1-13 明かされた秘密

 あなたは誰なのかというアイリーンの問いに対し、ジークフリートは黙したまま肩をすくめるばかりで、すぐには答えをくれなかった。


 アイリーンはエメラルドの眸でじっと相手を見据えていたが、彼は気にするふうもなく、なぜか無造作にジュエリーシュガープラムの木の枝へと手を伸ばしている。真昼の陽射しにあかく輝く実にふれた節ばった指は、そのまま、ぷちん、と、その実をひとつをいでみせた。


 ジュエリーシュガープロムのつける実は、ひと口大の大きさだ。皮を剥くと、半透明に透き通った薄い黄緑色の、瑞々しい果肉があらわになる。ジークフリートはそれを、何を気にするふうもなく口に放り入れると、咀嚼そしゃくし、最後に、ふ、と、たねき出した。


 先程、レオンハルトはレイチェルが木の実に手を伸ばすのを慌てて止めていた。けれどいま、目の前の男は、それを無頓着に食べてみせた。


 その、意味すること。


「……いいんですか……“陛下の庭園”の木、なのでしょう?」


 アイリーンは、慎重に相手の様子をうかがいながら問う。少なくとも、皇帝の信頼厚い騎士が取る行動ではなかった。


 ジークフリートはまた、くすん、と、肩をすくめた。


(他の人の目がないから、とか、そういうことじゃないんだわ……たぶん)


 奇妙な確信が、アイリーンの胸に湧いている。


(この人はきっと、そうしてもいい人なんだ……この皇宮内において、誰も、この人をとがめることはできない)


「かまわないさ」


 案の定、ジークフリートは事も無げにそう答えた。


「なぜ、ですか? ……ジークフリート、さま」


 アイリーンは試すようにそう口にしたが、その理由が――たしかな証拠などはないながらも――わかっているからこそ、その口調は、自然、丁重なそれに変わっている。


 そして、アイリーンがすでに気がついていることに、相手も気付いているのだろう。ジークフリートはつやめく黒曜石の眸を意味深にすがめてみせた。


「おまえにも、ひとつやろうか」


 そう言って口角を持ち上げると、相手は再びジュエリーシュガープラムの木に手を伸ばした。またしても無造作に枝から実をぐと、それとはうらはらの丁寧な手つきで皮を剥き、果肉をふたつに割って、器用に種を取り出した。


 果汁滴る木の実は、そのまま、アイリーンの口許に差し出される。


(食べろって、こと、よね……?)


 つややかに深い色の黒曜石みたいな眸に見据えられていると、なぜか、逆らえない。アイリーンは目の前にあるジークフリートの右手にそっと自分の両手を添えるようにして、彼のつまんでいるジュエリーシュガープロムの実にくちびるを寄せた。


 おずおずと口に含む。


 なぜだろう、見られていると思うと、ものすごく気恥ずかしく、胸がどきどきした。熟した果肉はとろけるように甘いはずなのに、どこか、甘酸っぱいような気分になった。


 咀嚼して飲み込み、再びジークフリートをうかがい見る。彼は満足そうに笑っていた。


「ジークフリートさま……?」


「――シグルス」


「え?」


「俺の名は、シグルス。――名を呼べ、許す」


 言われてアイリーンは息を呑み、エメラルドの眸を大きくみはった。大きな秘密の暴露にしては、それはあまりにも呆気ない言い方だった。


 シグルス――……シグルス・ウェリス=ナグワーン。


 ウェリス皇国の、現皇帝。


「……どうして?」


 名を呼ぶことを許すと言われたことに対してか、それとも、皇帝そのひとが護衛のふりをしてアイリーンの傍にいたことの理由を訊ねたかったのか、反射的に疑問を口にしつつも、アイリーン自身もよくわかっていなかった。


 さあぁぁん、と、一陣の風が、ふたりの間を吹きぬけていく。


 ジュエリーシュガープラムの木の葉が、さわさわ、と、葉擦れの音を立てる。


 相手の、首の後ろでひとつに束ねられた、印象的な赤毛がゆれた。陽の光に透けると、赤銅色の髪がほのおのような明るい赤に見える。アイリーンの、春の陽射しを絹糸につむいだみたいなプラチナブロンドも、ふわりと風に軽くもてあそばれた。


 ジークフリート――シグルスは、アイリーンとの距離を一歩詰める。驚愕きょうがくの表情でまじまじと相手を見詰めているアイリーンの髪をひと房手に取ると、彼は、すっとそこにくちびるを寄せた。


「どうしてって、お前が俺の妻に……皇妃になるからだよ、トレノエル辺境伯令嬢、アイリーン・トレノエル」


 相手はつやめく黒曜石の眸に強い光を宿してアイリーンを見詰めながら、こちらにとってはわけのわからない、信じられない言葉を口にした。



「皇、妃……私が……?」


 アイリーンは衝撃に固まっている。どうやらこちらについて、護衛騎士などではない、と、気がついたらしい少女だったが、それでもまさかシグルスが彼女を皇妃にする気だとまでは読めなかったらしかった。


