1-12 刺客と疑念

「さっきはなぜ、あえて大きな声を出されたんですか?」


 アイリーンがジュエリーシュガープラムの木の下にいるジークフリートのところまで戻ると、開口一番、相手はそう尋ねてきた。


 彼は、アイリーンがわざと声を張って発言したことがわかっているらしい。だから、本気で理由がわからずに不思議がっているというよりは、なにかこちらを試すかのような雰囲気が感じられた。


 その証拠に、ジークフリートの口許は笑んでいる。彼はまるで、たのしんでいるかのようだった。


 相手がかもす余裕の雰囲気に、アイリーンはちょっとだけむっとした。眉根を寄せ、くちびるをとがらせると、くく、と、ジークフリートが喉を鳴らす。


 こちらがご機嫌ナナメになったのすらおかしがられて、アイリーンは、つん、と、そっぽを向いた。


(もう、子供扱いして……!)


「抑止になるかなって思ったの」


 くやしいから、横を向いたままで答えることにした。


「抑止」


 ジークフリートが鸚鵡おうむ返しに言うので、うん、と、うなずく。相手のほうを見ると、アイリーンに向けられる黒曜石の眸は、何か興味深いものでも見つけたときみたいにきらきらと輝いていた。口許はおもしろがるように笑んだままだが、どうやら、からかわれているのとは違うようだ。


 アイリーンはジークフリートのほうへ向き直った。


「レオンハルトさんにもあなたにも聞こえてしまえば、レイチェルさまは、次の動きが取りにくくなるでしょう? たくらみがばれれば、警戒は強まるもの」


「ランス辺境伯令嬢には、何と言われたんだ?」


「え?」


「あのご令嬢に、何を持ちかけられたのかと聞いている」


 口調がいつもの丁寧なものではなくなっている。ただ、ジークフリートの口許はゆるやかに笑んだままで、だからなのか、問い詰められているような怖い感じはしなかった。


朝堂ちょうどう殿でんへ陛下に会いに行きたいから、レオンハルトさんの目を盗むための手伝いをしてくれって。彼の注意を逸らして、隙をつくってほしいって頼まれたの」


 アイリーンは素直に答えた。


「ははっ、なるほど」


 ジークフリートが呆れたような顔をして、乾いた笑いを漏らした。


「護衛から離れようとするなんて、私は駄目だと思う。だって、勝手をしたのがこちらでも、それで叱られるのって、騎士の方のほうでしょう? 自分を護ってくれている人に迷惑をかけるなんて、だめよ。それに……私たちは立場上、陛下の賓客だもの」


「賓客だから?」


「えっと……この皇宮で、もしも私たちに何かあれば、それは陛下の落ち度になってしまうでしょう? だからこそ陛下は、ご自身の身の回りの手勢を割いてまで、信頼できる護衛を私たちに付けてくださっているのだと思うし、だったら私たちは、決して何かあるようなことになってはいけないのではないのかしら……皇帝陛下のちょうの安定、ひいては皇国の安定のためにも」


大袈裟おおげさかしら。でも、たとえば私がここで暴漢に襲われて怪我をするようなことがありでもしたら……きっとトレノエル辺境伯であるお父様は、立場上、黙ってはいないわ。陛下に求めるのは、賠償金? それとも、責任を取って私を陛下の皇妃にしろとか?)


 女が政治の道具にされるのなど、貴族社会では当たり前だ。当然、使えるならば、父とてそうするに違いなかった。


 すいずれにしても、アイリーンに何かあれば、場合によっては皇帝はトレノエル領と事を構えることになるのだ。自分がそんなたいへんな事態の原因になってはいけない、と、アイリーンは思う。


「ははっ、そこまで考えるか……うん。実に、いいな」


 そうつぶやいたジークフリートの黒眸こくぼうが、また一瞬、ちか、と、強い光を宿した。


 アイリーンは、言われたことの意味がわからなくて、こと、と、小首をかしげる。


 それから、レイチェルとレオンハルトが去っていったほうへと視線をめぐらせた。


「レイチェルさま、あれであきらめてくれたかしら」


 アイリーンが嘆息すると、ジークフリートは、くすん、と、肩をすくめる。


「心配ない。たとえ諦めていなくとも、レオンハルトは信に足る、優秀な騎士だ。任せておけばいい」


 ジークフリートもまたアイリーンと同じように、ふたりが消えていったほうを目を眇めて見ている。


 どんな心境の変化なのか、ジークフリートの口調からは、いつの間にかすっかり丁寧さががれ落ちている。彼の素のものらしい喋り方に嫌な感じはなく、むしろ気楽で好ましいくらいだった。が、それでもそのとき、その口調そのものにではなく、彼が言った言葉のほうに、アイリーンは形にならない違和感を覚えた。


(信じられる同僚なかまに対してのことば、よね……?)


