3——忌子は、此の世のものとは思えぬほど、美しかった。

 忌子いみこは、のものとは思えぬほど、美しかった。

 しかし、その美しさを語る前に、美咲さんの美しさについて触れておかなければならない。

 食事会がもっとも盛り上がったのは、始まってから三十分程度だった。食事を終えた花長かちょうくんは早々に席を立ってしまい、そのまま戻らなかった。花長くんの世話をするためか、一時的に、蔵前くらまえさんも席を外すことになった。ということはつまり、だだっ広いテーブルには、洋介ようすけさんと美咲さん、そして私だけが残された。

 私は、気をつかったわけではなかったが——正直なところ物理的な距離を感じていたので、断りを入れてから席を移動した。とは言え、花長くんの席に座るわけにもいかないし、下座しもざの立場を守るべきとは思ったので、結局、美咲さんの隣に座ることにした。

 単に仕事で報酬ほうしゅうをもらう対等たいとうな立場なのだとは言え——相場そうばの三倍である。その出資者である洋介さんに感謝の意を示すのは、決して下品げひんな行為ではないだろう。

 私はそう判断して——多少は酔っているのも手伝って——洋介さんにおしゃくをすることにした。食事会が始まって一時間もすると、私は「新潟にいがた折櫛おりくしさん」から「折櫛先生」に昇格しょうかくしていたので、私が酒をごうとする度に、

「いやいや、折櫛先生にお酌をしていただけるなんて、これは光栄こうえいですなあ。これは私の方からもお返ししなきゃ面子めんつが立ちません! ささ、どうぞ、どうぞ……」

 などと洋介さんに言われる始末であった。

 こういう酒の席での男性のあつかいには、まあ慣れている。

 それをいやだとも思わないし、面倒臭いとも思わない。むしろ、決まったかたの通りに行動すれば厭な思いもせず、面倒臭さとも距離を置けるので、都合が良いと言えた。

 多少の愛想あいそ笑いを浮かべ、耳ざわりのいい言葉を使い、おしとやかにしていれば、それでいいのだ。

「ご丁寧ていねいにありがとうございます。もう、かなりいただいてしまったので、すっかり酔ってしまいましたけれど……すみません、せっかくですから、もう一杯だけ……」

 献酒けんしゅを受け、それをゆっくりと飲み進める。酒の種類は、気付けば日本酒に変わっていた。これは、一時いっときだけ席を外した美咲さんが用意したものだった。

「ははは! 今日はすっかりいい日になった。酒が飲めるなんてのは、うん、実にいつ振りだ」

 洋介さんは、酒量こそ多くなかったが、それなりに酔いが回っているようで、かなり陽気になっていた。迷惑な酔っ払いでこそなかったが、初対面なこともあり、れ物に触れるような扱いにはなっていたと思う。

 さいわいだったのは、いよいよお互い褒め合う種も尽きて来た頃、三十分ほど姿を消していた蔵前さんが戻って来たことだ。

 もう、ずっと戻ってこないのかと思って心配していた。

「ああ、居守いもり。待ってたぞ。まあ座れ」

 蔵前さんが戻って来るなり、洋介さんは花長くんが座っていた椅子を引いて、手招てまねきした。これは林檎森りんごもり家ではよくある光景なのか、蔵前さんは躊躇ためらうことなく、その席に座った。

「すっかり出来上がっているようですね」

 蔵前さんは仕方なさそうに言って、徳利とっくりを持って待ち構えている洋介さんに、猪口ちょこを差し向けた。なみなみと、酒が注がれる。

 蔵前さんが戻ってくると、洋介さんの標的はそちらに移り変わった。洋介さんにしてみても、初対面の、年の離れた詳細不明しょうさいふめいな私よりも、気心きごころの知れた——つ、主従しゅじゅう関係にある蔵前さんの方が話していて楽しいのだろう。私はほっと胸をなで下ろし——そしてようやく、ここでほとんど初めて、美咲さんとの対話をすることになった。

「主人の無礼ぶれい何卒なにとぞ容赦ようしゃくださいね」

「いえ、ご無礼など何も。こちらこそ、突然お邪魔してしまって、申し訳ありません」

「こちらがご招待している身ですので、お気兼きがねなく。あのう……先ほどもご挨拶しましたけれども、林檎森、美咲と申します」

 美咲さんは、そこでもう一度、私に対して名乗った。

 近くで見ると——美咲さんはとてつもなく、美しい人であることがわかった。

 もっとも、に明確な定義は存在しない。見る人によっては、美咲さんはかげのある、さちうすそうな人に見えるかもしれないし、特徴とくちょうのない顔だとひょうされるかもしれない。あまり、派手はでたぐいの美人ではなかった。多分、眉が下がっているせいだろう。凜々りりしい顔立ちだが、どことなく、ひかえめな印象である。笑っているであろうはずなのに、困っているようにも見える。大した造型だと言えた。

 私など、困った顔をしても、何かにいらついて仏頂面ぶっちょうづらげているように見えるというのに。

 とにかく——美咲さんは、名前に恥じぬ美しさを持っていた。

「主人は、医者に酒を控えるよう言われていまして。ただ、本日は特別なお客様がお見えになるということで……蔵前とも相談し、そのきんくことにしたのです。ですから、あのように、はしゃいでいるのです。量に制限を設けるべきでしたね」

 確かに、酒を飲むのは久しぶりだのということを、再三さいさんに渡って言っていたようである。

 私は、蔵前さんとの約束により、自分の仕事について話すことが出来ない状態であった。流れやすく、流されやすい私であるが、うっかり口をすべらせるようなことはない。私は流れやすいがゆえに、大きな流れにこそ逆らえないのである。つまり、仕事の話をしてはならぬという本流ほんりゅうに逆らってまで、ここで口をすべらせたりする心配はなかった。

 しかし用心ようじんには用心を重ねて——私は先手を打った。

「美咲さんは、その……普段はいつも、おうちにいらっしゃるんですか?」

 これは何も、労働に従事しているのか、という意味合いの質問ではなかった。ほとんどの女性は、働いていないのが普通である。むしろ私は、特異とくい中の特異的な存在と言えた。当然その意図いとを美咲さんも理解したらしく、

「私は、内向ないこう的な趣味をしているので、そうですね……ほとんど、家にいます」

 と答えてくれた。

 私の質問の意図は——その、美咲さんの肌の白さにあった。

 ほとんど病弱びょうじゃくと言ってよいほど、洋服からのぞく美咲さんの手足は。白いワンピースを着ているからまだ手足だとわかるようなもので、そうでなければ、服から布がれ下がっていると錯覚さっかくしたであろうほど、白かった。

 近くで見ると、その手足には、青い血管がっているのが見える。肌も薄そうだ。肉や筋が透けて見えるのだ。その割に、つややかな頭髪は恐ろしいまでに黒々くろぐろとしている。一見して、白と黒でのみ構成されている。にも関わらず、そこには妙に上品な華々はなばなしさが同居していた。

「お綺麗でいらっしゃって、うらやましい限りです。私なんか、割と出歩くことが多いせいで、なんだか日焼けが多くって。おうちの中では、どんなことをなさっているんですか?」

「そうですね……本を読んだり、あと、にピアノがあるんです。普段はそこで、お稽古けいこをしています。週に一度、先生をお招きして、教えていただいています」

「わあ」

 私とは縁遠い世界の話だったので、素直に感嘆かんたんの声を上げた。

 私が知るお稽古と言えば、剣術けんじゅつの稽古くらいなものである。無論、剣術と言っても、これは剣道や、体系化された武術とはことなるものだ。多分、流派りゅうはの名前も存在しない。いな、そもそも剣のでもないのかもしれない。どちらかと言えば、刀を扱うための練習みたいなものだ。人体はどのようにすればれるのか、であるとか、刀はどのように手入れをする必要があるのか、であるとか、そうした基礎的なことを反復はんぷくするのが目的である。

