3——忌子は、此の世のものとは思えぬほど、美しかった。
しかし、その美しさを語る前に、美咲さんの美しさについて触れておかなければならない。
食事会が
私は、気を
単に仕事で
私はそう判断して——多少は酔っているのも手伝って——洋介さんにお
「いやいや、折櫛先生にお酌をしていただけるなんて、これは
などと洋介さんに言われる始末であった。
こういう酒の席での男性の
それを
多少の
「ご
「ははは! 今日はすっかりいい日になった。酒が飲めるなんてのは、うん、実にいつ振りだ」
洋介さんは、酒量こそ多くなかったが、それなりに酔いが回っているようで、かなり陽気になっていた。迷惑な酔っ払いでこそなかったが、初対面なこともあり、
もう、ずっと戻ってこないのかと思って心配していた。
「ああ、
蔵前さんが戻って来るなり、洋介さんは花長くんが座っていた椅子を引いて、
「すっかり出来上がっているようですね」
蔵前さんは仕方なさそうに言って、
蔵前さんが戻ってくると、洋介さんの標的はそちらに移り変わった。洋介さんにしてみても、初対面の、年の離れた
「主人の
「いえ、ご無礼など何も。こちらこそ、突然お邪魔してしまって、申し訳ありません」
「こちらがご招待している身ですので、お
美咲さんは、そこでもう一度、私に対して名乗った。
近くで見ると——美咲さんはとてつもなく、美しい人であることがわかった。
私など、困った顔をしても、何かに
とにかく——美咲さんは、名前に恥じぬ美しさを持っていた。
「主人は、医者に酒を控えるよう言われていまして。ただ、本日は特別なお客様がお見えになるということで……蔵前とも相談し、その
確かに、酒を飲むのは久しぶりだのということを、
私は、蔵前さんとの約束により、自分の仕事について話すことが出来ない状態であった。流れやすく、流されやすい私であるが、うっかり口を
しかし
「美咲さんは、その……普段はいつも、おうちにいらっしゃるんですか?」
これは何も、労働に従事しているのか、という意味合いの質問ではなかった。ほとんどの女性は、働いていないのが普通である。むしろ私は、
「私は、
と答えてくれた。
私の質問の意図は——その、美咲さんの肌の白さにあった。
ほとんど
近くで見ると、その手足には、青い血管が
「お綺麗でいらっしゃって、
「そうですね……本を読んだり、あと、
「わあ」
私とは縁遠い世界の話だったので、素直に
私が知るお稽古と言えば、
もちろん、いざと言う時に——例えば、仕事の相手が暴力的な場合に、それをいなせるだけの力量は必要である。だから必要最低限の戦闘力こそ持ってはいるが……やはり、
もちろんその話は美咲さんにはしなかったけれども、私は自分とは縁遠い世界に生きている美咲さんを——美しい、と思った。
そして同時に、
美しくて、
こういう人生もあったのかもしれない。
今の人生に不満があるわけではないけれども、そんな夢を見てしまうくらいには、私は美咲さんが羨ましかった。
透き通る白い肌、
本を読み、ピアノを弾いて、日々を暮らす。
「……もちろん、必要だと思って話しています」
私は自分から話を中断して、
「僕は別に何も言ってないじゃないか」
「三月さんが退屈そうにするからじゃないですか」
「退屈そうになんかしていないよ。ただ、想像していただけだ。
「そうですか。どれくらい可憐ですか? 私と比べて」
「美しさは比較によって生まれるものじゃないだろう」と、三月さんは私から視線を
「どういう意味ですか」
「言葉通りの意味だよ。そうだなあ……
三月さんは腕組みをして、
これは考えているというより、
私には見えないが、
「美しさというのは、
全然伝わらなかった。
「意味がわかりません」
「
「ますますわかりません」
「じゃあもういいか」三月さんは諦めて、煙草に手を伸ばした。「とにかく話を続けてくれ」
「いやいや、結構大事なことですよ。今回の、その——忌子の話をするためには、美しさというのは、重要なことなんです」
「わざと何も言わずに聞き
三月さんは煙草を
