4——妹だったらどれくらいで終わったかな、と考えた。
妹だったらどれくらいで終わったかな、と考えた。
社長業を雑事と考えるのは、何も新蘭戯が
新蘭戯と比べると、霧子はとてつもなく優秀であった。頭が良く、働き者で、人望も厚い。だが一方で、人の上に立つであるとか、偉くなりたいというような向上心に欠けていた。否、欠けているというよりは、そこに興味がないというべきか。とにかく霧子は、職人気質の人間だった。
新蘭戯の父親——つまり先代の社長は、五十五歳の誕生日に社長業を
先代社長は霧子をこそ、次期社長に
設計と加工の二刀流。いや、加えて社交性の三刀流だ。だから、彼女を次期社長にするという意見に対し、皆も同意していた。家族はもちろん、経営陣も、霧子が社長の座に就くことに反対しなかった。異例ではあるが——それほどまでの才能が、霧子にはあったのである。新蘭戯本人も、その方がいいと思っていた。兄である自分を差し置いて何故妹が——などとは、
それに新蘭戯は、すぐにでも女社長というものが当たり前になる時代が来ると予感していた。であれば、『新蘭戯工務店』がその先陣を切るのも良いと考えていた。話題にもなるだろうし、『新蘭戯工務店』の主力商品は、
むしろそういう、数値化出来ぬ、証明出来ぬ能力は、兄の方が長けていた。
だから兄までも賛成するのであればと、対抗馬も出ず、霧子が社長になるのに何の障害もないものと思われた。
しかし、霧子本人はそれを
「私は、お兄様に比べて、まったく人間が出来ておりません」
完璧と言っても
これは見方次第では「面倒は嫌だからあんたがやれ」というのと変わらない。
しかし新蘭戯は、妹の性格を知っていた。妹は本気で、自分は人間が出来ていないなどと思い込んでいるし、技術的な分野での研鑽も足りぬと思い込んでいる。だったら、むしろその妹の願いを叶えることこそ、不出来な兄の務めなのではないかと考えた。自分が
新蘭戯は、両親、経営陣、会社の古株——様々な関係者に、一人一人、丁寧に説明をした。妹が会社の代表になるべきだが、妹はそれを嫌がっている。妹はきっと社長業もこなせるだろうし、社長という座に就くのが嫌なだけで、社長がすべき仕事は言われなくてもやるはずである。誰かが代わりにその椅子に座らなければ、妹の才を殺してしまう。ただのお飾りで良いから、自分が社長という矢面に立つ。だからそれを認めて欲しい、と、全員に頭を下げて回った。
ろくに稼業の手伝いもしない書生風情が言ったところで追い返されそうなものだが——新蘭戯自身も決して、人望がなかったわけではない。むしろ、人に
その
無論、全員が承知の通り、お飾りの代表である。
妹とも、技術一辺倒ではなく経営の研鑽も積むよう合意を得ていた。だから実質的に、会社の経営方針を決めるのは霧子の役目であった。新蘭戯は、ただ社長の肩書きを得ただけだった。結果的に長子が社長の座を継ぐ形となり、対外的には非常に据わりの良い引き継ぎとなった。
お飾りとは言え、それでもそこそこ仕事はあった。新聞社に取材を申し込まれればその調整をし、霧子を『技術責任者』として紹介して、取材を受けさせた。人前に出たがらない妹を世に出すのも自分の
そんなわけで今日は、
「社長、やっぱりこりゃ
様々な資料を取り寄せ、社長室で新蘭戯と顔を付き合わせて確認をしていた宮本が言った。
「そうみたいだね。新潟と言うから、
新蘭戯は資料を机に投げ捨てて、すっかりこの件から興味を失った。
「まあ、万が一にも万が一というのはありますからね、調査は大事ですが」宮本も、新蘭戯同様、資料を投げ捨てた。「こうも多いと、こりゃ調査させて仕事の手を止めさせようとする、競争会社の陰謀なんじゃないかと思えてきますね。社長、この会社にも法律に明るい人間をもう少し配備しちゃどうですか。ぼくなんか、膝に生えた毛ほどしか法には詳しくありません。専門家を雇うのが正解です。ぼくはともかく、社長がわざわざ調べるこっちゃない」
