幕間 初めての夜

 その夜、アイリーンは与えられた部屋ではなくて、シグルスの寝室にいた。公表はまだだがおまえはもう俺の妻になったんだから、と、ベッドを共にするようシグルスに言われたからである。


 侍女の手を借りて湯浴みをして、やわらかな寝間着に着替えたアイリーンは、大きなベッドの隅にちょこんと座ってシグルスを待っていた。


 キィ、と、しずかな音を立てて、扉が開く。


 アイリーンは、は、と、そちらを見た。もちろん、そこに立っているのはシグルス・ウェリス=ナグワーン現皇帝である。そして、アイリーンきとっては、夫になったばかりの人でもあった。


「おい、嫁よ。なぜそんな端っこに座っている?」


 部屋の扉を開けたシグルスは、くつくつ、と、喉を鳴らした。責めるわけでもなければ、呆れているふうでもなく、相手はただ、こちらの様子をおもしろがっているようだった。


 大きなベッドの隅に小さくなって腰掛けているアイリーンは、だって、と、反論めいた声をあげた。


 シグルスはそんなアイリーンのもとへとつかつかと歩み寄ってくる。アイリーンはびくっとして、ますます身体を縮こめた。


「どうした? 我が皇妃よ」


「陛下……あの、私……男の方と同衾するのは、今夜がはじめてです」


「ほう、それはいいことを聞いたな。では俺は今晩、おまえの初めての男になるわけだ。――心配するな。やさしくするし、きもちよくしてやるよ」


 すぅっと黒曜石の眸がすがめられて、アイリーンはどきりとした。


 夫婦が夜、ひとつベッドで何をするか、淑女教育の一環として教えられるから、十二歳のアイリーンにもうっすらとした知識だけはある。だが、それがいまから自分の身に実際に起こるだなんて、とてもではないが、実感がわかなかった。


「あの、陛下」


「ん?」


「陛下が私と夜を共にされようとしているということは、私たちが白い結婚のままでは、都合が悪いというご判断ですよね?」


 白い結婚とは、肉体関係を伴わない婚姻のことである。アイリーンがどきどきしながらも、おずおずとかすれ気味の声で問うと、シグルスはふっと笑った。


 相手はそのまま、無言でアイリーンの隣に座る。


 長い腕がおもむろに自分のほうへ伸びてきたのに気がついて、アイリーンはきゅっときつく目をつむった。


 抱き寄せられたかと思うと、そのままベッドに横たえられる。あ、と、思ううちに、シグルスのたくましい身体が覆いかぶさってきていた。


 体重をかけないように気遣ってくれているらしく、のしかかられても重くはない。が、いままでにないくらい身体は密着していて、それだけで、アイリーンの心臓は破裂してしまいそうだ。


「アイリーン」


 シグルスが耳許に囁くように呼びかけてくる。アイリーンはおそるおそる瞼を持ち上げた。


 そうしたら、どんでもない間近から、つやめく黒曜石の眸がこちらを見下ろしている。


「……シグルスさま」


 そう言ったきり、アイリーンはまたぎゅっと目をつむってしまった。


「か、覚悟は、できでおります。どうぞ……!」 


 胸の前で、両方の手を握りしめて、しぼりだすように言う。油断したら、ふるえ出すか、あるいは、泣き出してしまいそうだった。


 シグルスの息遣いが自分の顔に近づくのがわかる。


 このまま、くちづけされるのだろうか。その後で、彼の大きな手が、アイリーンの肌を撫でたりするのだろうか。


 まだ書面上だけとはいえすでに自分たちは夫婦にはなったのだから、別にちっともおかしくはない。これは当然の行為だ――……でも。


(やっぱり、まだだめ)


 おねがい待って、と、涙目になったアイリーンがそう言いかけたときだった。


 ちゅ、と、ひたいに軽く、あたたかなくちびるが触れた。


「え……?」


 驚いて目を開けると、目の前のシグルスは、いかにもおかしそうに、くつくつと笑っていた。


「馬鹿め。あいにく俺には小娘がきを抱く趣味はないんだ」


 そういうと、相手はごろりとアイリーンの隣に横たわった。


「ほれ、寝るぞ。明日はおまえを皇妃に選定した旨、廷臣たちに公表する。お前にも朝議に出てもらうんだからな」


「で、でも……いいんですか? 妻のつとめを果たさなくても……」


 それでなくてもアイリーンは、現在、浮気厳禁をシグルスに突き付けているのである。はたはたと瞬きながら隣のシグルスをうかがうと、相手は、ははは、と、いかにもおかしそうに笑い声を立てた。


