第12話 親子の縁
東慶寺の御用宿、柏屋でお菊は、お多江より身元調べを受けていた。
身元調べでは、縁切りを望む妻の素性を確認する。それは、生い立ちから今に至るまで、事細かい質問が続くのだ。
縁切り寺法に則れば、東慶寺の中に入ると、外部からの干渉を一切、受けなくなる。
ゆえに、犯罪の隠れ蓑に利用されないように、入念な確認が必要なのだった。
続いて、離縁したい理由の確認を行うのだが、ここでお菊が泣き出してしまい、
「どうしたんだい、お菊さん。離縁の覚悟を決めて、東慶寺に来たんだろ?」
「・・そうなんですけど・・・、私、あの子を・・」
昨日、天秀も見かけたお菊の娘、利平に聞いた名は、確か
その佐与のことを気にしているのだろう。
実際、天秀もこのままお菊が縁切り寺法に則って、東慶寺に入った場合、彼女はどうなってしまうのか気になった。
もちろん、父親までもいなくなるわけではないため、生活に困るということはないと思うが・・・
「駆け込みを止めるかい?」
お多江の言葉にお菊は首を振る。離縁の意志だけは、固いようだ。
「・・・私、あの人が怖い・・・もう、一緒にはいられません」
「何かあったのかい?」
お菊が頷くと、昨日、駆け込みに失敗して家に戻ってからの出来事を話し始める。
家に着くと、太吉は改めて、酒と博打は止めると誓ってくれた。
その言葉を完全に信用するわけではないが、小さい佐与のためにも我慢しようとお菊は決める。
そんな決意を揺るがす事態が、その晩に起きた。
太吉は、本当に賭場に行く素振りを見せず、酒も一合、軽く舐めただけで、それからは手をつけない。
その様子に、本当に心を入れ替えたのかと、改めて太吉を見ていると、その視線に気づいたようだ。
「何だ、俺を疑っているのか?」
「いえ、別に・・・」
お菊は慌てて、否定する。いつもなら、ここで大声で喚き散らし、平手打ちの一つも受けるところ。
しかし、この夜の太吉は優しかった。
「しばらくは生活に困らねぇのさ」
そう言って、上機嫌でいる理由をお菊に明かす。懐から、小判を五枚ほど取り出した。
五両といえば、この借家の家賃で二年以上暮らせる大金である。
お菊は、目を丸くしてその小判に見入った。
「あなた、そんな大金、一体、どうしたの?」
「へっへっへ。俺が毎晩、どこに行っていたと思っているんだ?」
太吉は賭場で儲けたと言っているが、絶対に嘘だ。夫に博打の才能があるとは思えない。
それに素人のお菊でも、賭け事が簡単に大儲けできる仕組みになっていないことを理解していた。
この小判は、きっとよからぬことをして手に入れたお金。
そう思ったら、お菊は怖くなって仕方がなかった。
気がついたら、夜中、こっそりと家を抜け出し、東慶寺の門に簪を刺していたのである。
「確かに太吉さんの行動は、怪しいね。ちょいと調べてみるかねぇ」
すると、「あいよ」と利平が頷く。天秀に手を振りながら、御用宿を出て行った。
こういった身辺調査は、利平の仕事らしい。
「それで、手続きは、続けていいのかい?」
「太吉とは縁を切りたいです。・・・ただ、佐与との縁は・・・」
娘を想う気持ちで、踏ん切りがつかないようだ。
それはそうだろう。夫とは元を正せば、赤の他人だが、娘は血を分けた言わば自分の分身である。
そう簡単に割り切れるものではないと、見ている天秀も思った。
ところが、そんなお菊を前にして、お多江が闊達に笑う。
「そんなことを気にしていたのかい。いいかい、夫婦はね、本来、五分と五分。だけど、実際は女性の方が立場が弱い。だから、そのためのこの寺さ。でもねぇ、親子は違うよ」
「どういうことでしょうか?」
「親が子の縁を切るなんて、ただの責任放棄さ。東慶寺がいくら縁切り寺だといっても、親子の縁切りまでは認めちゃいない。お菊さん、あんたが望んでも佐与ちゃんとの縁は切らせないよ」
なるほど。
いくら東慶寺に入寺したといっても、総ての縁が切れるわけではないと、天秀も初めて知る。
これで、お菊が縁切りを行うことに支障はないように思われた。
ただ、気になったのは、佐与の今後のことである。
もし、本当に太吉が犯罪に手を染めているのであれば、いずれ罰せられる日が来るはずだ。
そうなると、二十四カ月はお菊が東慶寺から出られない以上、一人になってしまうのでないか?
「お菊さん。佐与ちゃんを預けられるような身内はいらっしゃらないんですか?」
つい天秀が口出しをしてしまった。しかし、お菊は首を振る。
お菊は鎌倉の出じゃなく、親戚もこちらにはいないそうだ。
「そいつばっかりは、うちも託児所じゃないんでね」
天秀がお多江に頼む前に、先手を打たれる。
確かにお多江が言うことはもっともだ。
それで、いちいち引き取っていたら、御用宿はたちまち、子供で溢れかえってしまう。
何か、理由があれば、何とかなるような、お多江の素振りではあるが・・・
「ならば、妾の侍女として雇うかえ」
そこに現れたのは甲斐姫である。もし、それが実現可能であれば、この母子を救うことができると思われた。
「甲斐姫さん、お金がかさみますが、いいんですかい?」
「構わぬ。どうせ、千姫が出してくれている
思わぬところで義母の名前が出たが、確かに千姫ならば、甲斐姫が言う通り、無慈悲なことはしないはずである。
天秀は、とりあえず甲斐姫に感謝を示した。
「礼などいらん。その娘には、しっかり働いてもらうからのう」
それでは、早速、佐与を引き取りにいこうとした時、柏屋の扉が開く。
「その必要はないですよ」
入って来たのは、先ほど出て行った利平ともう一人、若い侍だった。
「太吉さんは、窃盗の罪で先ほど、捕まりました。被害者は、商家の若旦那。まぁ、この若旦那も店の金を勝手に持ち出していたようで、あまり大事にはしたくない様子でしたがね」
太吉の状況を若い侍が説明するのだが、この男は誰であろうか?
柏屋の中に不思議な空気が流れる。
「あ、申し遅れましたが、拙者、新しく東慶寺の寺役人になった
この説明で、一堂、納得した。新しく寺役人が赴任してくると聞いていたが、このような爽やかな好青年だとは思ってもいなかったのである。
ただ、甲斐姫の目だけが鋭く光った。
『あやつ、あの身のこなしは、相当できるぞえ。ただの寺役人に収まる男とは、到底、思えんが・・・』
甲斐姫は、一応、この男のことを頭の隅に入れ、警戒することにする。
そんな中、天秀は、「先ほどの、必要はないと仰ったのは?」と右衛門に尋ねた。
右衛門は、値踏みするかのように天秀を見た後、にっこりと微笑む。
「ああ、申しわけない。実は、その佐与殿を、こちらにお連れしています」
すると、小さな女の子が柏屋に駆け込んできた。母親の姿を見つけると、お菊に抱きつく。
母子の涙の対面だった。
それを見ていた天秀は、大阪落城の際、母、
今は、再会を果たした母子を、ただ、祝福するのだった。
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