1-7 アイリーンの推論

 その後、アイリーンは自分についてくれるというジークフリートを伴って、いったん与えられた部屋に戻ることにした。部屋の中には、同じくアイリーンの世話係を皇帝から命じられている侍女のエミリが待機している。


 ジークフリートが先に立って扉を開けてくれて、アイリーンが部屋の中へと足を踏み入れると、エミリは一瞬、驚いたような顔を見せた。その見開かれた眸は、ジークフリートのほうをまじまじと見つめている。


(あら……エミリったら、どうしたのかしら)


 アイリーンは一瞬、侍女の反応を怪訝けげんに思ったが、こちらが急に騎士を連れて戻ったので、エミリはそのことに驚いたのかもしれなかった。


「アイリーンお嬢様の護衛をつとめることになりました、ジークフリートです」


「あ、ああ……そうでございましたか」


 ジークフリートが名乗ると、エミリはぎこちないながらも笑顔を取り戻した。それを見るに、やはり、突然騎士が部屋に現れたので、それで困惑していたということだったのだろう。


 その後、丁寧な仕草で促されて、アイリーンはソファに腰掛ける。ジークフリートは、こちらを威圧しないようになのか、アイリーン斜め前の位置に、身体もやや斜めに開くような恰好で立っていた。


 アイリーンはエメラルドの眸でジークフリートを見上げた。


「あの、ジークフリートさま」


「ジークと呼び棄てていただいてかまいません」


「では、ジーク……あの、あのね。昨日は突然ごめんなさい」


 おずおずと言うと、相手は、ちら、と、アイリーンを見て笑う。


「いいえ。――お嬢様の仰ったとおり、砂糖は下町の医者に手渡るよう手配いたしましたので、ご安心を」


「そう……ありがとう」


「こちらこそ、皇都の民へのお心遣いに、僭越ながら陛下に成り代わりまして、感謝いたします」


 にこやかに笑みながらジークフリートに言われて、アイリーンはほっと息をつき、それから一拍おいて、今度は、は、と、息を呑んだ。


「あ、あのね。べつに、点数稼ぎがしたかったとかじゃないの。もう皇妃気取りってわけでも、もちろんないし……むしろ私なんか、陛下のお妃に選ばれるはずがないって、思っていますから」


 言い訳でもするように、しどろもどろに言い募る。


 ジークフリートはアイリーンの言葉に一瞬きょとんとして、それから、ふ、と、黒曜石の眸を眇めた。


「点数稼ぎだなんて、そんなことは、ちっとも思っておりませんよ」


「そ、そう? それなら、よかったわ」


「それよりも……どうしてお嬢様は、ご自分は選ばれないとお思いなのですか? まだ陛下にもお会いになっていない。先のことはわかりませんでしょうに」


「え?」


 アイリーンはエメラルドの眸をぱちくりさせた。


「だってそれは、私、まだ十二歳だもの。他のお三方は、年齢だって二十五歳の陛下にふさわしいし、お美しい方ばかりだったでしょう? 皆様、辺境伯のご令嬢として、きちんとした淑女教育も受けてきていらっしゃるはずだから……三人のうちの誰が選ばれたとしても、陛下にとっては、申し分ないお相手だわ」


 アイリーン以外は、三人の誰が選ばれてもおかしくはない、と、思う。


 どうやら個性に差はあるようだったが、ことは皇帝の正妻、皇妃の選定である。その個性がよほどの欠点にでもならない限り、性格のことは、選択の際の要素として、二の次にされるのではないだろうか。


 それ以外に考慮されるとすれば、あとは、それぞれの生い立った地域のことくらいだろう。南部ナグワーン領をも治める新皇帝が、南部地域を固めることを重視するか、それとも新たに北部と関係を結ぶことを大事にするか。だがそれについては、権力の均衡、この先の各貴族、廷臣たちの動きを睨んだ上で、朝廷ちょうとしてどう判断を下すかの問題だった。


