1-8 夜の執務室

「おや、ご機嫌でございますね」


 こちらの補佐のために隣に立つグイドが、新たな書状を机に差し出したタイミングでそう言った。


「そうかな」


 シグルスは側近に向けて肩をすくめてみせる。が、自分でもいつもよりも気分が明るく、浮ついているような自覚はあった。


(アイリーン・トレノエル……やはりなかなか興味深かったな)


 心の中で思って、無意識に口角を持ち上げている。 


 シグルスは今日一日を、護衛騎士のジークフリートとして、トレノエル辺境伯令嬢アイリーンの傍らで過ごした。そして、誰もが寝静まる頃になったいまは、宮殿内にある書斎にこもっている。今日の分の執務をこなすためだ。


 決済すべき書類は山積みだったが、それでも昼のうちにグイドがある程度仕分けてくれているので、いま目の前にあるのは急ぎのもの、どうしてもシグルスが目を通さねば判断できないものばかりだ。側近のグイドは、信頼に足る優秀な執政官である。


「他の三令嬢について、何か騎士や侍女たちから報告は?」


 シグルスはペンを片手に、書面に視線を落としながら尋ねた。


 グイドを信頼するのと同様に、辺境伯令嬢たちにつけることにした侍女たちや騎士たちにも――アイリーンが推測してみせた、まさにその通りなのだが――シグルスは絶対の信をおいている。彼ら彼女らの目はたしかだ。シグルスの目のかわりとして、今日は令嬢たちを見つめてくれていたことだろう。


「特段、変わったことはありませんね。皆さん、いわゆるふつうのご令嬢のようですよ。いまのところ」


「そうか」


「マルディン辺境伯ご令嬢のオリヴィアさまは、おっとりとなさった、穏やかな方のようです。刺繍の道具をご所望になったので、お渡ししたとのことです」


「あれは、次期マルディン辺境伯の、同腹の妹君だな」


「ええ。――次期辺境伯と陛下とは、たしか親交がおありでしたね」


「ご学友ってやつだな。やつがナグワーンに留学していた頃の」


 直接顔を合わせて日々学んでいたのはもう十年近く前になるが、さかいを接する隣領であることもあって、以後も交友は続いていた。政治的な思惑抜きでも付き合いたいと思うような、気持ちの良い相手だ。


 それもあって、マルディン領はどちらかといえば自分たち寄りだ、と、シグルスは判断していた。シグルスと交遊関係のある次期辺境伯の同母妹を寄越したのなら、すくなくとも、シグルスが治めるようになった皇国に対しいますぐそむくようなことはしないだろう。


「フォルディア辺境伯のご令嬢ソフィアさまは、書庫へおいでだったようです。詩の本を何冊か持ち出されて、お読みになっていたと報告が。――ただ」


「ただ?」


「何を考えているのか、あるいは何も考えていないのか、底が読みにくい、と」


「ははっ、そうか。フォルディア辺境伯からは、娘をよしなに、と、書状が来ていたのだったな。――なあ、裏があると思うか?」


「どうでしょうねえ。フォルディアは暖流と海からの季節風の影響で、北部のわりに温暖で湿潤な気候の土地です。北部一の大穀倉地帯を抱えている領で、食うのにも困らない土地柄ですからね、わざわざ危険なかけに出る必要はない、と、見ていますが」


 グイドの言葉に、うん、と、シグルスは顎に手を当ててうなずいた。反旗をひるがえすだけの積極的な理由はないはずだ、と、いまのところ、シグルスもまたグイドと同じように考えている。


「わざわざ眠っている虎の尾を踏んで起こしにくるような真似はしない、か……」


「ふつうにまともな領主であるならば」


 留保をつけたグイドのその言い方に、シグルスは顔を上げ、くく、と、喉を鳴らした。


(いまの皇国中枢を眠れる虎といえるかははなはだ疑問だがな。――対するあちらは、間違いなく獅子だ)


 シグルスが思うのは、北部ベイワーン公爵領を挟んでフォルディアと対の位置にある、北西部トレノエル領の主のことである。


「――で。ランスの令嬢は?」


 しかし、そちらはすぐには話題にのぼらせず、かわりに口に出すのは南東領のことだ。


 昨日の茶会での会話や、その後の態度など、四人の辺境伯令嬢のうちで最もシグルスとの結婚に前のめりに見えたのが、ランス辺境伯令嬢レイチェルだった。


 ランス領とナグワーンは隣領だし、もちろん付き合いはある。だがそれは政治的な結びつきであって、シグルスの個人的な交友というわけではなかった。


 ただ、ランス領は国境沿いに位置する辺境伯領とはいえ、その国境線はすべてが海岸だ。隣国による侵攻の心配は薄い領土といえた。


 加えて、レイチェルがシグルスとの結婚を望んでやってきたということは、ランス辺境伯にはいま、皇帝と手を結びたいという意向のほうが強いということなのであろう。


「レイチェルさまには……騎士も侍女も、なかなか手を焼いているようですよ」


 グイドは苦笑して、そう教えた。


「陛下はどこだ、いつ会えるんだと、それはそれはうるさいそうで。夕刻にはしびれを切らして、多忙で執務室を離れられないならこちらから会いに行く、と、ついにはそうまで仰ったとか……元気ですよね。若さのなせるわざでしょうか?」


