第18話 雪の精霊と地の精霊

「——ブハッ! ゴホッ、ゴホッ……」


 息を吹き返した。

 上は真っ暗で、目を凝らせば亀裂から小さな光が差し込んでいた。


 僕は、間違いなく崖から落ちた。

 そして、生きた。


 生き残ったのだ。


「下が、川になってて助かった……」


 体が水浸しになったが、川の水がクッションになったおかげで、衝撃を直に受けずに済んだ。


 とは言え、体の節々が痛い。

 重い体を起こして、地面に座り込む。


「アキト君、無事か……」


「ティノ!」


 僕は慌てて、ティノの元に寄った。


 ティノは地面に倒れて、顔を顰めていた。


「ティノ、腕の傷が……」


「あぁ、飛び降りた時に、少し広がっちゃったみたいだ」


 精霊の少女につけられた傷。

 それが、落ちた衝撃で悪化していた。


 流血が、水に溶けては流れていく。


「——あっ、精霊の子は……!」


 思い出し、視線を動かす。

 ——見つけた。


 体を引きずった跡の先。

 崖に背を向けて、少女がポツリと座り込んでいた。


 目があう。

 怯えた目で見られた。


 腰の辺りまで流れる、純白の頭髪。

 視線を釘付けにする、美しい真紅の瞳。


 服はボロボロに破けて、体も水浸し。

 だというのに、その間から除く真っ白の肌は、神聖さすら感じるほど明媚だった。


 見た目は人間とほとんど変わらない。

 しかし、そこには、人間には至ることのできない、高貴さがあった。


 まるで、大自然の絶景を眺めているかのような感覚に苛まれる。


「アキト君、どうして精霊を助けた……!」


「ティノ……いや、これは、その場の勢いで……」


 僕は、慌てて弁明しようとした。

 でも、言い訳のしようもなかったことに、すぐに気づいた。


 だって、自分でもどうしてそうしたのか、分からなかったから。


 いや、分からなかったというのは、少し違うかもしれない。

 分かりたくなかったんだ。


「アキト君……殺るんだ」


 ティノは容赦無く言った。


 でも、彼が言っていることは、正しかった。


「その精霊は、僕たちを殺そうとした。僕たちも、殺し返しに行かなければならない」


「む、無理です……」


「可能不可能の話じゃない。ここにいれば、僕らと精霊との間で、必ず争いが起きる。それが、生存戦争というものだ」


 ならば、精霊が重傷を負っている今のうちに、仕留めなければないらない、と。

 僕は、何も言い返せなかった。


 立ち上がって、ナイフに手をかける。


 一歩。また一歩と近づく。

 少女は、僕を目にして瞳を曇らせた。


 怯えて、恐れて。

 後退りしようとしても、後ろの壁に阻まれる。


 僕は立って、ナイフを構えた。


 そして、少女の首元に刃先を突きつける。

 綺麗な赤色の血が、首筋を伝った。


 触れる。

 今なら、触れることができる。


 全ての種族において、高次元に存在する精霊。

 それが今や、地に落ちた鳥も同様の姿になっている。

 

 ——殺れる。


 僕は肘を引いて、大きくナイフを振りかぶった。


 息が震えた。

 視界が揺らいだ。


「——殺れ」


 ティノの声。

 しかし、僕がナイフを振り下ろすことはなかった。


「ティノ、やっぱり、やめにしよう……」


 僕は、手を下ろした。


「——泣いてる」


 どうしようもない現状を前に、泣きじゃくる子供。

 少女は、それと同じだった。


「うぅっ……う、ぅ……っ!」


 口元から漏れ出す嗚咽を、必死に抑えて。

 それでも、涙はとめどなく溢れ出す。


 僕は、顔を背けることしかできなかった。


 ==========


 パチパチと、焚き火が燃え上がる。


 辺りに落ちていた倒木をかき集め、ティノが火打石を打ち鳴らすと、たちまち煙が上がった。

 水に濡れて冷え込んだ体が暖められる。


 ティノは、腕の傷口を包帯で巻くと、こちらに目線を送ってきた。


 どうするんだ、と。


 そう言わんばかりの目線だ。


 僕は右を振り向いた。


 少女が、顔を俯けて、塞ぎ込んでいる。

 こちらを襲ってくる気配はない。


 多分、もう敵意はない、と思う。


「ねぇ、少し、話をしようか……」


 僕は、少女に歩み寄った。


「……」


 しかし、当の本人は黙り込んだまま。

 全力無視だ。


 本当に、僕という人間はいつだって好かれない。

 改めてそう思った。


「あの、黒ずくめの人たちには、どうして狙われてたの?」


「わかる訳ない。私だって、どうして襲われたのか分からない」


 少女は、掠れた声で答えた。


「——そっちも、早く逃げた方がいい。アイツらは、どこまでだって追ってくる」


 僕の方を見て、少女は言った。

 