新蘭戯は社長椅子に深く座りながら、宮本の言葉を聞くともなしに聞いていた。確かにそういう時代になりそうだ、という予感もあった。古く——例えば
「まあ……考えておく」
「へい」
新蘭戯は言って、あと始末は頼むと宮本に告げ、会社を後にした。
——そして現在に至り、新蘭戯は
『新蘭戯工務店』本社は
新蘭戯は車内で、なんともなしに、知人のことを思い出していた。
五年前、新蘭戯は友人と共に、新たな事業を
その開店祝い——というわけでもなかっただろうが、友人の
あれからもう五年も経つのか——と、新蘭戯は車窓を眺めながら思い返していた。
どうして折櫛のことを今更思い出したのかと言えば、折櫛が新潟の出身であるからだった。会社の雑事で新潟という地名を見て、そう言えば……と、考えるともなしに考えていたのである。
もっとも、新蘭戯は新潟に彼女を訪ねたことはない。彼女との思い出は、ほとんど東京と神奈川に
生真面目で、中性的で、愛想がなく、しかし面白い感性を持った折櫛のことを、新蘭戯は好意的に思っていた。恐らく、
しばらく連絡など取っていない。そもそも、新蘭戯が折櫛に連絡をする用もない。自分と折櫛の間には、友人の存在が必要不可欠であった。それに、今更どうしても会いたいかと言えばそんなこともない。ただ、懐かしかった。新潟という土地がそれを思い起こさせた。それだけのことだった。
新蘭戯は桜木町駅で電車を降り、慣れた足取りで伊勢佐木町を目指した。桜木町付近は川が多い印象がある。川崎にももちろん川はあるのだが、名前の割にはそれほど印象深くない。土地に対する川の面積やらを正確に数えれば、もしかすると川崎の方が多いのかもしれない。だが、そういう問題ではなかった。名前に
新蘭戯は考えるともなしにそんなことを思いながら川に沿って歩き、
路地を曲がり、自分のビルへ向かう。ビルは一階が『
新蘭戯はそうした階下のことを考えながら、外階段を上がって『新蘭戯相談所』の前までやってきた。いつもの調子で中に入ろう、としたところで——いつもとは調子が違うことに気付いた。
「じゃあ何か、君は、忌子が——」
「いえ、そうでは——」
「だってそう言っただろう。じゃあ——」
何やら、言い争いのようなものが聞こえた。
客か、と思った。否、客以外あり得ない。新蘭戯は少しだけ、戸の前で考えを
部屋の中には——男女がひとりずついた。
友人である
対面して座っている。見るからに、仕事を受けているような感じであった。
「——ああ、浩平か。遅かったじゃないか」
「なんだいこの騒ぎは」
新蘭戯は男女を見比べ、
「外まで聞こえていたぞ、三月」
新蘭戯が言うと、女学生風の女が所長の姿を見て、それから立ち上がり、馬鹿丁寧に深くお辞儀をした。
「ご無沙汰しております」
「はあ」新蘭戯は間の抜けた声を出した。「こりゃどうも。以前に何か、お仕事をご一緒しましたっけな……」
「何を言ってるんだ。こいつは直流だよ」
三月に言われ、
「ああ! なあんだスグちゃんか。ええ、こりゃ驚いた。いやあ、綺麗になったねえ」
「ほら」と、木哭が言う。
「ほらじゃありませんよ」直流がすぐに木哭を
「これはこれは……へえ、ううん、驚いた。すっかり大人の女性だね。スグちゃんは素材がいいからな……着飾ると結構なもんだね」新蘭戯は言いながら、三脚あるうち、空いているソファに緩やかに腰を下ろした。「しかも洒落ているなあ。最近はそういうのが流行っているんだってね」
「ありがとうございます。どうですか三月さん。浩平さんのなんとも流れるようなお褒めの言葉を聞いて、どう思いましたか。見習って下さい」
「どうして僕が浩平なんかに見習うことがあるんだよ」
