4——妹だったらどれくらいで終わったかな、と考えた。

 妹だったらどれくらいで終わったかな、と考えた。

 新蘭戯あららぎ浩平こうへいは会社での雑事を終えたあと、自分の持ちビルへと向かっていた。

 社長業を雑事と考えるのは、何も新蘭戯が卑屈ひくつであるとか、けんそん体質というわけではなかった。事実、新蘭戯にとって、社長業は雑事であった。雑事と言えるようなことしか仕事をしていない。つまり簡単に言えば、彼はお飾りの社長であった。実際の経営については、彼の妹の霧子きりこが取り仕切っていた。

 新蘭戯と比べると、霧子はとてつもなく優秀であった。頭が良く、働き者で、人望も厚い。だが一方で、人の上に立つであるとか、偉くなりたいというような向上心に欠けていた。否、欠けているというよりは、そこに興味がないというべきか。とにかく霧子は、職人気質の人間だった。

 新蘭戯の父親——つまり先代の社長は、五十五歳の誕生日に社長業を退しりぞくことに決めた。通常、親が成した会社は男子がぐのが一般的である。だが、新蘭戯はその当時、『新蘭戯工務店』では働いていなかった。芸術方面で生きていきたいという欲求があり、書生しょせいのような生活をしていた。親のすねこそかじっていなかったが、散々に恩恵は受けていたから、まあ道楽息子のようなものだっただろう。一方で妹の霧子は、教育を受けられる環境に生まれていながら、幼少期から学校に行かず稼業かぎょうの手伝いに精を出し、女でありながら、鍛冶場でも十分に働けるほど家業を熟知し、こうけんしていた。

 先代社長は霧子をこそ、次期社長にした。一般常識を覆すほど、霧子には実務経験もあったし、何より才があった。腕が立つばかりでなく、頭も良い。加えて職人気質な性格も相まって、誰からもうとまれるようなこともなく、人付き合いにもけていた。

 設計と加工の二刀流。いや、加えて社交性の三刀流だ。だから、彼女を次期社長にするという意見に対し、皆も同意していた。家族はもちろん、経営陣も、霧子が社長の座に就くことに反対しなかった。異例ではあるが——それほどまでの才能が、霧子にはあったのである。新蘭戯本人も、その方がいいと思っていた。兄である自分を差し置いて何故妹が——などとは、微塵みじんも思わなかった。それほどまでに、霧子は完璧な妹であった。

 それに新蘭戯は、すぐにでも女社長というものが当たり前になる時代が来ると予感していた。であれば、『新蘭戯工務店』がその先陣を切るのも良いと考えていた。話題にもなるだろうし、『新蘭戯工務店』の主力商品は、包丁ほうちょうに始まり、はさみやら鍋やらと言った、主に女性が扱うしろものであった。であれば、その代表が女であることで有利になる局面もあると考えた。妹が出来すぎているせいで、相対的に兄は軽く見られがちだが——新蘭戯にもそうした知恵はあったり、せんけんめいがあったりはした。

 むしろそういう、数値化出来ぬ、証明出来ぬ能力は、兄の方が長けていた。

 だから兄までも賛成するのであればと、対抗馬も出ず、霧子が社長になるのに何の障害もないものと思われた。

 しかし、霧子本人はそれをがんとして認めなかった。

「私は、お兄様に比べて、まったく人間が出来ておりません」

 完璧と言ってもがないような妹に言われ、普通なら腹を立てるような局面だったかもしれない。何をやっても自分より上手くやる妹が、兄様の方が素晴らしいのだ! と言ったところで、これは嫌味ととるのが普通だろう。しかも、自分にはけんさんが足りぬから、もっと技術的な分野で働きたいなどというのだ。

 これは見方次第では「面倒は嫌だからあんたがやれ」というのと変わらない。

 しかし新蘭戯は、妹の性格を知っていた。妹は本気で、自分は人間が出来ていないなどと思い込んでいるし、技術的な分野での研鑽も足りぬと思い込んでいる。だったら、むしろその妹の願いを叶えることこそ、不出来な兄の務めなのではないかと考えた。自分が矢面やおもてに立つことで妹が才能を発揮はっきすることに専念出来るというのなら、自分が生まれた意味はそこにこそあるのだろうと思うことにした。

 新蘭戯は、両親、経営陣、会社の古株——様々な関係者に、一人一人、丁寧に説明をした。妹が会社の代表になるべきだが、妹はそれを嫌がっている。妹はきっと社長業もこなせるだろうし、社長という座に就くのが嫌なだけで、社長がすべき仕事は言われなくてもやるはずである。誰かが代わりにその椅子に座らなければ、妹の才を殺してしまう。ただのお飾りで良いから、自分が社長という矢面に立つ。だからそれを認めて欲しい、と、全員に頭を下げて回った。

 ろくに稼業の手伝いもしない書生風情が言ったところで追い返されそうなものだが——新蘭戯自身も決して、人望がなかったわけではない。むしろ、人にのではなく、人にという意味でなら、新蘭戯にこそはあった。彼こそ、真に人に好かれる人間だった。彼の説得を受け、関係者は全員、新蘭戯が社長になることを認めた。

 そのあって、新蘭戯浩平は妹に代わり、よわい三十歳にして『新蘭戯工務店』を継いだ。

 無論、全員が承知の通り、お飾りの代表である。

 妹とも、技術一辺倒ではなく経営の研鑽も積むよう合意を得ていた。だから実質的に、会社の経営方針を決めるのは霧子の役目であった。新蘭戯は、ただ社長の肩書きを得ただけだった。結果的に長子が社長の座を継ぐ形となり、対外的には非常に据わりの良い引き継ぎとなった。

 お飾りとは言え、それでもそこそこ仕事はあった。新聞社に取材を申し込まれればその調整をし、霧子を『技術責任者』として紹介して、取材を受けさせた。人前に出たがらない妹を世に出すのも自分のつとめだと考えた。誹謗ひぼう中傷ちゅうしょうの類を受ければ、その対応に追われた。要は、新蘭戯は妹に降りかかる火のを払ったり、妹に辿り着こうとする意識をふるいに掛ける、まさに矢面に立つ存在であった。

 そんなわけで今日は、さくねんに法改正された『意匠法いしょうほう』関係での雑事に追われた。新潟県にある刃物を製造する会社から、意匠権の侵害を理由にうったえを起こす——というような連絡があった。、というくらいだから、まだ起こしていない。つまり、おどしのようなものだ。『新蘭戯工務店』は我々の意匠権を侵害しているから、金を寄越せというものである。そのため、裏取りを行う必要があった。そもそも新潟にある何とかいう会社がちゃんと意匠をしかるべき機関に登録をしているのかとか、もししているとして、本当に自社の製品が権利を侵害しているのか、というような確認であった。こうした確認作業も、実を言えば妹の方が素早くこなせる。だが、恐らくはただのだろうと新蘭戯は考えていたから、妹に無駄骨は折らせたくなかったし、新蘭戯の腹心たる宮本みやもと朝生あそうという男も、霧子の手をわずらわせる必要がないと判断した仕事は、新蘭戯に知らせるようにしていた。霧子はこうした雑事の存在自体知らされないことが多かった。

「社長、やっぱりこりゃうそ八百はっぴゃくですよ。そもそもここは、会社ですらなさそうです。昔ながらの個人の鍛冶屋で、道楽みたいなもんだ。しかも、訴えを起こすといきり立ってるやつとその鍛冶屋には、大した関わりもなさそうです。神輿みこしにされてるだけすよ」

 様々な資料を取り寄せ、社長室で新蘭戯と顔を付き合わせて確認をしていた宮本が言った。

「そうみたいだね。新潟と言うから、三条さんじょう鍛冶かじの絡みで万が一にも侵害があったらと思ったけど……そんなことなさそうだね。ううん、どうにも、『意匠法』なんて言葉も、改正ついでに初めて知った口じゃないかな。そこそこ大きな会社だと、最近はこういういんねんを付けられて、騒ぎにしない代わりに口止め料を払え——というような詐欺が多いらしい」