 そう思ったが、アイリーンのその疑問が口に出されることはなかった。さぁん、と、一瞬強い風が吹いて、アイリーンから言葉を発する機会を奪ったからだ。


 こちらのプラチナブロンドと、ジークフリートのほのおのような赤銅色の赤毛がふわりと舞うように揺れる。エメラルドのと、黒曜石のとが、風の中で、一瞬、絡むように交錯した。


 そのときだ。不意に、ジークフリートが鋭く息を詰めた。


 次の瞬間、彼は素早くアイリーンを背に庇っている。そのまま低く身構えたかと思った刹那には、きらりと光る何かが空を切って飛んできていた。


 目の前を通り過ぎて木の幹に突き刺さったのは短剣だ。


 アイリーンは、ひゅっ、と、息を呑んだ。ジークフリートは厳しく眉をひそめ、ち、と、舌打ちする。その手は腰にいた剣のつかに伸ばされていた。


「こんなところにまで刺客が這入はいり込むか。おちおちデートも楽しんじゃいられないな。――アイリーン、お前は木の後ろに隠れてろ。すぐ戻る」


 背に庇ったアイリーンをちらりと振り返ってそう言い置くやいなや、ジークフリートはさっと駈け出して行った。


 アイリーンは言われた通りにジュエリーシュガープラムの木の後ろにまわる。そのまま幹に背を預けるようにして、ずる、と、その場にへたり込んだ。


(なんだったの……? 私を狙ったんじゃ、なかったわ)


 だからこそジークフリートはアイリーンをひとり置いて、自分こそが飛び出していったのだ。刺客、と、彼は口にしていたが、その狙いがもしも皇妃候補のアイリーンであるならば、彼は決してこちらをひとりにするような行動はとらなかっただろう。


(じゃあ狙いは、ジークってこと? ……でも、どうして)


 アイリーンは木の根元でしゃがみ込むように膝を抱えた。押さえようとしても、かたかた、と、身体はふるえてしまう。


 すこし離れたところで、何か、金属と金属がぶつかるような高い音がしていた。キィン、キン、と、幾度かそれが繰り返された後、今度は、どさ、と、重みのあるものが地面へ倒れ込むような音がする。


 アイリーンははっと顔を上げ、木の陰から、おそるおそる向こうの様子をうかがい見た。


「こら……隠れてろって、言ったろうが」


 足音がして、すぐにそんな声が頭上から降ってくる。


「怖がらせて悪かった。もう始末したから大丈夫だ」


 戻ってきたジークフリートは、地面に座り込むアイリーンの頭をひと撫ですると、こちらに手を貸して立たせてくれた。


 アイリーンは言葉もなく、エメラルドの眸でジークフリートを見上げる。相手は何事もなかったかのような涼しい顔つきをしていたが、その蜂蜜色の肌を血のあとが汚していた。


「……お怪我、を?」


「ああ、血でもついてるのか……返り血だよ。平気だ」


 ジークフリートは事も無げに言うと、アイリーンの頭をもう一度軽く撫でた。


 節ばった、皮膚の厚い右手には、剣を握る者に特有の胼胝たこがある。けれども同時に、日常的にペンを使う者だからこその、それもあるのだ。


(同じ騎士でも、レオンハルトさんの手には、ペン胼胝なんてなかったわ)


 この人は誰だろう、と、不意にアイリーンの頭にはそんな疑念が過ぎっていた――……否、エレナの反応、レオンハルトの態度、庭園の花のこと、まるでこちらを試すかような言葉、と、いままでいくつか感じていたしっくりこない感覚が、いま、はじめてはっきりと違和の形を取ったといったほうが正しいかもしれない。


(すくなくとも、この人は、命を狙われるような理由がある人なんだわ……)


 そう考えるアイリーンの中には、すでに、ひとつの仮説があった。


(でも、そんな、おはなしの中の出来事みたいなことって、ある……?)


 確信に至る証拠などはない。けれども、自分の想定は間違ってはいないのではないのか、と、アイリーンは思う。


「ねえ、ジーク……ひとつ、聞いてもいいかしら?」


 アイリーンはこくりとひとつ喉を鳴らすと、おもむろに言った。


 ジークフリートは殊更ゆっくりとこちらを見た。


「どうぞ、アイリーンお嬢様」


 急に芝居がかった口調に戻って、彼は答える。そのくせ、口許は悪戯いたずらっぽく笑ったままだった。


 相手のそんな態度に、アイリーンはちらりと眉をひそめる。


「あなたはいったい……どなたなの?」


 エメラルドの眸を真っ直ぐに相手に向けたアイリーンが問うと、ジークフリートは、に、と、口角を上げた。それはどこか人の悪い、あるいは人を食ったような笑み方だった。

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