2——「忌子を殺していただきたいのですが——」

忌子いみこを殺していただきたいのですが——」

 七月に入ってすぐの頃、私の家に、そんな不穏ふおんな電話が掛かってきた。

 もちろん、私の職業を考えれば、それは不穏ではないし、不当ふとうでもない。あまりに順当な電話ではあったのだけれども——開口一番、「忌子を殺していただきたい」というのは、不躾ぶしつけもいいところであった。

 もちろんそんな感情はおくびにも出さず、私は第一印象こそ衝撃的だったものの、話してみると案外あんがい、言葉遣いの丁寧な——多少なまりを感じたが——その依頼人に対して、必要事項を確認することになった。

 場所はどこか。

 対象は何か。

 対象は暴力的か。

 緊急性の高い案件か。

 報酬金はいくらになるか——などなど、である。

 総括すると、長野ながの県の南信なんしん地方にある、下伊那しもいなぐん林檎森りんごもりという土地が舞台である。殺すべき対象はが一人、非常に大人しく危険性はない。故に緊急性もないが、出来れば早めが望ましい、ということだった。この辺までは、まあよくある話と言える。

 違ったのは報酬金の異様さだ。、と依頼人は言った。続けて、報酬とは別に、私の移動に掛かる全ての諸経費を持ち、つ制限を設けず、長野駅から林檎森の最寄もより駅までは、とまで言った。人力車ではなく、である。それを聞くだけでも、相手がどれほどの富豪ふごうかというのは想像がついた。

 いい話が来た、と内心、心がおどった。もちろんそんな感情もおくびにも出さずに、私は予定を確認する振りをして——向こう三ヶ月、予定などひとつもないのだが——二日後に約束を取り付け、仕事に向かうことになったのである。


「忌子という存在を、ご存じですか」

 私はそこで一旦話を止めて、三月みつきさんに問うた。

「僕もそれが気になった。これはどちらのなまりもある言い方だから、意味をはかりかねるけど……殺してくれというくらいだから、いんの言葉なんだろうね。つまりようの意味での忌子いむこ——神への奉仕ほうしを行う、忌子いむこ、あるいは斎子いむことも書くけれど——」と言いながら、三月さんは紙片を手繰たぐり寄せて漢字を書いた。「——これとは違う、本来の発音で言えば、にごる方の、陰の意味の『』のことを指しているんだろうね」

「ご認識の通りです」

「なんだその気持ち悪い言い方は」

 と、三月さんは不服そうに言った。

 どうやら、私が丁寧な言葉遣いをするのがいやらしい。

 思春期頃には敬語も使わずに接していたのだし、確かに今更だろうが——すぐに昔通りに戻れるほど、私は器用ではなかった。

「……私も気になって、電話越しに意味を確認しましたが、確かにを指して忌子いみこと呼称しているそうです。方言というか、地方特有の言い方なんじゃないでしょうか。まあ、方言ならというのは逆な気もしますから、違いますかね?」

「濁るばかりが方言じゃないから、直流すぐるの言う、方言という意見はまとているよ。そういう概念的な存在の呼び方は、地域によって変わるのが常だからね。例えば雪女ゆきおんなにしてみたって、こう……『雪女ゆきおんな』とか『雪女ゆきめ』と呼べば、白い襦袢じゅばんを着た美しい女の幽霊、という感じがするけれど、南の方では『雪婆ゆきんば』と言って老婆ろうばを指すこともある。忌子も似たようなものじゃないかな。とは言え、というのはすなわち、別物とも言えるけどね」

「それは、『忌子いみこ』と『』では、厳密には別の存在だということですか?」

「いやあ、まだわからない。けど、名前なんて所詮しょせん分別ぶんべつのための記号だ。そもそもこれは概念的なことだからね。『』にしてみたところで、それが指す存在は必ずしも同一ではない。と考えれば、最初から別の存在——と考えた方がいい。便宜的に、『忌子いみこ』という呼称を使っているに過ぎないのだろう。単に、、というだけなんじゃないのかな」

 私は、ここに来るまでの間に考えていた、関内かんないだの、桜木町さくらぎちょうだのという地名の概念性について考えていた。地名はある一帯いったいを指すが、それぞれがる空間は、厳密には違うのと同じことだろう。

 つまり忌子いみこというのは、なるほど、狭い範囲での、共通概念なわけだ。

「……とにかく、三月さんと共通認識が持てたところで話を進めますね」

「いや、もうひとつ確認したい。そんな法外な——そもそも我々の仕事が合法かと言うと微妙なところだが——報酬を約束するなら、それなりの理由があるんじゃないのか」

「ええ、ありました。、という約束です」

「今、しているじゃないか。それに、我々の業界じゃあ、守秘義務しゅひぎむは当然だろう」

「いえ……ただの守秘義務ではなく、相手が誰であろうと——、私から率先そっせんして仕事の話をするな——という約束でした。もちろん、林檎森家の方々にも、です」

「ふうん……少し妙だ。であれば尚更、僕に言うべきじゃない」

「その理由はあとで話します。覚えていればですが」

「忘れていたら、僕からこう」

「わかりました。では、続けますね」


 二日後、私はいつもの仕事道具を持って、仕事用の服を着て、長野駅を目指した。

 仕事道具というのは、忌子を殺すための退魔たいまの刀である。仕事用の服というのは、本来であれば喪服もふく羽織はおりはかまというのが累屋かさねやの伝統であったが——私の場合は小振袖こふりそでを選ぶことが多かった。

 そもそもがめずらしい女性の退魔師たいましであり、私が未婚というのもあって、正装をしようとするとどうしても小振袖が正しくなってしまう。もちろん、馬鹿みたいに派手なの着物ではなく、控えめで落ち着いた色合いを選ぶ。長野に向かう際も、つる意匠いしょうが入った藍色の振袖を選んだ。これも結構、った。

