#26

 妄想に耽る俺の座席の前に誰かが仁王立ちしている気配を感じて意識を呼び戻すと、目の前に松崎麻衣子が立っていた。総務課の人間が直接、商品開発部門のフロアにやって来るのは珍しい。周辺の同僚たちも、もの珍しげに麻衣子の様子を伺う。


「安田さん、先日の出張精算の件でお聞きしたいことがありまして、経理部まで一緒に来て頂けませんか?」


 よそよそしいその言い方に、何かあるな、と汲み取ってそのまま二人で商品開発部門のフロアを出る。向かうのは経理部ではなく、屋上の隅っこの人気の無い場所だと容易に想像がつく。


 階段を上がって屋上に出ると空は分厚い雲に覆われて、肌に冷たく吹く風が晩秋を告げている。囚人たちの喫煙所を離れて人気の無い場所まで移動すると、麻衣子はポケットから取り出したスマートフォンを俺に差し出して、


「これ、慎ちゃんのことだよね?」とぶっきらぼうに言い放つ。


 受け取ったスマートフォンの画面には、小さな文字のネットニュースが表示されていた。


        ※


【故コーチンの盗難ギター発見される】


先月の二十日に亡くなった元DECOYのギタリスト、コーチンの盗難されたギターが発見されたことが判明。所属していたソユーズ音楽事務所のホームページ上でギターの発見を発表した。


コーチンは盗難されたギターに三百万円の懸賞金をかけ、その二日後に自殺をして亡くなっていたことが判明。コーチンの死とともにギターの行方に注目が集まっていた。


盗難ギターの発見者はインターネット上でギターの中古販売を営む安田慎一さんで「ネットオークションで入手したものだ」と説明をしているとのこと。なお安田さんは「ギターは無償で返す」と表明しており、近くこのギターは音楽事務所へ返還される予定である。


        ※


「その顔を見ると、慎ちゃんでビンゴなんだね」


「ひでえな……」


 怒る、というよりは、呆れ返る。昨日、わざわざ顔を突き合わせて名刺の交換までしたというのに。まさか氏名を公表するなんて思いもよらない。互いに交わしたはずの「信頼」という二文字が、あっけなく崩れ落ちていく。


「名前出ちゃってるけど、大丈夫?」


「大丈夫なわけないだろ……副業なんだぜ、会社にバレたらクビになっちまう」


「やっぱり、そうだよね……」


「『無償で返す』かよ、勝手なことを言いやがって」


「え、違うの?」


「昨日、懸賞金の交渉を始めたばかりだよ。先に外堀を埋めてきやがった、くそったれが」


「ひど……」


 俺の氏名が公表されているのを心配して、麻衣子はすぐに知らせに来てくれたらしいが、その優しさを素直に受け入れられない自分に腹が立つ。麻衣子に礼のひと言も言わずに「仕事に戻るよ」と言い、屋上の階段口に向けて歩き出す。


 麻衣子は気を遣って俺の後を追いながら様々な助言をくれたが、俺の胸には何ひとつ刺さらない。ネット上に氏名が晒された事実だけが頭の中をぐるぐると渦を描いて駆け巡り、どうしようもない焦燥感に襲われる。

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