#27

 自席に舞い戻って、やるべき仕事を目の前にしながらも、ただ不安に襲われるばかりでマウスに乗せた右手は硬直して指先が冷えていく。業務中にネットニュースを覗いて俺の名前を見つけた誰かが、社内でこの噂を広めているかもしれない。そんな妄想が頭を過ぎって落ち着かず、心臓はいつもより速く脈打って、その鼓動が耳に届けられる。息が荒く、無性に喉が渇き、体は気分を落ち着かせる成分――ニコチンを要求してくる。


 昼休みまでの就業時間を給料泥棒の如く、だらだらと無駄に消費させる。昼食を摂る気にもならず、チャイムとともにそのまま屋上へと上がる。喫煙エリアに陣取って、肺にめがけて目一杯の煙草の煙を吸い込ませると、細胞の隅々まで届けられたニコチンで、幾らか気が紛れる。


 その場にしゃがみ込んで煙を燻らせていると、すぐ隣に顔見知りの男が近づいて来た。数年前まで同じ部署の後輩だった安藤司だ。


「慎さん、お久しぶりっす」


 司は学生時代にインスト系のバンドでギターを担当し、セミプロとして活動をしていた経歴の持ち主。かつての酒の席では、さんざん彼のセミプロ活動時代の自慢話を耳にしている。そんな司の口から出た世間話の第一声はやはり「コーチンのギタ―、見つかったみたいっすね」だった。


「ふーん、そうなんだ」


 遠くを見つめて素知らぬふりを無理やり貫く。


「発見者の名前が公表されてて、それが慎さんと同姓同名なんすよ」


 若干、空気の読めない感のある司の第二声は、予想通りだった。「同姓同名」という単語が耳にピンと響く。なるほど、世間に俺と同じ名の奴がいても、おかしくはない。


「へえ、会ってみたいもんだな、そいつに」


「羨ましいっすよね、三百万円なんて。しっかし、どうやって手に入れたんですかね、あのギター?」


「さあ……コーチンの愛人とつるんでパクったんじゃねえの?」


 あえて汚い言葉を発してお茶を濁しておく。司が大口を開けてバカ笑いをするさまを見て俺は腹を決めた。誰に何を言われても知らぬ振りを貫き通す、と。


 その後の司との何気ない下世話な話が盛り上がるにつれ、俺の焦燥感は次第に解消されていった。代わりに沸々と湧き上がるのは、音楽事務所の奴らに対する増悪の念でしかない。




 いつもの何気ない、帰宅途上の混みあった通勤電車。吊り革を掴み、目を瞑る。不規則な前後左右の揺れに身を任せながら、今後について想いを馳せる。


 音楽事務所の奴らは俺の氏名を公表することで、世間の疑惑の目を俺に向けさせるのが狙いだったのか。盗まれたギターが見つかったのだから、「見つけた」と名乗り出た奴が真っ先に疑われるのは至極当然の流れ。見えないプレッシャーで俺を追い詰めて、ギターをただで取り戻そうとする奴らの魂胆が透けて見えてきて腹が立つ。


 だが、この車内のいったい何人がコーチンのギターが見つかったことに興味を抱き、その発見者の氏名を記憶に留めているというのか。


 こうして揺れ動く人の波に身を任せていると、世間と同化して、突出のない、至って平凡なサラリーマンの一人と化すのは容易なことだ。きっと誰も「副業サラリーマン安田慎一」になんか、興味を持たないだろう。


 さて、これからどうするか。ギターはまだ俺の手中にある。氏名を公表されて事務所の奴らに主導権を奪われてはいるものの、反撃のチャンスはまだ俺にも残されているはずだ。


 瞑っていた目をかっと見開くと、そこは俺が下車すべき見慣れた自宅近くの駅だった。すでにホームで発車のチャイムが鳴り響いている。


「降ります」と声をかけて人波をかき分け、ぎりぎりのタイミングでドアに挟まれずにホームに降り立つ。あと三秒、初動が遅れていたら危うく乗り過ごして、美咲の料理をまた冷ましてしまうところだった。

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