置かれたままのシュークリームは、もうすっかり、煙に
「忌子が、此の世のものとは思えないほど美しかったというのは——なんだい」
「それはこれから話します。順序が大事だと、三月さんも
「だったら順番通りに話しなよ。まあ——」煙を吐いて、三月さんはその
「そんなにご
私は三月さんに対して、少し意地悪をするつもりで、少々馬鹿にしたような言い方をした。
が、当の本人はそんなことは気にせず生きているのか、あるいは
「しかしこれは、隠せるんだな。出したり、引っ込めたり出来る。逆もまた
最近の浩平さんを見ていなかったので知らなかったが——簡単に想像が付いた。以前に会った時も、浩平さんは、とても
「なんとなくわかりました。つまり、美しさとは隠せないもので、自分で操作ができないから——因果だと」
「故に、操作可能な美しさとは、本物ではない」
「美しさに、本物と
「と言うか、そうだな……言葉が同じだが、指す事象が別ということだ。
「
「突然なんだい?」
「あ、ごめんなさい。これは私の中で発生した概念でした——固有概念ですね」
「ああいや、なるほど? 直流はそうか、関内という名前に、共通概念的な要素を見出したということか。うん、まあ近いかもしれない。そうだね……関内という地名は
「自分で言っておいてなんですけれども……今の話を
「
東京の
「だけど本来——そうだね、今の直流は、美しいと言えるじゃないか」
「な、なんですか突然」
「
「は、はあ……そうですか。どうもありがとうございます」
「なんで怒ってるんだ」
「怒ってませんよ別に」
なんで怒ってるんだ、と言われたのでむしろ怒ったが、お礼を述べた時は別に怒っていなかった。
ただ困った顔をしていただけである。
やはり、
自分の顔つきが
「……とは言え、それは美しさと表現するより、
「
「なんだよ。さっきはあんなに
「別に怒ってませんって」
「だがまあ——これがじゃあ、本当の
歯の浮くような言葉に
つまり美しさとは、
意識とは無縁だということか。
「もちろん、絵画や
「ああ、なるほど。三月さんはだから、私のことを、ちょっと他より整っている程度だと
「そんなこと言ってないよ僕は」
三月さんは視線を逸らして、煙を吐いた。
「ただまあ、だからこそ……直流の言う、美咲とやらの美しさには
三月さんは煙草を消して、ようやく長々と続いた言い訳に
とは言え、この会話は
忌子の美しさについて話すために、この前置きは非常に重要だった。
むしろ、話しやすくなったとも言える。
「では——話を続けます。今の会話である程度、私が話したかったことは伝わったと思うので……飛んで、翌日の話です」
「夜、何か特別なことはなかったんだね」
「ええ、食事会の後は、客室に案内されて——すぐ眠ってしまいましたから。あ、でも、すごいんですよ、林檎森
「そうか、そりゃすごい。じゃあ翌日の話を聞かせてくれ」
翌日——私が目を
私に用意された客室は、林檎森邸の二階に位置していた。というか、客室は全て二階にあるようだった。林檎森邸は、一階部分が林檎森一族の部屋や、生活に必要な
林檎森邸は二階建てだったが、箱が二つ重なったような構造ではなく、
私は寝る前に、用意された
着替えるのは
部屋を出ると、目の前には
「ああ、
「おはようございます、蔵前さん」
紅茶の
「まだ朝食の準備が整っておりませんが、良ければどうぞ」
階下の蔵前さんに誘われ、私は階段を降りる。階段は大広間に繋がっていたので、私は実のところ、この大広間と客室以外、まだ林檎森邸をほとんど把握していなかった。あとは、
私は一足先に、昨日最初に座ったのと同じ、
「皆さんは……」
「洋介様は昨晩のお酒のせいか、まだお休みになっております。花長様は、
「朝が早いのですね。
「左様でございます」
「それは……大変ですね。ちゃんと眠れていますか?」
「私一人では、朝食の用意も出来ませんから。
話の途中で、私の耳に、
「この音楽は——美咲さんが?」
「ええ。美咲様はこの時間、毎朝ピアノの練習をしております」
美咲さんは、朝食の