 新蘭戯は資料を机に投げ捨てて、すっかりこの件から興味を失った。

「まあ、万が一にも万が一というのはありますからね、調査は大事ですが」宮本も、新蘭戯同様、資料を投げ捨てた。「こうも多いと、こりゃ調査させて仕事の手を止めさせようとする、競争会社の陰謀なんじゃないかと思えてきますね。社長、この会社にも法律に明るい人間をもう少し配備しちゃどうですか。ぼくなんか、膝に生えた毛ほどしか法には詳しくありません。専門家を雇うのが正解です。ぼくはともかく、社長がわざわざ調べるこっちゃない」

 新蘭戯は社長椅子に深く座りながら、宮本の言葉を聞くともなしに聞いていた。確かにそういう時代になりそうだ、という予感もあった。古く——例えば幕府ばくふだのはんだのというものがまかり通っていて、時代時代に高圧的ながあり、知恵と金と権力を持つもののみがはんえいするというは今も昔も変わらない。だから多分、江戸時代にも、もっと昔からも、こうした詐欺は横行していたのだろう。しかし、今後はさらにそれが増えるだろうな——と、新蘭戯は考えた。今は昔よりも、情報伝達が早くなった。加えて、が——つまり、人間にしろ資料にしろ、物体も素早く移動出来るようになった。速度が増したのだ。その速度について行けぬ者をおとしめようとする詐欺行為は、発展することだろう。

「まあ……考えておく」

「へい」

 新蘭戯は言って、あと始末は頼むと宮本に告げ、会社を後にした。

 ——そして現在に至り、新蘭戯はちょうにある、自分の持ちビルを目指していた。

『新蘭戯工務店』本社は神奈川かながわかわさき市にあった。新蘭戯は川崎駅から、桜木町さくらぎちょう駅まで電車に乗った。

 新蘭戯は車内で、なんともなしに、知人のことを思い出していた。おりくし直流すぐるという少女のことである。否、今となってはもう少女ではないのだろう。もう、二十四、五になるのか。最後に会ったのは、『新蘭戯相談所』という間口まぐちを開けてすぐの頃だった。

 五年前、新蘭戯は友人と共に、新たな事業をおこした。五年前というのはつまり、『新蘭戯工務店』の社長の座を継いでしばらくしてからのことである。別段、妹のおこぼれでお飾りの社長になったことをうれえて、自分の城を持ちたいと思ったわけではない。単に、社長業を継いだついでに色々知識をつけてみると、会社を興すとか、商売を始める登録というのは意外と簡単なもので、なれば友人の仕事を受けやすくするのも何かと便が良いと考えたのである。加えて、これは新蘭戯の個人的な趣味だが——のようなものが欲しかった。新蘭戯はあまり欲のない男であるが、友人とただと過ごせるような空間を欲した。それで、新蘭戯は会社の近所で、つ賑わっている場所に建っていたビルを丸ごと買い取り、『A・Kビルヂング』という名前を付けて、そこで事業を始めた。もちろんただの道楽というだけではない。いつか『新蘭戯工務店』の経営がかたむくようなことがあってもいいように、不動産収入を得ようという保険的な目的もあった。

 その開店祝い——というわけでもなかっただろうが、友人のいもうと弟子でしであり、古くから交流があった折櫛を招いて、三日ほど掛けて門出かどでを祝った。他にも、友人の仕事仲間連中を何人か招いた。何もかもが輝かしく、気力に満ち溢れていた時期だった。

 あれからもう五年も経つのか——と、新蘭戯は車窓を眺めながら思い返していた。

 どうして折櫛のことを今更思い出したのかと言えば、折櫛が新潟の出身であるからだった。会社の雑事で新潟という地名を見て、そう言えば……と、考えるともなしに考えていたのである。

 もっとも、新蘭戯は新潟に彼女を訪ねたことはない。彼女との思い出は、ほとんど東京と神奈川に終始しゅうしする。彼女は十代の頃、新蘭戯の友人の家で修行を積んでいた。この修行場はあさくさにあった。当時、二十歳くらいでやることもなくほうけていた新蘭戯は、よくその浅草にある寺に遊びに行き、折櫛とも面識があった。否、正確に言えば、新蘭戯は幼少期から浅草に馴染みがあったので、折櫛よりもその寺を熟知していたと言っていい。

 生真面目で、中性的で、愛想がなく、しかし面白い感性を持った折櫛のことを、新蘭戯は好意的に思っていた。恐らく、妹を持った反動だろう。少々不器用で、いつも不機嫌そうな顔をしている折櫛のことを、新蘭戯は二人目の妹のように可愛がっていた。

 しばらく連絡など取っていない。そもそも、新蘭戯が折櫛に連絡をする用もない。自分と折櫛の間には、友人の存在が必要不可欠であった。それに、今更どうしても会いたいかと言えばそんなこともない。ただ、懐かしかった。新潟という土地がそれを思い起こさせた。それだけのことだった。

 新蘭戯は桜木町駅で電車を降り、慣れた足取りで伊勢佐木町を目指した。桜木町付近は川が多い印象がある。川崎にももちろん川はあるのだが、名前の割にはそれほど印象深くない。土地に対する川の面積やらを正確に数えれば、もしかすると川崎の方が多いのかもしれない。だが、そういう問題ではなかった。名前にを冠しているくせに、川を印象付けないのが川崎という町である。一方で、桜町だの、伊勢佐町だの、木が印象に残る名前のくせに川ばかりだ。要するに錯誤さくごだろう、と新蘭戯は考えた。名前からの先行的な印象が強すぎて、そうじゃない場合に物足りなくなるのだ。

 新蘭戯は考えるともなしにそんなことを思いながら川に沿って歩き、吉田よしだ橋を越えて伊勢佐木町の商店街に入った。地区で言えば一丁目。新蘭戯のビルはそこにあった。第四ゆうりんどうという本屋が目印である。新蘭戯はそこで雑誌を物色するが、特にめぼしいものは見つからなかった。まあ、何か買うものがあるとすれば、後で友人と一緒に町に繰り出してからでもいいか——と思った。もう、今日の仕事は終わりだ。四丁目から先の飲み屋街に繰り出すのもいいかもしれない。

 路地を曲がり、自分のビルへ向かう。ビルは一階が『無伴奏むばんそう』という名の喫茶店、二階が『近代きんだい文字もんじしゃ』という出版社になっていた。もちろん、『太陽』だの『少女画報』だのという有名級の雑誌を出す編集部ではない。というか雑誌など扱っていない。ただただ、細々ととやらを刊行している地味な出版社だった。当然ながら、武者小路むしゃのこうじ実篤さねあつだとか、志賀しが直哉なおやなんかの流行作家を扱っているわけでもない。無名も無名——どころか、そこに属する編集者がほとんど自費で出版しているような、肩身の狭そうな出版社であった。新蘭戯は昔、作家に憧れたことがあった。だからだろう、大した金も取らずに部屋を貸している。一種の憧れがそうさせた。

 新蘭戯はそうした階下のことを考えながら、外階段を上がって『新蘭戯相談所』の前までやってきた。いつもの調子で中に入ろう、としたところで——いつもとは調子が違うことに気付いた。

「じゃあ何か、君は、忌子が——」

「いえ、そうでは——」

「だってそう言っただろう。じゃあ——」

 何やら、言い争いのようなものが聞こえた。

 客か、と思った。否、客以外あり得ない。新蘭戯は少しだけ、戸の前で考えをめぐらせた。馬鹿げた退をする客でも来たのか、それとも単に友人の虫の居所が悪いのか。しゅんじゅんしたあと、結局入るしかないだろうと結論を下し、合図もなしに中に入った。

 部屋の中には——男女がひとりずついた。

 友人である木哭きこく三月みつきと、女学生風な恰好をした女である。

 対面して座っている。見るからに、仕事を受けているような感じであった。

「——ああ、浩平か。遅かったじゃないか」

「なんだいこの騒ぎは」

 新蘭戯は男女を見比べ、がいとうを脱いで手に持った。夏だというのに、書生風なとんび外套コートを着ていた。昔からずっと、新蘭戯は服装に頓着とんちゃくがない。昔着ていた服をそのまま着ている。