「どこまでも、追ってくる?」


「そう、どこまでも。私は、アイツらに追われて、ここまで来た。国境だって超えた。でも、最後には追いつかれた」


 国を、超えた。

 僕にはあまりにも規模の大きすぎる話だ。


 そこまで、あの【改造人間】たちは、執念と執着に溢れているということか。


「もう少し、話を聞かせてもらえるかな」

 

 少女は、一瞬迷うようなそぶりを見せると、徐に語り出した。


「——私は、雪の結晶から生まれた精霊。私は、生まれてからずっと、精霊の国に弟と住んでいた」


「雪の結晶から、生まれた……」


「精霊は皆、自然から湧き上がる力の結晶体なの。だから、親はいないし、自分に子が生まれるわけでもない。でも、自然で繋がってるから、みんな家族」


 通りで、僕は彼女に神聖さを感じたのだ。

 自然から生まれた生命体。

 そんなの、ちっぽけな人間一人には、到底推し量ることなんてできない。


「弟はアラン。土から生まれた精霊。春が訪れて、雪が溶けて、その中から私が生まれると、ちょうどアランと顔があったの」


 少女はどこか懐かしんでいる様だった。

 それは、絶望しそうな自分を、過去の記憶で支えている様でもあった。


「私たちはずっと一緒だった。——人間に襲われる、あの時まで」


 ==========


 雪の結晶から生まれた精霊——フェリシア。


 彼女は、街で一番、好奇心を胸に抱く少女だった。

 

「姉さん、もう帰ろうよ」


 アランが、気だるげにつぶやいた。

 

 アランは、フェリシアの弟。

 黒の髪に、青の瞳が特徴的な少年。

 それは、街の誰もが知ることだった。


「いやよ。どうせ帰っても、退屈なだけだもの」


 フェリシアは頬を膨らませて応えた。


 アランは苦労人である。

 これほどにも、活発な精霊を姉に持ってしまったのだから。


「絶対に、家にいたほうが良いに決まってるのに……」


「アラン、世界はどこまでも広大なのよ。それなのに、家にこもってるなんて、正気の沙汰じゃないわ」


 フェリシアの家は、大樹の枝の一つ。

 精霊たちは、大きな木々を棲家とし、それを街とするのである。


 その眺めは壮観のひと言。

 精霊たちが祝福する大樹の住処は、他種族には滅多に目にすることのできない絶景であるとされるほどである。


 それでも、長い年月はフェリシアの忍耐を削ぎ落としてしまった。

 

 精霊族は長命種である。

 それゆえに、何百年と同じ景色を見てきたフェリシアは、すっかりそれに飽きてしまったのだ。

 