微かに聞こえる優雅なピアノの旋律を聴きながら、私は朝から紅茶などという洒落た飲み物を飲んでいた。本当に、
「お客様にお手伝いなんてさせたらあんた、
この羽柴さんという人は、
八時頃になって、美咲さんが大広間にやってきた。
「おはようございます、折櫛さん」
「おはようございます」
「本日はよろしくお願い致しますね」
突然言われ、何のことかと思ったが——恐らく仕事のことだろう。かと言って、私からその話題を話すわけにも行かなかったので、反射的に話題を
「美咲さんは本日は、何をされるご予定なんですか?」
「今日は——そうね、朝食を食べ終えたら、お風呂に入って、顔をやって、お着替え」
「どこかにお出かけされるんですか?」
「ええ、そうなの。今日はお
話してみると——美咲さんも案外、接しやすい人だということがわかっていた。見た目の綺麗さや、控えめな性格から、なんだか遠い世界の人、という印象を持っていたけれど——
外見こそは特殊だが、中身はごくごく普通の——もちろん、富裕層特有の特異さはあれど——三十代の女性だった。
「
美咲さんに紅茶を持って来ながら、蔵前さんが言う。
「ええ、わかってるわ……」
「美咲様は、周辺のご婦人に
蔵前さんは、私に
「あの人たちはね、私のことを、今でも二十かそこらの小娘だと思っているのよ。自分の年齢を数えればわかりそうなものでしょうに」
「あのご婦人たちは、歳を取りませんからな」
蔵前さんは
「本当なら、折櫛さんを連れて行きたいくらい。歳の割にしっかりしてらっしゃるし……私の
「あはは……」
私は
「折櫛様には、洋介様との大切な商談がございますので。諦めてください」
「そうね……はあ、気が重いわ」
美咲さんの人間
私と美咲さんは、
新潟を経って、
林檎森邸に来てからは、約半日。
私はすっかり非現実的な生活に感化され、流されやすい性格も相まって、この生活こそが私にとっての本当の人生なのではないか——などと思い込めるほど、この場に馴染んでいる自覚があった。
優雅な旋律を聴き、英国の茶を飲み、美しき女性と、紳士的な男性と軽口を叩く。
なんとも
これから命を
「意外と、
三月さんが割って入った。
「美咲さんですか?」
「うん。もっと——
「詳しいことは聞いてませんけれども——まあ、そうですね。
「ふうん。呪いが解ける感覚だな」
「さっき言っていた、因果のことですか」
「まあそれに近い。いや、得てしてそういうものだけどね。逆にそうやって、会話による人間性の
「神聖視、ですか」
「あるいは
「そうですね。あとはもう一人、忌子がいました」
「ああそうだった。つまり、意図的に二人がいない時間を狙ったわけだ」
「はい、恐らく。しばらくして洋介さんが起きていらして、朝食を食べて——そして美咲さんが九時頃に家を出て行って——私たちはいよいよ、忌子についての話し合いを始めることになりました」
美咲さんは、徒歩で出かけて行った。茶会が行われる場所までは、一時間ほど掛かるらしい。
送迎もなくて大変だ——と思ったが、冷静に考えるとそれが普通である。林檎森の生活を受けて、私はどうにも、車での送迎を当たり前に感じている節があった。
ここにいると、どうも感覚が鈍くなる。
家政婦の羽柴さんはこれからあらゆる布という布を洗って干し、だだっ広い屋敷を掃除して、昼食の支度に入るとのことだった。私はと言えば、蔵前さんに案内されるまま——
いつになっても、仕事を始める段になると、緊張するものだ。
蔵前さんは朝から変わらず、紳士
それも当然か。自分の子を殺す、という依頼なのだから。
「いや、お待たせして申し訳ない。すっかり服が
「いえ、とんでもありません」
私はにこりともせず、
「いやいや……ええと、どこまで話をしているんだったかな」
洋介さんが私の対面に座ると、蔵前さんも、その横に腰掛けた。主従関係がありながら、昨晩もそうだったが——洋介さんと蔵前さんは、どこか特別な親密性を感じる部分が多くあった。
「
「そうかそうか。じゃあなんだ、繰り返しになるかもしれませんが、ううん、頭から話そう」
