#11

 翌日のサラリーマン稼業の昼休み、食後の唯一の楽しみである煙を燻らせに屋上へと階段を上る。屋上の喫煙スペースでは生息場所を奪われた喫煙者の一団が、地面上の黄色いテープで囲われた十平方メートルほどの狭いスペースで肩を寄せ合っている。


 ビルの屋上がいつから喫煙所と化したのか、俺の記憶は覚束ない。入社したての新入社員の頃は、喫煙者の机上には灰皿があるのが当たり前だった。それがいつしか喫煙室なるただ狭いだけの空間に押し込められ、そして今日ではビル内の全ての喫煙室は撤廃されてしまった。


 大気開放式のこの屋上の喫煙スペースは煙が篭ることは決してなく、非喫煙者に迷惑をかけることもない。だが夏は灼熱、冬は極寒となるこの場所はまるで、この世から喫煙者を抹殺するための殺戮現場に見えなくもない。


 煙草を吸わない美咲に遠慮して、自宅では決して吸うことのない俺の唯一の悦楽のこの場所も、数ヶ月前に総務課から「来年の春には閉鎖する」とアナウンスする資料が社員に向けて配信された。


 昼休み時間の残り五分を知らせる予鈴のチャイムがスピーカから流れ、ニコチンを体内に溜め込み終えた輩が次々に黄色のテープを跨いで階段口へと向かって行く。さて俺もそろそろ席に戻るかと思った矢先、靴音を響かせて、総務課のダサい制服をタイト気味に着こなす女性が近づいて来た。


「そろそろ禁煙療法でも始めたら? もうじき、ここで吸えなくなるよ」


 艶のある声にはもちろん聞き覚えがある。総務課の松崎麻衣子だ。


「お前だって喫煙者だろ?」


「もう止めるよ、総務課で喫煙組だと肩身が狭くて、もう無理」


 総務課で一番古株の女性社員となりつつある麻衣子は、そう言って左手のメンソールを深く吸い込んだ。総務課からアナウンスされた喫煙所閉鎖の資料は、上司の指示で麻衣子が作成したものらしい。「嫌がらせみたいなものかもね」と、前に笑いながらそっと教えてくれた。


「最近はどうなの、例の副業の調子は?」


「……もう少し小声で頼むよ……ぼちぼち、ってとこだ」


 麻衣子は社内で唯一、俺が副業を掛け持ちしているのを打ち明けている相手だ。こんなことは信頼している奴にしか話せない。麻衣子は大学の軽音楽サークルの後輩で、かつて一緒にバンドを組んでいた間柄でもある。


 独特のリズム感と伸びやかなハイトーンを持ち合わせる彼女のボーカルスタイルは、当時ではまだ珍しかったセクシーな衣装と相まって人気を博し、俺達のバンドは学内で人気者だった。学園祭ライブのチケットの売り上げは、招聘したプロのミュージシャン連中よりも遥か上をいった。


 俺の同期入社の人事部の輩に「とんでもないべっぴんがいる」と麻衣子を紹介して、そいつが裏で手を回し、すんなりと麻衣子は俺と同じ会社の社員となった。学生時代に一度だけベッドを共にしたことがある麻衣子は「別にあんたを追ってこの会社に入ったんじゃないよ」とつれないが、男女の間柄を超えた関係は今でも続いている。


 学生時代と変わらぬスタイルと美貌を今も維持している彼女は、社内でも、特にワンチャン狙いの管理職からの人気が高い。それを承知の上で「鼻の下を伸ばしたスケベジジイなんかに興味ないよ」とバッサリ切り捨てる彼女は痛快だ。これだけの美貌を持ちながら麻衣子が独身を貫いているのは、彼女なりの美学があるのだろう。


「ねえ、コーチンのギターに懸賞金が掛けられてるの、知ってる?」


 かつてバンドのボーカリストだった麻衣子は、当然のようにコーチンのギターの件を知っていた。


「ああ……知ってるぜ。三百万円、だったかな?」


「慎ちゃんの副業界隈で、あのギターを見かけたことってある?」


「いや、ないな。中古市場で出回ったら目立つよ、あのギターは珍しいから」


「そっか、盗んだ奴もサイテーだけど、金欲しさに必死こいてギター探しをしている奴らもサイテーだよね。慎ちゃんはコーチンの熱狂的なファンだったから、許せないでしょ?」


「そうだな」


 苦笑を浮かべながら、麻衣子に向けてそう答えるのがやっとだった。


 昼休みの終わりを告げる本鈴のチャイムが鳴るや「ヤバ、昼礼だ」と麻衣子は踵を返す。「今度飲もうね」と言い残して小走りで階段口へ向かう麻衣子の後を追って、俺も右手の煙草を携帯灰皿にしまい込んだ。

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