「それでも、姉さんの散歩は長すぎるよ。僕たちの家も、この森も、対して変わらないじゃないか」


「そんなことないわ。ほら、見てみて」


 フェリシアは弾むように指を指した。

 その先には、数多の花が咲き誇り、麗しい風景を作り出していた。


 辺りには蝶が舞い、蜂が飛んでいる。


「とっても綺麗でしょ? 蝶々がいっぱい飛んでいるわ」


「姉さん、蝶は獣糞に寄りつくから、実際は結構汚いよ。見た目に囚われないことだ」


 アランがそう言うと、フェリシアはあからさまに不機嫌な表情を作った。


「アラン、そんなこと言わないの」


 アランは眉を顰めた。


「——私、本で読んだことがあるの。綺麗な花でいっぱいの花畑。水晶に埋め尽くされた洞窟。珊瑚礁が彩る大海原。この世界には、美しい景色がいっぱいあるって」


 見てみたい。

 この目で、その光景を。


「じゃあ、見に行けば良いじゃないか」


 アランは言った。


 しかし、フェリシアは頭を振った。


「いやよ。だって、家族のみんなと別れるのは悲しいじゃない」


「なんだ、外の世界が怖いんじゃないのか」


「怖いわけないわ! 変なことを言う弟ね。それなら、今日はもっと森の奥まで進んでみせるわ」


 アランは後悔した。

 煽るようなことを言うんじゃなかったと。


「僕が付き合う必要ある?」


「ついてきた方が絶対に楽しいに決まってる! ほら、あっちの方から良い香りがするの、アランもわかる?」


 アランは一体何を言っているんだと思った。


 しかし、一瞬鼻腔をついた匂いに、困惑の表情を見せる。


「確かに、良い香りがする……」


「でしょ? でしょ?」


 フェリシアは、ここぞとばかりに声を上げた。


 普段、その類の話に興味がないアランが相手だったから、彼女の興奮もなおさらだった。


「こんなに気になる香り、そうそう無い! アラン、奥に進むよ!」


 フェリシアは、あっという間に森の奥へ消えてしまった。


 それを追おうとして、アランは立ち止まる。


「蜘蛛……」


 木の間に、雲の巣が張っている。

 蜘蛛の巣には、色鮮やかな蝶が囚われていた。


 しきりに巣は揺れ動き、蝶が抵抗している。

 しかししばらくすると、獲物に気づいた蜘蛛がやってきて、あっけなく蝶は取りつかれた。


 ——捕食。


 ついに、蝶は蜘蛛に喰らい尽くされてしまった。


 アランは少し顔を顰めると、その間を通った。


 蜘蛛の巣が彼に触れることはない。

 彼は高貴なる精霊。あらゆる事物が、彼に触れることさえ許されないのだ。


 ——森を進めば、匂いはどんどん強まっていった。


「アラン……私、なんだか眠たくなってきちゃった……」


 おかしい。

 アランは思った。


 意識が揺さぶられる。


 精霊は本来、捕食行為も、睡眠行為も必要としない、完全無欠の存在である。

 にもかかわらず、自分は息を上げ、姉はしきりに目を瞬かせていた。


 立ち止まる。

 匂いの元に辿り着いた。


 それは、一本の試験管に入った液体。

 さらに、それを手に持つ、だった。


「人、間……」


 顔は、布で隠されていた。

 奇妙な十字の紋章が記されている。


 次の瞬間、闇から蛆虫のように黒の外套に身を包んだ人間が湧き出した。


「——聖水のオイル、ヒランの花弁、銀鉱石に、アスファ岩石。それらを等量加え、水にかき混ぜ、二日放置。それが、我が研究の示した、精霊の特攻媚薬」


 中から、白衣を纏った男が前に出て、二人の前に立つ。


「果たして、成果はどうだろうか。見れば、一目瞭然だ」


「……っ!」


「こうして我らの元に、美しき蝶が誘われてきた。それも二人」


 白衣の男は、満足げに頷いた。


 しかし、アランは口元を歪ませる。


「人間ども。僕たちに何の用だ。くだらない要件なら、その命、すぐに刈り取ってやるぞ」


「いや、私たちは交渉をしにきたのですよ。奴隷になる交渉です」


 アランは男を睨むと、フンと鼻を鳴らした。


「どういうつもりだ」


「——契約です。あなた方も、よく知っているでしょう?」


「契約……契約で、お前たちが僕の奴隷になるのか? 大層なことだ。よほど人間は匿ってもらう相手にこと欠いているらしい」


 しかし、男はわざとらしく首を傾げると言った。


「いえいえ、奴隷になるのは、あなた方です。私は主人。もとより、我らが主は人間の王ただ一人なのですから」


 すると、アランは一瞬目を見開いて、呆れたように息を吐いた。


「なら、やっぱりお前たちは、くだらない要件で来たということか」


 手早く追い払おうと、アランは手を伸ばしかけた。

 しかし、それをものともせず、男は近寄ってくる。


「まぁ、まぁ、一旦落ち着いてください。私は今や、あなたにこうして、触れることもできるのですから」


 男は手を伸ばし、アランの手に触れた。

 確かに、触れたのである。


 そのまま指同士を絡め合わせ、手をつなぐ。


 アランは、脳を停止せざるを得なかった。

 振り解こうにも、振り解けない、人間の手。


 男は反対の手を大きく振りかぶった。


「今、力の差というものを理解させてあげましょう」


 そして、アランの腹部に目掛けて、それを振り下ろす。


 脳天を貫くような衝撃が、アランの体を駆け巡った。


「——お゛ぇ!?」


 ——吸われる。

 力が、正気が、一瞬にして吸い取られていく。


 視界が翻った。


 次の瞬間、アランは地面に伏せられていた。


 ——何が、起きた?


