1-5 皇帝の密談

「何をお話になっておられたのですか?」


 辺境伯へんきょうはく家の四令嬢たちがすべて部屋を出てしまった後の、応接室である。


 娘たちをにこやかな笑顔で見送った後、ふう、と、ひと息ついたかと思うと、つかつかとこちらに歩み寄ってくる相手がいる。開口一番にそんな質問を投げかけてきたのは、先程令嬢たちに退出を促した侍従じじゅうの青年だった。


 彼の名を、グイド・ユエディアナという。


 新皇帝となったシグルスが南部ナグワーン公爵領から連れてきた、側近中の側近といっても過言ではない人物であった。


 いずれは宰相職か、それに近い役職を担ってもらう、と、シグルスの口からはすでに、グイドにそう伝えている。が、いまはあえて特定の官職に就けず、侍従として常にシグルスの側において、皇帝の政務補佐の役割を務めてもらっていた。


 そんな立場にあるグイドがかしこまった丁寧な口調話しかけるのだから、もちろん相手は、主であるシグルス・ウェリス=ナグワーンその人以外になかった。


 蜂蜜はちみつ色の肌に、明るい茶褐色の髪、黒いひとみ。これらは南部ではさほど珍しくない容姿ではあったが、ここ皇領においては、やや目立つ。それなのに茶会の間、誰も――トレノエル辺境伯令嬢アイリーンを除いては――彼に意識を払うことをしなかった。


 シグルスは、自分の気配を上手に押し隠して、まわりに溶け込むことにひどくけているのだ。少年の頃から直らない出奔しゅっぽんぐぜ賜物たまものだろう、と、グイドなどは呆れ半分にそんなふうに評したりする、それはシグルスの特技のひとつだった。


 そのシグルスのすらりと引き締まった長身をいま包むのは、皇帝のまとうべききらびやかな衣服ではない。ごくありふれた、騎士の装束だった。


 すなわち、皇帝シグルス・ウェリス=ナグワーンは、先程から衛士えいしのふりをしてこの応接室のの片隅に立ち、ずっと四令嬢の様子をうかがっていたというわけである。


 悪趣味な、と、シグルスがこのたくらみの話をしたときにも、グイドは呆れ顔をしていた。が、結局は協力したのだから、彼とてもはや共犯だった。


「先程お話だったのは……あれはたしか、トレノエル辺境伯の末のご令嬢ですね」


「ああ。砂糖を預かったよ。自分は使わなかったので、民に下げ渡して欲しいんだと」


 シグルスはそう言って、肩をすくめた。


「皇宮へ来るときにでも、皇都の惨状さんじょうを目にしたんだろうな」


「ああ、なるほど……それはなんとも十二歳の少女らしい、甘っちょろい憐れみですね」


 グイドの言は容赦がない。まあな、と、シグルスは苦笑した。


「あれが町医者とさえ口にしなければ、俺も単純にそう思ったよ」


「おや、医者と言ったんですか、あの少女は。飢えた民に、ではなくて?」


 グイドが驚いたように目をみはり、側近のその表情を前に、シグルスは、に、と、口のを持ち上げて笑った。ちょうど、おもしろい玩具おもちゃを見つけたときの子供のような表情である。


「そう、あれはたしかに町医者と言っていたよ。――十二歳の子供にしては、なかなか賢い選択だと思わないか?」


 くつくつ、と、喉を鳴らしながら、いったんふところにしまっていた砂糖の包みを取り出して眺めた。


 シグルスは、アイリーンの言った通り、託されたひと包みの砂糖を下町の医者のところへ持っていかせようと思っていた。ついでに、いくつかの薬草も届けさせるつもりでいる。


 食べ物を満足に得られずやせ細った者を目の前にすれば、誰しも、食料を恵んでやれないものかと考えるものだ。アイリーンのようにまだ幼く、ゆえに純粋な心を持つ者であればあるほど、余計に――単純に――そう思うものではないだろうか。


 そしてもちろん、一時的にであれ、飢えた者にとって食料が手に入るのは幸いなことだ。


 だが、それが根本的な解決にならないことも、また事実だった。そして、だからこそまつりごとというものがあるのだ、と、シグルスは思っている。


 今日、たとえ目の前の一を犠牲にすることになってでも、のちに百を救おうとする。一年後、十年後、百年後、そうした長い時の先にある豊かさを見据えて、高く理想を掲げ、一歩一歩進んでいく。それが国政というものの姿だ、と、考えている。


 けれども、そう思う一方で、いま目の前で苦しむ一を切り捨てることを己に許して、果たして本当にそれでよいのかという葛藤は、いつもシグルスの胸にあった。


 アイリーンの言葉は、その言明しがたい心のおりのようなものに吹きつける、一陣の清冽な風のようだった。


「町医者、か」


 シグルスはつぶやいた。てのひらの上にのせた砂糖の包みを、あらためて黒曜石の眸をすがめて見下ろした。


 砂糖は貴重品で、贅沢ぜいたく品だ。だが、アイリーンから預かったこの量では、売って金になるほどでもないだろう。飢えた者にとっては何日か食いつなぐ糧にはなるかもしれないが、それでも、このわずかな分量の砂糖を最も効果的に活かそうと思えば、医者に託すというのは、なかなか悪くない案のように思われた。


 砂糖は薬になる。医者であれば、それを用いることで、それなりの数の人間を救うことができるだろう。


 目の前の一と、後の百との間の、十を取るような選択だ――……おもしろい。


「陛下」


「ん?」


「ちょっと悪いお顔になっておられますよ」


「ははっ、そうか。実際におもしろいものを見つけたからな。――グイド、俺は決めたぞ。あれにする」


「はあ……いいのですか?」


「なに、もともと筆頭候補だろうが。人質として有益、という意味だがな。なにしろ国境の獅子の娘だ」


「まあ、それはそうですけれどね。でも、十二歳の少女ですよ」


「べつにいいじゃないか」


「えぇっ……!? 陛下にはもしかして、幼女趣味がおありとかですか? うわぁ、ちょっと、ってかだいぶ引きますね……型破りですけど、そのへんの良識はある、まともな人だって信じておりましたのに」


「おい、グイド、馬鹿を言ってる場合か。――そんな暇があったら、とっとと皇妃選定の詔書を用意させてこい。善は急げだ、明日の朝議でおおやけにする」


 シグルスは側近の冗談かるくちに文句を垂れながらも、てきぱきと命じる。


「はいはい、おおせせのままにいたしましょう」


 長年の側近らしく気安い返事をして、グイドはきびすを返しかけた。


「ああ、ちょっと待て、グイド」


「なんです?」


「いや、なに……もうちょっと、あれを観察してみようかなと思ってな。明日は、しておこう」


 自分の分の砂糖を医者に託せといった娘。


 十二歳の少女を相手に、むろん、ひとりの女をみるような意味での興味を抱くわけではなかった。が、なんとなく、もうすこし相手を知りたいような気分に駆られている。


 他にどんな言動をするものか、シグルスの正体を知る前の彼女を、あとすこし、見ておきたい気がした。


「はあ……お好きにどうぞ。悪趣味も過ぎると痛い目を見ますよとだけ、ご忠告申し上げておきますね」


 側近は小言を口にするが、とはいえ、シグルスが望み通り動けるよう、抜かりなく準備してくれることだろう。


「トレノエル辺境伯令嬢、アイリーンか……楽しみだな」


 シグルスはひとちると、に、と、口の端を持ち上げた。

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