 大きなエメラルドの眸がもっと大きく見開かれている。アイリーンが呆然としているのをいいことに、シグルスは――先程まで、騎士ジークフリートのふりをしていた男は――アイリーンの身体を、ひょい、と、横抱きに抱え上げてしまった。


「きゃあ……な、なにをするんですか!」


「俺の執務室へ行く。結婚誓約書はすでに準備してあるからな。後はおまえがサインすれば、俺たちはめでたく夫婦だ。おまえは俺の正妻、この国の皇妃になる」


「なっ……!」


 言葉を失う相手は宝石みたいなエメラルドの眸を大きく瞠っている。まだ軽いちいさな身体も、ふっくらとしたまろみを残した頬も、それからこういう表情も、腕の中の少女がまだいとけない年齢だということをシグルスに感じさせた。


(たしかにまだ子供だ。だが、この娘は並の子供ではない)


 シグルスははじめ、自分の正体を隠しおおせるつもりでいた。ナグワーン領にいた頃も、視察のため、身をやつして街へ下りることは多々あったし、気づかれないという自信はあったのだ。


 だが、途中から、なんとなく隠す気が失せてしまった。気取けどられるならそれでもいいかと思ったし、気づいてくれればいいのに、と、どこか期待するような気分すら持っていた。おかしなものだ。


(だが、トレノエル領へ返せば、数年後には、こいつも普通の貴族令嬢みたくなるんだろう……適当な貴族と結婚して、良き妻、良き母になるような)


 シグルスはアイリーンを抱えたままで宮殿へ向かってすたすたと歩きつつ、ふと、少女を見下ろした。エメラルドの眸が、その瞬間、き、と、シグルスを睨み据える。


「皇妃って、なによそれ……私の意思はどうなるのです?」


「ははっ、おかしなことを言う。だから一応、これからおまえ自身にサインさせてやろうと言ってるだろうが。それにおまえは、そもそも俺の皇妃候補として、トレノエル領から送られて来たんじゃないのか? ん?」


「それは……そうですが」


 アイリーンは思慮深いようだが、同時に、子供ゆえにこそのおそれ知らずな面を残している。そのことが、シグルスにはひどく好ましく思えていた。


「とにかく、俺はおまえを選んだ」


「きょ、拒否権は……?」


「さあ、どうかな」


 はぐらかすように言って、喉を鳴らす頃には、シグルスはすでに宮殿の扉のところまで辿り着いている。そのまま廊下を突っ切り、自分がいま私的な執務室として使っている書斎へと向かった。


「――陛下」


 扉を開けると、執務のために部屋にいた側近のグイドが、慌てたように駆け寄ってきた。


「陛下、これはいったい……?」


「バレた」


「まさか」


「まあ、半ばはバラしたとでも言うべきかな。――用意した結婚誓約書を出してくれるか」


「ああ、ええ、はい。――でも、よろしいんですか?」


 側近は、ちら、と、アイリーンを見る。シグルスの腕に抱かれている少女が、その顔に戸惑いをいっぱいに浮かべているのが気になるのだろう。


「しばらくこれとふたりにしてくれ」


 グイドが書類を机に準備し終えたのを確かめて、シグルスは、ふう、と、息をついいて言った。 


「まさか……ここでご令嬢に手をお出しになる気じゃないでしょうね」


 嫌がる相手を納得させるために既成事実でも作る気では、と、疑われ、シグルスは顔をしかめた。


「馬鹿め。この前からお前は、人をおに畜生ちくしょうかなにかのように言うんじゃない。こんな子供を、無理に手籠めにするわけがないだろうが。話をするだけだ」


「ああ、よかった。――では、わたしはこれで」


 胸を撫で下ろしたグイドが部屋を出て行こうとする。


「ああ、そうだグイド、さっき庭園に侵入者があった。とりあえずは始末したが、調べさせておいてくれ」


「承知しました」


「やはり警備体制は抜本的に見直さないと駄目だろうな」


「そうでしょうね。ですが、行き着くのは、圧倒的に人手が足りていないといういつもの問題でしょう? まずは仰っていたとおり、官吏と兵卒の登用制度の枠組みからですか」


 ふう、と、側近は溜め息をついた。


「ああ、陛下、言い忘れるところでした。皇妃選定についての詔書は、明日の朝議でおおやけに出来るよう、準備は整っておりますので。――では」


 そう言って今度こそグイドが部屋を後にし、書斎にふたりきりになったところで、シグルスはようやくアイリーンを下ろしてやった。


「なにか、言いたげだな」


 無言でこちらを見据えるエメラルドの眸を前に、ちら、と、頬に苦笑を浮かべる。


「言いたいことがあるんなら、聴こうじゃないか」


 シグルスはアイリーンをソファに掛けさせると、自分は窓辺に立って、アイリーンのほうを振り返って言った。

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