「……姉、さん」


 朦朧とする意識の中、フェリシアに目を向ける。


「やれ、ジャレッド」


「言われなくとも、分かっています」


 ジャレッドは、フェリシアの前に立つと、首に手をかけた。

 ゆっくりと、呼吸を制限していくように、首を絞める。


「……あ、ぇ」


 フェリシアはもがいた。

 しかし、意識もまともに定まらない状態では、抵抗も意味をなさない。


 まるで、血を吸い取られるように、力がジャレッドに取り込まれていく。


「お前たち……! 姉さんに何をしている!」


「何って、取り込んでいるんですよ、神聖力を」


 アランは、瞠目した。


「上位種にのみ持つことが許された力——神聖力。生命力から生まれるその力を無理やり奪い取れば、想像を絶する痛みにもがき苦しむことになりますが……私らの知ったところではない」


 ——こうでもしないと、完全に無力化できませんからね。


 男は言った。


「——痛い……痛いよぉ」


 掠れた声を漏らすフェリシア。

 絶叫したいくらいの激痛に苛まれながらも、締り切った喉元からはまともに声が出なかった。


 力のない腕でジャレッドの手を退けようとしても、爪が立って不快な音が鳴るだけ。


 ギリギリと力が加わっていく。

 自身の中から、大切な何かが奪われていく。


 ——痛い、痛い、痛い。


 激痛、なんてものではなかった。

 それは、言葉では到底表すことのできない、魂が侵食される痛み。


 口元から、血が流れ出す。

 それでも、地獄の責苦は止まらない。


「お前……! よくも姉さんを!」


 アランは咄嗟に腕を突き出し、力を込めた。


 放たれた斬撃が、ジャレッドの腕を切り落とす。

 同時に、フェリシアが地面に転がった。


「おやおや、これはまた腕を取り替えないと行けませんね……」


 ジャレッドは面倒臭いと言わんばかりに、切断された腕の断面を眺めた。


「随分と体力のある個体だな。抑えておくとしよう」


 男はアランの腕を掴んで、地面に押さえつけた。


 ジャレッドは地面に蹲ったフェリシアに近づくと、無造作に足でその体を蹴り飛ばした。


「——っが!?」


「あぁ、こんなに気分がいいのも、いつぶりだろう……」


 ジャレッドは間髪入れずに、再び足で少女を蹴った。


 蹴って、蹴って、蹴る。

 その度に、フェリシアの体躯が傷を負った。


「やめろおおおお!」


「おや?」


 再び踏み潰そうとした時、ジャレッドの足元を別の何かが遮った。


 ——アランだ。


 アランはフェリシアを庇い、抱き寄せた。

 そしてジャレッドの足を払いのけると、その場を逃げ出した。


 白衣の男は、抑えていたはずの手元を慌てて確認した。

 そして、そこには誰もいないことを悟る。


「なんと、幻覚を見せられていたのか……」


 ——アランは必死に逃げいていた。


「姉さん、ごめん。僕が助けに入れなかったせいで、痛い思いをさせてしまった……」


 重い足を動かす。

 背負った少女は、もはや息も絶え絶えだった。


 逃げられない。

 アランは、頭のどこかでそのことを確信していた。


 決断の時である、と。

 それは、何百年と生きていることにかかわらず、精霊として未熟な少年には、あまりにも酷な決断だった。


 迷い。

 アランの中に生まれる迷い。


 少年は、意を決したように立ち止まった。


「姉さん、自分で立てる?」


「ア、ラン……?」


 アランは、フェリシアを地面に立たせた。


 そして、後方——人間が迫ってきている方を振り向いた。


「僕が、姉さんの盾になる。姉さんは、逃げて」


「アラン、どうして——」


「姉さん、外の世界が見たいんでしょ。だったら、逃げるのは僕じゃなくて姉さんだ」


 アランは、はっきりと言い切った。

 同時にそれは、フェリシアを突き放す言葉となる。


「姉さんは、もっと自由に生きる権利と意思がある」


 フェリシアは、理解した。

 もう、この少年が自分の言葉で動くことはないと。


 暗闇から、矢が飛んでくる。

 アランは、それを手で受け止めると、人間を睨んだ。


「これだから、人間は嫌われるんだ。どこまでも、弱者の根性が見え透いてる」


 どうしようもなく執念深く、他種族を嫌う。

 それが、人間の核心的な性質だった。


「——さぁ、逃げて。姉さん」


 アランのその言葉を最後に、フェリシアは踵を返した。

 そして、走り出す。


 絶え間なく痛みを訴えてくる身体を押さえつけて。


 去り際に、小さな呟きが聞こえた。


「僕の守ったその命、大切にしてよ」


 それから、方角も分からず、フェリシアは滅茶苦茶になって逃げ纏った。


 どこに向かっているかも分からない。

 いつになれば足を止めていいかも分からない。


 それでも、これだけは分かった。


 ——弟が守ってくれたこの命、決して無駄にするわけにはいかない。

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