 累屋かさねや本家には伝統があり、信頼もあるが、私自身は一介いっかいの若輩者である。だから、先祖せんぞの名を汚さぬ仕事をしなければならない。と同時に——、という点を加味かみして、見た目には必要以上に気をつかう必要があった。男社会で生きる女は、人一倍、身なりに気をくばる必要がある。

 もちろん、殺しを依頼する側からすれば、処刑人の服装など気にしないと言われそうなものだが——それは、女がをした上で行われる、社交辞令のようなものだ。これで私が黒紋付くろもんつきを着て仏頂面ぶっちょうづらげて仕事に行けば、女のくせに愛想あいそがない、と言われるのがせきの山である。

 とにかく私はそれなりの格好で長野駅へ向かい、そこで依頼人と落ち合った。

 依頼人は、燕尾服えんびふくを着た、長身の紳士——それはまごうことなく、紳士ジェントルマンであった。

「お初にお目に掛かります。この度はご足労いただきありがとうございました。林檎森家の執事をしております、蔵前くらまえ居守いもりと申します。これからまた数時間掛けて、林檎森ていへご案内させていただきますので——せまい車中ではございますが、ごゆっくりおくつろぎいただければ幸いです」

 紛うことなき紳士。

 そう、つまり、外国人であった。

 電話口で感じた独特どくとくなまりは、なるほど、異国人いこくじん特有とくゆうのものであったらしい。

 白髪がじり始めたばかりの頭髪とうはつは綺麗にで付けられていて、青色の色眼鏡サングラスをしていた。整った服装もさることながら、白手袋までめる徹底ぶりだった。想像でしか思いえがいたことのない紳士、である。私は面を食らいながらも、それなりの経験によって身に付けた社交性を充分に発揮はっきし、自己紹介をした。


「直流は、なんて自己紹介するんだい」

「そこは別にいいじゃないですか」

「直流が独り立ちしてから、仕事ぶりを拝見はいけんしたことはなかったからね。お爺さんみたいに、『越後えちご累屋かさねやと申します』とでも名乗るのかな」

「別に普通ですよ、私は。屋号やごうも名乗りませんし」

「ふうん。まあいいか、続けてくれ」


 自己紹介を終えた私は、案内されるがままに車に乗った。いわゆる脱兎号ダットと呼ばれる国産車だ。過去に一度だけ、林檎森家と似たような富裕層から仕事を頼まれた際に乗ったことがあったが——それよりもずっと新しく、手入れがされているように見えた。馬力ばりきも多少は上がっているのだろうが……とは言え、超長距離を移動するためにわざわざ車で移動などというのは、少しと言えた。

 私がそのことを——もちろん異常などという言葉は使わずに——尋ねると、蔵前と名乗る紳士は人当たりの良い笑みを浮かべながら、

「我々もご依頼するにあたり、折櫛おりくし様のご職業について調べさせていただきました。なんでも、全国に六名のみ——存在しているとか。北は北海道ほっかいどう、南は九州きゅうしゅう、ですか。あとは四国しこくと、京都きょうと——新潟にいがたと、神奈川かながわにいらっしゃるとか」

 と言った。まったく答えになっていない。

「ご存じいただいているようで、恐縮きょうしゅくです」

「とんでもない。失礼ながら、今回の件でどうしても適任者を選ぶ必要がありましたので、色々と綿密めんみつに調査させていただきました。その中で——どうも我が家には、折櫛様が適任かと判断いたしました」

 綿密に——というのは、どの程度を指すのだろう。

 少なくとも今現在、退魔師たいましと認識される人間が全国に六人しかいないというのは、正しい。そしてこれは、実は簡単に調べられるようなことではない。おこりを考えれば当然のことだが、我々、退魔師を名乗る連中は、自然発生的に生まれている。協会きょうかいがあるわけでもないし、何らかの機関きかんに登録されているわけでもない。

 そもそも、恐らく、歴史には残らない。

 残してはいけないたぐいの存在である。

 だから、一口ひとくち調と言っても、調べようがないのが実情だ。

 であれば——それなりの対価を支払い、全国各地から情報を仕入れた、のだろうか。

 だとしても、簡単な話ではない。うわさ駆使くしし、手紙を利用し、電話を掛けて——それでも確証に至ることもない、地道な調査だ。何せ、どこにも答えが書いていないのだから。

 だというのに、六人という人数を把握はあくしている。

 ちょっといやだな……と、素直に思った。

「あのう、失礼でなければ、私が適任であった判断基準を伺ってもよろしいですか? ……後学こうがくのために」

「もちろん、前評判が素晴らしかったというのが一番の理由ですが——」これは多分嘘だろう。「女性であることと、土地が近かったことが決め手となりました」そして、こちらが本音と思われる。

 女性であることが有利に働く場面とは何だろう? と私は考える。

 性別を理由に断られることはあっても、逆は今まで、経験がなかった。

 何しろ、殺害が終着点の仕事だ。力仕事なのだから、女よりは男の方が頼りになると思われるのが普通だろう。

 そもそも退魔師とは——乱暴な言い方をすれば、ただの処刑人だ。

 しかしながら、法治ほうち国家であるこの日本国において、殺人は罪である。如何いかなる理由があろうと、利己的りこてきに人の命を奪う行為は——ゆるされないし、ゆるされてはいけない。もちろん、常に人の目が見張っているわけでもなければ、証拠だのなんだのというものも曖昧あいまいな時代の中で、さらに言えば家ぐるみ、村ぐるみで隠蔽いんぺいすることも可能なわけだから、法が絶対とは言えないし、完璧に機能しているとは言いがたい。

