#20
翌日、早めに昼食をすませて、一張羅のライダースに着替える。このライダースとはもう何年の付き合いになるのか。
買った当初は分厚い革に難儀して、まるで拘束具を着けられているみたいだった。せっかく叩いた大枚が無駄にならぬよう辛抱して着続けて、ここ数年で革がようやく俺の体に馴染んでくれた。ジャストフィットになったこの相棒を永く着られるようにと、体型に気を配るになったのは、嬉しい誤算だ。
狭い玄関で靴を履いていると「あのギターは持って行かないの?」と後ろから美咲の声が響く。
「いきなり襲われてギターを奪われるかもしれないだろ?」
「そうね、用心に越したことはないよ」
「じゃあ、行ってくる」
玄関の扉が閉まる寸前、隙間から見えた美咲の表情は明るい。午後の介護の仕事を辞めてからというもの、美咲のクールだった印象は一蹴されて、時折見せる笑顔にドキリとさせられる。介護の仕事はよほどハードだったのだろう、たとえ収入が減っても美咲の笑顔が見られるのなら、それに越したことはない。
時刻表とおりにやって来ない路線バスと、休日の駅前通りの渋滞と、家族連れやカップルで混み合う電車にイライラが募る。約束の時刻に近づきつつあるのを腕時計で確認しながら、待たせるよりは待つほうがマシ、と誰かが言った偽善的な言葉を思い出す。
人影疎らな駅のホームを早足で駆け抜けて、待ち合わせ場所の改札口へ到着したのは午後二時の数分前だった。
改札口を抜けて視界に捉えた駅前広場は、俺の目には少々寂れて見える。こんなに列を成していったい誰が乗るんだ、とツッコミを入れたくなる乗車待ちタクシーの手前では、暇そうな運転手が数人、顔を突き合わせて談笑していた。
大きなバスロータリーの前には三本のバス停が立ち並び、遠目に見てもその時刻表は数字で埋まっている。平日はそれなりに人で賑わう駅である様子が伺えた。
少し離れた場所に商店街の入口の看板が見えるが人通りは少ない。音楽事務所の男と話ができる店が此処にあるのか、と不安に駆られる。改札口の横に佇んで辺りを見渡すと、電話で言っていた「黒いスーツの痩せた男」は見当たらない。時刻は午後二時を数分過ぎている。
ふと、煙草を吸いたい衝動に駆られるが、駅周辺での喫煙は御法度。いったいいつから、人類は煙草を必要悪にしてしまったのだろう? ひと昔前までは、駅前には灰皿が設置されているのが当たり前だったのに。
商店街のほうからタイトなパンツスーツを着たショートカットの女が不意に現れて、思わず目を奪われた。スレンダーという言葉がピタリと嵌る、少し離れたこの距離からでも明らかに美人と分かる女だった。
女が井戸端会議中のタクシー運転手の横を通り過ぎる。運転手たちが一様にアホ面を浮かべながら彼女に視線を奪われる様子は、見ていて滑稽だった。女のコツコツというリズミカルな靴音は駅前に響き渡り、その音は俺の目の前でピタリと止んだ。
身長百六十五センチ、瘦せ型、黒いスーツ。
なるほど、女ということを除けば条件は一致している。男だと勝手に思い込んでいた俺の負けだった。
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