「外まで聞こえていたぞ、三月」

 新蘭戯が言うと、女学生風の女が所長の姿を見て、それから立ち上がり、馬鹿丁寧に深くお辞儀をした。

「ご無沙汰しております」

「はあ」新蘭戯は間の抜けた声を出した。「こりゃどうも。以前に何か、お仕事をご一緒しましたっけな……」

「何を言ってるんだ。こいつは直流だよ」

 三月に言われ、という名前は誰だったかと新蘭戯は考える。二秒ほどのだった。そのせいが折櫛であることに気付いた。

「ああ! なあんだスグちゃんか。ええ、こりゃ驚いた。いやあ、綺麗になったねえ」

「ほら」と、木哭が言う。

「ほらじゃありませんよ」直流がすぐに木哭をにらみ付けた。

「これはこれは……へえ、ううん、驚いた。すっかり大人の女性だね。スグちゃんは素材がいいからな……着飾ると結構なもんだね」新蘭戯は言いながら、三脚あるうち、空いているソファに緩やかに腰を下ろした。「しかも洒落ているなあ。最近はそういうのが流行っているんだってね」

「ありがとうございます。どうですか三月さん。浩平さんのなんとも流れるようなお褒めの言葉を聞いて、どう思いましたか。見習って下さい」

「どうして僕が浩平なんかに見習うことがあるんだよ」

「どうしてそんなに喧嘩腰なんだい」と、新蘭戯は不審そうに問うた。

 テーブルの上には、皿に載ったシュークリームが一つだけあった。表面が乾燥している。

 新蘭戯が座ったのと入れ違うように、木哭が立ち上がって「お前も茶でも飲むか」と言いながら盆を手にして勝手かってに向かった。新蘭戯は座り直した折櫛をまた眺めて、「何かのお祝いの連絡かな」と言った。

「いえ——あの、突然お邪魔して申し訳ありません。あのう、これ、お土産です」

 折櫛はそう言って、テーブルに載ったままのシュークリームを新蘭戯に勧めた。

「これはどうもありがとう」

「聞いてくれ浩平。こいつはあろうことか、手土産を二つ持参して、そのうち一つを自分で食った。僕にはなかった」

「だって三月さんは食べないじゃありませんか」

「食べないからと言って持ってこない道理はないだろう」

「おいおい、だから……なんでそんなに喧嘩腰なんだ」と、新蘭戯は再び尋ねた。「いや、三月の性格も、まあスグちゃんの為人ひととなりもある程度は知っているから、軽口くらいは叩くと思うけどね——それにしたってなんか、険悪じゃないか? 二人とも、会うのは久しぶりだろうに」

 突然の論争に巻き込まれておいて、尚、新蘭戯は冷静だった。それは新蘭戯の長所とも言える部分である。新蘭戯は、妹の霧子のような特別な才も、妹の霧子ほど速く回る頭も持っていなかったが——それでも、慌てたり、怯えたりということとは基本的に無縁であった。

 冷静沈着——と言うと少し尊大だろう、と自分でも思ったが、まあそれが一番似つかわしい表現である。

 あるいは愚鈍ぐどんと言えるのかもしれぬ。

「順を追って説明しますと——あの、私、三月さんにお仕事の相談に来たんです。相談というか……救援要請というか……」

 折櫛の言う〝仕事〟とは、即ち退魔師たいましのことであった。折櫛も木哭も、退魔師として生きる、時代錯誤の処刑人である。もっとも、退魔専門の相談所である『新蘭戯相談所』の所長を務める新蘭戯自身も、時代錯誤とは言えるだろう。言わばここは、割かし新しい文化を取り入れたビルではあるものの、時代錯誤もはなはだしい、前時代的な事務所なのである。

「相談ね……まあ、うん、そんなところだろうとは思った」

「予想していたとでも言うのか? お前がそんなに利口かよ」

 と、木哭が口を挟む。

「思うことと利口かどうかは関係がないじゃないか。なんでそんなに突っかかるのさ」

「僕は気が立ってるんだよ」

「珍しいな、三月が気を立てるなんて」

「三月さんは、私の話を聞いて、何か勘違いされてるんです。それで、怒ってしまったようで——しばしの間、口論をしていて——まあ私が弁解するだけの場だったんですが——そこに、浩平さんが帰っていらしたというわけです」

 喋り方もなんだか女性っぽくなったな——と、新蘭戯は思っていた。可愛い妹のように思っていた存在が、あるいは思えるような中性的な存在であった折櫛が、立派に女性である。時の流れは恐ろしいものだと思いつつ、新蘭戯はテーブルの上に放ってあった煙草に手を伸ばす。

「吸ってもいいかな?」

「あ、ええ、もちろん——浩平さんの事務所ですし」

「おい、勝手に人の煙草を吸うなよ浩平」

「元々はこれは俺の煙草じゃないか」

「そうか? ……そうだったな。すまん」

 木哭はすぐにほこおさめた。

 新蘭戯は煙草に火を点けて、深く呼吸をし、背もたれに掛かった。『新蘭戯工務店』の社長という立場から、ただの新蘭戯浩平に戻るための儀式的な行為であった。言わば、に戻って来た、という感覚である。少しだけ、気分も若返った。

「それで、スグちゃんは——うーんと、自分が受けた仕事について、三月に相談を持って来たと、そういうわけだ」

「はい。兄弟子のお考えを聞こうと——」

「なあにが兄弟子だ」

 木哭は新蘭戯の分の湯飲みを持って来てテーブルに置き、それから自分と折櫛の湯飲みにも注ぎ足した。一通りの作業を終えるとどっかりとソファに腰を下ろし、「はやく食えよ。腐るぞ」とシュークリームをうながした。

「スグちゃん、結構——三月を怒らせたみたいだね」

 ひょうひょうとした様子で、新蘭戯は尋ねる。折櫛は恐縮したように身を屈めて、「面目ないです……」と言った。

 通常、木哭という男はあまり感情を表に出さない。というか、常にあらゆる物事を、と思っている節がある。そんな人間がここまであからさまに不機嫌を隠さないとすると、気心の知れた相手だからか——あるいは、それほどまでに苛立たしい話を聞いたからか、どちらかだ。もしくは両方だろうか。

「話はあらかた済んだのかい? なら、俺にも簡単に説明してほしいな」

「まだ途中くらいなのですが——」

「いや、ほとんど済んだよ」と、木哭がさえぎった。「そうだなぁ……掻い摘まんで話すと、直流は信濃しなののとある富裕層の家から、忌子いみこの殺害を依頼されたわけだ」

 木哭は、折櫛から聞いた話を、まるで自分のことのようにすらすらと説明した。異国の紳士に連れられて長野県の片田舎に向かい、そこで依頼人家族と出会い、翌日、と呼ばれる美少女とあいたいしたのだという。

「そこでな、こいつは気絶したんだと」

「なるほど。それで三月は怒ってたのか」

「怒るわけないじゃないか。浩平は僕をなんだと思ってるんだ?」不服そうに、木哭は言う。「そんなことはだ。僕らも、ただ人間を相手にしているわけじゃないからね。命を危険にさらすこともあるし、怪我をすることもあれば、に会うこともある。生身の人間が彼岸ひがんに顔を出すわけだから、失神だの、気絶だの、朦朧というのは。僕はそんなことで怒ったりしない」

「じゃあなんで怒ったんだい」

「その忌子が、あまりに美しくて——、なんて弁解したからさ」

 木哭の説明を聞いて、新蘭戯は少しだけ、事の次第を理解することが出来た。確かに木哭は怒りそうなことだ、と納得したのである。

「そのという評価はわからないけど……要は、三月は——退魔師が、本人の趣味趣向で退魔のごうを成せなかったことに怒っているわけだ」

「その通りだ」木哭は不機嫌そうに言った。「話が早くて助かる」

「しかしそれは、スグちゃんがどういう人間が知っていれば、一考の余地があるじゃないか。つまり、スグちゃんはそういう——退魔師の何たるか、退魔とはかくあるべし、ということについて理解がある。そりゃあ、なんだ——なんて言ったっけ、スグちゃんの家系は」

累屋かさねやですか?」折櫛が言う。

「ああそうそう。累屋さん。そこの倫理りんりを俺は知らないけど、とは言えスグちゃんは多感な時期にわざわざ木哭きこくで修行をした身だろう。だったら、ある意味では三月と同じ流派の退魔師だ。であれば、退魔師とはそういう主観は捨て去って、状況証拠を見て、自分の道徳を捨て去って物事を判断をする——っていうのは身に付いているはずだ」