 法には穴がある。むしろ穴だらけだ。

 法でさばけぬ人間はいる。法が及ばぬ土地もある。

 法の裁きを待っていたら——取り返しの付かないことになる事案は、いくらでもある。

 

 法を犯さずに、あるいは法に見つからぬように悪事を働く人間は——生かしておくべきではない。単に、違法行為で金をもうけるだとか、仕事を有利に進めるだとか、その程度であれば生かしておいてもいいのかもしれないけれども、それによって他の多くの人生が浮き沈みするような——ていに言えば、不幸になるような存在は、殺さねばならない。

 というか、殺すしか解決策がない。

 他人に迷惑ばかりかけ、不幸ばかり降りかけ、何の役にも立たず、、死ぬべきとは言わぬまでも、生きているべきではない——と思える者を、我々は殺す。殺してもとがめられない。いや、やはりここの言い方は微妙なところだ。

 自分一人の力でも、寄り集まった力でも太刀たちち出来ず、どうすることも出来なくなった人間を、どうにかしようとする最後の審判しんぱんが——我々、退魔師なのだ。

 言わば、抑止力よくしりょくである。

 あるいは、駆け込み寺のようなものとも言える。

 子を働かせて自分は酒ばかり飲む親、金を得るために子を売り物にする親。あるいは親に暴力を振るう子、親の稼ぎで飯を食い働かぬ子。生活苦なのに何の役にも立たず存在する老人。障害をって利益を生み出せなくなり、本人も家族も死を望む者。産まれながらの奇形児きけいじ。風習に嫌われた双子ふたご不貞ふていによって産まれた子——などなど、合法的な対策も打てず、かと言って逃げ出すことも出来ず、途方に暮れた者から我々に声が掛かる。

 主に家族関係の依頼が多い。

 殺すべきだが、殺せない。死んで欲しいが、殺せない。

 そんな彼らを援助して、力を貸して、助けてやることは難しい。全ての人間を平等に助けることなど、不可能だ。法に出来ないことを、我々一個人が出来るはずもない。

 だが、それで万事ばんじ上手うまく行くということも、世の中にはある。

 そうした罪を肩代わりして、世の中に秩序ちつじょもたらすのが、我々の仕事である。

 まあもちろん、これではまるで、退魔師という存在は違法者の集まりのように聞こえるが……これは違法行為ではない。もちろん合法でもない。世界の片隅かたすみで、。公的に記録されることもなく、表立っての宣伝せんでんもしない。古来こらいから続く、うわさ口伝くでんでのみ継続する職業である。正確に言えば職業とさえ認められていない。

 脈々みゃくみゃくと受け継がれる、人類の最終手段、みたいなものである。

 もっとも——昨今では法的機関の整備が行き届き始め、依頼が減り始めているというのが現状ではあるのだが。

 それはひとえに、法や情報伝達手段の発達のせいだろう。

 とにかく、そんな立ち位置の我々だから、人を殺すのが仕事だった。そのため、仕事道具として必ず日本刀を所持している。正式名称ではないのだが、見た目からして単なる日本刀だ。日本では明治の初め頃に発布はっぷされた廃刀令はいとうれい以降、帯刀たいとうは違法と見做みなされているのだが——軍人や警察官の帯刀が認められているのとは厳密には違うものの、我々退魔師の帯刀は、。合法でもないが、違法でもない。

 うん。

 まあ、なんだろう。

 なんだかややこしく話してしまったけれども——とにかく、退魔師というのは法の外にいて、だから日常的に帯刀をしていても通報されないし、仮に通報されたとしても、おとがめなしとされる、そんな集団であるという説明である。

 それでも時代の流れとともに、周囲からの視線は冷ややかなものになっている。だから正直言って、長野駅からわざわざ自動車で送迎されるというのは、ありがたいことだった。話の結論は、つまりここだ。

 私は車中の世間話せけんばなし程度に、そんなふうに退魔師の成り立ちや、帯刀の黙認について話していた。別にこれらは、話すことを禁止されているわけでもない。そもそも、我々退魔師には、秘密にするべきことなど何一つない。こちらが秘密にしてしまえば、それこそ違法集団になってしまう。我々は門扉もんぴひろげているからこそ、なんとか周囲に許されている。法外ほうがいの存在なのだ。法外の存在に、人権じんけんはない。

 無論、私、という人間には人権があるが——退魔師という肩書かたがきには存在しないものだ。

 だからわざわざ、信頼を得る目的もあって、べらべらとこちらから話していたのだけれど、蔵前さんは話す前からすでにそのことを知っていたらしい。綿密な調査とやらは、言葉通り、綿密であったようだ。

 それでも蔵前さんは「そんなことは知っています」などという下品なことは言わず、私の説明を一通り聞き終えてから、

「そうした世間の目もあるかと思い、長野駅からの道中はお車でお送りしようと思った次第です。大きなお世話かとも思いましたが、ご本人様からそのようなお話が聞けて……安心しました。ああもちろん、恩を売るつもりなどありません」

 と言った。

 つまり、道中、一時間か二時間掛けてようやく、

「どうして自動車など出してくれたのか」

 という私の最初の問いに対し、

「帯刀して電車に乗るのは窮屈きゅうくつでしょう」

 という答えが返ってきた、という話である。

 金の余裕は心の余裕、とはよく言ったものだ。私は蔵前さんの厚意に感謝し、そのような気遣いが出来る林檎森家に対して、好印象を持ったわけだ。


「いや、それは違う気がするな」

 と、私の説明をさえぎって、三月さんが言う。

「何が違うんですか! いい話だったでしょう!」

「いい話なのは確かだけどね、額面がくめんどおりに受け取るわけにはいかない。話を聞く限りの印象だから微妙なところだけど、なんだかその蔵前という人物の言葉には、言外げんがい意図いとが多すぎるように思う。要するにね、執事が車を出したのは、直流のことをおもんぱかったからではなく、林檎森邸に帯刀した人間が——つまり退魔師が出入りするのを見られたくなかったからじゃないのかな」