「よろしくお願い致します」
「簡単に言えば——我々が
「今年で十五歳になります」
「十五歳」
私は驚いた。
てっきり——忌子というくらいだから、産まれたばかりか、そうでなくとも、
それに、美咲さんはどう見ても、産後すぐという雰囲気でもなかった。
だが普通——という表現が正しいかはわからないが、忌子——あるいは
それが十五歳となると——話が別であった。
否、別段、だからと言って、仕事が出来ないわけではないのだけれども。
すっかり赤子を相手取ると思っていただけに、私は驚いていた。
「忌子が——十五年間、生き長らえたのですか」
奇形児を殺してくれと依頼してくる親の大半の願いは、子が何も知らぬうちに、その命を
奇形児の大半は、通常の子よりも、長くは生きられない。
それにしたって、死んでしまうまでは育てなければならない。
放置して、死ぬのを待つなど出来ないのだから。
仮に死ぬまで待つとしても、その
ならば、殺すのも
我々
ただ子育てが面倒だから殺してくれと言われても、当然だが、殺すわけにはいかない。子が
そういう判断を下すのだ。
だが——今回の件はどうだ。
「いやあもちろん、我々も生まれた時には大変に悩みました。その……忌子、まあ我が子をそう呼ぶのも何ですが——ちと、生まれつきの
「外的と言うと、
「いえいえ、
洋介さんは一瞬、悩んだ様子を見せたが、すぐに私に向き直り、
「まあ
紅い。
眼が紅い。
「
「とか言いましたかね。まあ、科学の時代にこんなことを言うのもなんですが——産まれてすぐの娘の目を見た時にね、私は思いました。こりゃ
鬼、という言葉に、私は
だが、蔵前さんは意に介した様子もなく——
「そこで、我々は忌子を
と、補足を口にした。
まるで、世間話でもしているような、
「……確かに、赤目の人は珍しいですね。でも、世の中にいないこともないでしょう。目の色が違うくらいであれば、その——」
私は、蔵前さんをちらと見る。
初めて会った時から、彼はずっと
そんな私の意図を汲んだのか、蔵前さんはそっと、
その目は——
「折櫛様の仰る通り、瞳に色が付いているからと言って、珍しい生物、というわけではありません。私のような普通の人間にも、そうした特徴は現れます。日本という国においては珍しいことですが、
「あ……すみません。失礼致しました」
「いえ、お気遣いありがとうございます」蔵前さんは、また色眼鏡を掛ける。「それに、生物界には
私も実際に、白子症の子どもを見たことがあった。過去に、
だが——
「しかし、忌子は目以外は、普通でした」
普通、
「特に、髪の色が
らしい、というのが気になった。私はほとんど反射的に、蔵前さんを見る。
「忌子の世話は、私が
——
どうも、言葉の
「ここまでのお話で、折櫛様は、何故十五年も生きた忌子の殺害——いえ、
「無視、ですか」
「つまりね、折櫛先生……」と、説明が洋介さんに戻る。「我々は、赤目で生まれてきた鬼子を、誰にも見せちゃいけないと思った。しかしね、殺すわけにもいかないと思ったんですわ。さてそいじゃどうするかってんで考えた。当然、普通に家の中に置いて育てるわけにもいかない。これでも、その……なんでしょうな、金がありますんで。何かあると、すぐに
長女が赤目をしていれば——
なんて
「だからね、家の中には上げずに、敷地の中で、ひっそりと生かすことに決めました。もしかしたら、将来的に、忌子が普通に暮らせるような世界になるかもしれない。だから待とうと。くどいようですが、金があったんでね——そういう選択が出来た。私たちはね、幸運でした」
なんとなく、話が見えてきた。もちろん、
確かに、殺すわけにはいかない。
かと言って、外に出すわけにもいかない。
来客のある屋敷の中で
理屈はわかる、と、私は判断した。その判断こそが
「その忌子は——今は、どちらに」
「農園の外れの方にある、
「なるほど」
敷地の広い林檎森だからこそ出来る
「だけどなぁ……まあ、悪いことが起きた」
洋介さんは、苦悩の表情を浮かべて、深く溜息をついた。