(でも、そんなもの……私なんかが考えても仕方のないことだわ)


 アイリーンはひとりこっそりと嘆息した。


 そして、違うことを思い出す。


「ねえ、ジーク、聞いてもいいかしら?」


 ジークフリートに呼びかけると、彼は顔を傾け、アイリーンと視線を合わせてくれた。


「どうぞ、お嬢様」


「あのね、皇帝陛下のことなんだけれど……」


 すこし口ごもってから、アイリーンはジークフリートを手招いた。彼がアイリーンの意を汲んで屈んでくれたので、その耳許にくちびるを寄せ、こそ、と、囁きかける。


「陛下はもしかして、いま、皇宮にいらっしゃらなかったりするのかしら?」


 内緒話のように訊ねると、ジークフリートは刹那黙して目をまたたき、それから、ふ、と、口許をゆるめた。黒曜石の眸が、おもしろいものでも見るかのように、すぅっとすがめられている。


「どうしてそう思われるのですか?」


「え? どうしてって、その、陛下には南部にいらっしゃった頃から、出奔しゅっぽんへき放浪ほうろう癖があるってうかがっていたから……昨日もさっきも、侍従じじゅうの方は、陛下はご政務でお忙しいんだっておっしゃってはいたけれど、なんだかすこし様子が変だなって、そう感じたんです。あ、あくまで、直感にすぎないのよ。でも、なにか隠してるみたいだなって……それでもしかして、陛下は誰にも内緒で姿を隠してしまわれたのかしらって、思ったの」


「なるほど」


「どうなのかしら?」


 重ねて確認したが、ジークフリートは口許に不思議な笑みを浮かべたまま、黙って何も言わなかった。


 それでアイリーンは、そ、と、溜め息をつく。


「あなたの立場じゃ、答えられないわよね。ごめんなさい。変なことを聞いてしまったわ。――あ、じゃあ、もうひとつ別の質問をしてもいいかしら? 今度はあなたにとって答えにくくはないものにするから」


 アイリーンは気を取り直して言う。


「どうぞ」


 ジークフリートは再びこだわりなく言って、アイリーンが言葉を継ぐのを促した。


「皇帝陛下は、どんな方なのかしら?」


「どんな、と、申されますと?」


「えぇっと……ナグワーン公爵でもあられる陛下は、南部領のご領主さまでもいらっしゃいますよね。領民からの評判はどうなんでしょう? 慕われておいでですか?」


 アイリーンが問うと、ジークフリートは、ふ、と、一拍沈黙した。


 それからアイリーンを真っ直ぐに見据える黒目には、わずかないぶかりが浮かんでいた。


「お嬢様はどうして……わたしにナグワーンでの陛下のことをお聞きになるのですか?」


「え?」


「たしかにわたしは南部の出身です。しかし、たとえわたしの容姿を見てそれがわかったとしても、なにも、ナグワーンで生い立ったとは限らない。それなのにどうして、あなたは、わたしがナグワーンでの陛下の様子を知っていると思ったのでしょうか?」


「ああ、それは……だって、あなたは陛下が南部から連れてこられた騎士の方なのですよね? ちがいますか?」


「なぜ、そう思われるのです?」


 正解か不正解かは答えず、ジークフリートは問いを重ねた。なにか探りを入れられているようでアイリーンは戸惑った。


(これって、何かの試験? ありのままを答えてしまって、いいのかしら……でも、お父様は選ばれなくていいって仰っていたし、それなら別にいいわよね)


 アイリーンはひとつ息を吸って、はいて、それから改めて口を開いた。どうせアイリーンが皇妃に選ばれることはないのだ。すこしくらい、令嬢ひめらしくないようなおかしな受け答えをしても、かまわないだろう。


「えぇっと……あなたが私付きの護衛をつとめているから、です」


「それで、どうして?」


「だって、陛下にとって、私たち皇妃候補の辺境伯令嬢は、賓客という扱いでしょう? 決して何か間違いがあってはいけないわけですから、その護衛を任されるのは、陛下からの信頼が厚い方なのだろうな、と……そう、思ったのです」