 言われてはっとした。

 流れるように生き、流されるままに生きてきた私である。

 正直言って、そのことに今の今まで思い至っていなかった。

「……そうなんでしょうか? 私はすっかり、優しい方々なんだと、思い込んでいましたが……」

「いやあ、もしかしたらそうかもしれない。僕が考えすぎという可能性は多いにある。でも、そういう可能性もあるだろう? いや——その可能性の方が高いんじゃないかな」

 自分では割と思慮深い方だと思っているのだけれども……言われてみれば、その方が理由としてはしっくりくる。というか、三月さんに言われると、そうとしか思えなくなる。

 自分の悪い癖だ。

 自信を持って言われると、すぐに信じてしまうのだ。

「長野駅があるのは……確か、善光寺ぜんこうじのある北信だろう。一方で、林檎森とやらがあるのは南信だという。となると、わざわざ車で信濃しなの縦断じゅうだんすることになるわけだ。いくら自動車とは言え、かなりの長旅になったんじゃないか。あそこは山も多いから、迂回うかいにも相当な時間が掛かるはずだ」

「朝一に新潟にいがたを出て、昼頃に長野駅に着きましたが——林檎森邸に着いたのは、その日の夜ですね」

「だろうね。電車ならもう少し早く着くだろうから、そこまでして退魔師に気を遣うとは思えない。それに——本当に気を遣うなら、越後まで迎えを出すのが礼儀だろう。そのくらいの資金はありそうに思える。だから、どうも中途半端だなあ、という印象いんしょうだよ」三月さんは短い頭髪をむしりながら、不愉快そうな表情をする。「まあいいや、先を聞けばわかるんだろう。話を止めて悪かった」

「……もしかして、私の前評判が良かったとか、女だからとか、そういう理由も全部でっち上げで——単に、私の拠点きょてんが近くて、私が騙しやすそうだから、選ばれたんでしょうか。女なら騙しやすいと思われたとか……?」

「いやいや……流石にそこに嘘はないんじゃないか。まあ……紫狂島むらさきくるいじまと直流の二択なら、僕が依頼人でも直流を選ぶだろうから、人選については深く考える必要はないと思うよ。まあ、女を選んだ理由というのは、気になるけどね」

 紫狂島というのは、下の名前を紅古べにこという、六人いる退魔師のうち、私と同様に女系の退魔師だ。まあ、正確に言えば退魔師ではなく、祈祷師きとうしに分類される家系らしい。かんなぎだのおがだの口寄くちよせだの陰陽師おんみょうじだのと、呼び名は様々であるが、昨今——と言っても二世代前くらいかららしいが——はそうした職業が体系化されたのも手伝って、退魔師のひとりとして数えられている。

 まあ、今は関係のない話だ。

 今はというか、この件には、紅古さんはあまり関わってこない。

「女を選んだ理由というのも、説明はあったんだろう?」

「ええ、今話しておきましょうか? 翌日聞いたんですが——」

「いや、あったことを時系列に沿って話してくれればいい」と、三月さんは食い気味に言った。「順序がないと、話にならない。むしろ、順序こそが話の本質と言える」

「そうですか? では……時系列通りに話しますね」

「うん。ああ、ちなみに……仕事と関係がなければ、道中の詳細な説明はいらないからね。余計なところは飛ばしてほしい」

「途中で美味しいお蕎麦を食べたとか——美味しいお焼きを食べたとかは、不要ですか? ちなみに、あんこの入ったお焼きでした」

「そう、よかったね。今聞いたからもう充分だ。じゃあ、続きを話してくれ」


 前述の通り、私が蔵前さんの運転によって林檎森家の敷地に到着した頃には、すっかり夜になっていた。

 とは言えそれは体感的な供述きょうじゅつになるから、十二じゅうに進法しんほうのっとって言えば、午後九時少し前、である。昼頃に長野駅に着いていたので、実に九時間近い移動時間となったわけだ。無論、平地へいちを直線距離で移動すれば、同じ県内なのだから、三時間や四時間で辿り着いたのかもしれないが——悪路あくろぐ悪路、右に曲がり左に曲がり、山をのぼり谷をくだり、途中で昼食ちゅうしょくを食べたり、甘味を食べたり、休憩をしたり、甘味を食べたり、用を足したり、甘味を食べたりしていたので——そのくらいの時間が掛かった。

「まずは林檎森家の皆様とご対面いただき、その後、お部屋に案内させていただきます。お疲れの所とは存じますが、何卒なにとぞ容赦ようしゃください」

 正直に言ってまったく疲れていなかったし、私がしていたことと言えば、車の椅子を着物越しに尻でみがいていただけだ。しかして「全然疲れていません」とわけのわからないことを言うほど私も世間知らずではない。

「蔵前さんこそ、長時間の運転でお疲れじゃありませんか?」

「いえいえ、頻繁ひんぱんに休憩に誘導ゆうどうしてくださったおかげで、まったく」蔵前さんは柔和にゅうわな笑みを浮かべた。「それより、そのお荷物ですが——」

 蔵前さんは、降りようとする私を制止する。

「荷物が……どうかされましたか?」

「こちらでお運び致します」

 私が持っている荷物と言えば、日本刀と、小さな旅行鞄だけである。

 旅行鞄と言っても、中に入っているのは衣類と化粧道具くらいなものである。事前に、寝間着や一通りの生活用品は揃っていると聞いていたから、かなり簡略化かんりゃくかしていた。わざわざ運んでもらうほどの大荷物ではない。

