1-9 花園のひととき

「おはようございます、アイリーンお嬢様。昨夜ゆうべはよくお眠りになれましたか?」


 次の日の朝、アイリーンが部屋で朝食を終えた頃に、ちょうどジークフリートがやってきた。


「おはよう、ジーク、いい朝ね。とってもよく眠れたわ。今日もお庭のお散歩に付き合ってくれるのよね?」


 アイリーンはジークフリートのほうへ駆け寄ると、エメラルドの眸で彼を見上げて、にっこりと微笑んだ。


「ええ、もちろん、お供させていただきます」


 相手も黒曜石のすがめて笑う。


「朝からありがとう」


「これがわたしのお役目ですから。――さあ、参りましょうか」


 昨日と同じようにごくごく自然に差し出された手をアイリーンが取って、ふたりはさっそく庭へと出た。


 昨日訪れたのは、どうも、かつては薬草園かなにかだったのではないかと思わせるような場所だった。今日は、その反対側、季節の花々が咲き誇るという庭園へ案内してもらうことになっていた。


「――わあ、すてき!」


 ジークフリートに連れられて、目隠しのように茂る潅木かんぼくの生け垣の向こう側まで来たとき、アイリーンは思わずはずんだ声をあげていた。


(王子様とお姫様がデートをする花園はなぞののイメージそのもの……!)


 ちょうど薔薇ばらの季節だ。視界が開けたその先には、アーチにわせたつる薔薇や大輪の立ち木薔薇など、様々な種類が色とりどりに咲いていた。ラベンダーやカモミールなども、そよ吹く風に、ゆったりと揺れている。


「ねえ、ジーク。あなたは、ここにはよくいらっしゃるの?」


 ジークフリートはすらりとした長身に、端正な顔立ちをした青年だ。しかも、アイリーンに対する態度は、物腰柔らかで丁寧でもある。


(おはなしに出てくる騎士様みたいに格好よくてやさしいんだもの。きっと、女性からの誘いも多いのではないかしら)


 ジークフリートを慕う女性を連れて――あるいは、女性の側から誘われて――この庭園を訪れ、一緒に花を見て過ごしたりすることもあるのではないのか、と、想像してみる。それはいかにもありそうなことに思われた。


 真昼の明るい陽射しの中で、あるいはロマンチックな夕暮れ時に、もしくは静かな月明かりのもとで、彼が薔薇の一輪でも差しだそうものなら、ものすごく絵になる気がする。


 アイリーンがそんなことを思いながらジークフリートの横顔を眺めていると、こちらの視線に気づいたのか、彼はアイリーンを見て、ちら、と、苦笑した。


「庭園があるのは知っていましたし、一応、来たことはあります……という程度ですね。花を見に来たのは、いまが初めてです」


「あら、意外だわ」


 ジークフリートの言葉を信じるなら、アイリーンの想定はぜんぜん当たっていなかったということらしい。


「そうでしょうか?」


「ええ、とても意外よ。ここで女性と一緒の時を過ごしたりするのかしらって、思っていたの」


「残念ながら、そんな時間はなかなかとれません」


 ジークフリートは、くすん、と、肩をすくめてみせる。アイリーンは、くすくす、と、ちいさく声を立てて笑った。


「お忙しいのね?」


「まあ、そうといえば、そうですかね」


「書類仕事もたくさんなさっているみたいだもの」


 アイリーンが何の気なく言うと、ジークフリートは一瞬、え、と、息を呑んで目をみはった。


「――どうして……?」


「だって、指にペン胼胝だこがあるのだもの。お父様と同じだから、たくさん書き物をなさるのかしらって」


 さらりと答えてジークフリートを見ると、相手の黒曜石の眸が一瞬、ちか、と、強くきらめいたような気がした。


「ははっ、これは……まいったな」


 ジークフリートはそう言うとひたいを押さえ、ふう、と、ひとつ大きく息をつく。


(私ったら……なにかおかしなことを言ってしまったかしら)