「それが身に付いていないからいきどおっているんだ、僕は」

「身に付いています」と折櫛が反論した。

「馬鹿なこと言ってるよ」

「こういう場合、話は平行線だね——」

 新蘭戯は煙草を消して、ゆっくりと湯飲みに手を近付け、茶をすすった。風味が飛んでいるから、茶葉は入れ替えなかったようだ。それからまた、かんまんな手付きでシュークリームに手を伸ばす。少し乾燥していたが、充分に美味しいと感じた。

「うーん、い。そこののやつか」

「あ、そうなんです。いいですねえ、近所にこんなに美味しい洋菓子屋があるなんて」

「俺は割とね、新しいもの好きなんだよ。名前が名前だからね」

「そんなことはどうでもいい」

 木哭が不機嫌そうに言った。言ったが、だからといってそれ以上言うべきことはなかったようである。腕を組み、不機嫌そうなつらでじっと折櫛を睨み付けている。

「だからさ、三月——考えてもみろよ。スグちゃんはそのイミコ? とやらをただ殺さなかったわけじゃない。それはつまり、ただ美しいと思ったわけでもない、ということだろ。そういう、一般的な常識というか……うーん、自分の中にある教義きょうぎげるほどのが、その子には在ったという説明がしたいんじゃないのかな」

「そ、そうなんです! 浩平さん、その通りです。あれはだから——のものとは思えないほど、美しい存在だったんです。ですから私も、まあ、うーん……本当に殺すべきかどうかという確固たる判断を下すよりも前に、これを壊してしまうのはもったいないと——そう思ったのです」

「例えるなら、『呪いの絵』とされる美術品があるせいで困っているという家から退魔の依頼があって、行ってみたら、まあ……なんとも美しい絵だ。これを破壊するのは惜しいというんで、スグちゃんは仕事を放棄して、三月に相談しに来たと、こういうわけだ」

 放棄、という言葉に、折櫛は少なからず動揺したようであった。「放棄……ですね、確かに」と言って、誰にともなく頭を下げた。新蘭戯に折櫛を責める意図はなかったが、彼はたまに、そうした直裁ちょくさい的な言い方をすることがあった。

「そんなに美しい人間がいてたまるか。そもそも美とは——人間になど宿やどらないよ。まやかしさ。思い違いもはなはだしい。我々人類が、同じ人類に感じる美しさなんてものは、ただの好みの問題だ。人間に宿る絶対美などというものはあり得ない」

「有り得ます」折櫛が言う。

「これじゃあやっぱり、ただの水掛け論だよ。一旦、整理しよう。物事のに関して一家言いっかげん持っているのは、どちらかと言えば三月の方だろう。じゃあ例えばね、三月の好みの美人を殺せと言われた場合、三月ならどうするんだい。自分が手を出そうとは思えないほど美しい女を殺せと言われて、三月なら無我の境地で殺せるってことかい」

「だから、そんなに美しい人間はいないよ」と、木哭は言う。「大体、何度も言っているが、人間なんていうみにくい生き物に、真実の美が宿るとは思えない。それに、直流の思うとは、個人的嗜好しこうる感覚だろう。退魔師という職業が、個人に因って退魔の業を成す成さぬ、という考えをすること自体がおかしい」

「でも、判断を下すのはあくまで退魔師ただ一人だろ? そこに意識はないのか」

「その瞬間は空っぽだよ」と、木哭は言う。「例えばそうだな……浩平は社長業をやっているな。で、会社経営が立ち行かなくなって、誰かかくしゅせねばならん局面に当たったとする。この時、浩平はどう考える? 自分と馬の合う連中を贔屓ひいきして残すか、総合的に判断して、不要と思える社員を切るか。社長としてどのような判断をまず下す?」

「自分の給料を下げる」

 新蘭戯はすぐに言った。

「話が早くて助かる」

 と、木哭は同じ言葉を使った。

「自分をてるところから始まる。だからね直流、今浩平が言ったように、まずは奉仕ほうしありきだ。そして次に慈愛じあいがあって、最後にがある。それが心得だろう。なのに、直流の言っているのはまるで反対だ。最初に自我があって、やっぱり殺せませんなどというのは、退魔師の資格がない」

「ですが——」

「でもね三月」と、新蘭戯が口を挟んだ。「やっぱり俺は、スグちゃんがそう簡単に心得をなくしたわけではないように思うなあ。三月もよく言うじゃないか。今でもたまに、って」

 そういうの、という表現がわからないのは、この場では折櫛だけだった。自分と十も年の離れた中年男性ふたりが、曖昧な表現でお互いだけわかり合っている。折櫛は言葉を挟むべきか悩みつつ、ふたりの顔を交互に見た。

「——言ったか」木哭は短い頭髪を掻きながら、少々気まずそうに言った。「うーん、まあ確かに言ったかもしれん。だがもう時代も変わったからね」

「時代の遷移せんいで、はなくなるものなのかな」

「そりゃあそうだよ。歴史は繰り返すわけだし、科学は様々な物事を証明するだろう。とすると、は減っていく。だから我々は、退魔師なんて大層な名乗りをしながら、事実、ただ人間を殺しているに過ぎない。かもしれないが、今は。雑誌やら活動写真やらで、他人の顔を見る機会は増えた。であれば、これはやっぱり、趣味趣向だと考えるのが妥当だ」

「確かにね——」

 新蘭戯は納得したようで、何度か頷いてから、また煙草に手を伸ばした。木哭が無言で手を差し出したので、新蘭戯はその手に煙草を一本乗せた。

「あのう……私だけ話が見えていないようで……」

 折櫛が問うと、二人は順番に煙草に火を点け、一服してから、「ごめんねスグちゃん」と、新蘭戯が応じた。

「言わば——なんて言えばいいんだい? のことは」

「怪異」

 短く、木哭が言う。

「別の言い方をすれば、そうだな——とか、とか、とかだ。だがそんなもの、もうこの世にはほとんどいない。けどね。もしいたとしても、新しく発生するなんてことは皆無と言っていい。ただ言葉だけが形骸化して残っているだけだ。鉄道の発達と共に、あるいはもっと古く、ぶんめい開化かいかの音を聞いて、怪異というものはみんな霧になって消え失せた。忌子が十五歳というなら——産まれたのは明治の終わり頃だろう? そんな時代に、新しく怪異は生まれない。否、だのだのという、既存の存在に当てまる存在がいるというのは否定しないよ。それらはもう。だけどね直流——直流をたぶらかしたその娘は、僕が聞く限りじゃあ、そうした既存の枠組みに嵌まるものじゃない。ということは、直流はに気を取られて、殺せなかったと言っているのに等しいわけだ。だから僕は気が立っているんだ」

「説明したか? それを。順を追って説明しなきゃ伝わらないだろう」

「知るかそんなこと」

 折櫛は少し、話の進みが見えなくなっていた。だが、新蘭戯と木哭の間では、それは当然の事柄として罷り通っているように聞こえる。自分だけ理解力がないのか? 否、違う。共通認識を持っていないのだろう——と、折櫛は考える。

「例えばだけど三月、そういう——美女を扱った話はないのかい」

「美女の出る話ならそれこそ山の数ほどあるが……例えばそうだな、舞台が信濃だから、信濃の伝説で例を挙げると——『紅葉もみじ伝説』というものがある。『鬼女きじょ紅葉』とも言うな。善光寺ぜんこうじの辺りにあるという村で生まれた伝説だ。信濃の北の方だね。いや、伝説としては戸隠とがくし山の方が発祥はっしょうかな……とにかく、まあよくある話なんだが、とあるの人間とその家来けらいたちが、とんでもないを持つ女にいざなわれ、紅葉もみじ狩り——つまり紅葉こうようを眺めに山に入るんだ。そこで酒を振る舞われて大騒ぎをするんだが、実はそれは美女の策略だったんだな。美女は実は鬼女きじょで、酔わせた者どもから金品を奪おうとするんだ。もちろん命もね。で、武家の人間は抵抗し、刀を抜いてその鬼女——つまりを狩る、という筋書きの話がある。妖術に対して刀を振って大立ち回りさ」