「このくらいでしたら、一人で運べますので。お気遣いありがとうございます」

「いえ、失礼でなければ……どうかそのままで」

 再度荷物を持って降りようとする私を、蔵前さんはまた引き留めた。尻が限界だったので早く立って背伸びでもしたかったのだが、私はここでしばらく足止めを食らうことになった。

「いえ、ですが……」

「お客様にそんなことをさせては、私が叱られてしまいます」

 蔵前さんは困ったような表情をして、少し笑った。

 なるほど、執事という仕事も色々大変なのだろう。

 私にも身に覚えがある。例えるなら、嫁入り後にしゅうとめを手伝わないようなものだろうか。姑がいくら「手伝わなくていい」と言っても、それでも手伝わなければ非難ひなんされるのが女の人生である。執事にも、似たような人生があるのかもしれない。

 まあ、私は独身なのでそんな経験をしたことはないのだけれども。

 弱い立場の人間というのは、往々おうおうにして、そうした社交辞令しゃこうじれいに悩まされるものだ。

 ここで私が意固地いこじになるのは、蔵前さんにとっては不利益ふりえきなのだ。

「もちろん、貴重品を手放すのが心配ということでしたら……先に、お荷物を持ってお部屋にご案内するという手もございます。しかしながら、当家の人間を待たせている手前もありますので、出来れば……」

 電話越しでも車中でも、かなり自己主張の少なかった蔵前さんがここまで言うとなると、ゆずる気はないのだな、と思った。

 刀を手放すというのは少々気になったが、私の愛刀は、さやつばの部分に南京錠なんきんじょうを掛けた、特殊な加工をほどしてあった。数字を合わせて解錠する類の、独立した鍵のらない錠前じょうまえである。つまり、暗証あんしょう番号を知らなければ、抜刀ばっとう出来ぬ仕様になっている。

 なので、他者の手に渡ったところで凶器きょうきには成り得ない。荷物にもほとんど貴重品は入っていなかったから、結局私は、ここでも厚意に甘えることにした。他者の厚意は、断る理由がない限り甘えた方が都合が良い。特に私のようなは、下手へたに断ると心象が悪くなる、という別の因果いんがも持っているのだ。雁字がんじがらめである。

「本当によろしいんですか……? ご迷惑じゃありませんか?」

「とんでもございません。慣れたものです」

「ありがとうございます。まるで来賓らいひんにでもなったような気持ちです」

 などとしおらしいことを言って、板に付いてきた作り笑いを浮かべる。

「折櫛様はその通り、来賓でございますから。さ、どうぞ、足下にお気を付けて」

 私は駐車場——と呼ぶには粗末そまつな、単に草花のれた区画——に降り立った。

 そして——

 そして、林檎森の全貌ぜんぼうを見た。

 いや——全貌など、と言うべきだ。

 私には普段から、車窓しゃそうながめる趣味がない。移動中はほとんど視線をどこかに固定しているし、話し相手がいれば相手を眺めていることが多い。本当にどうしようもなく立ちかなくなったら、初めて車窓を眺めるくらいだ。だから、長野駅から林檎森への道中も、この林檎森家の敷地に入ってからも、ほとんど外を見ていなかった。

 だから、降りる段になってようやく、自分のいる土地を見た。

 いや、見たというより、

 広大な、あまりに広大な————

 もちろん夜中だったから、全てを見通せたわけではない。だから当然、全貌など見られるはずもない。しかし、人家——林檎森てい——と、いくつかの建物があることと、その人家が発する光によってうすらぼんやりと照らされた数々の、

 

 

 かろうじて、認識することが出来た。

 やはりどれくらい広い敷地なのか、一見しても全くわからない。つまり、。恐らく林檎森邸が敷地の中心にあるのだろうけれども、周囲はほとんど、林檎の木がしげっている。いや逆か。林檎の木が生い茂る土地に——名前通り、、人家が建っている。

「……すごいですね」

 車を降りた私が、その光景に圧倒されてなんとも粗末な感想を口にするも、蔵前は意に介さず「こちらでございます」と、私を人家に案内した。


「つまり、農家なのかな」と、三月さんが口を挟む。

「いえ——元々はそうだったらしいですが、今は……なんて言うんでしょう? 地主って言うんですかね? それともおろしでしょうか。とにかく、自分でうごいてはたらくというのではなく、書類を見たり、数字を書き換えたりする仕事みたいです」

「管理者といったところか。じゃあ、浩平こうへいみたいなもんだな」

 三月さんは、まだ帰ってこない、このビルの持ち主の名前を出した。

 浩平さんは『新蘭戯あららぎ相談所』の所長という肩書かたがきの他に『新蘭戯工務店』の社長という顔も持っているので、確かに似たような立ち位置かもしれない。むしろ社長業の方が本業だろうか。つまりは副業ふくぎょうをするために大都会に持ちビルを持っているくらいなのだから、裕福さで言えば似たような——あるいは少しすぐれたくらいの立ち位置だろう。

 ただし、林檎森家の方が、土地の広さと屋敷の大きさから見て、人々が思い描く『富豪ふごう』に近い気がする。

 都会の雑居ざっきょビルと田舎の豪邸ごうていでは——後者の方が、

 まあ、貧乏者の一意見に過ぎないのだけれども。

「その時点で、建物たてものはいくつあったか確認出来たかい? 農家なら、倉庫みたいなものがあるだろう。離れがあってもおかしくないな。いや……まあいいか。聞けばわかることだし。忘れてくれ」