 もちろん、いざと言う時に——例えば、仕事の相手が暴力的な場合に、それをいなせるだけの力量は必要である。だから必要最低限の戦闘力こそ持ってはいるが……やはり、座学ざがくによる知識量の増加を目的としている部分が大きい。

 もちろんその話は美咲さんにはしなかったけれども、私は自分とは縁遠い世界に生きている美咲さんを——美しい、と思った。

 そして同時に、うらやましい、とも思った。

 ねたましい、とまでは思わなかったけれども。

 美しくて、華麗かれいで、それでいてそれを鼻に掛けない姿が——羨ましかった。

 こういう人生もあったのかもしれない。

 退魔たいまの家系に生まれなければ、自分には別の人生があったはずだ。

 今の人生に不満があるわけではないけれども、そんな夢を見てしまうくらいには、私は美咲さんが羨ましかった。

 透き通る白い肌、つややかな黒い髪。

 本を読み、ピアノを弾いて、日々を暮らす。

 色彩しきさいけた美咲さんのその生活は——想像するに、絵的には地味なのだろうけれども、無駄がない、洗練さに満ちているのだとさえ思えた。


「……もちろん、必要だと思って話しています」

 私は自分から話を中断して、三月みつきさんに弁明べんめいした。

「僕は別に何も言ってないじゃないか」

「三月さんが退屈そうにするからじゃないですか」

「退屈そうになんかしていないよ。ただ、想像していただけだ。直流すぐるが言う、その美咲とやらが、どれだけ可憐かれんな女性か——想像力でおぎなっていただけだ」

「そうですか。どれくらい可憐ですか? 私と比べて」

「美しさは比較によって生まれるものじゃないだろう」と、三月さんは私から視線をらす。「美しさというのは、才能や能力じゃないんだ。だから、比較は出来ない」

「どういう意味ですか」

「言葉通りの意味だよ。そうだなあ……いて言うなら……」

 三月さんは腕組みをして、天井てんじょうを見上げる。

 これは考えているというより、模索もさくしているのだろう。

 私には見えないが、ちゅうに浮く言葉の中から、私に伝わりやすい言葉を選んでいるのだ。

「美しさというのは、因果いんがや、のろいみたいなものだ」

 全然伝わらなかった。

「意味がわかりません」

背丈せたけとか、手の大きさとか、そういうものと同じという意味だ」

「ますますわかりません」

「じゃあもういいか」三月さんは諦めて、煙草に手を伸ばした。「とにかく話を続けてくれ」

「いやいや、結構大事なことですよ。今回の、その——忌子の話をするためには、美しさというのは、重要なことなんです」

「わざと何も言わずに聞きのがしていたけれどね」

 三月さんは煙草をくわえて、火をける。

 置かれたままのシュークリームは、もうすっかり、煙にまっているような気がした。

「忌子が、此の世のものとは思えないほど美しかったというのは——なんだい」

「それはこれから話します。順序が大事だと、三月さんもおっしゃっていたので」

「だったら順番通りに話しなよ。まあ——」煙を吐いて、三月さんはその軌跡きせきを目で追った。「ううん、そうだなあ。はたから見れば、僕は頭がいいように見える時もあるかもしれない」

「そんなにご謙遜けんそんされなくても、恐らく皆さん、、と思っている、と、思いますよ」

 私は三月さんに対して、少し意地悪をするつもりで、少々馬鹿にしたような言い方をした。

 が、当の本人はそんなことは気にせず生きているのか、あるいは、私の意図を無視して言った。

「しかしこれは、隠せるんだな。出したり、引っ込めたり出来る。逆もまたしかり。頭の悪い人間が、頭の良い振りをしたり出来る。これは、才能とか、技術と言えるものだ。先天的せんてんてきであれ後天的こうてんてきであれ、頭が良いか悪いかとか、あるいはそうだな、剣術にけているとかもそう。金もそうだな。金を持っていても、全く金のない貧乏人みたいな振りが出来る。浩平こうへいなんか見てみろ、もう三十五歳だというのに、未だに苦学生くがくせいみたいじゃないか」

 最近の浩平さんを見ていなかったので知らなかったが——簡単に想像が付いた。以前に会った時も、浩平さんは、とても羽振はぶりのいい会社の社長という風格ではなかった。

「なんとなくわかりました。つまり、美しさとは隠せないもので、自分で操作ができないから——因果だと」

「故に、操作可能な美しさとは、本物ではない」

「美しさに、本物と偽物にせものがあるんですか?」

「と言うか、そうだな……言葉が同じだが、指す事象が別ということだ。同音異義どうおんいぎとはまた別の——共通概念がいねんだな」

関内かんないみたいなものですか」

「突然なんだい?」

「あ、ごめんなさい。これは私の中で発生した概念でした——固有概念ですね」

「ああいや、なるほど? 直流はそうか、関内という名前に、共通概念的な要素を見出したということか。うん、まあ近いかもしれない。そうだね……関内という地名は」三月さんはすぐに私の意図するところに気付き、補足ほそくしてくれた。「俗称ぞくしょうとして自然発生した言葉だ。関門かんもんないだから、。わかりやすいね。わかりやすいから、みんな使う。みんな使うから定着して——今や地名と誤解ごかいする人も多い。これで駅でも出来ればさらにはくが付くだろうが、この辺りに出来るとしたら——名前は、吉田よしだ駅とかになるのかな。まあいいや。とにかく、美しいという言葉と、類似性はあるね」

「自分で言っておいてなんですけれども……今の話をようやくすると……わかりやすいところが似ているってことですかね」

最大さいだい公約数こうやくすう的な表現、ということだね。良いものを表現する時に、とだけ言っておけば事足りる。便利な言葉なんだ。それ故に、範囲が広い。結果として、美しいという言葉が持つそこなわれて、様々な現象をあらわすようになってしまった。関内も似ているというのはそこだ。何となくこの辺は関内っぽい、という感覚があるから、そう言っておけば通じる。東京とうきょうも似たようなものじゃないか。、と言えばなんだか都会っぽいけど、実際は山奥暮らしということも有り得る。だから、耳障りがいいんだよ、とにかくね」

 東京のたとえは、非常にしっくり来た。確かに、東京とひとことで言っても、範囲は広い。広すぎるくらいに広い。中には、全く東京らしからぬ、むしろ地方の都市部よりもさびれた下町だって山ほどある。否、そっちの方が多いくらいだろう。

「だけど本来——そうだね、今の直流は、美しいと言えるじゃないか」

「な、なんですか突然」

着飾きかざってきてくれただろう。化粧けしょうもしている。美しいと言っても、間違いじゃない」

「は、はあ……そうですか。どうもありがとうございます」

「なんで怒ってるんだ」

「怒ってませんよ別に」

 なんで怒ってるんだ、と言われたのでむしろ怒ったが、お礼を述べた時は別に怒っていなかった。

 ただ困った顔をしていただけである。

 やはり、まゆを寄せると、怒っているように思われるらしい。

 自分の顔つきがにくい。

「……とは言え、それは美しさと表現するより、あいらしい、献身けんしん的である、洒落しゃれている、健気けなげ等々などなど——別の言葉で言い表した方が的確な場合がほとんどだ。久しぶりにあに弟子でしの元をおとずれるために、服を新調しんちょうして身なりを整えてきたというのは——初々ういういしくて可愛い」

左様さようでございますか。きょうえつごくです」

「なんだよ。さっきはあんなにめられたがっていたじゃないか」

「別に怒ってませんって」

「だがまあ——これがじゃあ、本当のかと言うと、それは少し違う。要するに、調整可能なんだ。普段より可愛く見えるというのは、美しいというのとは違うだろう? 美は比較ではない。本来のというのは、隠せない。すことも出来ないし、引くことも出来ないんだ。例えば美術品というものがあるだろう。絵画かいがなんかはわかりやすい。あんなもの、言ってしまえば何の役にも立たない。ただ壁の面積を減らすだけの置物に過ぎない。だが——

