#30

 財布から藤波貴久の名刺を取り出して、そこに記されていた携帯電話番号をコールする。きっと繋がらない、と予想した通り、十数回のコールの後に『ただいま電話に出ることができません』とメッセージが流れる。


 本当に忙しくて出られないのか、俺からの着信と知って出ないのか、おそらくは後者だろうが想定の範疇だ。オカマ野郎の社長を相手にしたところで、何かが得られるとは、端から思っちゃいない。黙ったまま、お前の思惑に従うつもりは無いよ、との意味を込めて着信履歴を残しただけのことだ。


 もう一枚の名刺、華岡美智のものを取り出して番号をコールする。六コール目で『はい、華岡です』と彼女は女性の声で電話に出た。


「もしもし、安田です。先日はどうも」


『……いいえ、こちらこそありがとうございました。あの後は、暫く歌ってから帰られたのですか?』


「いや、気分が乗らなくてね、俺もすぐに帰ったよ」


『そうですか……』


 沈黙が流れる。ノイズに紛れて誰かが遠くで喋っているような声が聞こえるが、その内容までは聞き取れない。電話越しに互いに探りを入れ合う展開が馬鹿馬鹿しくなり、本題を切り出す。


「ネットニュースを見たよ。俺の氏名を世間に公表してくれてありがとう。おかげで副業の良い宣伝になったよ」


『……すみません。私は反対したのですが、社長が勝手に手を回して……』


「それと、無償で返すだなんて、ひと言も言ってないんだけど」


『それも社長が……』


 社長が、と責任逃れを繰り返す華岡は、社長とグルなのかもしれない。怒りの矛先をかわすために、低姿勢で人当たり良い華岡が俺の交渉相手なのだとしたら、そんなものはまっぴら御免だ。


「金はもういらないから、タダでギターを返すのには同意をするよ。ただし条件がひとつある。あのギターは俺がキングに会って直接手渡す。これがギターを引き渡す条件だ」


『……キング? なぜキングに?』


「懸賞金の提供者はキングだろ? それぐらい分かってるよ」


 馬鹿正直に無言になる華岡に向けて「ビンゴだな」と言い放つ。


「奴にはいろいろと聞きたいことがあるんだ。会う機会を作ってくれ」


『……それは無理な注文です。キングは今、長野のスタジオに篭って新作のレコーディング中です』


「三百万円の懸賞金をかけてでも、あのギターを欲しがったんだろ? 長野から出てくるぐらい、簡単じゃないか」


『私の権限では、承知できません……』


「そうか……じゃあ仕方がない、俺はあのギターを転売することに決めたよ」


『転売って――』


「準備はもう整えてある。とあるアプリを立ち上げて出品ボタンを押しさえすれば、それで出品は完了する」


『……』


「巷で話題のギターだし、金額は一万円に設定してあるから、ものの一分もしないうちに買い手は現れる。発送の準備も整えてあるから、購入者にすぐに発送するつもりだ」


『ちょ、ちょっと待って』


「言っておくが匿名配送だし、発送後にアカウントを削除するつもりだ。あんたらがどんな手を尽くしたって、誰に向けて発送したかなんて調べられっこない。ギターの在処を探したいなら、また懸賞金でも掛けるんだな」


『そんな……』


「躾の悪い転ヤーとか、品のないコレクターはそこら中にウヨウヨいるから、もうあのギターは表舞台には出てこないかもしれないけどな」


 数十秒間の沈黙が流れる中、俺は無言を貫く。先に声を出した方が負け。この勝負、決して敗れるわけにはいかない。


『キングのスケジュールを調整できるか、私から働きかけてみます。出品は絶対にしないで下さい』


「分かった、じゃあ一時間だけ待つ。一時間もあれば社長に連絡ぐらい取れるだろ。言っておくが、いつでも出品できる状態にあるから。俺は本気だよ」


 華岡は『承知しました。またこちらから連絡します』と言って、そそくさと電話を切った。


 意識を電話越しの相手から切り離すと、背後から誰かの視線を感じる。振り返ると、そこには帰宅した美咲がいた。


「帰りが早いってことは、副業がバレて会社をクビになった?」ネットニュースで俺の氏名が晒された件は美咲はもう知っていて、クールに微笑みながら俺をイジる。


「込み入った話だったみたいね。誰?」


「音楽事務所の連中」


「ふーん、あのギター、タダで返すって本当なの?」


「いや、タダじゃ返さないよ」

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