「どうして建物が気になるんですか?」

 私は気になって聞いてみる。何故なら、その倉庫というのが、今回の物語のだからだ。

「また、当てずっぽうですか?」

「今回は経験上の推察すいさつだよ。まあでも、順序が大事だと言ったのは僕だから、聞かないことにする。話の腰を折って悪かった。続けてくれ」

「そうですか? じゃあ……続けますけれども」


 少し挨拶をする程度だと思っていたが、私が招待されたのは、あろうことか食事会であった。

 十人は座れそうな広さの長方形ちょうほうけいのテーブルだった。私はそこの、恐らく下座しもざに座らされることになった。ずっと遠くの上座かみざ、テーブルの、私とは反対側の短辺たんぺんに座るのは、まだ若い——それこそ、三月さんと同じくらいに見える——男性だった。若いが、どことなく威圧感がある。恐らくはこの家のあるじだろう、ということが見て取れた。

 男性の右手側には、綺麗で物静かな女性が座っている。日本的な美人で、つややかな黒髪が印象的だった。白いワンピースを着ている。遠目に見るだけでも、白糸しろいとによる刺繍ししゅうが光を反射させ、かすかな陰影いんえいを作っていた。その対面には、すずしげな目をした少年が座っている。彼らの子どもだろう。彼も身なりが良く、利発りはつそうな顔つきだった。だが、余所者よそものの私が気になるのか、何度も視線を送ってきていた。

 まだ誰も、一言も発していない。

 否、蔵前さんだけが、我々の行動を制御していた。

「乾杯用のグラスをお持ち致します。折櫛様は、アルコールは苦手でしょうか」

「あるこーる」鸚鵡おうむ返しに言って、酒を意味していることを理解する。「ああ、ええ……まあ、飲めないこともありません」

「左様でございますか。せっかくですから、ご用意させていただきます」

 何がせっかくなのかはわからなかったが、依頼人の厚意を無碍むげにするわけにも行かず、私は大人しく蔵前さんの提案を受けることにした。私の視線の先では、侍女じじょによって、料理が運ばれてきている。いや——立場的なことを考えれば、あれは家政婦とか、お手伝いというやわらかい表現の方が似合っているかもしれない。あるじうやまう態度でこそあったが、その関係性は、家族に近しいように思えた。距離が近いというのか、遠慮えんりょがないというのか。長年、この家につかえているように見受けられる。

 そういう意味では、蔵前さんも似たようなものだろう。家の内部を知り尽くしているような、洗練された動きをしているのが印象的だった。

「こちらはシードルという種類のアルコールで、シャンパンのようなものです。乾杯用に是非。もちろん、お口に合うようでしたら、遠慮えんりょなくお申し付けください。文字通り、

 私の席でも、蔵前さんによって、細長い硝子ガラス製の器に黄金色の液体が満たされていく。炭酸飲料のようでもあるし、麦酒ビールのようでもある。これでもそれなりに、女の身一つで世間と渡り合ってきた私であるので、酒はいける口だった。

 私はほどそそがれた黄金の液体と、目の前に並べられた料理を見比べ——とにかく、今はもう仕事についてもこの家についても、何も考えないことに努めた。

 単にお腹がすいていた、というのが正直なところだ。

 かなり豪華な料理が並んでいたのである。

 流れるように生きるのが私だ。

 仮にそれがのだとしても——知ったことじゃない。

 名前のせいだ。

 直流という名前が全部悪い。私のせいじゃない。

 私はそんな風に自分を正当化して、今日は何も考えないことに決めたのだった。

「んん!」

 大きな咳払いが聞こえた。発信源はっしんげんは、目の前の主だった。

「えー……遠いところをわざわざご足労いただき、ありがとうございます。本日のゲストは、新潟からお越し頂いた——」

「折櫛様です」

 いつの間にか主の隣に立っていた蔵前さんが、小声で耳打ちをした。ただ、小声と言っても一帯が静まりかえっているので、私の耳にも充分に届いた。

「折櫛さん。今回は依頼を受けていただいて、ありがとうございます。ささやかではありますが、うたげを用意させていただきました。今日はお疲れでしょうから、仕事の話は抜きにして——存分に、食事や酒を楽しんで下さい」

 そしてあろうことか、その主は私に向かって——頭を下げた。

 富豪のおさが、小娘こむすめに向かって頭を下げている。

 反射的に、私は立ち上がる。

「こ、こちらこそお招きいただき……いやっ、私にご依頼いただきまして、ありがとうございます。若輩者ではありますが、精一杯務めさせていただきますので、何卒なにとぞよろしくお願い申し上げます」

 四者の視線が、一斉いっせいに私に向く。家政婦は——もう、いないようだった。

「ああ、折櫛さん、どうかお座りください。我々はそんな、大した者ではありませんから。どうか、楽にしてください。こんな言い方は失礼かもしれませんが——お話をうかがう限り、貴女あなたのような人の方が、我々よりもよほどご立派でいらっしゃる。なあ居守いもり

左様さようでございますね」と、蔵前さんが同調どうちょうする。

滅相めっそうもございません……」

「とにかく——そうだな、せっかくだし、最初は立って乾杯しましょう」

 私が依然いぜんとして座る素振りを見せなかったせいか、主は立ち上がった。釣られるようにして、音もなく、両隣の女性と子どもも立ち上がる。

「そう言えば、紹介が遅れてしまいましたな。私は林檎森家の当主、林檎森洋介ようすけと申します。こっちは妻の美咲みさき

 紹介された女性——美咲さんは、私を一瞥いちべつすると、人当たりの良い笑顔を浮かべてから、「よろしくお願い致します」と言って、ゆっくりと一礼いちれいした。私はまた反射的に、大振おおぶりな礼をする。