 歯の浮くような言葉にさいなまれて少しだけ混乱こんらんしていた私だったが——三月さんの言っていることが、少しだけ理解出来るようになってきた。

 つまり美しさとは、

 意識とは無縁だということか。

「もちろん、絵画や彫刻ちょうこくみたいな美術品には、それをつくる誰かがいる。人間の手によって生み出されたものだ。だが、それそのものには、意識もざつねんもない。、そして美しいだけだ。それが本来の美だ。引くことも、足すことも出来ない。それが出来る時点で、。完成された、完璧な存在こそが、美だ。ちまたあふれるなんて存在は、言ってみれば、ただちょっと、程度の意味でしかない」

「ああ、なるほど。三月さんはだから、私のことを、ちょっと他より整っている程度だとおっしゃるために、さっきわざわざ褒めたんですね?」

「そんなこと言ってないよ僕は」

 三月さんは視線を逸らして、煙を吐いた。

「ただまあ、だからこそ……直流の言う、美咲とやらの美しさには懐疑かいぎ的だということだよ。いくら美しいと言ったって、限度がある。所詮しょせんは人間だ。いや——美しさをててようやく、。だからどの程度の美人を想定して話を聞こうかと、それについて考えていたわけだ。直流の話を退屈だと思っていたわけではないよ」

 三月さんは煙草を消して、ようやく長々と続いた言い訳に終止符しゅうしふを打った。

 とは言え、この会話は有意義ゆういぎだった。

 忌子の美しさについて話すために、この前置きは非常に重要だった。

 むしろ、話しやすくなったとも言える。

「では——話を続けます。今の会話である程度、私が話したかったことは伝わったと思うので……飛んで、翌日の話です」

「夜、何か特別なことはなかったんだね」

「ええ、食事会の後は、客室に案内されて——すぐ眠ってしまいましたから。あ、でも、すごいんですよ、林檎森ていには、いえ風呂ぶろがあるんです。元が農家だからなんでしょうか、水道も整備されていて。すごいですよね……長野の、どちらかと言えば田舎いなかの方だと思うですが……」

「そうか、そりゃすごい。じゃあ翌日の話を聞かせてくれ」


 翌日——私が目をましたのは、午前七時頃だった。

 私に用意された客室は、林檎森邸の二階に位置していた。というか、客室は全て二階にあるようだった。林檎森邸は、一階部分が林檎森一族の部屋や、生活に必要な施設しせつの集まりになっていて、二階は空き部屋ばかりであるらしかった。例外的に、蔵前さんの自室とやらが二階にあったが、これも本来は客室として用意されたものを利用している、ということであった。

 林檎森邸は二階建てだったが、箱が二つ重なったような構造ではなく、所謂いわゆるけの構造をしていた。私たちが食事会をおこなった大広間は、林檎森邸のほぼ中心に位置していた。そしてその大広間は、天井てんじょうからぶら下がる飾電灯シャンデリアによって照らされていた。

 私は寝る前に、用意された浴衣ゆかたに着替えていた。いや、これは浴衣ではなく、法衣ローブのようなものだった。海外映画で見るような、風呂上がりに着る、真っ白な法衣ローブだ。

 着替えるのは億劫おっくうだったが——車中での会話や食事会を通して、すっかり蔵前さんとも、洋介さんや美咲さんとも打ち解けられた気がするが——流石さすが寝間着ねまき姿で外に出るわけにも行かない。私はとりあえず小振袖こふりそでに着替えて、客室に備え付けてあった小さな鏡台きょうだいで身なりをととのえ、ようやく部屋を出た。

 部屋を出ると、目の前には手摺てすりがあり、その先には広い空間と、飾電灯シャンデリアがぶら下がっているのが見えた。ちょっとした回廊かいろうである。手摺から身を乗り出して階下を見てみると、既に朝食の用意が進められているようだった。昨晩遅くに帰って行った家政婦たちが、既に出勤しているようだ。だが、林檎森一族の姿はなく、家政婦が一人と、蔵前さんがいるだけだった。

「ああ、折櫛おりくし様、おはようございます」

「おはようございます、蔵前さん」

 紅茶のかぐわしいかおりがただよっていた。

「まだ朝食の準備が整っておりませんが、良ければどうぞ」

 階下の蔵前さんに誘われ、私は階段を降りる。階段は大広間に繋がっていたので、私は実のところ、この大広間と客室以外、まだ林檎森邸をほとんど把握していなかった。あとは、かわやと家風呂くらいか。いや、屋敷に入る際に、正面玄関と廊下を経由したような気はするが——ほとんど記憶に残っていない。とにかく、調度品が多く、英国趣味であるという印象があるくらいだ。

 私は一足先に、昨日最初に座ったのと同じ、下座しもざについた。私が席に座ると、蔵前さんが紅茶の準備をしてくれた。

「皆さんは……」

「洋介様は昨晩のお酒のせいか、まだお休みになっております。花長様は、高小こうしょうへお送り致しました」

「朝が早いのですね。送迎そうげいは蔵前さんが?」

「左様でございます」

「それは……大変ですね。ちゃんと眠れていますか?」

「私一人では、朝食の用意も出来ませんから。羽柴はしば——調理を担当されている家政婦のことですが、彼女を迎えに行くついでですので、むしろ楽をさせていただいております」

 話の途中で、私の耳に、かすかな旋律せんりつが聞こえてきた。ピアノの音である。

「この音楽は——美咲さんが?」

「ええ。美咲様はこの時間、毎朝ピアノの練習をしております」

 美咲さんは、朝食の支度したくなどはしないらしい。聞く人によっては、家事かじもしない主婦しゅふなどごくつぶしもいいところだが——美咲さんの性格からして、家事をのではなく、のだろうという気がした。美咲さんが全ての家事をこなせば、家政婦が職を失うことになる。雇用を生み出すために、金のある家はお手伝いを雇うのだという話を聞いたことがあった。富裕層ふゆうそうにも色々あることを知っていたので、私には特に感じるところはなかった。

 微かに聞こえる優雅なピアノの旋律を聴きながら、私は朝から紅茶などという洒落た飲み物を飲んでいた。本当に、貴族きぞくにでもなったような気分だった。途中、家政婦——羽柴さん、という名前らしい——と顔を合わせる機会があったので、何か手伝おうかと申し出たが、当然のように断られた。

「お客様にお手伝いなんてさせたらあんた、馘首かくしゅされちまいますよ」

 この羽柴さんという人は、随分ずいぶんと気のいいご婦人だった。林檎森邸の中にいながら、どうにも私と似た、田舎者らしい雰囲気をただよわせていた。馬が合いそうだったのでもっと話していたかったが、客人である手前——というか、仕事で来ている手前——大人しくしている方が都合がよさそうだと踏んで、私は静かに、朝食を待っていた。

 八時頃になって、美咲さんが大広間にやってきた。

「おはようございます、折櫛さん」

「おはようございます」

 今朝けさは、美咲さんは簡略的な浴衣ゆかた姿であった。とは言え、やはりどこか気品が漂っている。昨晩とは違い、美咲さんは私の左隣にある席に座った。

「本日はよろしくお願い致しますね」

 突然言われ、何のことかと思ったが——恐らく仕事のことだろう。かと言って、私からその話題を話すわけにも行かなかったので、反射的に話題をらすことにした。

「美咲さんは本日は、何をされるご予定なんですか?」

「今日は——そうね、朝食を食べ終えたら、お風呂に入って、顔をやって、お着替え」

「どこかにお出かけされるんですか?」

「ええ、そうなの。今日はおちゃかいがあるのよ」美咲さんは少しだけ、くだけた口調になっていた。「面倒ですけどね、あとで支度したくしなくちゃ。最近、暑くなってきたでしょう? もう、着物の鬱陶うっとうしいったら……洋服はあれは機能的でいいのよ、本当に」

