第19話 僕は弱者
「……ティノ、本当にこれを、食べるの?」
僕は焼かれて丸こげになったトカゲをつまんで、顔を顰めた。
ついさっきまで、端っこに張り付いていたやつを生け取りにしたものだ。
「諦めてくれ、アキト君。生きるためには避けては通れないこともある」
ティノは至極真面目に返した。
僕は何も言い返せない代わりに、頬杖をついて不貞腐れた。
「——僕だって、こんな場所早々に立ち去りたいさ。でも、体力の限界を見誤れば、必ず行き詰まる。退避は明日。万全を期して、地上に上がる道を探す」
正論だ。
それ故に、話も続かない。
僕はトカゲの端っこを齧りながら、横目で右方向を見た。
やっぱり、数歩分間を開けて、少女——フェリシアが座り込んでいる。
「えっと、フェリシアも、食べる?」
「いらない」
焦げたトカゲを差し出すよりも先に断られた。
本当に、希望も何もないと言わんばかりの姿だ。
目元は暗い影に覆われ、顔は正気の抜けた表情で塞ぎ切っている。
体は水に濡れたままで、余計に惨めさが目立った。
でも、きっとそれは当然の反応なのだろう。
彼女の過去を鑑みれば、希望を持てという方が無理な話だ。
「フェリシアは、あの【改造人間】——黒ずくめたちは、どこまでも追ってくるって言ってたけど、本当にそんなことしてくるのかな……」
「してくる。アイツらは絶対に、追いついてくる」
フェリシアは、まるで嫌な悪夢でも思い起こすかのように目を細めた。
「——弟は……アランは、私のために身代わりになった。そのおかげで、アイツらからもかなり離れることができた。でも、アイツらは追ってきた。正確に、ほんの少しの迷いもなく」
「ほんの少しの迷いもなく、追ってくる……そんなこと、可能なのか?」
「アイツらにとっては、簡単なことなのかも。私が残した足跡も、移動した痕跡も、あの人間たちにとっては全てが私を追う手掛かりで、完璧に追跡されたのかもしれない」
——【改造人間】部隊。
あれは、相当執念深く、執拗だ。
彼女は、フェリシアは、精霊としてこの世界に存在する限り、アイツらに追われ続けるのだろうか。
例え、ここでの窮地を乗り越えたとして、その先は分からない。
その先を乗り越えたとして、その先の先は、さらに分からない。
このまま、故郷に帰ることも、弟と再会することも叶わず、一生誰かに追われ続ける。
それはきっと、想像すらできないほど、恐ろしく、悍ましいことのはずだ。
「私は、弟の犠牲すら無駄にした。でも、この命だけは、誰にも譲るわけにはいかない」
それが、弟との約束だから。
フェリシアは、奥歯を噛んで、顔を手で支えた。
もはや、希望の光の一筋もないこの現状。
自身を正気に留まらせるのは、その弟の言葉一つのみ。
その少女は、身体も精神も、もろとも崩壊寸前だった。
じゃあ、僕に何かできるのか。
そう問われると、そんなことは何もない。
だから、やっぱり、僕は顔を背けて、少女から視線を外した。
結局、彼女の問題は彼女に帰結する。
彼女が外の世界に行こうとしたのも、彼女が弟の犠牲を受け入れたのも。
彼女が弟の犠牲を無駄にしたのだってそうだ。
全ては彼女の責任であり、彼女の行動が成したこと。
だから、そこで生まれた結果も、フェリシアが背負う必要がある。
彼女は、強者側の存在だったのかもしれない。
しかし、犯した行動の対価は、本人が払わなければならないのだ。
例え強者でも、罪の償いは必ず清算される必要がある。
その、はずだ。
そのはず、なのか?