「そしてこちらが、愚息ぐそく花長かちょうです。今年で——十三歳になったんだったかな」

「まだ十二歳だよ」花長と呼ばれた少年は、起伏きふくのない声で言った。「はじめまして。林檎森花長です」

「は、はじめまして……折櫛直流と申します」

「居守の紹介はもういいな。じゃあ、乾杯しよう。何に乾杯するのかわからんが……とにかく、我々は貴女を歓迎します。どうか一つ、よろしくお願いします」

 それぞれがはいかかげたので、私もそれに合わせ——遠く離れたテーブルの隅で、一人、杯を掲げた。硝子ガラスを打ち付け合って音を鳴らすような風習はないようだった。遠く離れた洋介さんが、一気に杯をからにしたので、私もそれにならい、シードルとやらをあおった。清々すがすがしいような、甘ったるいような、どことなく林檎の風味が香る——今までに飲んだことのない種類の酒だった。

「さあ、食事にしましょう。貴女のお話も是非ぜひお伺いしたい。新潟のご出身ということだから、同じ雪国育ちでしょう」洋介さんは席に座りながら、酒を飲んで気を良くしたのか、急に友好的な笑みを見せた。「海沿いですか? こちらは湿気が少なくて過ごしやすいでしょう……」


「忌子はその場にはいなかったんだね」

 話が一段落いちだんらくするのを見計らって、三月さんが言う。

「ええ、結局その日は、見ることも出来ませんでした」

「今の段階だと、登場人物は——洋介、美咲、花長、蔵前、そして家政婦くらいだった。家政婦は一人?」

「いえ、二人いらっしゃいました。私たちが食事を始めてすぐ、蔵前さんが彼女たちを家まで送ると言って、わざわざご挨拶に来てくださいました。住み込みではなかったようです」

「となると、蔵前という男は住み込みというわけだ。ふむ……」三月さんは考え込んでから、煙草を取り出して、火をけずにくわえた。「一度、ここで話を整理しようか」

「まだ、忌子が登場していませんが」

「この時点でも、不可解な点が山ほどある。まあ直流の話を聞いているだけだから、実際のところどうなのかっていうのはわからないけどね。それにしても、細部を聞かなくても感じる違和感というのが、いくつもあった」

「そうですか? ……この時点では私は、別に、何も不思議じゃありませんでしたけれども」

「夕飯にしては遅い」

 三月さんは言って、ようやく火を点ける。

 それはまあ、私も感じていたことだ。

 だが、それほど気にはしていなかった。夕飯が遅かったのは、私たちの到着が遅かったからである。何も、日常的にその時間に夕飯を食べているわけではないだろう。

「とは言っても、九時を過ぎていたんだろう? 育ちざかりの子どもがいる家庭で、そんなに遅くに夕食を取るかな。翌日が休みというならまだわかるが……もしかして、土曜日の夜だったのかな? あるいは、旗日はたび——祝日しゅくじつの前日とか」

「いえ……確か、水曜日だったと思います。翌日も、平日ひらびです」

「それじゃ余計におかしい。当主の洋介とやらはいいとして、平日の夜遅くに酒盛りなんか始めるかね、普通。何かのお祝いというわけでもないんだ。だって、忌子を殺してくれっていう依頼なわけだろう。にも関わらず、まるで祝杯しゅくはいだ。家族構成から見て、忌子というのは、洋介と美咲の子なんだろうが……我が子を殺すのが、お祭りになるかね。我々退魔師に依頼をしてくる者たちは、大抵、本当に殺すべきかどうか苦悩しているような連中ばかりだ。なのに、林檎森家と来たら、まるでそれがお祝いみたいな雰囲気じゃないか。これは……どうもおかしいよ」

「まあ、言われてみれば……」

 確かに、おかしいのかもしれない。いや、私も最初はそう思っていたはずだ。少し挨拶だけして、すぐに寝室を案内されると思っていた。そして私は忌子を殺すか殺さないか判断して、仕事をして、帰るだけだと思っていた。

 なのに宴が開かれて、歓迎された。

 そしてその空気に飲み込まれ、完全に場に流されてしまっていたらしい。

 三月さんに言われるまで、その状況を、よくある光景だと思い込んでいた。

 私のよくない癖だ。

 堂々とした振る舞いには、どうも、従ってしまう。

「力関係が気になるな……まあいいや。とにかく、美咲という妻も気になる。控えめな性格なんだと言われればそれまでだけど、直流の印象からすると、あまり喋るような性質たちではないようだね。でも、直流の見立てでは、綺麗な女性だったんだろう?」

「ええ、それはもう。日常的に、特に室内で洋服を着ているなんて……今時めずらしいですよね。私なんて、余所よそ行きのを一着持っているだけですから。その上それがまあよく似合っていて——」

?」

 三月さんは、急にわけのわからないことを言った。

 だが——それは核心かくしんを突いた発言だった。

「……誰が、誰にですか?」

「話の流れでわかるだろう。花長という息子が、洋介と美咲という両親から出てきたような顔立ちだったか、と聞いたんだよ」

「それは——はい。花長くんは……よく、似ていました」

 美咲さんの方は目鼻立ちのくっきりした美人、という印象だったが、洋介さんはどちらかと言えば、見目の悪い部類と言えた。もちろん、ある程度の年齢を超えた男性の見た目など、正直言ってどうでもいい。立派な仕事をしているのか、社会的地位が高いのか、理知的で、社交的で、機知きちんでいるのか——そうした部分ばかりに目が行く。実際、私はそういう観点でしか、洋介さんを見ていなかった。

 だが、冷静に思い返してみても、花長くんは両親に似ていた。目元は父親似だったが、全体的な顔の作りは母親似だ。一般的な視点で見て、美男子に分類しても、問題はないように思える。