 話してみると——美咲さんも案外、接しやすい人だということがわかっていた。見た目の綺麗さや、控えめな性格から、なんだか遠い世界の人、という印象を持っていたけれど——ひとばん話してみると、中身は普通なんだ、という安心感みたいなものをおぼえていた。

 外見こそは特殊だが、中身はごくごく普通の——もちろん、富裕層特有の特異さはあれど——三十代の女性だった。

外交がいこうも大切なお仕事でございますので」

 美咲さんに紅茶を持って来ながら、蔵前さんが言う。

「ええ、わかってるわ……」

「美咲様は、周辺のご婦人にちょうはなよと持てはやされるので、外交が苦手でいらっしゃいまして」

 蔵前さんは、私にくばせしながら言った。ろうかいな婦人たちからすれば、美咲さんのような——花長くんの年齢を考えると、三十台後半くらいだろうか——歳のわりおさなく見える人は、恰好かっこう餌食えじきだろう。私にも似たような経験がある。親族の集まりに顔を出せば、散々さんざんいじり倒されるのである。若い女はいつも、そういう役回りなのである。

「あの人たちはね、私のことを、今でも二十かそこらの小娘だと思っているのよ。自分の年齢を数えればわかりそうなものでしょうに」

「あのご婦人たちは、歳を取りませんからな」

 蔵前さんは微笑ほほえみながら、冗談を口にする。

「本当なら、折櫛さんを連れて行きたいくらい。歳の割にしっかりしてらっしゃるし……私のわりに、いじめられてくれないかしら? がいれば、あの人たちも私なんか気にしなくなるでしょうし——」

「あはは……」

 私は曖昧あいまいに微笑んだ。そういう場には慣れていたが、自ら進んで墓には入りたくない。

「折櫛様には、洋介様との大切な商談がございますので。諦めてください」

「そうね……はあ、気が重いわ」

 美咲さんの人間のようなものを見るにつけ、私は美咲さんに親近感を覚え、それと引き換えに、げんそう的な美しさを失っていく感覚におそわれた。もちろん、それは悲しい話ではない。とても、喜ばしいことだった。

 私と美咲さんは、あいもないことを話しながら、テーブルの上に朝食が載るのをただ待っていた。自分で用意せずとも朝餉あさげが並ぶなど、まるで貴族かと思うようなたいぐうだ。

 新潟を経って、大凡おおよそ、丸一日以上が過ぎていた。

 林檎森邸に来てからは、約半日。

 私はすっかり非現実的な生活に感化され、流されやすい性格も相まって、この生活こそが私にとっての本当の人生なのではないか——などと思い込めるほど、この場に馴染んでいる自覚があった。

 優雅な旋律を聴き、英国の茶を飲み、美しき女性と、紳士的な男性と軽口を叩く。

 なんとも清々すがすがしく、澄んだ時間だった。

 これから命をうばうなどとは思えぬほど——清々しい朝だった。


「意外と、しょみん的な感覚を持っているんだね」

 三月さんが割って入った。

「美咲さんですか?」

「うん。もっと——しんそうれいじょうというか、そういうのを想像していた。びょうじゃくそうな見た目で、本を読んで、ピアノを演奏するというから——もくなのかと思っていたよ。でも考えてみれば、彼女は嫁入りなのかな? となると、生まれは別に、金持ちの家というわけでもないのかもしれないね。例えば、林檎森の農園で働いていた家族の娘とか」

「詳しいことは聞いてませんけれども——まあ、そうですね。うちべんけいというと違うかもしれませんけれども、人見知り、なんですかね。一度打ち解けてからは、はい、社交的というか、むしろお喋りな人でした」

「ふうん。呪いが解ける感覚だな」

「さっき言っていた、因果のことですか」

「まあそれに近い。いや、得てしてそういうものだけどね。逆にそうやって、会話による人間性のあくおこたると——どうしても、しんせいしてしまうのが人間というものだ」

「神聖視、ですか」

「あるいはでんせつかな。まあいい。とにかくその日は、美咲も花長も外出していて——洋介と蔵前、それになんとかいう家政婦しか、敷地内にはいなかった、ということか」

「そうですね。あとはもう一人、忌子がいました」

「ああそうだった。つまり、意図的に二人がいない時間を狙ったわけだ」

「はい、恐らく。しばらくして洋介さんが起きていらして、朝食を食べて——そして美咲さんが九時頃に家を出て行って——私たちはいよいよ、忌子についての話し合いを始めることになりました」


 美咲さんは、徒歩で出かけて行った。茶会が行われる場所までは、一時間ほど掛かるらしい。

 送迎もなくて大変だ——と思ったが、冷静に考えるとそれが普通である。林檎森の生活を受けて、私はどうにも、車での送迎を当たり前に感じている節があった。

 ここにいると、どうも感覚が鈍くなる。

 家政婦の羽柴さんはこれからあらゆる布という布を洗って干し、だだっ広い屋敷を掃除して、昼食の支度に入るとのことだった。私はと言えば、蔵前さんに案内されるまま——おうせつしつに通されていた。その名にじぬ、ごうしゃ調ちょうひんに囲まれた部屋である。今度はコーヒーが振る舞われた。私は数分間、一人で残されていた。次に戸が開いた時には、洋介さんと蔵前さんが、二人同時に現れた。

 いつになっても、仕事を始める段になると、緊張するものだ。

 蔵前さんは朝から変わらず、紳士ぜんとした恰好をしていた。一方、寝間着姿で朝食を食べていた洋介さんは、いつの間にか、もんつきおりはかまに着替えていた。しっかりとしたうまのりはかまである。それだけ、洋介さんにとって——いては林檎森家にとって、重要な仕事という意識があるのだろう。

 それも当然か。自分の子を殺す、という依頼なのだから。

「いや、お待たせして申し訳ない。すっかり服がちぢんだようで、着替えに手間取りましてな」と、洋介さんは冗談を口にする。

「いえ、とんでもありません」

 私はにこりともせず、げんかくな口調で応じた。

「いやいや……ええと、どこまで話をしているんだったかな」

 洋介さんが私の対面に座ると、蔵前さんも、その横に腰掛けた。主従関係がありながら、昨晩もそうだったが——洋介さんと蔵前さんは、どこか特別な親密性を感じる部分が多くあった。

がいようはお話しておりますが、詳細については、洋介様と一緒にお話した方がよろしいと思い——」

「そうかそうか。じゃあなんだ、繰り返しになるかもしれませんが、ううん、頭から話そう」

「よろしくお願い致します」

「簡単に言えば——我々がと呼んどりますのは、まあ大体お分かりかと思いますが……私と妻の子です。いわゆる、長女ですな。花長よりも二歳ばかり上だから……」

「今年で十五歳になります」

「十五歳」

 私は驚いた。

 てっきり——忌子というくらいだから、産まれたばかりか、そうでなくとも、であると思っていたのだ。だが、美咲さんの様子を考えれば、産まれたばかりということはあるまい。稚児を放って酒盛り、などという文化は、どこの世界でも聞いたことがない。

 それに、美咲さんはどう見ても、産後すぐという雰囲気でもなかった。

 だが普通——という表現が正しいかはわからないが、忌子——あるいはを殺してくれという依頼の大半は、が対象である。けいと呼ばれる、例えば指が一本多いとか、例えば片腕がないとか、例えば片目だとか、普通の——よくある、人間としての形から外れた、身体の一部が多かったり少なかったり、〝人間〟という生物の許容範囲をいつだつしたかたちの子は、生まれた時点で、そうとわかる。

