らすため、僕はなかなか眠りに付けなかった。だから火事をいち早く察して飛び起きた。


「おい、火事だ。燃えている」


 寝ぼけたオニギリをベッドから引きずり下ろし、外に出た。


「君が――」


「名前で呼んで」


「オニギリがベッドで寝ていたせいで、窓際の灰皿からタバコが外に落ちたんだ」


 僕は最初に火がついたと思われる辺りを顎で指した。


「僕が床に寝ていたおかげで、すぐに起きられて助けられた」


「私たち、いいチームになれそうね」


 猛火に包まれた宿を見ながら、彼女はタバコに火をつけた。


「貰っていいか」


 彼女の差し出したタバコをそっと吸った。煙は喉に引っ掛かり、僕は小さくむせた。


「無理しないで」


 二服目も少々引っ掛かりはあったが、肺に煙を入れることができた。突然の眩暈に僕は座り込んだ。彼女もまた僕の横に座り、僕の背中をそっと撫でた。


「初めてなのね。頭がくらくらするでしょう。ゆっくり深呼吸して、それを楽しんで」


 世界がゆっくり僕と彼女を中心に回り始めた。僕はその快感に酔いしれた。そして一本吸い終わるころには僕は平気で煙を肺に入れることができるようになっていた。


「タバコはね、最初の九秒間の快楽と引き換えに、その後六十年の苦難を強いるの」


 初めて見る彼女の笑みは、予想に反して柔らかだった。


 火はあちこちの家に燃え移り、町を覆っていた。睡眠薬を飲んで眠る住民が逃げ出した様子はない。


「今なら焼肉が食べ放題だ」


   *


 朝日の中バイクを走らせていると、一台の車が止まっていた。中にはぐずぐずに腐敗した男女の死体があった。


「ひどい匂いね」


「心中らしい」


 彼女は顔を歪めながらも車内の金目の物を漁っていた。


「ひとつ聞きたいんだけど」


「なに?」


「オニギリが行きたい遠くってのは、この世から遠くって意味じゃないよな」


「あの世に行くのに六文以上必要?」


 彼女はダッシュボードの中の財布から、いくばくかの現金を見つけて数えながらそう言った。


 たどり着いた町は厳重に警備されていた。顔写真を撮られ、体重を量られ、すべての持ち物を没収された。そして、いくらかの紙幣を渡された。


「この町では、すべての人は平等に扱われる。資産はすべてここで現金化され、分配される」


「それにしても少なすぎやしないかい」


 僕は渡されたわずかな現金を見てそう尋ねた。


「この町では、体重や容姿も資産として計上される。君たちの体重は平均並みだが、彼女の容姿は大きな資産になり得る」


 僕は納得して、町に入った。食事はすべて配給制で、皆に平等に配られた。野菜や肉や穀物を細かく刻んで大鍋に入れ、同じ重量にきっちり分けて配られる。


 百人で稼いだものを百人で分け合うその仕組みは、大変に素晴らしいものに思えた。より多く稼いだものは皆に分配する量も増えるが、代わりに皆に賞賛された。利他主義者は皆のために働き、利己主義者は賞賛を得るために働いた。


 その生態はある種の虫のようだった。


「なあ、オニギリ。僕もベッドに行っていいかい」


 夜、床の上からベッドの彼女に声をかけた。


「したいの?」


「働いて、食べて、寝るだけの住民を見ていると、自分が人間ってことを忘れそうになるんだ」


「アリだってするときはするわ」


 僕は起き上がって、不器用に彼女の口を塞いだ。


「優しくしてね」


 その陳腐なセリフは僕を強く欲情させた。


「この町で暮らさないか」


 僕はすっかり彼女を愛していた。上下のない社会の中で、極上の愛に生きるのは、大変に贅沢なことだと思った。


「それもいいかもしれないわね」

 

 翌日、昼近くになってようやく目を覚ますと、町の人は皆死んでいた。


「昨日没収された毒を朝食に入れたみたいね。ほら、心中した車の」


 先に起きた彼女はコーヒーを飲みながら、こともなげにそう言った。


「なんでそんなものを」


「何かに使えるかと思ったのよ。悪いと思っているわ」


「とりあえず、町に残った資産をふたりで等分しよう」


「あなたにはバイクがあるわ」


「オニギリには容姿がある」


「じゃ私の取り分は三割ってとこね」


「公正な判断だね」


 三輪バイクに燃料を足し、僕たちはまた走り出した。


   *


 数日の野宿の間、僕たちは何度も愛し合った。一本のタバコを交互に吸い、僕の背には毎夜新たに彼女の爪痕が刻まれた。そして次の町にたどり着いた。


 道中彼女は日除けの帽子を目深にかぶり、一言も発しなかった。


「宿はここでいい?」


 僕がそう尋ねると、道行く人々が奇妙な目でこちらを見てきた。彼女は僕の後ろをピッタリとついてきて、どこかおびえているようだった。「君、止まりなさい」と向こうから警官が僕たちの方へ走ってきていた。


