1-10 ランス辺境伯令嬢

「レイチェルさま」


 アイリーンが呼びかけに応じると、華やかな容姿の少女は、軽やかな足取りでこちらへと近づいてきた。亜麻あま色の豊かに長い髪が、レイチェルの動きに合わせて揺れる。


 そして、彼女の後ろには、まるで影のように護衛の騎士が付き従っていた。


 赤みがかった茶色の眸を持ち、明るい茶髪を短く刈り込んでいる彼もまた、その容貌からは、南方出身の人物に見える。ジークフリートと同じように、皇帝シグルスに付き従って皇宮へとやってきた、彼の信頼厚い人物なのだろう、と、アイリーンは思った。


 その騎士はこちらに近付いてくると、無言のままに、ジークフリートと眼差しを交わした。あるいはそれは目礼だったのか、ジークフリートが軽く手を挙げて応じている。共に、新皇帝が公爵だった時代から仕えている騎士同士なら、彼らは旧知の間柄なのかもしれなかった。


「こんにちは。お仕事おつかれさまです」


 アイリーンは、レイチェルの側を守る騎士を見上げ、そう挨拶した。


「お気遣い傷み入ります、トレノエル辺境伯令嬢」


「私はアイリーン・トレノエルといいます」


「レオンハルト・ザヴォーです。どうぞ、お見知りおきを」


 レオンハルトはすこし屈んで、アイリーンに握手を求めた。差し出されたごつごつとした手を、アイリーンはそっと握る。


(すごい剣胼胝だこだわ。ジークと同じね。でも……)


 ちら、と、一瞬だけ、自分についてくれている護衛騎士をアイリーンは見上げる。こっそりとうかがったつもりだったが、それでもこちらの視線に気づいたらしいジークフリートは、黒い眸を眇めてアイリーンを見下ろしてきた。


 一瞬、相手とかちりと目が合ってしまって、アイリーンは慌ててレオンハルトのほうへと向き直る。挨拶をくれた騎士に対して、いかにも貴族令嬢らしく、優雅に微笑んで見せた。


「――ねえ、そちらの騎士からわたくしへの挨拶はないのかしら?」


 そうしたこちらの一連のやりとりを見ていたレイチェルが、まるでねたように言う。


「レイチェルお嬢様……!」


 レオンハルトはすこし慌てた調子でレイチェルをたしなめた。


「なによ、別にいいでしょ? ――ねえ、あなた。昨日あなたは、その子相手には、ひざまずいていたじゃない。あたしにも同じようにしてくださらないの?」


 レオンハルトに止められながらも、レイチェルは強気で言い張った。


 けれども、ジークフリートはその場に立ったまま、微動だにしない。


「申し訳ありませんが、ランス辺境伯令嬢。わたくしは、わたくしのお守りすべきお嬢様にしか、膝を折ることはできません。どうぞご容赦を」


「なっ……なによ、それ! 馬鹿にしてるのっ!?」


 レイチェルが眉を吊り上げた。


「えっと、レイチェルさま……私の騎士は、ジークフリートって言うの」


 レイチェルの声がわずかに怒りを含んだのを感じ取って、アイリーンは慌てて、そんなふうに取りなそうとした。


 が、あまり効果はなかったようだ。


「なぁに、あなた。“私の騎士”ですって? ずいぶんその方と仲良くなったものね」


 これはおそらくは悔し紛れの嫌味かなにかだろう。アイリーンの前に立つランス辺境伯令嬢は、細い腰に手を当てるようにすると、そんなことを言い放って、ちらりと嘲笑めいた笑みを見せた。

 

「ジークには、とても良くしていただいています。普段のお仕事だけでもお忙しいだろうところに、私のために時間を割いてくださっているのですから、は感謝しかありません」


 困ったようにそう応じると、ふうん、と、レイチェルはつまらなさそうに鼻を鳴らした。


「騎士と仲良くお姫様ごっこのお遊びなんて、初めから選外みたいなものな人は、お気楽でいいわね。あたしは、一刻も早く陛下にお会いしたくて、胸つまるような想いに身を焦がしているというのに……って、まだ幼いあなたにはわからないわよね」