 それが十五歳となると——話が別であった。

 否、別段、だからと言って、仕事が出来ないわけではないのだけれども。

 すっかり赤子を相手取ると思っていただけに、私は驚いていた。

「忌子が——十五年間、生き長らえたのですか」

 ながらえたのであれば、それはもう、忌子ではないのではないか。

 奇形児を殺してくれと依頼してくる親の大半の願いは、子が何も知らぬうちに、その命をつぶしてしまいたいというものだ。もちろん全ての親がそうではない。あるいは、片方の親が勝手に依頼をしてきて、実際その家に行ってみれば、母親はがんとしてゆずらないということもある。そういう場合は、もちろん殺さない。だが、子の将来を考え、自分たちの生活を考え——奇形児を育てられぬと判断した家庭に、手を差し伸べることはある。

 奇形児の大半は、通常の子よりも、長くは生きられない。

 それにしたって、死んでしまうまでは育てなければならない。

 放置して、死ぬのを待つなど出来ないのだから。

 仮に死ぬまで待つとしても、そのかんの生活はどうしたって発生する。子に食べさせてやらなければならない。世話をしてやらなければならない。いつかは死んでしまう子を守らなければならない。その間は、働くことも出来ない。稼ぎも減る一方である。

 ならば、殺すのもし——ということだって、ある。

 我々退たいは、どうとく的ではない。そうあってはならない。人はこうあるべし、親はこうあるべし——などというたいめいぶんかかげるようなことはしない。我々が見ているのは、ではない。そういう意味では、などしていたとしても、それを何ら咎めたりはしない。個人個人に生き方があり、事情があり、理由がある。それらを親身になってき、家庭の事情をり、総合的な判断を下す者である。

 ただ子育てが面倒だから殺してくれと言われても、当然だが、殺すわけにはいかない。子がさいだから殺してくれと言われても、当たり前のように、おかどちがいだと言って突き返す。しかしながら、生活にこんきゅうし、育てる余裕もなく、育ったところで生活の支えにならないと思えるような子であれば——だんちょうの思いで、殺してくれとわれた場合には——殺すこともある。

 そういう判断を下すのだ。

 だが——今回の件はどうだ。

 、生き長らえた子を、今更殺してくれなどというのは——どういうりょうけんだ。

「いやあもちろん、我々も生まれた時には大変に悩みました。その……忌子、まあ我が子をそう呼ぶのも何ですが——ちと、生まれつきのしょうがいがある。がいてきな障害です」

「外的と言うと、けっそん——ですか?」

「いえいえ、たいまんぞくで、まあおおよそ人間らしい形はしているんですが……なんて言えばいいんでしょうなぁ。私は医学に明るくなくて」

 洋介さんは一瞬、悩んだ様子を見せたが、すぐに私に向き直り、

「まあたんとうちょくにゅうに言えば、が——あかいんですわ」

 紅い。

 眼が紅い。

こうさいの異常、ですか」

「とか言いましたかね。まあ、科学の時代にこんなことを言うのもなんですが——産まれてすぐの娘の目を見た時にね、私は思いました。こりゃおにだって」と、洋介さんはしょうした。「自分の子ながら、ああ、とんでもない子が生まれた、と思った。もう、十五年も昔の話ですからね、今更どうとも思わんですが——その当時はそりゃ驚いた。そんで、この子は人前に出しちゃいかんと思いました。紅い眼をした赤子なんて、聞いたことがない。その禍々まがまがしさと来たら、とてもじゃないが冷静でいられなかった。私はすぐに、娘を隠したんです。これを人に見られちゃまずい、と思ってね」

 鬼、という言葉に、私はや汗をかいた。人間に対してべっしょうを使うのは、元を辿れば、異国人に対するねんから発生したものだという説もある。それを、隣に本物の異国人である蔵前さんがいるというのに口にするのだから、内心、あせった。

 だが、蔵前さんは意に介した様子もなく——

「そこで、我々は忌子をとして扱うことにしました」

 と、補足を口にした。

 流石さすがに十五年も経っているのだから、彼らにとっては今更なのか。

 まるで、世間話でもしているような、ふくのなさだった。

「……確かに、赤目の人は珍しいですね。でも、世の中にいないこともないでしょう。目の色が違うくらいであれば、その——」

 私は、蔵前さんをちらと見る。

 初めて会った時から、彼はずっと色眼鏡サングラスをしているので、実際にはどんな色をしているのかわからなかったが——異国人である蔵前さんは、虹彩が黒でない可能性が高い、と思った。

 そんな私の意図を汲んだのか、蔵前さんはそっと、

 その目は——へきがんだった。

「折櫛様の仰る通り、瞳に色が付いているからと言って、珍しい生物、というわけではありません。私のような普通の人間にも、そうした特徴は現れます。日本という国においては珍しいことですが、母国ぼこくでは普通のことです」

「あ……すみません。失礼致しました」

「いえ、お気遣いありがとうございます」蔵前さんは、また色眼鏡を掛ける。「それに、生物界にはという先天性のしっかんがあり、これの該当者にも、赤目が現れると聞きおよんでおります。ですから、自体が珍しいということはないのでしょう。それは、我々も、忌子が生まれた際に——随分と調べましたから、知っております」

 、という言葉にはみがなかったが、恐らくそれは、しらしょうのことを言っているのだろう。色素細胞の不足によって、肌や体毛は白くなり、目は赤かったり、青かったり、灰色だったり——人によりけりだが、大抵は黒以外の色をしている。

 私も実際に、白子症の子どもを見たことがあった。過去に、の殺害依頼を受けたためである。だが——殺さなかった。殺すほどのことではない、とその時は判断したのだ。私は殺さず、白子症の子を持ち、通常通りに育てている人を紹介し、人と人とを繋ぐにとどめたことがある。自分だけでないとわかれば、許容出来ることは山ほどある。苦悩を分かち合うことで、人と人は手を取り合える。子殺しを依頼するほど追い詰められた親たちも、自分らと同じ苦悩を抱き、それでも生きている人たちを見れば——生きる希望に出会える。

 だが——

「しかし、忌子は目以外は、普通でした」

 普通、、と蔵前さんは言った。

「特に、髪の色が」蔵前さんの言葉を、洋介さんが引き継いだ。「どう考えても、美咲の娘だ。顔も美咲に似て、育つにつれ、美人になった。私はほとんど、顔を合わせないようにしとるが——私には似ずに綺麗に育っているらしい」

 らしい、というのが気になった。私はほとんど反射的に、蔵前さんを見る。

「忌子の世話は、私がせんにんされております。屋敷で住まわせるわけにも行かず、かと言って目の届かぬところで育てるわけにもいきませんから、この十五年間、ほとんどの世話は、私ひとりが行っておりました。羽柴を筆頭に、家政婦たちもこのことは知りません。昔に長女が生まれたことは知っておりますが、、と説明しております。つまり——忌子の存在を知っているのは、洋介様と美咲様、そして私の、三人だけでございました」

 ——

 どうも、言葉の端々はしばしから、異様な雰囲気が感じられる。

「ここまでのお話で、折櫛様は、何故十五年も生きた忌子の殺害——いえ、退などしてくるのかと、しんに思われたかもしれません。そこは、申し訳ありません。ごようしゃ下さい。というのも……今から忌子とお会いいただきたいのですが、その際、、無視していただきたかったのです。そこは、今回の件とは関係がないと……先にご説明しておきたかったのです」

「無視、ですか」

「つまりね、折櫛先生……」と、説明が洋介さんに戻る。「我々は、赤目で生まれてきた鬼子を、誰にも見せちゃいけないと思った。しかしね、殺すわけにもいかないと思ったんですわ。さてそいじゃどうするかってんで考えた。当然、普通に家の中に置いて育てるわけにもいかない。これでも、その……なんでしょうな、金がありますんで。何かあると、すぐにんですわ。だから、誰にも気付かれないようにしなきゃならんかった」

 というのは、あくひょうが立つ、ということだろう。確かに有り得そうだ。

 長女が赤目をしていれば——


 