「どうしてそんなに喧嘩腰なんだい」と、新蘭戯は不審そうに問うた。
テーブルの上には、皿に載ったシュークリームが一つだけあった。表面が乾燥している。
新蘭戯が座ったのと入れ違うように、木哭が立ち上がって「お前も茶でも飲むか」と言いながら盆を手にして
「いえ——あの、突然お邪魔して申し訳ありません。あのう、これ、お土産です」
折櫛はそう言って、テーブルに載ったままのシュークリームを新蘭戯に勧めた。
「これはどうもありがとう」
「聞いてくれ浩平。こいつはあろうことか、手土産を二つ持参して、そのうち一つを自分で食った。僕にはなかった」
「だって三月さんは食べないじゃありませんか」
「食べないからと言って持ってこない道理はないだろう」
「おいおい、だから……なんでそんなに喧嘩腰なんだ」と、新蘭戯は再び尋ねた。「いや、三月の性格も、まあスグちゃんの
突然の論争に巻き込まれておいて、尚、新蘭戯は冷静だった。それは新蘭戯の長所とも言える部分である。新蘭戯は、妹の霧子のような特別な才も、妹の霧子ほど速く回る頭も持っていなかったが——それでも、慌てたり、怯えたりということとは基本的に無縁であった。
冷静沈着——と言うと少し尊大だろう、と自分でも思ったが、まあそれが一番似つかわしい表現である。
あるいは
「順を追って説明しますと——あの、私、三月さんにお仕事の相談に来たんです。相談というか……救援要請というか……」
折櫛の言う〝仕事〟とは、即ち
「相談ね……まあ、うん、そんなところだろうとは思った」
「予想していたとでも言うのか? お前がそんなに利口かよ」
と、木哭が口を挟む。
「思うことと利口かどうかは関係がないじゃないか。なんでそんなに突っかかるのさ」
「僕は気が立ってるんだよ」
「珍しいな、三月が気を立てるなんて」
「三月さんは、私の話を聞いて、何か勘違いされてるんです。それで、怒ってしまったようで——しばしの間、口論をしていて——まあ私が弁解するだけの場だったんですが——そこに、浩平さんが帰っていらしたというわけです」
喋り方もなんだか女性っぽくなったな——と、新蘭戯は思っていた。可愛い妹のように思っていた存在が、あるいは
「吸ってもいいかな?」
「あ、ええ、もちろん——浩平さんの事務所ですし」
「おい、勝手に人の煙草を吸うなよ浩平」
「元々はこれは俺の煙草じゃないか」
「そうか? ……そうだったな。すまん」
木哭はすぐに
新蘭戯は煙草に火を点けて、深く呼吸をし、背もたれに掛かった。『新蘭戯工務店』の社長という立場から、ただの新蘭戯浩平に戻るための儀式的な行為であった。言わば、
「それで、スグちゃんは——うーんと、自分が受けた仕事について、三月に相談を持って来たと、そういうわけだ」
「はい。兄弟子のお考えを聞こうと——」
「なあにが兄弟子だ」
木哭は新蘭戯の分の湯飲みを持って来てテーブルに置き、それから自分と折櫛の湯飲みにも注ぎ足した。一通りの作業を終えるとどっかりとソファに腰を下ろし、「はやく食えよ。腐るぞ」とシュークリームを
「スグちゃん、結構——三月を怒らせたみたいだね」
通常、木哭という男はあまり感情を表に出さない。というか、常にあらゆる物事を
「話は
「まだ途中くらいなのですが——」
「いや、ほとんど済んだよ」と、木哭が
木哭は、折櫛から聞いた話を、まるで自分のことのようにすらすらと説明した。異国の紳士に連れられて長野県の片田舎に向かい、そこで依頼人家族と出会い、翌日、
「そこでな、こいつは気絶したんだと」
「なるほど。それで三月は怒ってたのか」
「怒るわけないじゃないか。浩平は僕をなんだと思ってるんだ?」不服そうに、木哭は言う。「そんなことは
「じゃあなんで怒ったんだい」
「その忌子が、あまりに美しくて——