「悪いこと、というと」
「花長が——昨日紹介しましたな、息子ですが……その蔵に忍び込んだんです」
それの何が問題なのだろうと、私は一瞬、意味を理解しかねた。その私の反応を見てか、蔵前さんが補足する。
「つまりですね、花長様は、忌子の存在を知らされていなかったのです」
「あ……そういうこと、ですか」
確かに言われてみればそういうことなのだろう。花長くんが産まれる前に、忌子は存在していた。だが、産まれた瞬間から、忌子は土蔵に閉じ込められたということになる。そしてその後は、
であれば——花長くんは、実に十数年の間、実の姉の存在を知らずに生きてきたことになる。
「
「いえ、お気になさらず。仕事ですから」
「その、なんだ……まあ、花長も年頃なんでしょうな」
年頃。
なんの年頃だ。
嫌な予感がする。
「まあその、蔵に忍び込んだら、そこには見知らぬ娘がひとり、娘と言っても十五歳かそこらですからね、それなりに育ってる。しかも世間は
仕事ですから、などと言っておいて、私は
なんということだ。
つまり花長くんは——実の姉を、襲ったというのか。
「正確には、
約半年前だ。
昨晩の時点では、この家にそのような事件が起きていたなどとは思えぬほど——家族関係は、正常だったように思う。
「それから私たちは、色々考えたんです。花長に事実を話して口止めするか、やっぱり忌子は生まれた時に殺すべきだったんだから、今更かもしれないけど、殺すか。あるいはどこか別の場所にやってしまうか。もういっそ、花長の好きにさせるかとも考えました。そりゃあもう長いこと考えました。考えて考えて、考え抜いて——ほとほと、疲れましてね……」洋介さんは、心底
「その後、一度身体を壊されて、春先に洋介様は入院なさいました。元来、あまり酒に強い体質ではないんですが、飲まずにはいられなかったようでして」
「何も考えたくなかったんだ、私は」
なるほど、医者に酒を止められているというのは、これに
「それでね、入院すると、また色々と考えてしまうわけですな——ずっと寝るわけにもいかんし、隠れて酒を飲むわけにもいかん。結局、忌子のこと、花長のこと、延いてはこの家のことを考えて——最終的に、折櫛先生に依頼をしたっちゅうわけです。どうもそれ以外に、私なんかじゃ、解決策が思い浮かばなんだ」
私は——私は、何も言えなかった。
花長くんを
言ったところで、それと引き換えに姉を好きにさせろと言われたら?
うっかり、外部に口を
その心配は、忌子が生存する限り、付いて回る。
かと言って、忌子を手の届かぬ場所に飛ばし、その先で同じように
いくら分別のつかぬ子どもとは言え、無抵抗の人間を襲うなど、犯罪である。
洋介さんの苦悩は、理解出来る。
あるいは忌子を好きにさせる代わりに、口外するなと言うのだろうか。いくら忌子だの鬼子だのと言ったところで、
——済むはずがない。
確かにこれは、どこかで断ち切らなければならない話だ。
「もしかすると、より良い解決策があるのかもしれません」と、蔵前さんは静かに発言する。「しかし、土蔵の錠前を付け替えたり、数を増やしたりとしていますが——花長様の侵入は終わりが見えません。中にこそ入ってはいないようですが、たまに、鍵を開けようとした形跡が見られます。本当に
「えっと、つまり……蔵前さんにしか知られていない、と思っている……」
「左様でございます。花長様も引け目があるのか、秘密にしておられます。私にも何も尋ねて参りません。あの一件は、今のところ——
ああ、なんという最悪の展開だろう。
もちろん、気持ちはわかる。花長くんの暴走を
あるいは洋介さん自身、蔵前さんからの報告を聞いて、発狂したのかもしれない。だからせめて、美咲さんには知られたくなかった。
「でも——すみません、申し上げてもよろしいでしょうか」
「ええ、どうぞどうぞ。何なりと仰ってください」
「失礼を承知でお伺いしますが……忌子を殺してしまったら、美咲さんは、不審に思われるのではありませんか? それに、花長くんも……」