「もうひとつ気になることがある」

「なんですか?」

「気になるというか、これは確認だな……家政婦を送り届けて、住み込みで身の回りの世話をしているのは蔵前一人。となると、蔵前は独身ということになるね」

「そう……だと、思います。すみません、そこはあまり気にしていませんでしたが」

「うん。新潟、と言った時と、直流の名前を呼んだ時、洋介の様子はどうだった?」

「どう、というのは」

「折櫛という名前を、、で言うと、どちらだろう。普通、これから歓迎しようとする人物の名前を失念しつねんするというのは、とても失礼な行為だ。だから、『ああそうだった』とか、『失礼、ど忘れしまして』とか、弁解べんかいするのが普通だ」

「そう言った発言はなかったように思いますけど……それが、何か気になりますか?」

「大いに気になるね」

 三月さんは紫煙しえんを吐き出して、ゆっくり目をつむったかと思うと、煙草を持っていない右手の人差し指を立てて、まるでいんでも結ぶように、しばらく止まった。

 昔からの癖だった。

 何かを整理している時の癖だ。

 私はその隙を狙って、すっかりぬるくなった玉露ぎょくろに手を伸ばす。

「——一旦いったん、僕なりの整理を話す」

「はい」

「林檎森家には、望まれずに生まれ、かくまわれているがいる。その忌子は、しかし生まれたばかりではない。何らかの理由で秘匿ひとくされてきた。その子を殺す必要が出てきた。依頼人は便宜上べんぎじょう、洋介ということになっている。だが、そのために尽力したのは蔵前だ。宴では仕事の話は出なかった。美咲も花長も——その仕事を知らない可能性が高い。洋介の仕事の関係で家を訪れた女性、くらいにしか思っていなかった。誰かもわからない人間が来て、突然夕食を共に食べることになった。美咲も花長も直流を不審がっている。だが、蔵前がわざわざ車を出してまで迎えに行くのだから、相当な相手だ。そう考えて、控えめに接するに留めた」

 三月さんは一息に言い終えて、吸いかけの煙草を灰皿に押しつけると、湯飲みを手にし、

「……と、言ったところか」

 と結んで、玉露を飲んだ。

「いえ……私はそんな詳しい話はしていないはずですが……」

「お得意の当てずっぽうだ。最初の夜、直流の素性すじょうを知っていたのは、蔵前と洋介だけ。そう考えると辻褄つじつまが合う。だが、どうして隠す?」三月さんはまた、短い頭髪を掻き毟った。「家族の話なのだから、隠す必要などない。と呼称するほどまわしき存在なら、家族総出で殺害の意思を共有していなきゃならない。なのに隠していたことになる。となると、殺害の意思は誰にあったんだ……?」

「私に質問していますか? それとも、自問じもんですか?」

「自問に近い。ただ、うん。最初に直流がした約束——仕事の話を、という約束の理由は、美咲と花長という家族の登場によって明らかになった。彼らは直流の素性を知らない。知られては困る。だから箝口令かんこうれいいた。何故知られては困るか? 止められると困るからだ。何故止められると困る? ……いや、それこそ続きを聞けばわかるか」

 三月さんは自分に言い聞かせるように言ってから、「今のはひとごとだ」と私を見る。

 意図せず、私は三月さんの興味を引いてしまったらしい。

 三月さんの視線の奥には、に落ちたい——、という欲求が見て取れる。

 こういう、えたけもののような獰猛どうもうさをはらんだ三月さんの目が、私は好きだった。

「違うと思って、念のために聞くんだが……」

「なんでしょう」

「わざわざ僕にその話をしているということは、依頼人の要望通りの仕事が行われなかったということだと考えられる。つまり、。直流が、殺さないという判断をしたのだと思う。それはそれで結構なことだ。殺すべきでない人間は、殺すべきではない。我々は殺人鬼じゃあないからね。直流がその林檎森家を総合的に見て、忌子を見て、殺すべきではないと判断したんだろう。でも、直流はその判断に疑問を抱いている。だから、兄弟子あにでしである僕のところに、意見を聞きに来た。違うかい?」

「ええ、違いますね」

「だろうね」

 三月さんは頭の後ろで両手を組む。

「つまり、何らかの不可解な出来事が起きた、ということだ。。殺せない理由が発生した、ということだね」

「ええ。でも、人はちゃんと死にました。

「……そう来たかあ」

 三月さんは間の抜けた声を出して、降参こうさんするように、両手をげた。

 そしてどこか悲しそうな表情をした。

 こんな仕事をしていながら——家から一歩も出ないような生活をしていながら、

 人が死ぬのを極端に厭がるのだ、この人は。

「なるほどね。これは、悲しい話だったわけだ」

 三月さんは目をつむり、両手を合わせて一分近い黙祷もくとうを捧げてから、また私を見る。

「つまりこの仕事は、まだわけだ」

「そうです。食事会はその後、特に仕事の話も出ずに終わりました。……話を続けてもいいですか?」

「気乗りはしないけど……ここまで関わったなら仕方がない。ああそうか、僕はまんまと直流の口車くちぐるまに乗ったのか。僕に意見を聞きに来たと見せかけて、僕を巻き込んだのか」

「私は何も言ってませんよ」

 事実、そんなつもりはなかった。

 一人で考えすぎて思考が暴走するのは、三月さんの悪い癖だ。

 そして、要点をはっきり話さない——というか、話せないのは、私の悪い癖だ。

「とにかく三月さんの仰る通り、この仕事は継続中です。意見を聞きたいのも、お手伝いいただきたいのも、本心です。今まで話したのは、ただのです。お知恵を拝借はいしゃくしたいのは、翌日の出来事です」

「……まあ、とりあえず、聞くだけ聞くよ。別に忙しくはないからね」

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