「妻のつとめときたか。ませがきめ。――が、そういうセリフは、せめてあと四、五年してから言ってくれ」


「で、でも陛下……お世継ぎは? 陛下に対して、早くお世継ぎを、そのために側妃を持て、と、そう言ってくる者が、きっといるでしょう?」


「まあ、そうだろうな。ついでに自分の娘を売り込んできたりとか。――だが、そんなやからには、嫉妬深くて怖い皇妃が許さないんだとでも答えておくさ。事実だしな」


 シグルスは、に、と、笑う。


 アイリーンはシグルスにつきつけた自分の言葉を思い出し、かぁ、と、頬を染めた。


「だ、だれが嫉妬深いの……!」


 ぽかぽかと相手の胸を叩くと、シグルスはまた、ははっ、と、声を立てておおらかに笑った。


「さ、寝ろ寝ろ。朝議の場でうとうとされてはかなわん。――まあ、おまえなら、たとえそうしたところで、みな、なんとも愛らしい皇妃だと微笑ましく見るだけだろうがな」


「そ、そんなことは、しません! 皇妃として、ちゃんとします!」


「じゃあ、明日に備えて、まずは睡眠。な。寝る子は育つんだぞ。早く俺好みのいい女に育ってくれ」


 言いながら、シグルスはぽんぽんとアイリーンの頭を撫でた。


「もうっ! 子供扱いしないで!」


 思わず丁重な言葉遣いを忘れてそう言ってしまうと、シグルスは、ふ、と、穏やかな笑みを口許にはいた。黒い眸が、すぅっとやさしく眇まっている。


「まだ子供だろうが、どっからどう見ても」


 言われてアイリーンは、む、と、押し黙った。


 けれども、返す言葉はない。アイリーンはまだまだ子供で、それは厳然たる事実だった。だからこそ、すこしでも早く成長できるようがんばらなければならない、と、おもう。


 黙り込んだアイリーンの身体を、シグルスは抱き込んだ。こちらのちいさな身体を守るように胸に抱き込みながら、まだ、そっと頭を撫でていてくれる。


「どうだ、男との初同衾は? ん?」


 あえて冗談っぽく訊ねてくるのは、きっと黙してしまった自分への、相手なりの気遣いなのだろう。言動こそでたらめに見えていても、彼はその実、くやしいくらいに大人だった。


「――悪いな」


 だから時に、不意打ちでひどく真面目な顔をしたりする。


 ずるい、と、思いながら、アイリーンは夫になったばかりの相手を見た。シグルスはどこか自嘲めいた微苦笑をその頬に浮かべていた。


「おまえも言っていたとおり、俺にはまだ、信用できる手勢が少ないんだ。夜も、情けないことに、おまえの寝室に万全の警備をつけてやれない。だからしばらくは俺との同衾でがまんしてくれ。すまん」