 なんてふうひょうがいが起こらないとも、限らない。

「だからね、家の中には上げずに、敷地の中で、ひっそりと生かすことに決めました。もしかしたら、将来的に、忌子が普通に暮らせるような世界になるかもしれない。だから待とうと。くどいようですが、金があったんでね——そういう選択が出来た。私たちはね、幸運でした」

 なんとなく、話が見えてきた。もちろん、いまだに、私が忌子を殺すよう依頼された理由についてはわかっていなかったが——忌子がどうして、十五歳になるまで生かされたのかについては、理解が出来た。心のどこかで、自分の子を殺させようとする林檎森一族を、冷たい人間なのだと感じていたが——無論、それが全てではないが——今にしてみると、彼らには確かに、愛情があったのだとわかる。

 確かに、殺すわけにはいかない。

 かと言って、外に出すわけにもいかない。

 来客のある屋敷の中でかくまうわけにもいかないだろう。

 理屈はわかる、と、私は判断した。その判断こそがきもである。

「その忌子は——今は、どちらに」

「農園の外れの方にある、土蔵つちぐらにおります」と、蔵前さんは言った。「今はろうきゅうして使えない——ことに、なっています。だから誰も近付きませんし、中に入ろうともしない。取り壊すのが手間だから、放置してあるのだということに、なっております」

「なるほど」

 敷地の広い林檎森だからこそ出来るあらわざと言える。新しい蔵があって、もあって、そもそもが巨大な林檎森邸もあるのだから、古い蔵がひとつ放置されていたところで、誰も不審に思わないのだろう。

「だけどなぁ……まあ、悪いことが起きた」

 洋介さんは、苦悩の表情を浮かべて、深く溜息をついた。

「悪いこと、というと」

「花長が——昨日紹介しましたな、息子ですが……その蔵に忍び込んだんです」

 それの何が問題なのだろうと、私は一瞬、意味を理解しかねた。その私の反応を見てか、蔵前さんが補足する。

「つまりですね、花長様は、忌子の存在を知らされていなかったのです」

「あ……そういうこと、ですか」

 確かに言われてみればそういうことなのだろう。花長くんが産まれる前に、忌子は存在していた。だが、産まれた瞬間から、忌子は土蔵に閉じ込められたということになる。そしてその後は、として処理された。

 であれば——花長くんは、実に十数年の間、実の姉の存在を知らずに生きてきたことになる。

を掛けて悪いのが、愚息ぐそくのやつが、その……ううん、申し訳ない。折櫛先生みたいに、若い女性の前で言うのもはばかられるんだけどね」

「いえ、お気になさらず。仕事ですから」

「その、なんだ……まあ、花長も年頃なんでしょうな」

 年頃。

 なんの年頃だ。

 嫌な予感がする。

「まあその、蔵に忍び込んだら、そこには見知らぬ娘がひとり、娘と言っても十五歳かそこらですからね、それなりに育ってる。しかも世間はおろか、ぜんあくの区別も付かんようなのが、無抵抗でそこにいるわけです。で、魔が差したのか、悪意に目覚めたんだか——とにかく、花長のやつはね、あろうことか……自分の姉を、ごうかんしたんです」

 仕事ですから、などと言っておいて、私はひどく——けんかんを示した。

 なんということだ。

 つまり花長くんは——実の姉を、襲ったというのか。

「正確には、すいでございました」と、蔵前さんが補足した。「衣類ははだけ、忌子は一糸いっしまとわぬ姿となっておりましたが——まだ、最悪の事態にはなっていませんでした。そこで私が気付き、花長様を押さえ込みました。それが、去年のまつごろのことでございます」

 約半年前だ。

 昨晩の時点では、この家にそのような事件が起きていたなどとは思えぬほど——家族関係は、正常だったように思う。

「それから私たちは、色々考えたんです。花長に事実を話して口止めするか、やっぱり忌子は生まれた時に殺すべきだったんだから、今更かもしれないけど、殺すか。あるいはどこか別の場所にやってしまうか。もういっそ、花長の好きにさせるかとも考えました。そりゃあもう長いこと考えました。考えて考えて、考え抜いて——ほとほと、疲れましてね……」洋介さんは、心底へいした様子だった。「私はもう色々考えるうちに、完全にまいっちまいまして。しばらくはもう、酒びたりになって、松の内はもう毎晩のようにでいすい状態になって、もうどうにでもなれ! ってね、思っていたんです」

「その後、一度身体を壊されて、春先に洋介様は入院なさいました。元来、あまり酒に強い体質ではないんですが、飲まずにはいられなかったようでして」

「何も考えたくなかったんだ、私は」

 なるほど、医者に酒を止められているというのは、これにたんはっしているらしい。

「それでね、入院すると、また色々と考えてしまうわけですな——ずっと寝るわけにもいかんし、隠れて酒を飲むわけにもいかん。結局、忌子のこと、花長のこと、延いてはこの家のことを考えて——最終的に、折櫛先生に依頼をしたっちゅうわけです。どうもそれ以外に、私なんかじゃ、解決策が思い浮かばなんだ」

 私は——私は、何も言えなかった。

 花長くんをきびしくりっするべきだと言いたい気持ちもあった。だが、じゃあそれでどうなるのだろう。あの女は誰だ、土蔵にいた女は誰だと、花長くんに問い詰められて——秘密にするわけにはいかない。。一生、おおせるわけもない。正直に、お前には実の姉がいて、その姉がであるから、隠しているのだ。だからお前も触るな、こうげんするなと——果たして言えるだろうか。

 言ったところで、それと引き換えに姉を好きにさせろと言われたら?

 うっかり、外部に口をすべらせたら?

 その心配は、忌子が生存する限り、付いて回る。

 かと言って、忌子を手の届かぬ場所に飛ばし、その先で同じようにりょうじょくされるのでは、やっていることが同じだ。だったらかくまい続けるしかない。しかし花長くんは知ってしまった。花長くんを信じることでしか、この話は解決を見ない。だからと言って、そもそもにして、、そんな息子を信用しろというのは、無理な話だろう。

 いくら分別のつかぬ子どもとは言え、無抵抗の人間を襲うなど、犯罪である。

 洋介さんの苦悩は、理解出来る。

 あるいは忌子を好きにさせる代わりに、口外するなと言うのだろうか。いくら忌子だの鬼子だのと言ったところで、まじわれば子をす。十五歳なら、もうそうした機能がそなわっているはずだ。そうして産まれた子は、ならばどうすればいいと言うのだ。また土蔵で匿うのか。それを、一生続けるのか? 土蔵がいっぱいになるまで、花長が飽きるまで、それを繰り返せば済むのか。

 ——済むはずがない。

 確かにこれは、どこかで断ち切らなければならない話だ。

「もしかすると、より良い解決策があるのかもしれません」と、蔵前さんは静かに発言する。「しかし、土蔵の錠前を付け替えたり、数を増やしたりとしていますが——花長様の侵入は終わりが見えません。中にこそ入ってはいないようですが、たまに、鍵を開けようとした形跡が見られます。本当にしゅうねんぶかいのです。いつか間違いが起こるやもしれません。もしそうなれば、花長様には、実の姉を強姦したという事実が残る。忌子が姉だということを、未だに花長様は知りませんから。というか——正確には、花長様は、洋介様がこの件をご存じなことも、存じ上げません」

「えっと、つまり……蔵前さんにしか知られていない、と思っている……」

「左様でございます。花長様も引け目があるのか、秘密にしておられます。私にも何も尋ねて参りません。あの一件は、今のところ——になっています。付け加えるなら——美咲様においては、そもそも、この事件をご存じではありません」