 木哭は両手を刀を持つように握り、左右に振った。

「ああ、にそんな演目があったなあ。子どもの頃に見たかもしれん」

「そうだ、歌舞伎やのうの演目になっている。『』という名前でね。見物を意味する紅葉狩もみじがりと、紅葉という鬼女を退治することを掛けた洒落た名前だ。まあ要は、武家がどうの、紅葉狩りがどうの、金品を奪うだのというのは——創作ということだな。伝説に尾ひれがついたつくり話だ。後世に語り継ぐために、脚色しているわけだ。だが——

 木哭はそこで話を切って、折櫛を見た。折櫛はわけがわからず、ただその視線を受けることしか出来ない。

「最終決戦の舞台が戸隠だから戸隠の伝説とされているが、実際には鬼無里にも紅葉の伝説が伝わっている。鬼無里という地名は『鬼の無い里』と書くから、まあ鬼がいないんだな。が、この紅葉という鬼女は、とされている。鬼無里は辺鄙へんぴな村なんだが、この村に恵みをもたらした貴女きじょがいて、これがとされている。彼女が死んだことで、鬼無里という名前になったという説もある」

「美女で、鬼女で、貴女なわけだ。言葉遊びみたいだね」

「わかりやすさというのは、怪異を後世に伝えるためには大切な要素だよ。もう少し踏み込んで話すと——この紅葉、産まれた当初は呉服ごふくの呉に葉っぱと書いて、呉葉くれはと読む名前だった。どうやらの生まれらしい。会津あいづという説もあるが、この辺は多分、発音の問題で別れたんだろうね。まあ生まれはどうでもいい。とにかく大変な美貌びぼうを持って生まれた呉葉は、その美貌がわざわいして様々な男から求められるんだが、その度に色良い返事はするものの、家族共々に居を転々としたらしい。要は、求婚されるだけされて、恩恵を受けるだけ受けて、ただし嫁入りはせずに逃げていたんだな。今で言うゆいのうきん詐欺みたいなものだ。で、逃げる度に名前を変えて、きょうに逃げた際には、こうようと書く紅葉くれはに字を変えていた。その当時は平安京だから、場所は今で言う山城やましろだな」

「今で言うなら、京都だろう」

 新蘭戯が口を挟む。

「とにかくそこで、紅葉はそれなりの名のあるお方の寵愛ちょうあいを受ける。いわゆる源氏げんじだ。で、子をもる。しかしまあ、その源氏の御台所みだいどころ——つまり妻のことだが、紅葉が身籠もった辺りから体調を崩す。で、比叡山ひえいざんの僧がなんでか知らんが『御台所がすぐれぬのは紅葉のせいだ』とか言い出すんだ。この辺は真実かわからんが、まあ職業のやつがいたんだろう、比叡山に」

「いわゆる秘術ひじゅつとか占術せんじゅつ使いか」

「だね。で、紅葉は家族ごと、信州しんしゅう戸隠とがくしに流されるんだ。この戸隠山が歌舞伎の舞台となるが——実際には戸隠からほど近い場所にある、鬼無里と呼ばれる村に家族で暮らしていた。紅葉は学もあったし芸にも秀でていたし、何より美しかった。辺鄙な村に暮らす連中からは愛された。だが一方で、やはり当時から詐欺を働いていただけあってか、近隣の村を襲って金品を略奪したという説もある。鬼無里にとっては多くを与えるであったが、その周囲から見ればであったわけだ。で、先に話した歌舞伎の『紅葉狩』のあらすじ通り、武士が紅葉を殺し——鬼は消えた。そして鬼無里村は、鬼無里村となったわけだな。流石に僕も、鬼無里の元の名前は知らない。名前なんかなかったかもしれないな」

「つまり、可哀想な美女の話か」

「おい浩平、お前はなんでそう馬鹿みたいな要約をするんだ。今の話を聞いて、なんで美女が可哀想だなんていう感想が出るんだ?」

「だってそうだろう。不運だよ、それは。紅葉さんが可哀想だ。美女に生まれなかったら、回避出来た悲劇かもしれないだろう」

「まあ、ある側面では……可哀想と言えば可哀想かもな。でも、ゆいのうきん詐欺さぎみたいなことをしていた女なんだから、一概に可哀想とも言えないぜ」

「それだって、美人に生まれなければ詐欺なんかしなかったかもしれん」

「お前は美人に弱いからな」と、木哭は呆れたように首を振った。「まあいい、要するに、ということが原因で周囲を巻き込み、後世に名を残し、あるいはようかいのような扱いを受けた伝説は数多くあるということさ。日本全国各地に、美女の怪異伝説は存在する。直流の話を聞いてれば、どうも忌子とやらはこのに近いような感じだが、しかしそんな言葉は出てきていないし、忌子が何かをしでかしたわけでもなさそうだ。ということは多分、別物なんだろう? すると、前例がないということになる。今の時代、前例がないなら、そりゃただの人間ってことだ」

「あのう……どういうお話をされているのか、私はあんまり、わかっていなくて……」

 木哭を怒らせたこともあって強気に出るわけにも行かず、折櫛は控えめに、新蘭戯に尋ねた。急に昔話が発生する理由がわからなかったのである。

「つまりね、スグちゃん。スグちゃんが三月に話した今回の事件は——まあ、話のはいりがだったわけでしょう。普通退魔の依頼っていうのは、鬼子とか、とか、奇形児も該当するのかな? ……とにかくそういう、わかりやすい符号がちゃんと用意されてる。というか、、って言えばいいのかな」

「枠が……埋まってる? ですか?」

「例えば、ことわざみたいなものだよ」

 木哭は散々に憤ったあとで昔話をして少しは落ち着いたのか、冷静な口調だった。

「諺ですか?」

 折櫛はさらに話の行方がわからなくなる。

「つまりね、生きている中で、何か非日常的な状況が起こったとする。その状況を簡単に説明出来る言葉ってのは、一から生み出さなくても、大抵の場合存在しているだろう。だから諺っていうのは、もうほとんど、現代ではくしているんだよ。これは別に、探せば知名度の低いものから引っ張ってこられる、という話をしているわけじゃないぜ。自然な流れで受け継がれているのさ。まだ世の中にものは、時代を超えて受け継がれる。からだ。『紅葉伝説』が、能や歌舞伎の演目として存在しているのも、それが流行するのも——美女が鬼女であるというたとえ、というか、そういうみたいなものは、根本的に尽きない限り、存在し続けて、共有しやすいから残るんだ。、名前や伝説は生まれる。ああそうだ、直流がさっき言っていたみたいに、まさにかんないみたいなもんだ」

「なんだい、カンナイって」

「関内だよ。川向こうの」

「ああ、地名?」新蘭戯が不思議そうに言った。「なんで関内が出てくるんだ?」

「つまりさ、関内という言葉があるから、我々はなんとなく、あの辺一帯をそう認識する。本来はほりかわ町だの薩摩さつま町だの越後えちご町だの、ちゃんとそれぞれ地名がある。何故かはんめいが多いけれどね——武蔵むさし横町よこちょうなんて所もある。とにかく、外国人居留地きょりゅうちとなっていた辺りも、そこに至る馬車道ばしゃみちも、ひっくるめてと呼ぶわけだろう。それはだから、諺とか、怪異伝説なんかと同じだよ。使名前が生まれる。そして残る。『紅葉伝説』はだから、単に歌舞伎の演目として人気なのかもしれないが——。そういう風に、何かおかしい、上手く説明出来ない、共通認識を持てない——という異常性には、本来名前があるはずなんだ」

 折櫛は少しだけ、わかったような気になる。関内の例えは、折櫛にはとてもわかりやすかった。つまり——自分が見たには、本来ではなく、もっと適した名前があるはずだろう、ということを言っているのだろうと理解した。

「美女を扱った伝説なら、それこそ雪女ゆきおんなとか、絡新婦じょろうぐもとか、おさんぎつね飛頭蛮ひとうばんなんかもそうか……? 色々あるが、それぞれ意味が異なる。美女の方ががいいから、伝承の際に勝手に美女にされた例もあるだろうが——とにかく、それほどまでに細分化されて、過去から現代に繋がってきた。怪異なんてのは人間が関わる問題だから、人間という種が絶えない限り、要は繰り返すわけだ。しかし、その枠に収まってない」