「いけませんよう旅のお方。女は紐で繋いでおかなくちゃあ。女ってのは浅知恵で行動するもんだからさあ、放し飼いで問題を起こすと飼い主の責任になりますぜ」


 そう言って僕に首輪と紐を手渡した。


「あれ、あんたどこかで」


 警官が彼女を覗き込もうとしたところで、彼女が僕の背をそっと押した。僕は目で警官に挨拶をして宿に入った。


「ここは私の生まれ故郷なのよ」


「素敵なところだ」


「ここが嫌で逃げ出してきたってわけ」


「ごめん」


「私の両親は狂っていたわ。女を犬のように扱うのはおかしいと声をあげてね、死刑になったわ」


 彼女はタバコの煙を吐きながら言った。


「そんな両親の元育てられたから、私も狂ってるの」


「僕もこの仕組みはおかしいと思うな」


「じゃああなたも狂ってるわ」


 宿の主が歩いてくるのが聞こえ、僕は戸を開けた。


「夕食をお持ちしました」


 僕が部屋に目を戻すと、彼女は部屋の隅の一番暗いところで両ひざをついて座っていた。膳は当然のように一つで、彼女のものと思しき魚のアラの寄せ合わせが別皿で置かれた。


「両親が死刑になった後、私は町長の妻になったわ」


 宿の主が戻ったあと、彼女は再びタバコに火を付け、そう言った。


「私の狂った思想を再教育すると銘打たれ、四十も年上の男に嫁いだの。でも、両親から受け継いだものは変わらないわね。私は今でも狂ったままよ。両親は死刑、私は教育、教育、教育、死刑、死刑、教育」


 彼女は声をあげて笑った。その晩、彼女は床に寝て、僕はベッドで眠った。翌朝、町はいつもと変わらない一日が始まっていた。そして、僕の部屋に警官が来た。


「旅のお方、すいませんが、女の顔を見せてはくれませんかね。いえね、まったく、町の恥ではございますがこの町から逃げた女がおりまして、どことなくその女と背格好が似ておりましてね。失礼とは存じますが、協力いただけませんかね」


 警官の声には有無を言わせない強さがあった。僕はにっこり微笑んで、こう言った。


「ああ、やはりこの町の女でしたか。拾ったはいいが、女が物を言わないんで困っていたんですよ」


 警官はほっとした顔になって、彼女の顔をあらため、頬を二、三度張って、怒声をあげながら彼女を引っ立てた。


「いやあ、ご協力ありがとうございました。大変助かりました。女は町の宝ですからな、ハハハ」


 警官は自身の手柄に上機嫌で、僕に握手を求めてきた。


「ところで、僕の町では拾ったものに対してお礼金がでるんですが、この町ではいかがでしょう」


「もちろん、町長からお礼に呼ばれることでしょう。あ、町長の女って訳ではないですよ。女に逃げられるのは男の恥ですからな。ハハハ。ただ町を代表して町長がお礼するだけですので、お間違いなく」


 僕は警官と握手をして見送った。


 その日の午後、町長の使いの者から迎えが来た。僕は車に乗り込み、屋敷に丁重に迎えられた。


「よく来た旅の者。貴様はこの町の女を保護し連れてきた。その恩は計り知れない。お礼をしたいのだが、望みはあるかえ」


 よく太った町長にそう尋ねられ、僕はゴルフボールを所望した。


「なんだ、そんなものでいいのか、欲のないやつ。ホホホ」


「靴下は履いてきましたので、ゴルフボールだけで充分です」


 もらったゴルフボールを靴下に入れ、「教育教育教育教育教育教育教育教育死刑死刑死刑死刑教育教育教育教育教育教育」と町長を殴りつけると、あっけなく町長は死んだ。


 次の町長を決めようと大騒ぎしている人々の間をすり抜け、僕は彼女を探した。町長が死ぬと次の町長が法律を決めるまで、町は無法地帯となる。当たり前のことだ。


 ようやく見つけ出した彼女の拘束を解いて、僕たちは屋敷を出た。


「どうやって彼を殺したの」


「両親から受け継いだものは、簡単には変わらないね」


「きっと素敵なご両親なんでしょうね」


 僕は肩をすくめて返事をした。背後では逃げ惑う全裸の男を、火炎放射機を持った女が追いかけている。道の脇では髭の老人が太鼓を叩きながら「地球は丸い、地球は丸い」と叫びまくっている。


「次はどんな人が町長になるかな」


「きっと狂ってるわ」


 市場の魚が生き返り、店主や道行く買い物客に食いついている。


「どこに行っても結局みんな狂ってるんだ」


「ねえ、この町で私と一緒に暮らさない?」


「いいね。家を買って、一緒に暮らそう」


 青果屋のパイナップルを人々が投げ合い、人を、道を、家を爆破している。


「お金がいるわね」


「どうにかなるさ」


 愛し合う僕たちは、いらなくなった三輪バイクを売るために、ビッグモーターへ向かって並んで歩いていった。

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愛の旅路、あるいは教育死刑 mimiyaみみや @mimiya03

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