木哭の説明を聞いて、新蘭戯は少しだけ、事の次第を理解することが出来た。確かに木哭は怒りそうなことだ、と納得したのである。
「その
「その通りだ」木哭は不機嫌そうに言った。「話が早くて助かる」
「しかしそれは、スグちゃんがどういう人間が知っていれば、一考の余地があるじゃないか。つまり、スグちゃんはそういう——退魔師の何たるか、退魔とはかくあるべし、ということについて理解がある。そりゃあ、なんだ——なんて言ったっけ、スグちゃんの家系は」
「
「ああそうそう。累屋さん。そこの
「それが身に付いていないから
「身に付いています」と折櫛が反論した。
「馬鹿なこと言ってるよ」
「こういう場合、話は平行線だね——」
新蘭戯は煙草を消して、ゆっくりと湯飲みに手を近付け、茶を
「うーん、
「あ、そうなんです。いいですねえ、近所にこんなに美味しい洋菓子屋があるなんて」
「俺は割とね、新しいもの好きなんだよ。名前が名前だからね」
「そんなことはどうでもいい」
木哭が不機嫌そうに言った。言ったが、だからといってそれ以上言うべきことはなかったようである。腕を組み、不機嫌そうな
「だからさ、三月——考えてもみろよ。スグちゃんはそのイミコ? とやらをただ殺さなかったわけじゃない。それはつまり、ただ美しいと思ったわけでもない、ということだろ。そういう、一般的な常識というか……うーん、自分の中にある
「そ、そうなんです! 浩平さん、その通りです。あれはだから——
「例えるなら、『呪いの絵』とされる美術品があるせいで困っているという家から退魔の依頼があって、行ってみたら、まあ……なんとも美しい絵だ。これを破壊するのは惜しいというんで、スグちゃんは仕事を放棄して、三月に相談しに来たと、こういうわけだ」
放棄、という言葉に、折櫛は少なからず動揺したようであった。「放棄……ですね、確かに」と言って、誰にともなく頭を下げた。新蘭戯に折櫛を責める意図はなかったが、彼はたまに、そうした
「そんなに美しい人間がいてたまるか。そもそも美とは——人間になど
「有り得ます」折櫛が言う。
「これじゃあやっぱり、ただの水掛け論だよ。一旦、整理しよう。物事の
「だから、そんなに美しい人間はいないよ」と、木哭は言う。「大体、何度も言っているが、人間なんていう
「でも、判断を下すのはあくまで退魔師ただ一人だろ? そこに意識はないのか」
「その瞬間は空っぽだよ」と、木哭は言う。「例えばそうだな……浩平は社長業をやっているな。で、会社経営が立ち行かなくなって、誰か
「自分の給料を下げる」
新蘭戯はすぐに言った。
「話が早くて助かる」
と、木哭は同じ言葉を使った。
「自分を
「ですが——」
「でもね三月」と、新蘭戯が口を挟んだ。「やっぱり俺は、スグちゃんがそう簡単に心得をなくしたわけではないように思うなあ。三月もよく言うじゃないか。今でもたまに、
そういうの、という表現がわからないのは、この場では折櫛だけだった。自分と十も年の離れた中年男性ふたりが、曖昧な表現でお互いだけわかり合っている。折櫛は言葉を挟むべきか悩みつつ、ふたりの顔を交互に見た。
「——言ったか」木哭は短い頭髪を掻きながら、少々気まずそうに言った。「うーん、まあ確かに言ったかもしれん。だがもう時代も変わったからね」
「時代の
「そりゃあそうだよ。歴史は繰り返すわけだし、科学は様々な物事を証明するだろう。とすると、
「確かにね——」
新蘭戯は納得したようで、何度か頷いてから、また煙草に手を伸ばした。木哭が無言で手を差し出したので、新蘭戯はその手に煙草を一本乗せた。
「あのう……私だけ話が見えていないようで……」
折櫛が問うと、二人は順番に煙草に火を点け、一服してから、「ごめんねスグちゃん」と、新蘭戯が応じた。
「言わば——なんて言えばいいんだい?