 すこし呆れたように言うグイドに、シグルスはサインをし終えた書類を数枚手渡した。それを受け取ったグイドが、また次の書状を寄越してくる。ペンを置くいとまもなく、今度はそれに視線を落とした。


「ランス令嬢につけたのはレオンハルトだな。あれなら心配なかろうが、念のため、よく気を付けて見張るように言っておいてくれ」


「承知いたしました、伝えます」


 皇帝の私的空間である宮殿と違って、政治の場となる朝堂ちょうどう殿でんには、下級官吏や兵士も出入りする。中には、シグルスやその政権をよく思わない、叛意あるやからもまじっているかもしれない。


「うっかりトラブルにでも巻き込まれては、それこそランスと事を構えることになりかねん。面倒だ」


 せっかく友好関係を望んでくれている相手とまで要らぬめ事を抱えている暇も余裕も、いまのウェリス皇国中央にも、皇帝シグルス自身にもなかった。


 そもそも皇妃選定のために四辺境伯家の令嬢ひめたちをわざわざ皇都へ呼び寄せたのは、国境を任されるがゆえに軍事独裁権をも持つ強力な貴族である彼ら四家が、新帝シグルスに対してどのような立場、距離感で臨むつもりであるかを探るためだ。どんな娘を寄越してくるか、それを見ることで、相手の腹の内を読む。その上で、政権を磐石にするために最も効果的な者を皇妃に立てるためだった。


 それがかえっていざこざの種になったのでは、たまらない。シグルスは、ふう、と、ひとつ疲れた息をついて、目を通し終えた書面にペン先を走らせた。


「あ、そちら、終わりました? ――はい、じゃあ、次はこれです、陛下」


 グイドがシグルスの手元からサイン済みの書類を引き上げ、間髪入れずに次の書面を渡してくる。


「それで……アイリーンさまとのデートはいかがだったんですか?」


 ついでのように尋ねられて、シグルスは軽く視線を上げ、グイドを見た。にこにこと人好きのする笑顔を浮かべる相手に、に、と、こちらは人を食ったような笑みを見せる。


「おもしろかったぞ」


「へえ」


「ごくふつうの少女らしく花園を蝶が舞うようにくるくると動き回っていたかと思えば、あの花は熱冷ましの生薬になるだの、毒消しの薬になるだのと、目を輝かせて言い出すんだ。宮殿内を歩いても、調度類を見てうっとりともするくせに、次の瞬間には厨房で残飯を見て、余った食材を加工して煉瓦れんがのように固めて長期保存して飢饉ききんに備える方策ほうがどうのとしゃべり出したりもするんだぞ。おかげでこっちは飽きる暇もなかった」


 シグルスは、くつくつ、と、笑う。シグルスの目にアイリーンは、ごくごく普通の少女のようにも見えた一方、ひどく大人びて見える瞬間もあった。その不均衡アンバランスが興味深かった。


「とりあえず、年齢に見合わぬなかなかの見識をお持ちのようですね」


「まあな。子供らしくないところがあるといえばそうだったが……いや、あれはむしろ、子供だからこそ、ああいうふうにてらいなく喋るのか」


「どういうことです?」


「あと三、四年もして、余計な分別ふんべつを覚えれば、あれとていわゆる淑女らしい淑女の枠におさまっていくんだろうな。賢いからこそ、世間が自分をどういう目で見るか、自分はどうあることを望まれているかもわかるし、自分を枠に合わせることも上手にやってのけるだろう。――いまはまだ子供だから、ぎりぎり、自由に振る舞っていられる」


(しかし、あの器を固定観念の枠の中に押し込んでしまうのは、惜しい気がするな……)


 シグルスは無意識にそんなことを考えて、ふと、書き物をする手を止めてしまっていた。


「ちょっと、陛下、大丈夫なんですか」


「――何がだ?」


「聞いてれば、あなた、アイリーン嬢のこと、結構本気じゃないです? え、実はほんとうに、幼女趣味とか……?」


「だから、お前は馬鹿を言えって。高度な政治的判断だろうが。――あと、あいつは幼女というほど幼くはないぞ」


「へえ、幼女でなく少女なら、手を出しても良いと」


「おい、グイド。誰がそんなことを言ったんだ?」


 シグルスが眉を寄せると、側近は一瞬黙り、それから、ふふ、と、明るく笑った。


「それで、明日もデートですか」


「あいつがもう少し庭を見たいと言っていたからな」


「ふうん。デートって、否定しないんだ……さっきも思いましたけれそ」


「……お前はたいがいにしろってんだ。怒るぞ」


 向こうも疲れていて、だからこの言葉遊びの応酬は息抜きの一環なのだろう。そうはわかっているものの、シグルスはグイドを前に、ふう、と、大きな溜め息をついた。


(さて、あの娘は、明日はどういう顔を見せてくれるものか)


 そう考えると、無意識に、シグルスの口角は上がっていた。

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