「三月の言い方は難しいけど……つまりね、スグちゃんが職務放棄するほどに、見たこともないほど美しくて、関わる者全員を狂わせるようながもし本当にいるなら——それは忌子とかそういう言い方じゃなくて、もっと相応ふさわしい別名があるべきで、それを殺せという依頼が来るはずだ——と、三月は言っているわけだ」

 新蘭戯の説明は、折櫛がした理解とほぼ一致していた。折櫛はようやく、新蘭戯と木哭の言っていることが理解出来た。

「本物の怪異なら——名前があるし、前例がある、と」

「強いて言えば、『魔性ましょうの女』という言葉はある。だが、狂わされたのは女である直流だし、そもそも魔性の女の定義は、何も容姿に限ったことじゃない。身振り手振りに言葉遣い——そういう挙動を含めて、魔性とする。ただつらが良いというだけで人が狂うという例は聞いたことがない」

けいこくの美女ってのは?」

 と、新蘭戯が思いついたことを言った。

「ああ、近いかな。戦争の引金になるような女という意味ではあり得る。ただ、それは伝説というより形容だからなぁ……やはり少し違うような気がする。殺そうと考える者もいるわけだろう。父親や、執事なんかは」

「ああ、全員を狂わすわけではない、と」

「わからんが。とにかく今回の——は、ただそこにいて、家族以外には知られていなくて、だというのに、お前と花長かちょうとやらはすっかりられたわけだ。片方はおかそうとし、片方は殺すのをやめた。これが、直流の意見を尊重する気にもなる。あるいは悪魔だな。淫魔サキュバスとかそっちの類かもしれん。でもそういうわけでもないのだろう? 忌子はただだ。自発的に呪ってくるわけでもない。。そんな怪異があってたまるか。だから僕は、直流のそれは、個人的趣味によって下された結論であり、自分が好むものだから退魔の業は致しかねると言っているようにしか聞こえないんだよ」

 そこまで順を追って説明されると、ようやく折櫛も納得が出来た。何故、突然木哭は怒りだしたのだろうかと——折櫛は不思議だった。ただ弁解することしか出来なかった。しかし言われてみれば、その通りである。

 怪異とは——あるいは、とは。

 その存在が周囲をくるわせ、ひずませ、全体を不幸にする者である。

 だが、そう——忌子はだ。

 法を犯さぬ、ただ居るだけの存在は、退魔師が殺すべき対象だ。法で裁けぬから、殺すしかない。そういう人間を殺すのが退魔師の仕事だ。

 一方で、ただ居るだけの存在は、怪異足り得ない、ということだろう。そして、怪異でないならやはり人間で、人間であるなら折櫛の対応は、退魔師として失格だ。

 それはもはや、怪異というより、に近い、と折櫛は思う。新蘭戯が言ったように、美術品に例えた方がよっぽどわかりやすい。しかし、美術品というわけでもない。今回の場合は、であることが重要なのだ。命がある。命があるから困っている。折櫛は、木哭の説明を理解することこそ出来たが——説明にも納得が行ったが——だが、現象には納得出来ていなかった。

「でも……三月さんの仰る通り、確かに過去に例がない存在だとしても……探せば似たような話は、あるにはあるんじゃないですか? 例えば、神話とか——」

「まあ、神話を紐解けば数多くあるだろう。ある意味、神話に載ってない例えはないかもしれないから、あるかもしれないね。だけどなあ——ことわざもそうだし、怪異もそうだが、民間に自然と伝わらない存在というのは、そもそもと考えるのが普通なんだ。通常あり得ないとされるような話なら、知る必要はないし、伝える必要もない。知らないと思って聞くが、二人は『狂夜堂きょうやどう孤独こどく』という伝説を知ってるかい」

「いえ、知りません」

「俺も知らない」

「まあ、知らなくていい」木哭はあっさりと言った。「伝説なり伝承なりというのは、そもそもが未知に対する回答として用意されている。あるいは範囲を広げるとでも言うかな。要は区分けだ。日本という国があって、神奈川という区分けがある。そこに横浜という区分けがある。その中に伊勢佐木町という区分けがあって、ここ『A・Kビルヂング』という区分けがあって、さらに『新蘭戯相談所』という区分けがある。知っている人間には、『新蘭戯相談所』と言えばそこから逆説的に、日本の話だと通じる。だが、何も知らない人には『日本という国に——』というところから説明しなきゃならない。どこを切り取るか、だよ。は、そういう枠組みじゃない。様々な観点から見ても、一般人にしか思えない。つまり、

「しかし三月」

 新蘭戯はいつの間にか煙草を吸い終わっていて、新しく取り出したところだった。

 それに火を点けて、ゆっくりとした動作で口に運び、紫煙を吐き出す。

「万が一というのはあるんだろう。、とお前が言ったんじゃないか。確かに時代は進歩して、情報は速やかに世界中に行き渡るようになった。お前の言っていることはだから、が伝わりやすくなったから、淘汰とうたされるということだろう。確かにそうだ。でも、、ということは、絶対にあり得ないわけじゃない」

「——まあ、そうだ」

 と、木哭は納得しかねる様子で言った。

「浩平の言う通り、絶対にあり得ないとは言い切れない。あるいはそれは、特殊過ぎる事例なのかもしれないな。あり得ない現象が重なって、複雑に絡み合って、ひとつの……いや待て……」

 木哭は言って、口元を抑える。

 今まで自分が唱えていた説を、自分自身でくつがえした——そんな表情を見せた。

「それが条件ということか……? ——。それが条件だとするなら……そうか、太古より存在していたが、前例がないという可能性は、充分に考えられるのか。いやそうでもない。んだ。だが、それは認識されず、流布もされなかったのだとしたら? いや、しかし——」

 木哭は腕を組み、ソファにほとんど埋もれるような体勢になった。

 新蘭戯は、横目でちらと友人をうかがう。けしかけておきながら、そうじゃないことを祈りたかった。友人との付き合いは長い。今後どういう展開になるのか、何となく想像がついた。出来ればごめん被りたかった。

「——この話は、僕以外、誰かにしたか」

 木哭が、重苦しい口調で折櫛に問うた。

「いえ……あ、あの——紅古べにこさんには言いました。詳しくは話していません。こんなことがあって——つまり、忌子と呼ばれる少女があまりに美しくて、手が出せず、仕事がちゃんと出来なくて……愚痴のような、そんな風な——」

紫狂島むらさきくるいじまか……」

 木哭は短い頭髪をむしり、困ったように眉根を寄せた。

「事と次第によっては、確かに殺すのはまずくなってきた」

「俺が提示しておいてなんだけどな、三月。?」

「あの……ごめんなさい、私にはお二人が何を話していて——何をしているのか、さっぱりわかりません。三月さんが言うように、確かに過去に例がないのはわかりました。だから私の個人的見解で職務放棄をしたんだろうということも。ですが……」

「——今までも、忌子のような存在は居たのかもしれない。しかし見つからなかった。居ても誰にも気付かれないことが、その存在——つまり怪異の条件だとしたら、有り得る。だが、偶発的にもそれは人の耳に入って、人の目に映った。だから……我々が、今こうして会話していること自体が——

「発祥? 何のですか?」



 木哭はそう言って、ふうと溜息をいた。

「誰にも知られずに、ただ美しく、ただひっそりと、という怪異が、今まさに産まれようとしている。これは拙い。もちろん、直流が、という前提があればこそだが——そうだね、直流が退魔師として立派で、自分の趣味趣向で殺害の判断をあやまったということが、それほどまでに強力なが、この世にはことになる。これを殺した場合、それはとなってされ、次第にになり、いずれは伝承でんしょうされ——数百年後には『』という名の伝説になる可能性がある。言っている意味がわかるか? わからないなら聞いてくれ。ちゃんと説明する」

 どこか、木哭は焦っているようであった。今まで、退魔師としての自覚が欠けているというような怒られ方をしていた折櫛は、混乱した。急に一転したからだ。話を聞く限りでは、自分が彼女を殺さなかったことが——まるでのような話しぶりである。