「怪異」
短く、木哭が言う。
「別の言い方をすれば、そうだな——
「説明したか? それを。順を追って説明しなきゃ伝わらないだろう」
「知るかそんなこと」
折櫛は少し、話の進みが見えなくなっていた。だが、新蘭戯と木哭の間では、それは当然の事柄として罷り通っているように聞こえる。自分だけ理解力がないのか? 否、違う。
「例えばだけど三月、そういう——美女を扱った話はないのかい」
「美女の出る話ならそれこそ山の数ほどあるが……例えばそうだな、舞台が信濃だから、信濃の伝説で例を挙げると——『
木哭は両手を刀を持つように握り、左右に振った。
「ああ、
「そうだ、歌舞伎や
木哭はそこで話を切って、折櫛を見た。折櫛はわけがわからず、ただその視線を受けることしか出来ない。
「最終決戦の舞台が戸隠だから戸隠の伝説とされているが、実際には鬼無里にも紅葉の伝説が伝わっている。鬼無里という地名は『鬼の無い里』と書くから、まあ鬼がいないんだな。が、この紅葉という鬼女は、
「美女で、鬼女で、貴女なわけだ。言葉遊びみたいだね」
「わかりやすさというのは、怪異を後世に伝えるためには大切な要素だよ。もう少し踏み込んで話すと——この紅葉、産まれた当初は
「今で言うなら、京都だろう」
新蘭戯が口を挟む。
「とにかくそこで、紅葉はそれなりの名のあるお方の
「いわゆる
「だね。で、紅葉は家族ごと、
「つまり、可哀想な美女の話か」
「おい浩平、お前はなんでそう馬鹿みたいな要約をするんだ。今の話を聞いて、なんで美女が可哀想だなんていう感想が出るんだ?」
「だってそうだろう。不運だよ、それは。紅葉さんが可哀想だ。美女に生まれなかったら、回避出来た悲劇かもしれないだろう」
「まあ、ある側面では……可哀想と言えば可哀想かもな。でも、
「それだって、美人に生まれなければ詐欺なんかしなかったかもしれん」
「お前は美人に弱いからな」と、木哭は呆れたように首を振った。「まあいい、要するに、
「あのう……どういうお話をされているのか、私はあんまり、わかっていなくて……」
木哭を怒らせたこともあって強気に出るわけにも行かず、折櫛は控えめに、新蘭戯に尋ねた。急に昔話が発生する理由がわからなかったのである。
「つまりね、スグちゃん。スグちゃんが三月に話した今回の事件は——まあ、話の
「枠が……埋まってる? ですか?」
「例えば、
木哭は散々に憤ったあとで昔話をして少しは落ち着いたのか、冷静な口調だった。
「諺ですか?」
折櫛はさらに話の行方がわからなくなる。
「つまりね、生きている中で、何か非日常的な状況が起こったとする。その状況を簡単に説明出来る言葉ってのは、一から生み出さなくても、大抵の場合存在しているだろう。だから諺っていうのは、もうほとんど、現代では
「なんだい、カンナイって」
「関内だよ。川向こうの」
「ああ、地名?」新蘭戯が不思議そうに言った。「なんで関内が出てくるんだ?」
「つまりさ、関内という言葉があるから、我々はなんとなく、あの辺一帯をそう認識する。本来は
折櫛は少しだけ、わかったような気になる。関内の例えは、折櫛にはとてもわかりやすかった。つまり——自分が見た