 ああ、なんという最悪の展開だろう。

 もちろん、気持ちはわかる。花長くんの暴走をとがめた蔵前さんは、洋介さんにそのことを話した。主従関係にある以上、報告の義務はあるのだろう。そもそも、一人で抱え込むわけにはいかなかったのかもしれない。しかし、蔵前さんも洋介さんも、美咲さんにはそれを話せなかった。自分の娘が、自分の息子に、おかされそうになったなどと——美咲さんが知ったら、はっきょうしてしまいそうだ。

 あるいは洋介さん自身、蔵前さんからの報告を聞いて、発狂したのかもしれない。だからせめて、美咲さんには知られたくなかった。酒乱しゅらんになってまで隠し通したのは、むしろ凄まじい精神力と言える。酔って口を滑らせることもなかったということだ。よほどの精神力——否、酔うことなど出来なかったのかもしれない。

 そうぜつな苦悩があったのだろう。

「でも——すみません、申し上げてもよろしいでしょうか」

「ええ、どうぞどうぞ。何なりと仰ってください」

「失礼を承知でお伺いしますが……忌子を殺してしまったら、美咲さんは、不審に思われるのではありませんか? それに、花長くんも……」

「それについては——聞こえは悪いですが、計画的に事を進めております」と、蔵前さんは言う。「最近、忌子の調子が悪いということを、美咲様には事前にお伝えしております。三ヶ月ほど前からでしょうか……流行はやりやまいかもしれないから、土蔵にはきょくりょく近付かぬように、ともお伝えしております」

「普段、美咲さんは……蔵には入られないんですか?」

「いえそんなことはないです」洋介さんが言った。「私はもう、数年近く忌子を見ていませんが……美咲——妻はそれでも、割とひんぱんに出入りしとりますな。まあ言うてその、娘ですからな。女にしかわからんことも、ありますでしょう」

 確かに、世話役をしている蔵前さんは男性である。加えて、忌子は既に十五歳だという。相応の対応が必要だが、蔵前さんがさっこんげっけいたいの事情に詳しいとは思えない。調べればわかることなのかもしれないが——そもそも美咲さんにしてみても、娘の身体を執事に触らせるのは忍びないのかもしれない。

 私が呼ばれたのはそういう理由わけなのだろうか? と、少しだけ考えた。

 蔵前さんは、女の退魔師が必要だと言っていた。否——

「今年に入ってからは、月に一、二度入られますが——これもばんぜんしております。花長様の目もございますから、出来るだけ深夜に。とにかく、もし折櫛様の方でとの判断が出来るようであれば——今日にでも決行いただき、数日のちに、美咲様へはおしらせするつもりです。そうですね、一週間後にでも——、とお伝えしようかと」

「死んだ時期をずらして伝える、と?」

「ええ。折櫛様が来た途端に死んだとなれば、美咲様も何かかんるでしょう。それに——折櫛様と美咲様は、どうも会話がはずんでいたようですから……折櫛様に疑いの目を向けるのも、しのびないですし」

 蔵前さんも、洋介さんも、ちんつうおもちであった。

 多分、色々と考えたのだろう。

 考えて考えて考えて——考え抜いたのだろう。

 その結果、この判断が一番であると、合意したのだろう。

「——わかりました」

 私はうなずいた。

 殺す判断は——まだ出来ない。少なくとも、忌子を見るまでは。

 だが、二人の気持ちは、充分に理解出来たつもりだった。果たして、忌子は、忌子である。話を聞く限りでは——まわしい存在だ。そして同時に、これは退魔師の

 忌子はただ、生かされているだけだ。

 罪を犯したわけでもなく、

 罰を受けるべきでもない。

 罪があると言うなら、忌子の存在を秘匿ひとくした洋介さん、美咲さん、蔵前さんの三人に——そして、姉を強姦しようとした花長くんにある。

 忌子には何の罪もない。

 ただ——うんにも、産まれてしまった。そして、関わってしまった。彼女に罪はない。だが、殺した方が——将来に続くせんを断ち切れるのかもしれない。

 このような場合は、ほうに頼るわけにもいかない。

 この問題を、法はきっと解決してくれない。

 だからと言って、自らの手で、忌子を殺すわけにもいかない。

 少なくとも今時点で——私は、だと、理解することが出来た。

 もつれたゆがみの原因を断ち切ることで——多くの人間が救われる。

 そのための、退魔である。

 だけで周囲を不幸たらしめる存在は——既に人間ではなく、だ。

「ではまず、忌子と対面させてください。ですが、その場ですぐに、判断が出来るわけではありません。もしかすると、数日——私も、考えることになるかもしれませんが、よろしいですか?」

「ええ、ええそりゃもう、もちろんです」洋介さんは、応接間にあった背の低いテーブルに両手を突いて、頭を下げた。「ありがとうございます! 私らは、とんでもない依頼をしているんじゃないかと、内心、おびえておりました。親失格だと。そんなことを言うなら、産まれた我が子を蔵に閉じ込めるなんざ、その時点で親失格ですが——止むに止まれぬ事情なのです」

「お顔を上げてください。大丈夫です。我々に依頼を下さる方々は——皆さん、同じように、とても悩んでおられます。自分は間違っているのかもしれないと思いながら、ご依頼されます。ですから、洋介さんたちは、おかしなことを言ってはいません」

「ありがとうございます。本当に……ありがとうございます。時間が掛かるのは、ええ、当然、結構でございます。何日滞在いただいても構いません。殺さずに済む妙案がもし思い浮かぶなら、それもまた良し——ああ、とにかく、一度めんどおししましょう。美咲は、帰りは午後と言ったかな」

「はい。ですが、お帰りの際はお迎えに上がりますとお伝えしておりますので——ひとりで戻られることはないかと」

「そうか。じゃあ、安心だな。早速——蔵に行こう」

 洋介さんは随分と、心持ちが明るくなっているようだった。気がこうようしている——というより、あんしたのだろう。つまり、張り詰めていたのだ。そこに、私のこうていが加わり、ゆるされたような気持ちになったのかもしれない。

 きっと、蔵前さんと二人で、とても悩んだに違いない。

 彼には彼なりの情と道徳があって、家族を守ろうとしているのだ。


「なるほど」

 三月さんは、ぽつりと感想をこぼした。

「どうかされましたか」

「いや、そういう珍しい依頼もあるのだな、と思っただけだ」三月さんは腕組みをして、ソファに深く座り直した。「二重にじゅうなわけだね——しかし、花長というのもなかなかの逸材だね。自分の姉に欲情するとは。まあ、知らないんだから仕方ないか」

「そうですねえ……まあ、人の性への欲求は、様々ですからね」

「綺麗な女が蔵の中にいて、人目がなければ、そうなることもあるか」

 三月さんは頬を掻きながら、視線を明後日の方向へ向ける。

 自分にはわからないが、わかろうとしている、というような表情だ。

「それに、僕も直流とほとんど同意見だ。客観きゃっかんすると、やはり実の娘を殺そうなどというのは、じんどうに反するように思える。だが、その選択が正しいようにも思える。ただでさえ、忌子は林檎森家にとって悩みの種であったのだろう。だというのに、十五年間、育て続けたわけだ。それだけでも、大したものだよ。そして今回、じゅうの決断をしたわけだ。うん。僕は彼らを責める気にはなれない」

「ええ、私もです。花長くんの将来や、美咲さんの気持ちや——自分たちに降りかかる重圧、それに林檎森家というもの自体、様々なかっとうの末に、そう決断したのかと」

「しかし——」

 三月さんは私に、にらみ付けるような視線を向けた。

「忌子は、死んでいないんだね」

「はい……そうです」

「まあいいか。続きを聞くよ。ようやく、忌子との対面になるわけだ」


 洋介さんと蔵前さん、そして私の三人は、林檎森邸から外に出た。

 私は念のため、刀を差していた。『ゆめまつり』というめいの刀で、正式にはたいようとうという種類だった。だが、れいりょくだのようりょくだのがあるのかはさだかではない。私の師匠筋に当たる、つまり三月さんの父上からたまわったものだった。