僕は、なんだか需要なことを見落としているような気がした。
とても重要なことだ。
「——アキト君、何を思い悩んでいる」
すると、不意にティノに声をかけられた。
僕は我に返って、頭を振った。
「別に、気にするほどのことじゃないです」
「そうか、それなら、今日は早いうちに寝るといい」
時は夜。
光は一切見当たらず、闇が辺りを覆っている。
僕は思考を止めて、ティノに言われた通り体を横たわらせた。
地面は硬い岩で、就寝に適しているとは言いづらい。
しかし、溜まった疲労と眠気で、寝付くのはそう難しくなかった。
落ちてくる瞼。
僕は熱を放つ焚き火を横に、意識を手放した。
==========
——僕は弱者だ。
非力で、無能で、何もできない。
思えば、父と離れ離れになったのが、始まりだった。
次第に人に甘えることができなくなっていき、きっと僕は、人と関わるのが嫌になっていた。
教室という一つの空間。
そこに、僕は延々と閉じ込められていた。
誰にも、話しかけない。
誰にも、話しかけられない。
それは、僕から話しかけることが、無駄であると分かっているから。
それは、僕に話かけることが、無駄であると分かっているから。
僕は、話すという行為が嫌いで仕方がなかった。
僕は弱者だから、僕は無能だから。
そういった前提の数々に苛まれ、言葉を選びに選び取っていると、気づけば何も言えなくなっているのだ。
「——あの、野村君、であってる?」
「……あ」
教室の隅でじっとしていた僕に、一つの声がかかる。
男子だった。
優しげで、どこか大らかな人だった。
「野村君って、いつも一人でいるよね」
興味本位だったのだろう。
その男子は、僕のことを聞いてきた。
「あぁ、まぁ……そうだな」
しかし、僕は歯切れの悪い返事を返した。
「えっと、野村君はさ、どこ中通ってたの?」
「……」
僕は、目を白黒させて、口元を吃らせた。
「い、言いづらい感じ?」
「あー、ごめん。中学の話は、あまりしたくないかも……」
そ、そっか、と男子は苦笑いをした。
それから、奇妙な気まずい時間が流れる。
「とっ、とにかくさ! よろしくね! せっかく僕たちも高校生になったばっかりなんだから、俯いてないで、いっぱい遊ぼうよ!」
そう言って、手を差し伸べられる。
僕は、それに手を差し返そうとして、止まった。
「……どうしたの?」
「いや、僕の手に触れたら、菌が移っちゃうから……」
「え?」
「な、なんでもない。こっちの話。ただ、今は僕の手、汚いから、触らない方がいい……」
そう言うと、男子はついに困惑し切って、空中に浮いたままの手を、どうすることもできず下ろした。
そして、奇妙なものを見る目で、僕を咎める。
「じゃ、じゃあ、俺はこれで行くから」
彼は、早々に僕の元を離れて、友達の元へ戻ってしまった。
「——アイツ、気持ち悪くない?」
「だよな。俺も思った。いつも一人で、何考えてんだろうな」
「俺、アイツがロリコンだって聞いたことある。なんか、中学の時、手出したんだって」
「マジかよ、本物の犯罪者じゃん」
僕は、聞こえてくる話し声を、上の空で聞き流した。
弁明するわけでもなく。
言い訳するわけでもなく。
ただ、その言葉を、聞き流す。
噂は行く。
噂は行く。
僕の悪評は、どこへだって流れていく。
「——ジャン負けした奴、黒井に告るゲームを開催する」
「よしきた!」
放課後。
密かに集まり、談笑する男子たち。
ことの発端は、突然投じられた、そんな一言だった。
ヒリつく空気。
きっと、彼らはそれを楽しみの糧にしているのだろう。
僕には、特に関係ないことだ。
と、思っていた。
「野村も、やれよ」
ふと、そんな言葉を投げつけられる。
僕は不意を突かれた。
それでもって、嫌だと思った。
「いや、僕は……」
「なんだよ、ノリ悪。空気台無しだわ」
「や、やっぱりやるよ」
僕は、今すぐにでも場を離れたくしている足元を、輪の中に向ける。
そして、手のひらを突き出した。
「よし、じゃあいくぞ。ジャンケン——」
こういう時の、自分の運の悪さは、よく分かっていた。
ついた決着。
負けたのは——僕だ。
「それで、アタシに何の用?」