「美女を扱った伝説なら、それこそ
「三月の言い方は難しいけど……つまりね、スグちゃんが職務放棄するほどに、見たこともないほど美しくて、関わる者全員を狂わせるような
新蘭戯の説明は、折櫛がした理解とほぼ一致していた。折櫛はようやく、新蘭戯と木哭の言っていることが理解出来た。
「本物の怪異なら——名前があるし、前例がある、と」
「強いて言えば、『
「
と、新蘭戯が思いついたことを言った。
「ああ、近いかな。戦争の引金になるような女という意味ではあり得る。ただ、それは伝説というより形容だからなぁ……やはり少し違うような気がする。殺そうと考える者もいるわけだろう。父親や、執事なんかは」
「ああ、全員を狂わすわけではない、と」
「わからんが。とにかく今回の——
そこまで順を追って説明されると、ようやく折櫛も納得が出来た。何故、突然木哭は怒りだしたのだろうかと——折櫛は不思議だった。ただ弁解することしか出来なかった。しかし言われてみれば、その通りである。
怪異とは——
その存在が周囲を
だが、そう——忌子は
法を犯さぬ、ただ居るだけの存在は、退魔師が殺すべき対象だ。法で裁けぬから、殺すしかない。そういう人間を殺すのが退魔師の仕事だ。
一方で、ただ居るだけの存在は、怪異足り得ない、ということだろう。そして、怪異でないならやはり人間で、人間であるなら折櫛の対応は、退魔師として失格だ。
それはもはや、怪異というより、
「でも……三月さんの仰る通り、確かに過去に例がない存在だとしても……探せば似たような話は、あるにはあるんじゃないですか? 例えば、神話とか——」
「まあ、神話を紐解けば数多くあるだろう。ある意味、神話に載ってない例えはないかもしれないから、あるかもしれないね。だけどなあ——
「いえ、知りません」
「俺も知らない」
「まあ、知らなくていい」木哭はあっさりと言った。「伝説なり伝承なりというのは、そもそもが未知に対する回答として用意されている。あるいは範囲を広げるとでも言うかな。要は区分けだ。日本という国があって、神奈川という区分けがある。そこに横浜という区分けがある。その中に伊勢佐木町という区分けがあって、ここ『A・Kビルヂング』という区分けがあって、さらに『新蘭戯相談所』という区分けがある。知っている人間には、『新蘭戯相談所』と言えばそこから逆説的に、日本の話だと通じる。だが、何も知らない人には『日本という国に——』というところから説明しなきゃならない。どこを切り取るか、だよ。
「しかし三月」
新蘭戯はいつの間にか煙草を吸い終わっていて、新しく取り出したところだった。
それに火を点けて、ゆっくりとした動作で口に運び、紫煙を吐き出す。
「万が一というのはあるんだろう。
「——まあ、そうだ」
と、木哭は納得しかねる様子で言った。
「浩平の言う通り、絶対にあり得ないとは言い切れない。あるいはそれは、特殊過ぎる事例なのかもしれないな。あり得ない現象が重なって、複雑に絡み合って、ひとつの……いや待て……」
木哭は言って、口元を抑える。
今まで自分が唱えていた説を、自分自身で
「それが条件ということか……?