 刀を差しているからといって、すぐに殺すつもりはない。

 むしろ形式上のものである。

 これは、退魔師の正装のようなものだ。

 退魔師として、忌子とあいたいする。そのために、刀は必要だった。

 明るいうちに見るは、やはりとてつもない広さだった。視界のほとんどが木々におおわれて、やはり敷地の端が見えない。

「あそこに見える、やや背の高いのが、土蔵でございます」

 見ると、林檎の木々の間から、人工物が覗いていた。おにがわらには、洋介さんが来ている紋付に入っているのと同じ、林檎森のもんと思われるものがかたどられている。屋根の下には少しだけ、白漆喰しっくいの壁が見える。

 木々をって森を分け入っていくと、明らかな林道があった。日常的に使われ、踏み固められた道だ。そこを抜けると、くらまえが見えた。私はそれを意識してようやく、蔵前さんの名前の由来ゆらいを知ったような気がした。もともとが異国人なのだ、生まれついて、蔵前という姓を持っていたわけではあるまい。あるいは彼は、忌子の世話をするために——この地に残ったのだろうか。

 観音かんのんとびらは、鎖とじょうまえによってじょうされていた。蔵前さんは、それを慣れた手付きでかいじょうしていく。鍵を開けると、下戸しもと——観音扉の左半分だけを開けて、さらにその中にある網戸あみどもうけられた鍵穴に、別の鍵を差し込んだ。

「準備が整いました。では、折櫛様——どうぞ」

「あ、ありがとうございます。えっと……皆さんは」

「後ろであれこれと言うのも、お仕事の邪魔になるかと思います。私たちは外で……」言いながら、蔵前さんは洋介さんを見る。「よろしいでしょうか」

「ああ、もちろんだ。折櫛先生、よろしくお願いします」

 他人の家の蔵に勝手に入るのも気が咎めたが——だからと言って、一緒に入ってくださいとごうじょうを張るのも何か違う気がする。仕方がないので、私は一人で、蔵の中に入ることにした。

 蔵の中は——暗闇だった。

 否、目が慣れていないだけで——ある程度の明るさはあった。二階部分にはこうまどそなわっていて、そこから光が入り込んでいた。

 蔵は、外側から見ると土蔵然としていたが、中に入ると、しきぐらのようだとわかった。たたみきで、そこまで粗末ではない。あるいは、私が普段暮らしている家と、ほとんどそんしょくないようにも見える。

 そんな座敷の中央に——た。 

 忌子だ。

 座っている——というより、四肢ししなげうって、顔を格子窓に向けている。私の位置からは、後頭部しか見えない。その後頭部が——逆光ぎゃっこうによってかげになった後頭部が、美咲さんのおもかげを感じさせるほどに、くろぐろとしていた。

「……こんにちは」

 私は忌子に対して、話しかける。会話が通じないとは思えなかった。多分、蔵前さんや美咲さんによって、日常会話くらいは習得しているのだろう、という期待があった。私の声に反応して、忌子は少しだけ、顔を横にずらす。聞き慣れない声を、聞き分けたのかもしれない。

 そしてゆっくりと、立ち上がる。

 浴衣ゆかたに身を包んでいた。

 汚くはない。むしろ、せいけつな浴衣だった。逆光の中でもそれがわかる。しゅうもない。ここは、ろうではなかった。忌子に与えられた、彼女の部屋だ。

 忌子は立ち上がり、ゆっくりとした動作で——振り返った。

 細長い。

 背丈は——私とあまり変わらない、ように見える。肉付きの悪い、薄っぺらい身体だったが——それでも、立派に女の体付きをしていた。

 四肢は細く、色白だ。

 美咲さんのような、病弱そうな白さではない。

 かといって、白子症のように、色素の欠けた白さでもない。

 ただ、明確に、肌の白さが際立っていた。

 対比するように、髪は黒々としていて——長く伸びた髪は、胸の下まで伸びている。

 その髪質は、嘘のように重力に従っていて、うねりもなく、まるで日本人形のようだ。

 だが、眼だけがあかい。

 逆光において尚、その眼の異様なまでの、私は見て取った。

 眼から光がれているようですらある。

 威圧感のある、硝子ガラスだまのような、大きな瞳。

 

 どうこうは黒い。

 いや——そんなさいなことは、どうでもよかった。忌子が、忌子足らんとしているのは、ではない。そのために、私はわざわざ説明を受けた。これはだから、このは、無関係なのだ。忌子を形成する部品のひとつひとつなど、正直に言って、取るに足りない、まつな問題でしかなかった。

 髪が黒かろうが、

 眼が紅かろうが、

 肌が白かろうが、

 腕が細かろうが、

 脚が長かろうが、

 背が高かろうが、

 全てがどうでもいい。

 どうでもよかった。

 にも関わらず、その全てが集合して、忌子を形成している。

 私は忌子を見た瞬間に——忌子に

「こんにちは」

 感情の起伏のない、表情のないかおで、忌子はしゃべった。

 そして私は思い知った。

 

 ——私は今までに、美人を形容するための、人形のようだとか、のようだとか、てんにょだ、がみだ、てん使だ——などと、様々な表現を聞いたことがあった。書物で、口頭で、それらを聞いては、しかしどれだけ美人が美人めいていたにせよ、そこには生活があって、人間性があって、いずれは年老いて死んで行くような、生命としてのかせがあるのだと、私はどこかでしんこうしていた。

 いくら美しくとも、女神は言い過ぎだと思っていた。

 何故なら人間だからだ。

 天使でも、天女でもない。

 何故なら人間だからだ。

 だが、忌子を見てわかった。

 

 こういう存在——つまり、の者は、

 私は途端に、忌まわしくなった。雑事がすべて、つまり、自分を取り巻く人生の凡てが雑事に思えて、

 だから、

 目の前の、

 以外が一瞬のうちに、雑事に思えて、それらが凡て、鬱陶しく、忌まわしくなった。

 

 だから——本物のとは、でるものでも、たっとぶものでも、ましてや持てはやすものでもないのだということを、私は理解した。

 ただ見ているだけでは、

 満足出来ないのだ。

 

 

 本物の美とは、

 そういう、

 独占的な感情を巻き起こすものであることを——私は知った。

「あなたは、だれ?」

 私は息をするのも忘れていた。忌子が次の言葉をつむぐまで、言葉を失っていた。

 そしてようやく出来た呼吸は、ほとんど、いきぎのようだった。

 音が出るほど、大きく息を吸い込んだ。

 しかし視線は、目の前にあるに、奪われたままだった。

 のものとは思えない。

 これは、彼岸ひがんの生き物だ。

 そりゃあ、花長くんもくるう——と、そう思った。

 ああ、ただ眼が紅いからだけではない。

 最初はそうだったとしても——育ってしまった今、この子を外に出すことなんて出来やしないだろう。

 眼が紅いことなど、まつなことだ。

 無視していい。

 当初は鬼子として産まれ、本当のだったのかもしれないが——成長するに従い、忌み子は忌み子足る理由を凌駕りょうがした。

 だから、眼が紅いことなど、もはやどうでもよかった。

 そんなことどうでもいいくらい——この子は、美しい。

 より一層いっそう、私は、洋介さんと蔵前さんの想いを理解した。

 この美しさを、このを——外に出して、壊すなんてことは、出来やしない。

 この美に対して出来ることは、保存と破壊の、ふたつだけである。

 一生眺めていたいような気さえする。

 これ以上見てはいけないような気もする。

 あいきょうもない。うれいもない。

 刹那せつなそうでも、かなしそうでもない。

 ひんもなく、だかさもない。

 忌子の顔には、何もない。

 ただ、美しいだけだ。

「ねえ、あなたは、だあれ?」

 私は何も言えず、

 また、

 呼吸を忘れていたのか、

 頭が、

 真っ白になった。

 そして、

 その場にひざまずき、

 くずれ落ちた。

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