 ふう、と、レイチェルは大げさに溜め息をついた。


 レイチェルの言う選外とは、年齢からみてアイリーンが皇帝シグルスの皇妃に選ばれるはずがないという意味だろう。


(まあ、それは、そのとおりだけれど)


 聞きようによってはなんとも失礼な言葉に、アイリーンは内心で苦笑した。


 ランス辺境伯家とトレノエル辺境伯家では、もちろん、家格は同等である。一応はお互いにその令嬢同士だったが、レイチェルにはアイリーンを同等の者として扱う意識はまるでないようだった。


(でも、いいわ。私は実際に子供なんだもの。幼いといってあなどられたところで、家名が傷つくわけでもないし)


 誰かに礼を尽くされなければ守れないような矜持きょうじならば、そんなくだらないものは、見栄でしかない。そう思うからこそ、アイリーンはレイチェルの言葉に何ら反論するでもなく、静かに笑顔を浮かべて受け流すことにした。


「そういえば……レイチェルさまもお散歩ですか?」


 あえて話題を変えるために、こちらから尋ねてみる。


「ええ、そうよ。部屋にいても退屈だし、すこしでも陛下に近い場所に行きたくって。――だって、この庭園の向こうの朝堂殿で、いま陛下はお仕事をなさってるんでしょう?」


「皇帝になられたばかりで、陛下はいろいろとお忙しくていらっしゃるんでしょうね」


「そうね。だったらあたし、せめてお側にいって、陛下を癒してさしあげたいわ」


「そうですね……」


 アイリーンは曖昧あいまいに笑って応じた。


 が、もしも皇帝が本当に執務に忙殺されているのだとしたら、自分たちの相手など、わずらわしいだけではないだろうか。遠慮のない人物だったら、邪魔だ、と、そう一蹴して追い返すかもしれない。


(陛下は出奔しゅっぽんして皇宮にいらっしゃらないのかとも思っていたけれど、ただ本当にお忙しいだけなのかも……私たちの相手などしている暇はないくらい。だって陛下はジークの主だもの、きっとそんなにおかしな方でもないのではないのかしら。それにしても、お忙しいのならどうして、そもそも私たちをお集めになったのかしら……)


 アイリーンがそんなことを思いながら、そ、と、溜め息をついたとき、こちらはこちらで何か思案していたらしいレイチェルが、ふいに、アイリーンの手を取った。


「そうだわ、アイリーン。あたし、さっき、向こうの木に実がなってるのを見つけたの。一緒に見に行きませんこと?」


「え……?」


 唐突な誘いに、アイリーンはエメラルドの眸を丸くした。


「ね、いいでしょう? 行きましょうよ。ね?」


 レイチェルはこちらの戸惑いなどお構いなしに、ぐいぐいと手を引いてくる。困ったアイリーンは、ちら、と、かたわらのジークフリートを振り返った。


(行ってもいいのかしら)


 エメラルドの眸にそんな意を込めて相手を見ると、ジークフリートは苦笑めいた表情でちいさくうなずいた。


 近くに立つレオンハルトと視線を見交わし、ふたりで互いにうなずき合ってもいる。それを見るに、どうやらレイチェルの言う木のところへいくこと自体は、問題がないようだ。


(でも、いったい、レイチェルさまは何を考えているの?)


 アイリーンは、急に自分に対してにこにこと笑顔を見せはじめたレイチェルに、何となく違和感を覚えいた。


 木の実のことは単なる口実でしかなく、他に何か目的があるのだろうか、と、そう思う。けれども、ランス辺境伯令嬢が考えていることまではわからず、結局は相手が促すままに歩きはじめるしかなかった。

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