「なるほど」


「もちろん、お代替わり前から皇宮に務めている騎士の中にも、信頼に足る者は多くいるのでしょう。でも、即位からまだ日が浅い陛下にとっては、もとから皇宮にいる者のうちの、誰が信じられて、誰がそうではないか、まだ定かではない。見極める途上でいらっしゃるのだとしたら、そんな中で、全幅の信頼を寄せられるのは、ナグワーンから率いてこられた家臣方でしょうから」


 それでジークフリートが南部領時代からの皇帝の家臣ではないかと考えたのだ、と、伝えると、相手は、ふう、と、息をつき、そして表情をゆるめた。


「アイリーンお嬢様は、なかなか鋭くていらっしゃるようですね。参りました。さすがは国境の獅子のご令嬢……お父上の教育の賜物たまものなのでしょうか」


 おどけたように、彼は言う。


「父が何かを教えてくれたことはありません。ただ、私は執務をこなす父の隣にいるのが好きで、執務室を遊び場にしたりしていたの。領地の視察にも、せがんで、よく連れて行ってもらっていて……母はあまり良い顔をしませんでしたが」


 言いながら、アイリーンはちょっと気恥ずかしくなってきた。


 対するジークフリートは、何を思うのか、目を眇めたままでアイリーンを見詰めている。


「もしかして……トレノエル辺境伯令嬢は女らしくない、と、陛下にご報告なさいますか?」


「いいえ。――どうしてですか?」


「だって……陛下は、護衛の騎士をつとめるあなた方に、私たちの様子を探って報告するようにも命じていたりするのはないの?」


「さあ、それは……どうでしょうかね」


 ジークフリートは、はぐらかすように苦笑した。


「ふふ、ごめんなさい。これも聴いてはいけない類のことだったわね」


「さあ」


 アイリーンがちいさく笑うと、相手は、ひょい、と、肩を竦めた。


「――ところで、わたしが陛下にそのように報告しては、お嬢様はお困りですか?」


「べつに、そうでもないんだけど……父からも、皇妃に選ばれなくてかまわない、と、あらかじめそう言われておりますし」


 アイリーンが嘆息しながらつぶやくと、その瞬間、ジークフリートの眸が一瞬、底知れない光を宿した気がした。


 けれども、アイリーンが息を呑む間に、相手はその気配をうちに押し隠してしまう。


「そうなんですね」


 そう言ったときには、ジークフリートはもうもとのように薄っすらと笑みを浮かべていた。


「さて、お嬢様。ずっと部屋にいても退屈でしょうし、よければ庭を散策してみませんか? ああ、宮殿内のほうにご興味がおありなら、そちらでもかまいませんが」


「いいの? じゃあ、まずは庭がいいわ。あなたに案内をお願いしてもいいかしら」


「もちろんですとも。――それでは、お手をどうぞ、アイリーンお嬢様」


 物語の中の騎士がそうするかのようにうやうやしく差し出されたジークフリートの大きな手を前に、アイリーンは、どきりとする。戸惑いながら、そ、と、己のちいさな手を相手のてのひらに重ねるように載せた。


 ごく自然にアイリーンの手を引いてくれるジークフリートにエスコートされて歩き出す。


(おおきくて、あたたかな手……剣胼胝だこに、ペン胼胝だこもあるのね)


 アイリーンは、自分の手を取って歩くジークフリートの端正な横顔を、こっそりと下から盗み見た。


 すると相手も、ちら、と、こちらに眼差しを寄越す。ふ、と、やわらく微笑されて、アイリーンは慌ててうつむいた。


(あれ、もしかして……うまくはぐらかされてしまったのかしら、陛下の為人ひととなりのこと。結局、私ばかりいろいろ答えていて、何も聞けていない気がするわ)


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