「ええと……」

「海外に『モナ・リザ』という絵がある」

 と、新蘭戯が唐突に言った。

「有名な絵画で、多分絵を見ればスグちゃんも『ああこれか』と思うだろう。元々有名な絵なんだけどね——明治の終わり頃に海外にある美術館で盗難にって、それから数年後に見つかった。これは当時話題になったんだ。まあ芸術好きの間ではね。盗まれるくらい、そしてその捜索が懸命に行われるくらい、とにかく有名な絵画があるんだ。人物画でね……」

 新蘭戯は芸術方面に秀でているため、よくこうした逸話を、例えを使う。折櫛は黙って、新蘭戯の説明に耳を傾ける。

「この『モナ・リザ』という絵が、実はもう一枚あるという俗説がある。いや、伝説と言うべきなのかな? 色々な伝承やら、それっぽい証拠やらが合わさって、実は『モナ・リザ』は二種類存在するという伝説がどこかで生まれた。これは随分古くからある伝説なんだ。まあ、さっきの『紅葉狩』と比べたら歴史は浅いだろうけど——何しろルネサンス期だからね——それにしても、結構な人間を狂気に駆り立てたし、詐欺も横行した。つまり、『この絵こそ二枚目のモナ・リザだ』と主張する狂気もあれば、『二枚目のモナ・リザをあなたにだけお売りします』というような詐欺だ。何故そんなことが起こるかわかるかい? 普通は嘘だとわかりそうなことを、本気で言う人もいる。本気で騙せると思う人もいる。どうしてだろう?」

「……誰も見たことがないから?」

「そう、その通りだよスグちゃん。。なのに伝説だけはあるんだ。しかもかなり信憑性がある——というところまで来てしまっている。様々な文献が調べられ、歴史が照合され、科学的な鑑定まで行われている。何かの絵に塗り潰されて、下地になっているんじゃないかという説もある。どこかの財団が隠し持っているとか、秘密結社のシンボルになっているとか……まあ、様々だ」

「それと同じことが起こる」

 と、木哭が不愉快そうに言った。

「同じこと……と言うと」

「直流はこう思っているかもしれない。。違うかい? 僕は今は別にね、怒っているわけでも、詰め寄りたいわけでもないんだ。本当のところを話そう。直流は僕に相談をしに来てくれたね」木哭は意識的に、柔らかい口調を意識した。「自分なりに、教えを守って退魔師としての仕事に誇りを持っていたはずだったが、今回の相手はどうも。今までなかった体験だ。それで、自分の判断が間違っていたのか、自分はどうするべきだったのかを僕に相談しに来てくれたと——そう思っている」

「ええ、はい。それが全てでもないですが……大枠はそうです。呪われたというか、魅入られたというか——どうも、あれからずっと、私は忌子を殺すべきか、殺さぬべきかばかり考えていて……だからと言ってもう一度会うとおかしくなりそうで、その……」

「だが実際には逆だ。今、この場で、

 木哭が言う。折櫛はすぐに反応出来ない。

「すぐにその可能性を考慮すべきだった。浩平、悪い」

「会社に用がなきゃ、俺だって最初からここにいたんだ。で、スグちゃんの話を聞いていた。どうせ耳には入ってただろうから、変わらないよ」

「どういうことですか……?」

「だから僕らは——存在を——同性であるはずの直流が魅入られて、何事も手が付けられなくなるような女の話を——。今はまだいい。そんな美女もいたんだろう、と思う。だが、次第に考える。——考えるようになる。とらわれるのさ。どうにかして見てみたい。一度でいいから、。ふとした瞬間に、きっと思い出す。嗚呼、忌子はどれだけ美しかったんだろうか——と考える。まあ僕らの代は、それで終わる。だが、もし僕らが——あるいは紫狂島が、ともすれば、誰かに話したとする。信濃の林檎森家の子息が、『昔、うちの蔵にはとんでもない美少女が囚われていたのだ。自分はあれ以上の女を見たことがない』と話したとする。一方、越後か相模で、『昔、退魔の女でさえ殺すのを躊躇ためらった美女がいるらしい』という話を聞いたとする。その二つの話は結びつき、『林檎森の忌子』という怪異を生み出す。あとは口伝くでんによってねずみのように増えて行く。そんなに美しいんなら見てみたい、こんな風かな? と言って絵が描かれる。林檎森という土地に向かう愚か者も出てくる。実は忌子は東北に逃げたのだという嘘が発生して、そっちの方にゆかりの地が出来るかもしれん。。今、怪異は発祥しようとしている」

「で、でも——すみません、不勉強で申し訳ありません」

 折櫛はテーブルに手をついて、木哭に対して頭を下げる。

 新蘭戯はそれを、懐かしいような気持ちで見ていた。折櫛の修行中、よく見た姿勢だった。

「その怪異とやらが今生まれたとして——何が困るのか、私にはわからないんです。さっき聞いた『紅葉伝説』というのも、一種の伝承ですよね。要するにわからないものをわかりやすくするための言葉で——そして、類似例がなければすたれていく、と理解しました。浩平さんの仰った『モナ・リザ』にしてみても、もちろん、詐欺の横行などは問題かと思いますが……今回の場合は人間で」

 木哭は、怒っているというより、困っているように見えた。

「僕だって考えはまとまってないが——それが定着したら、例えばそうだな、多くの女児がという事例が起こるかもしれん。因果が逆なんだ。そうだね、説明が悪かった。『紅葉伝説』から得られる教訓は、美女には気を付けろという簡単なものだ。美女の誘いに簡単に乗ると、騙されるかもしれないから気を付けろ——美女に酒を勧められても、気軽に飲むなと、そういうものだ。歌舞伎を見る客の大半は、うだつの上がらない醜男ぶおとこだからな。。そんな教訓がある。あとは、、とかね。一般に向けた、伝承の残りかすとしては、そういう教訓が挙げられる。一方で、鬼無里では紅葉をあがめる。、という一種の呪いが発生するのだ。紅葉のように博識となり、紅葉のように芸事に秀でれば、京で源氏と結ばれるのだという言われ方もする。今で言えば、東京の華族に嫁入り——とかかな。まあそれも良かろうな。そういう、前向きな伝承ならまだいい。だが——『林檎森の忌子』は、そうじゃあない。これは広い見方をすれば、に近い気がしてきたな」

「神……隠し」

つちぐらという舞台が悪い。林檎森という、森の中にある屋敷というのも悪い。そもそも林檎という果物もよくない。舞台装置が悪すぎる」木哭は不機嫌そうに頭を掻いた。「うーん……困ったな。これは拙い。僕は自信がないぞ。将来、——なんて思わない保証はない。これはいずれ、直流の退魔師としての業績や評判が上がれば上がるほど信憑性を増すんだ。こんなに素晴らしい退魔師様が、ただの一度、あまりの美しさに殺すのを止した少女——ということになってしまう。しまったなあ……」

 折櫛はまだ、真実には辿り着いていなかった。——というのもあるが、それがどうして木哭の頭を悩ませているのか、わからない。

「今三月がなんでこんなに悩んでいるかというと、これは、結末にるからなんだよ」と、新蘭戯が言った。「三月は今、この怪異の落ちの着け方を考えているんだ。要するに、ここで殺せば——『人を惑わす忌子は死ぬ』という落ちの伝説になる。『紅葉伝説』と同じだね。だがこれは良くないだろう? これが罷り通れば、

「そんな馬鹿な——」

「もちろん馬鹿げている。そんな短絡的な話はない。『紅葉伝説』でも紅葉は殺されるが、しかし、それが美女を殺していい、にはならない。でも忌子はなりそうな気配があるんだな。そう、例えば——中世にあった魔女狩りなんかはまさにこれだし、今も田舎では多くある、異国人への差別もそれに該当する。、という言説に近い」

「どうして……近くなってしまうんですか」

だからだよ」新蘭戯は悲しそうに、目を伏せて首を振った。「居るだけの怪異なんて存在しない。存在自体が罪などという例は、俺は聞いたことがない。しかし今まさに生まれようとしている。だから、忌子は殺すべきではない。殺して幕を下ろすと、誰も手出し出来なくなる」