 相手の反応の意味が飲み込めなくて、アイリーンはエメラルドの大きなひとみを、はたはた、と、またたいた。


「あの……」


 戸惑いながら次の言葉を継ぎかけたとき、ジークフリートが、に、と、口角を持ち上げるようにして笑う。


「――思った以上に、よく見てるな」


 急に相手の口調が変わったので、アイリーンは面食らった。ジークフリートが見せている表情も、いままでの穏やかなそれとは明らかに違うものだ。


「ジークはもしかして……上手に猫をかぶっていらっしゃったりした?」


 む、と、くちびるを尖らせてアイリーンが問うと、ジークフリートは肩をすくめた。


「さあ、どうでしょうね」


 もとの丁寧な口調に戻って、はぐらかすようにそう言ったけれども、その表情はどこか悪戯いたずらっぽいそれのままだ。


「なによ、ジークったら……さては私のこと、からかってるのね!」


 アイリーンは咎め立てるように言って、ついでに、つん、と、そっぽを向いてやる。すると、ジークフリートはくつくつと喉を鳴らした。


「そういうアイリーンお嬢様も、ずいぶん澄ましていらっしゃったようですね。そんな子供っぽい表情も隠しておいでだったとは」


「こ、子供っぽいですって……! でも、だって私、まだ十二歳なんですから」


「ええ、まだ幼くていらっしゃる。だからこそ、年相応に感情をあらわにしているのを拝見すると、すこし、ほっといたします。可愛らしいなあとも思いますしね」


「なっ……!」


 つやめく黒曜石の眸をすがめた相手が、真っ直ぐに可愛いだなんて口にするものだから、アイリーンは戸惑った。ぱっとジークフリートに背を向けてしまう。頬が熱くなっていた。


(もう、なんなのかしら、急に……)


 両のてのひらで赤くなっているだろう頬を包み込むようにしながらうつむいてから、ちら、と、ジークフリートのほうをうかがい見た。


 相手はしれっとした表情をしている。


 それを見たアイリーンはまた、むぅ、と、くちびるを引き結んだ。


「あなた、やっぱり、からかってるわね……!」


「いいえ、そんなことはございません」


「もう、知らないっ!」


 エメラルドグリーンの眸を怒らせ、相手をきりりと睨みつけた。


 けれどもアイリーンは、すぐに、ふ、と、眉尻を下げている。


「ふふっ」


 自然と笑みがこぼれていた。


 ジークフリートも口許をゆるめる。


 ふたりはしばらく、額を寄せ合うようにして、くすくすくす、と、お互いに忍び笑いを漏らしていた。


 それから、ふと何かを思い立ったかのように、ジークフリートはアイリーンから離れて行く。どうしたのだろう、と、アイリーンが怪訝けげんに思ってそちらを見ると、彼はかがんで、どうやら薔薇をひとさしむようだった。


 手早くとげを処理すると、アイリーンのもとへと戻ってくる。そして、昨日そうしたのと同じように、アイリーンの前で優雅にひざまずいてみせた。


「愛らしい、アイリーンお嬢さまに」


 に、と、笑いながら言って差し出すのは、ちいさなピンク色の薔薇である。


 黒曜石の眸で真っ直ぐにこちらを見る騎士の大きな手から、アイリーンは花を受け取った。


「ありがとう」


(すてき……本の中の世界に、這入り込んでしまったみたい)


 ほう、と、息をつく。


「でも、よかったのかしら? 陛下のお庭の薔薇を勝手に摘んでしまって……」


 ここは宮殿前の庭園である。アイリーンがそれを心配して言うと、ジークフリートは、くすん、と、肩を竦めた。


「かまいませんよ」


「そう? だったら私も……一輪だけ、とってきてもいいかしら?」


「ええ、気に入った花があるなら、ぜひどうぞ」


 ジークフリートがうなずいて、アイリーンはぱっと表情を明るくすると、身をひるがえした。


 駆け寄った先でそっと摘み取ったのは、白く可憐なカモミールの花である。それを持ってジークフリートのところまで駆け戻ると、立ち上がってこちらの動きを見守っていた相手に、その花を差し出した。


「はい、おかえしです」


 ジークフリートは、まさか自分に渡すためにアイリーンが花を摘もうとしたのだとは思わなかったようで、一瞬、驚いたように黒い目をまたたいた。


 それから、わずかに苦笑めいた表情を見せ、アイリーンから花を受け取ってくれる。


「あまくてやさしい、いい香がいたしますね」


「そうでしょう? カモミールにはね、リラックス効果があるの。きっとお仕事で疲れたあなたの心と身体を癒してくれるわ」


「ということは、俺はそんなに疲れて見えるってことか……まいったな」


 独り言のようにつぶやいた後で、ジークフリートは目を細め、手の中のカモミールの花にそっとくちびるを寄せるようにする。


「お心遣いありがたく頂戴いたします、お嬢様」


 ジークフリートの取った行動に、その仕草に、アイリーンは思わずどきりとしていた。


(このひと、なんだか心臓に悪いわ……)


「ど、どういたしまして」


 戸惑って、くるんと後ろを向いてしまいながら、アイリーンが答えたそのときだった。


「――あら、アイリーンじゃないの」


 すこし離れたところからそんな声が聴こえてくる。見るとそこには、護衛の騎士を伴って歩く、ランス辺境伯令嬢レイチェルの姿が見えていた。

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