木哭は腕を組み、ソファにほとんど埋もれるような体勢になった。
新蘭戯は、横目でちらと友人を
「——この話は、僕以外、誰かにしたか」
木哭が、重苦しい口調で折櫛に問うた。
「いえ……あ、あの——
「
木哭は短い頭髪を
「事と次第によっては、確かに殺すのは
「俺が提示しておいてなんだけどな、三月。
「
「あの……ごめんなさい、私にはお二人が何を話していて——何を
「——今までも、忌子のような存在は居たのかもしれない。しかし見つからなかった。居ても誰にも気付かれないことが、その存在——つまり怪異の条件だとしたら、有り得る。だが、偶発的にもそれは人の耳に入って、人の目に映った。だから……我々が、今こうして会話していること自体が——
「発祥? 何のですか?」
「
木哭はそう言って、ふうと溜息を
「誰にも知られずに、ただ美しく、ただひっそりと
どこか、木哭は焦っているようであった。今まで、退魔師としての自覚が欠けているというような怒られ方をしていた折櫛は、混乱した。急に一転したからだ。話を聞く限りでは、自分が彼女を殺さなかったことが——まるで
「ええと……」
「海外に『モナ・リザ』という絵がある」
と、新蘭戯が唐突に言った。
「有名な絵画で、多分絵を見ればスグちゃんも『ああこれか』と思うだろう。元々有名な絵なんだけどね——明治の終わり頃に海外にある美術館で盗難に
新蘭戯は芸術方面に秀でているため、よくこうした逸話を、例えを使う。折櫛は黙って、新蘭戯の説明に耳を傾ける。
「この『モナ・リザ』という絵が、実はもう一枚あるという俗説がある。いや、伝説と言うべきなのかな? 色々な伝承やら、それっぽい証拠やらが合わさって、実は『モナ・リザ』は二種類存在するという伝説がどこかで生まれた。これは随分古くからある伝説なんだ。まあ、さっきの『紅葉狩』と比べたら歴史は浅いだろうけど——何しろルネサンス期だからね——それにしても、結構な人間を狂気に駆り立てたし、詐欺も横行した。つまり、『この絵こそ二枚目のモナ・リザだ』と主張する狂気もあれば、『二枚目のモナ・リザをあなたにだけお売りします』というような詐欺だ。何故そんなことが起こるかわかるかい? 普通は嘘だとわかりそうなことを、本気で言う人もいる。本気で騙せると思う人もいる。どうしてだろう?」
「……誰も見たことがないから?」
「そう、その通りだよスグちゃん。
「それと同じことが起こる」
と、木哭が不愉快そうに言った。
「同じこと……と言うと」
「直流はこう思っているかもしれない。
「ええ、はい。それが全てでもないですが……大枠はそうです。呪われたというか、魅入られたというか——どうも、あれからずっと、私は忌子を殺すべきか、殺さぬべきかばかり考えていて……だからと言ってもう一度会うとおかしくなりそうで、その……」
「だが実際には逆だ。今、この場で、
木哭が言う。折櫛はすぐに反応出来ない。
「すぐにその可能性を考慮すべきだった。浩平、悪い」
「会社に用がなきゃ、俺だって最初からここにいたんだ。で、スグちゃんの話を聞いていた。どうせ耳には入ってただろうから、変わらないよ」
「どういうことですか……?」
「だから僕らは——
「で、でも——すみません、不勉強で申し訳ありません」
折櫛はテーブルに手をついて、木哭に対して頭を下げる。
新蘭戯はそれを、懐かしいような気持ちで見ていた。折櫛の修行中、よく見た姿勢だった。
「その怪異とやらが今生まれたとして——何が困るのか、私にはわからないんです。さっき聞いた『紅葉伝説』というのも、一種の伝承ですよね。要するにわからないものをわかりやすくするための言葉で——そして、類似例がなければ
「
木哭は、怒っているというより、困っているように見えた。
「僕だって考えはまとまってないが——それが定着したら、例えばそうだな、多くの女児が
「神……隠し」
「
折櫛はまだ、真実には辿り着いていなかった。
「今三月がなんでこんなに悩んでいるかというと、これは、結末に
「そんな馬鹿な——」