「あの、全然——理解が出来ません。どうしてそうなるんですか? だって、これはただ、林檎森という家に生まれた女の子の話であって……」

「だから、因果が逆なんだ」木哭は目を閉じていた。「そうだなあ、どう言ったら伝わるかな。という言葉があるだろう。蔑称べっしょうだ。僕はこれが嫌いだが——そういう言葉があるから、身体障害者は忌み嫌われる。これもある種、伝承だよ。『どこどこの誰々はなんだ』というのは、先に話した関内という地名と同じだ。使で、且つ、語句も短く、伝わりやすい。一発で、その人が身体障害者だと伝わる。だが、そこに負の印象がついてしまうと——まるでけっそんそのものを表す侮蔑の言葉に聞こえてしまう。実際、身体の部位が足りないことで、人は誰かに迷惑を掛けるわけじゃない。生きていていいんだ。当たり前のことだろう? 本来、どんな人間であれ、どんな命であれ、。だが、という言葉があるせいで、彼らは不幸な目に遭う。幼稚な優生思想から来る勘違いによってね。これが因果だ。因果の話は、さっきもしたね。美は因果だと」

「はい。覚えています」

「操作出来ないから因果なんだ。ということはつまり、因果の向きも操作出来ない。身体的欠損を表す表現としてという言葉が生まれた。これが本筋だ。だが逆に、という言葉を用いて、誹謗中傷することも出来る。もはやそこに、身体的欠損は関係ない。ただという蔑称に込めた悪意だけが残る。五体満足な人間にだって、という悪口を言うことは出来てしまう。わかるかい? 発祥や本来の意味なんて関係なくなるんだ。ただ、

「三月が俺を馬鹿と言うのと同じだね」

「あとにしてくれ。ややこしくなる」

「要はだから、『林檎森の忌子』という言葉自体、概念自体が、侮蔑の意味を孕む可能性まで、今、三月は考え始めている。既に話が次の段階へ移っている」

「説明ありがとう浩平。とにかく因果が逆になる。逆というか、双方向と言うのが正しいかな。ああ、まとまりがないな——浩平、訳せるか」

「ううん……そうだな、忌子を殺せば、巡り巡って、美女は。逆に、このまま忌子を蔵に閉じ込めておけば——美女は。今回のその子の処遇によって、因果が決定する——というようなことだろう? だから、、が、、になる。『林檎森の忌子』という怪異を生むことで、それは正当化されるかもしれない、と」

「助かる。つまりそういうことだ」

「でも……そんな、定着するんでしょうか? 誰も話さなければ、そんな怪異なんて……」

「美への狂気は人類を動かすんだ」と、木哭は言った。「ここ十数年で定着し始めた、美女の話を知っているか? 中国の楊貴妃ようきひ古代こだい希臘ギリシャのクレオパトラ、日本の小野おのの小町こまちを指してうたう俗化的な話だ。まあ、日本で言われているだけだが」

「ああ、俺は知っている。二十代の頃に、何かの雑誌で読んだかな」

「私は知りません……不勉強で申し訳ありません……」

「いや別にいいんだ。で、これは健康的な美への執着だろう。さっきも話に出たが、いわゆるってやつだ。大衆はとにかく、美女を求める。美男もだが、美女の方が支持率は高い。それはまあ、健康的なうちはいいんだ。商売になるだけだからね。だが、忌子は——だからこれは、名前も良くないんだよ。『林檎森の忌子』なんて、まるでいんさんで、情欲的だろう? 富豪の家で生まれた娘があやしい紅い眼をしていて、土蔵に閉じ込められて育ち、実の弟に強姦されそうになり——そこまで聞いただけで、普通の男なら、一度会いたいと思う。不健康な美への狂気だ。まあ、狂気に健康も不健康もないのかもしれないが……という年齢設定もよくないなあ。伝承に気を狂わせた不埒ふらちな男が、若い女を襲う事件がぼっぱつしたらことだぞ」

「……わかりません。私には、三月さんや浩平さんの言っていることが、理解出来ません。私だけがわからないんでしょうか? 私に危機感がなくて、それで——」

「何かうまいたとえはないかなあ浩平」

「モナ・リザの話はしてしまったしなあ……ううん、スグちゃんの話から抜き出すと、そうだね、きんしんそうかんに対して、スグちゃんは否定的だろう?」

「それは……はい、そうですね。禁忌きんきですから」

「俺が霧子と寝ていると言ったら、どう思う?」

 新蘭戯は唐突に、妹の名前を口にした。

 折櫛はすぐに表情を曇らせる。嘘だとわかっていたが、その様を想像してしまったからだ。折櫛は霧子と同い年なので、十代はそれなりに付き合いもあった。だからだろう、その関係が生々しく感じられ、不快感を示した。

「想像したくありません」

「何故そう思うんだい?」

「だって、禁忌ですから」

「そういうことだよ」

 と木哭が言った。

とか、とか、そういう印象の要素を、『林檎森の忌子』は持ってしまった。ああ——だからほら、僕がもう言ってしまっているだろう。『林檎森の忌子』という怪異名称は既に、この三者で共有されてしまった。僕が原因で。これは本格的にまずいなあ」木哭は後悔するように項垂うなだれる。「十五年間誰にも見つからずに育った絶世の美女——その眼は紅く、その肌は白く、その髪は黒く——なんて説明はしないで済む。『林檎森の忌子』だ。もう、それは。どこかで『林檎森の忌子』に禁忌的な意味がついたら、とことんこすられるぞ。近親相姦だって、最初はただの言葉だったんだ。相手の合意を得ずに近親者を襲うのは、だ。近親相姦は、お互いに合意の上でという意味合いが強い。だが関係ないんだ。。どんな事情があって、どんな家系で、どんな関係性で、どういう考えの末に行われたのか——なんてことは、もう関係がない。『近親相姦』という言葉があって、それに該当するものは全て禁忌になった。例えば、どうしても絶やしてはならない血統があって、それを継ぐために兄と妹が交わって子を成す必要が在った場合、これは禁忌か? 違う。それぞれに事情がある。どうしても愛し合ってしまった二人が血縁関係にあった場合、それを否定する権利は我々にはない。だが、になった瞬間、悪意を孕むんだ。『林檎森の忌子』も扱いによっては、禁忌に成り得る。まあ、この言葉自体も拙いんだよなあ……林檎森という土地があるんだろう? そこは地名だから、林檎森家以外にも、該当する地名に暮らしている人がいるかもしれんし、林檎森という名の付く何かが世に出回っているかもしれん」

「要は忌名いみなだね」と新蘭戯が続けた。「土地を舞台にした怪異は、土地の価値を著しく下げる。異国人を迫害するのと同じだ」

「——ああ、わかりました」

 と、折櫛は急に言った。

 異国人迫害という言葉を受けて、話が理解出来たわけではない。

「わかったか」

「はい。私は——ごめんなさい、話の途中だったので、これは私だけが知っている情報でした。だから説明しますが……その前に、どうして三月さんがそんなに不安がっているのかわからなかったんです。だって、その『林檎森の忌子』のことを知っているのは、林檎森家の皆さん——洋介さん、美咲さん、花長くん、蔵前さん。そして私と、三月さんと、浩平さんだけです。紅古さんは、少しだけ囓っていますが——地名までは伝えていませんし。だから外部に漏れることはない、つまり伝承化しないんじゃないかと思ったんです。だって、私たちが口外しなければ漏れませんよね?」

「いや、僕には自信がない。いつ自分が、そう言えば……と言って話だすかわかったもんじゃない。それに、花長がいるだろう? あいつが一番厄介で信用ならない」

「その花長くんは——

 折櫛が言うと、木哭も新蘭戯も、信じられないとばかりに目と口を開け、折櫛を見つめる。

「死んだ……?」

「はい、死にました。だから——」

「逆だ」と、木哭が言った。「それは……違うぞ、直流。もし、花長が死んだことでこの件が我々だけに限定されて、と思っているなら、それは違う。逆だ」

「ああ、逆だね」と新蘭戯が言う。

「逆、というのは……」

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『林檎森の忌子』 福岡辰弥 @oieueo

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