黒井絵梨花。
学年一の美少女と謳われる、まごうことなき
汚れひとつない、滑らかな金髪。
透き通った、蒼の瞳。
目を引かれるような、桜色の唇。
本当に、綺麗だ。
漠然とそう思った。
「えっと……」
そこまで言って、僕は口を止めた。
告白と言っても、何をどうすればいいか、わからない。
常識を踏まえたテンプレートや、相手の気分を害さないマニュアルのようなものはないのだろうか。
なんと言っても、僕は常識のない異常者。
人に好意の一つも寄せられない、嫌われ者。
僕みたいなやつにベタつかれたって、気持ちが悪いだけ。
それなら、告白なんて甘えたことすれば、不快な思いをさせるのは当然だった。
それでも、仕方がない。
僕は、罰として告白をしなければならないという約束なのだ。
「あー、その、今まで好きでした。付き合ってください」
淡白に、無感情に、務めたはずだった。
「は?」
でも、それが相手の気分を害したらしい。
「す、すみません」
怒っている様だったから、謝った。
でも、逆効果だった。
「そんな告白の仕方、有り得ないんだけど。アタシのこと、バカにしてる?」
「ごめんなさい……」
「どうせ、罰ゲームかなんかでしょ。そんなに嫌なら、断ればよかったのに」
「断ったら、空気が壊れるし、常識的に……」
僕がそう言うと、黒井はもはや何も言えないと言わんばかりに、その目で僕を咎めた。
「常識って、アンタ、常識でしか行動を決められないの? 意思がないなんて、腑抜けもいいところね」
僕は何も言い返せなかった。
「その様子だと、全部のことを人の目気にしながら生きてきたみたいだね。自分から行動できないなんて、生きてる意味ある?」
核心を突く問いだった。
「それは……その……」
「アンタ、生きてる価値ないんじゃないの?」
「……はい」
答えると、彼女は瞠目して、キモ、とだけ呟いた。
「とにかく、こういうの本当に不快だから、二度とやらないで」
そう言って、黒井は去っていった。
嫌われた。
それこそ、末代まで呪われそうなくらい。
一人取り残された僕は、何もできず、俯くばかりだった。
==========
「……いやな夢を、見たな」
うっすらと、目を開ける。
長い間岩に頭を預けていたせいで、後頭部が痛い。
ティノは、背を岩壁に寄せて眠っている。
隣を流れる川の音が、妙に孤独感を際立たせた。
——思い出した。
ずっと胸にしまっていた、大切なことを。
僕は、弱者だ。
それは、何をどう足掻こうが、揺らぐことのない事実。
常識に囚われ、人の目線を気にすることでしか行動できない弱者。
そして、常識の内側に居ようとするあまり、それすら全うできない異常者。
何かの能力に秀でているわけでもなく、勉強もできなければ、獣魔と戦えるわけでもない。
例えば、巨狼と戦った時。
涼太なら、その持ち前の身体能力で、善戦できたかもしれない。
ティノの指示を受け、連携を組み、正確に敵を制圧する。
まぐれで最後に手を加えただけの僕とは、一線を画す活躍ができたに違いない。
例えば、フェリシアに追われた時。
金木なら、そのコミュニケーション能力と話術で、彼女をいくらか落ち着かせることができたかもしれない。
そして、事情を整理し、【改造人間】との接触も避け、平和に場を切り抜けていただろう。
あるいは、僕がイリスの元から逃げ出した時。
他の人なら、足を止めて、立ち返っていたかもしれない。
そして、全力で彼女に頼み込んで、身の安全を確保するだろう。
そうすれば、少なくともこうして渓谷の底で、ひもじい思いをする必要だってなかったはずだ。
僕は、図々しい人間にすらなれない、生粋の弱者。
人間的にも、肉体的にも、能力的にも、あらゆる人に劣っている下位互換。
救いようのない、ゴミだめの端にいるような存在なのだ。
異世界にきて、浮かれていたのだろうか。
きっと、そうに違いない。
だから、ここで再認識できたのは、いいことなのかもしれない。
「……僕は、世界で一番生きる価値の無い人間なんだ」
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