「それについては——聞こえは悪いですが、計画的に事を進めております」と、蔵前さんは言う。「最近、忌子の調子が悪いということを、美咲様には事前にお伝えしております。三ヶ月ほど前からでしょうか……
「普段、美咲さんは……蔵には入られないんですか?」
「いえそんなことはないです」洋介さんが言った。「私はもう、数年近く忌子を見ていませんが……美咲——妻はそれでも、割と
確かに、世話役をしている蔵前さんは男性である。加えて、忌子は既に十五歳だという。相応の対応が必要だが、蔵前さんが
私が呼ばれたのはそういう
蔵前さんは、女の退魔師が必要だと言っていた。否——
「今年に入ってからは、月に一、二度入られますが——これも
「死んだ時期をずらして伝える、と?」
「ええ。折櫛様が来た途端に死んだとなれば、美咲様も何か
蔵前さんも、洋介さんも、
多分、色々と考えたのだろう。
考えて考えて考えて——考え抜いたのだろう。
その結果、この判断が一番であると、合意したのだろう。
「——わかりました」
私は
殺す判断は——まだ出来ない。少なくとも、忌子を見るまでは。
だが、二人の気持ちは、充分に理解出来たつもりだった。果たして、忌子は、忌子である。話を聞く限りでは——
忌子はただ、生かされているだけだ。
罪を犯したわけでもなく、
罰を受けるべきでもない。
罪があると言うなら、忌子の存在を
忌子には何の罪もない。
ただ——
このような場合は、
この問題を、法はきっと解決してくれない。
だからと言って、自らの手で、忌子を殺すわけにもいかない。
少なくとも今時点で——私は、
そのための、退魔である。
「ではまず、忌子と対面させてください。ですが、その場ですぐに、判断が出来るわけではありません。もしかすると、数日——私も、考えることになるかもしれませんが、よろしいですか?」
「ええ、ええそりゃもう、もちろんです」洋介さんは、応接間にあった背の低いテーブルに両手を突いて、頭を下げた。「ありがとうございます! 私らは、とんでもない依頼をしているんじゃないかと、内心、
「お顔を上げてください。大丈夫です。我々に依頼を下さる方々は——皆さん、同じように、とても悩んでおられます。自分は間違っているのかもしれないと思いながら、ご依頼されます。ですから、洋介さんたちは、おかしなことを言ってはいません」
「ありがとうございます。本当に……ありがとうございます。時間が掛かるのは、ええ、当然、結構でございます。何日滞在いただいても構いません。殺さずに済む妙案がもし思い浮かぶなら、それもまた良し——ああ、とにかく、一度
「はい。ですが、お帰りの際はお迎えに上がりますとお伝えしておりますので——ひとりで戻られることはないかと」
「そうか。じゃあ、安心だな。早速——蔵に行こう」
洋介さんは随分と、心持ちが明るくなっているようだった。気が
きっと、蔵前さんと二人で、とても悩んだに違いない。
彼には彼なりの情と道徳があって、家族を守ろうとしているのだ。
「なるほど」
三月さんは、ぽつりと感想を
「どうかされましたか」
「いや、そういう珍しい依頼もあるのだな、と思っただけだ」三月さんは腕組みをして、ソファに深く座り直した。「
「そうですねえ……まあ、人の性への欲求は、様々ですからね」
「綺麗な女が蔵の中にいて、人目がなければ、そうなることもあるか」
三月さんは頬を掻きながら、視線を明後日の方向へ向ける。
自分にはわからないが、わかろうとしている、というような表情だ。
「それに、僕も直流とほとんど同意見だ。
「ええ、私もです。花長くんの将来や、美咲さんの気持ちや——自分たちに降りかかる重圧、それに林檎森家というもの自体、様々な
「しかし——」
三月さんは私に、
「忌子は、死んでいないんだね」
「はい……そうです」
「まあいいか。続きを聞くよ。ようやく、忌子との対面になるわけだ」
洋介さんと蔵前さん、そして私の三人は、林檎森邸から外に出た。
私は念のため、刀を差していた。『
刀を差しているからといって、すぐに殺すつもりはない。