「もちろん馬鹿げている。そんな短絡的な話はない。『紅葉伝説』でも紅葉は殺されるが、しかし、それが美女を殺していい、にはならない。でも忌子はなりそうな気配があるんだな。そう、例えば——中世にあった魔女狩りなんかはまさにこれだし、今も田舎では多くある、異国人への差別もそれに該当する。
「どうして……近くなってしまうんですか」
「
「あの、全然——理解が出来ません。どうしてそうなるんですか? だって、これはただ、林檎森という家に生まれた女の子の話であって……」
「だから、因果が逆なんだ」木哭は目を閉じていた。「そうだなあ、どう言ったら伝わるかな。
「はい。覚えています」
「操作出来ないから因果なんだ。ということはつまり、因果の向きも操作出来ない。身体的欠損を表す表現として
「三月が俺を馬鹿と言うのと同じだね」
「あとにしてくれ。ややこしくなる」
「要はだから、『林檎森の忌子』という言葉自体、概念自体が、侮蔑の意味を孕む可能性まで、今、三月は考え始めている。既に話が次の段階へ移っている」
「説明ありがとう浩平。とにかく因果が逆になる。逆というか、双方向と言うのが正しいかな。ああ、まとまりがないな——浩平、訳せるか」
「ううん……そうだな、忌子を殺せば、巡り巡って、美女は
「助かる。つまりそういうことだ」
「でも……そんな、定着するんでしょうか? 誰も話さなければ、そんな怪異なんて……」
「美への狂気は人類を動かすんだ」と、木哭は言った。「ここ十数年で定着し始めた、美女の話を知っているか? 中国の
「ああ、俺は知っている。二十代の頃に、何かの雑誌で読んだかな」
「私は知りません……不勉強で申し訳ありません……」
「いや別にいいんだ。で、これは健康的な美への執着だろう。さっきも話に出たが、いわゆる
「……わかりません。私には、三月さんや浩平さんの言っていることが、理解出来ません。私だけがわからないんでしょうか? 私に危機感がなくて、それで——」
「何かうまい
「モナ・リザの話はしてしまったしなあ……ううん、スグちゃんの話から抜き出すと、そうだね、
「それは……はい、そうですね。
「俺が霧子と寝ていると言ったら、どう思う?」
新蘭戯は唐突に、妹の名前を口にした。
折櫛はすぐに表情を曇らせる。嘘だとわかっていたが、その様を想像してしまったからだ。折櫛は霧子と同い年なので、十代はそれなりに付き合いもあった。だからだろう、その関係が生々しく感じられ、不快感を示した。
「想像したくありません」
「何故そう思うんだい?」
「だって、禁忌ですから」
「そういうことだよ」
と木哭が言った。
「
「要は
「——ああ、わかりました」
と、折櫛は急に言った。
異国人迫害という言葉を受けて、話が理解出来たわけではない。
「わかったか」
「はい。私は——ごめんなさい、話の途中だったので、これは私だけが知っている情報でした。だから説明しますが……その前に、どうして三月さんがそんなに不安がっているのかわからなかったんです。だって、その『林檎森の忌子』のことを知っているのは、林檎森家の皆さん——洋介さん、美咲さん、花長くん、蔵前さん。そして私と、三月さんと、浩平さんだけです。紅古さんは、少しだけ囓っていますが——地名までは伝えていませんし。だから外部に漏れることはない、つまり伝承化しないんじゃないかと思ったんです。だって、私たちが口外しなければ漏れませんよね?」
「いや、僕には自信がない。いつ自分が、そう言えば……と言って話だすかわかったもんじゃない。それに、花長がいるだろう? あいつが一番厄介で信用ならない」
「その花長くんは——
折櫛が言うと、木哭も新蘭戯も、信じられないとばかりに目と口を開け、折櫛を見つめる。
「死んだ……?」
「はい、死にました。だから——」
「逆だ」と、木哭が言った。「それは……違うぞ、直流。もし、花長が死んだことでこの件が我々だけに限定されて、
「ああ、逆だね」と新蘭戯が言う。
「逆、というのは……」
「
『林檎森の忌子』 福岡辰弥 @oieueo
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