 静かな声で真摯に告げられ、アイリーンは、さっきとは違う意味で言葉を飲んでしまった。


 何かを言うかわりに、ぎゅっとシグルスの胸に抱きついてみる。シグルスはすこしだけ驚いたようだったが、何も言わず、アイリーンをやさしく抱き返してくれた。


「刺客に襲われたら、今度は私が、陛下を庇って差し上げます!」


 アイリーンが言うと、シグルスは一瞬動きを止め、それからくつくつと喉を鳴らした。


「そりゃあ、頼もしいことだ」


「妻ですから」


 彼がいま自分を包み込んでくれているように、いつかは自分も、この人を包み込めるようになれるのだろうか、と、ふとアイリーンはそんなことを思った。


「あの、陛下」


「ん?」


「殿方との同衾は、私ははじめてですが……あたたかくて、きもちいいです。はじめてが陛下で、よかったわ」


「はは。そりゃあ、重畳だ。男冥利に尽きるよ」


 あくまでも軽口めかして言うシグルスに、やさしく頭を、背を撫でられていると、やがてアイリーンの瞼はだんだんと重くなってきた。


「おやすみ、アイリーン……俺のちいさな皇妃」


「ちいさなは、余計よ。でも……おやすみなさいませ、シグルスさま……私の、陛下」


 アイリーンが、すでにぼうっとしながらそう返すと、シグルスは刹那、面食らったように息を呑み、それから、くくっ、と、おかしそうに喉を鳴らしたのだった。 



 アイリーンがすっかり寝入ったのを確かめた後、シグルスはそっとベッドを抜け出した。


 すたすたと歩いていく先には、シグルスが南部ナグワーン公爵領からここ皇宮に移ってすぐの頃に、この寝室に用意させた書卓があった。簡易の執務机のようなものだ。


 壁一面には書架が据えられ、書物も書類も、山のように積み上がっている。だが、この国が解決すべき課題は、それ以上に山積していた。


 言葉のあやというのでなく、寝る間も惜しんで執政にあたっていてすら、とても間に合わない。やるべきことは多すぎた。


 うんっ、と、ひとつ伸びをすると、シグルスは書卓についた。


 ちら、と、先程後にしてきたベッドのほうを見遣る。そこではアイリーンがすこやかな寝顔をさらして眠っている。


 トレノエル辺境伯領で、大事に育てられてきた娘だ。シグルスが横から手を出さなければ、いずれ、どこぞの貴族にでも嫁ぎ、妻として、母として、それなりにしあわせで平凡な一生を送ったのかもしれない。賢い娘だからこそ余計に、自分の分というものをわきまえて、上手にやったことだろう、と、思う。


 だがシグルスは、まだいとけないそんな少女を、己の思惑ひとつで、この皇国の国母として立ててしまった。それのみならず、これから、まつりごとの表舞台にすら立たせていこうとしている。


(――共同統治者、ねえ)


 そんな言葉が自分の口から出てきたのが、我ながらおかしかった。


 皇帝たる自分の傍にいるのも危険だが、かといって、皇帝の正妻、皇妃ともなれば、単独でいてもその身命を狙われる可能性はある。だから、手許から離してしまうのも心配といえば心配ではあった。


 シグルスにはまだ安心して使える手勢が少ない。結局のところ、しばらくの間は、朝議のときも、執務のときも、アイリーンはシグルスの傍近くに伴うのが最善か、と、思っていた。


(だが、ほんとうに、それだけか……?)


「共同統治者、ねえ」


 頬杖をついたシグルスは、目を細めてアイリーンを眺めやり、今度は口に出して言った。くつ、と、喉を鳴らす。


 それを口にしたとき、半分は冗談みたいなものだった。けれどもどこかで、ほんとうにそうなってくれればおもしろいのに、と、思ってもいる。


 何年か経ったころ、もしかしたら実際に、彼女は古来の皇国の皇妃の姿を――皇帝の傍らに立ち、共に国を治める者としての姿を――見せてくれるようになるのかもしれない。


 それはシグルスの中にある、予感とも、あるいは期待ともしれない思いだった。


(はたしてそうなったとき、俺ははアイリーンを素直に手放してやれるのかね)


「人質が不要な状況になったら離婚には応じると、うっかり言ってしまったな。――ああ、でも、おまえに俺に惚れてもらえば、ずっと手許に置いておけるか」


 シグルスは敢えて声に出してひとちて、それから、くく、と、笑う。


 笑う余裕があるということは、まだ、自分は本気ではない。


(だが、油断してたら……俺のほうが先に、おまえに惚れこんじまうのかもしれないな。国境の獅子の娘、トレノエル辺境伯令嬢アイリーン。――ま、だとしても、まだまだ先の話だろうが)


 シグルスは目を眇め、不思議な魅力を感じさせる少女をひと眺めする。その安らかな寝顔に心慰められながら、ふ、と、ひとつ息をつくと、目の前に山積みになっている書類のひとつを開き、ペンを取った。


(とりあえずは、選ばなかった他の辺境伯令嬢方に、納得の上、ご領地までご帰還願わねばならないが……おとなしく引き下がってくれるものかな)


 ランス辺境伯令嬢あたりは、あるいは、ひと悶着起こしてくるかもしれない。また、いざ帰る段になったら護衛をつけて送らなければならないだろうから、慢性的な人手不足状態の中でそれをどうするかも考えておかなければならなかった。


(そうだ、トレノエル辺境伯に書状も書かなくては……それにしてもあの男が我が娘の素質に気づいていなかったなんてことがあるか? 裏を読んだつもりで、いっぱい食わされてるんじゃないか、俺は……)


 考えるべきこと、思うことが、次々と心中に浮かびあがってくる。刺客の件もあった。皇太后か宰相か、さてあれの裏で糸を引くのは誰かな、と、シグルスは嘆息した。


 いつか妻の隣で何の憂慮もなく惰眠だみんをむさぼってみたいものだ、と、そう思う。が、そんな未来はまだまだ遠いのだろう。


 若き皇帝の夜はこうして新妻との甘いひとときとは縁遠く、せわしなさのうちに更けていくのだった。

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皇帝陛下の幼妻ーお前は皇妃という名の人質だと言われましたが、お飾りなんかイヤなんですっ!ー あおい @aoi_tsuki

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