むしろ形式上のものである。
これは、退魔師の正装のようなものだ。
退魔師として、忌子と
明るいうちに見る
「あそこに見える、やや背の高いのが、土蔵でございます」
見ると、林檎の木々の間から、人工物が覗いていた。
木々を
「準備が整いました。では、折櫛様——どうぞ」
「あ、ありがとうございます。えっと……皆さんは」
「後ろであれこれと言うのも、お仕事の邪魔になるかと思います。私たちは外で……」言いながら、蔵前さんは洋介さんを見る。「よろしいでしょうか」
「ああ、もちろんだ。折櫛先生、よろしくお願いします」
他人の家の蔵に勝手に入るのも気が咎めたが——だからと言って、一緒に入ってくださいと
蔵の中は——暗闇だった。
否、目が慣れていないだけで——ある程度の明るさはあった。二階部分には
蔵は、外側から見ると土蔵然としていたが、中に入ると、
そんな座敷の中央に——
忌子だ。
座っている——というより、
「……こんにちは」
私は忌子に対して、話しかける。会話が通じないとは思えなかった。多分、蔵前さんや美咲さんによって、日常会話くらいは習得しているのだろう、という期待があった。私の声に反応して、忌子は少しだけ、顔を横にずらす。聞き慣れない声を、聞き分けたのかもしれない。
そしてゆっくりと、立ち上がる。
汚くはない。むしろ、
忌子は立ち上がり、ゆっくりとした動作で——振り返った。
細長い。
背丈は——私とあまり変わらない、ように見える。肉付きの悪い、薄っぺらい身体だったが——それでも、立派に女の体付きをしていた。
四肢は細く、色白だ。
美咲さんのような、病弱そうな白さではない。
かといって、白子症のように、色素の欠けた白さでもない。
ただ、明確に、肌の白さが際立っていた。
対比するように、髪は黒々としていて——長く伸びた髪は、胸の下まで伸びている。
その髪質は、嘘のように重力に従っていて、
だが、眼だけが
逆光において尚、その眼の異様なまでの
眼から光が
威圧感のある、
いや——そんな
髪が黒かろうが、
眼が紅かろうが、
肌が白かろうが、
腕が細かろうが、
脚が長かろうが、
背が高かろうが、
全てがどうでもいい。
どうでもよかった。
にも関わらず、その全てが集合して、忌子を形成している。
私は忌子を見た瞬間に——忌子に
「こんにちは」
感情の起伏のない、表情のない
そして私は思い知った。
——私は今までに、美人を形容するための、人形のようだとか、
いくら美しくとも、女神は言い過ぎだと思っていた。
何故なら人間だからだ。
天使でも、天女でもない。
何故なら人間だからだ。
だが、忌子を見てわかった。
こういう存在——つまり、
私は途端に、忌まわしくなった。雑事が
だから、
目の前の、
だから——本物の
ただ見ているだけでは、
満足出来ないのだ。
本物の美とは、
そういう、
独占的な感情を巻き起こすものであることを——私は知った。
「あなたは、だれ?」
私は息をするのも忘れていた。忌子が次の言葉を
そしてようやく出来た呼吸は、ほとんど、
音が出るほど、大きく息を吸い込んだ。
しかし視線は、目の前にある
これは、
そりゃあ、花長くんも
ああ、ただ眼が紅いからだけではない。
最初はそうだったとしても——育ってしまった今、この子を外に出すことなんて出来やしないだろう。
眼が紅いことなど、
無視していい。
当初は鬼子として産まれ、本当の
だから、眼が紅いことなど、もはやどうでもよかった。
そんなことどうでもいいくらい——この子は、美しい。
より
この美しさを、この
この美に対して出来ることは、保存と破壊の、ふたつだけである。
一生眺めていたいような気さえする。
これ以上見てはいけないような気もする。
忌子の顔には、何もない。
ただ、美しいだけだ。
「ねえ、あなたは、だあれ?」
私は何も言えず、
また、
呼吸を忘れていたのか、
頭が、
真っ白になった。
そして、
その場に
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます