第16話 精霊

 ざわめく。

 己の内にある恐怖心が。


 本能が僕に告げる。

 天上の存在にひれ伏せと。


「危ない、アキト君!」


「……へ?」


 突き飛ばされた。

 直後、天から無数の矢が降り注ぐ。


 それらはさっきまで僕がいた空間を滅多刺しにすると、あっという間に霧散した。


「外した……」

 

 少女は伸ばした手を震わせると、怒りを露わにした。

 

 もはや、物理と物理がぶつかり合うというお話ではない。

 予備動作も、肉体越しの攻撃もない。


 戦いにすらならない。


「っ、ぐ!」


「ティノ!」


 ティノは呻くと、地面に膝をついた。


 肩から肘にかけて、血が流れている。

 さっきの攻撃の一部を、もろに受けてしまったのだ。


「ご、ごめんなさい……僕を、庇ったせいで……!」


「構うな! 今はとにかく逃げるんだ!」


 ——逃げる。


 逃げる、逃げる、逃げる。

 

 逃げ、る?


 いいや、違うだろう、と。

 僕は頭の中で反芻した。


「アキト、君?」


 ティノは、僕のせいで傷を負った。

 ならば、その分の損失は僕が補わなければならない。


 少女に目を向ける。


 因果応報は、必ず報われるとは限らない。

 僕が、この手で、今取り返さなければならない。


「一体、何を——」


「僕が、僕がやらなきゃいけない」


 ガタガタと手元が揺らいだ。

 瞳が泳いで、足元すらおぼつかなくなる。


 武器だ。武器。

 武器さえ突き刺せば、傷を負わせられないということはない。


 僕はナイフを構えた。


 やれ。

 やるんだ!


「う、うわあああああああ!」


 刺突。

 全力を込めた一撃を、少女の腹部めがけて突き出す。


 次の瞬間、刀身が少女に触れる。

 確かに、届いたその一撃。


 ——しかし。


「……ぁえ?」


 それは触れたのに、触れられ


 それどころではない。

 僕は、目の当たりにしている現状に、困惑せざるを得なかった。


 すり抜けた。

 僕の体が、少女を。


 そうとしか言いようがなかった。


「——劣等種が、私に触れられると思うな」


 どす黒く、呪いのこもった言葉。


 それが、僕の恐怖心をいとも簡単に煽り上げて、一瞬で体を萎えさせてしまった。


 少女が、掌を向ける。

 瞬間、空間が歪んだ。


「っ、が!?」


 僕は背中を木に打ち付けられていた。


 一瞬、意識が遠くへ飛んでいく。


「今、のは……」


 肺の空気が空っぽになる。

 声が掠れて、うまく出せない。


 少女が、僕の前に立ちはだかる。


「止め……」


 手のひらが、僕を飲み込むように、視界に広がる。


「——あ」


 首が、しなやかに、ゆっくりと絞められていく。


「あ、ぐぇ、ぁ……」

 

 息が、苦しくなっていく。

 ……死ぬ。


 脳裏によぎった想像。


「よくも、よくも私の弟を奪ってくれたな、人間ども……!」


 弟?

 奪った?


 何を言っているのか全く分からない。


「殺す、殺す。絶対に殺す。できるだけ、苦しませて……!」


 より一層、首元を絞める力が強まった。

 その瞬間、僕の頭上を掠めて、槍が木に突き刺さった。


「……っ!」


 一瞬。

 ほんの一瞬、それで少女の気が逸れる。


 緩まる首元の束縛。


「逃げろ!」


 ティノは叫んだ。

 僕は、足を蹴って、転がった。


 すんでのところで少女から距離をとる。


 振り返った。

 麓の方向。


 逃げるなら、そっち。

 しかし、ティノは逆走した。


「アキト君! 奥に進め!」


 僕は、麓へ向かおうとする足を止め、踵を返した。


 なぜ、わざわざ山頂へ向かうのか。

 理由は分からずとも、従うことしかできなかった。


 全力で走り出す。


「——逃さない……!」


 少女は間も無く僕の後ろに追随した。


「っハッ、ハッ、今、僕、本当に殺されかけたっ」


 死の間際というものに、直に触れていた。


「アキト君、怪我はないか!」


「だ、大丈夫です! 全身が痛いけど……」


 きっと、僕は衝撃波に吹き飛ばされた。

 意識は朦朧としているが、多分体は無事、おそらく。


 走りながら後ろを振り返る。


 危機迫る勢いで少女が近づいていた。


「あれは、あの少女は一体何なんですか!」


「あぁ、全く、嫌な予感はしていたんだ。でも、さっき君の攻撃がすり抜けたのを見て、確信したよ」


 ティノは、呆れたような表情を見せていった。


「あれは、だ」


「っは!?」


 精霊。

 つまり精霊族。


 この世界の序列において、第の座につく種族。


 そんな化け物に、僕たちは今後ろを追われている。


 絶望に、少し前が眩みそうになった。


「精霊は、僕たちよりも、幾つも上のに存在している。僕たちは、彼女の体に触れることすら許されないんだ」


 まさかの、接触不可。

 文字通り、次元が違う。


「きっと、あの狼の獣魔たちも、彼女に追われて麓まで逃げていたんだ。ようやく納得のいく理由が見つかったよ」


 ジャックさんが感じていた異常の正体。

 それが精霊だったというわけだ。


 しかし、しかしだ。

 それを知ることができたとして、命がなくなって仕舞えば元も子もない。


 森の傾斜を走り抜ける。

 どんどん、空が近くなってくる。


「ティノ、どうして麓に逃げないんですか! このままだと、山の中で獣の餌にされちゃいますよ!?」


「まさか。精霊は森の植物さえ司るんだ! きっと麓に罠を仕掛けるのだって、息をするのと同じくらい簡単なはずだ! そう、たとえば——」


 ひゅん、と植物の蔓が飛んでくる。

 それは、まるで自ら意思を持っているかのように僕を襲った。


「っヒィ!?」


 幾重にもなって、僕を拘束するべく、蔓は波打って近づいてくる。


「手と足元に気をつけろ! 少しでも絡まれたら一瞬で動けなくされるぞ!」


「そう言われてもっ! こんな勾配がキツイと、上手く避けられないですって!」


「文句を垂れるな! これでも相手の意表を突いているだけまだマシなんだ! 麓に向かっていたらこれの比じゃ無いぞ!」


 これで、相手の意表を突いている?

 信じられない。

 本当に逃げれるか逃げれないかの境目だ。


「じ、じゃあ、ここからどうやって逃げ切るんですか!」


「このまま突き進んで、反対側の麓から森を抜ける! それまで全力疾走だ!」


 終わった。

 無理だ。


 僕は思わず白目を剥きそうになる。


 こんな貧弱の体力で、果たして反対側に辿り着くのはいつになるだろうか。

 きっと、日が沈んてのぼっても不可能だ。


 弱音を吐きそうになる口元を押さえて、僕は上を向いた。


 とにかく、走る。

 走って、走って、走る。


 それしかできることはない。


 右へ、左へ、蔓が迫ってくればそれから逃げるように回避する。


 そうやって、僕とティノは、渓谷にたどり着いた。


「……はぁ、はぁ、ここは」


「まずいね、アキト君。僕たち、誘い込まれたみたいだ」


 ティノは苦い表情を見せた。


 言うなれば、断崖絶壁だ。

 巨大な亀裂が、視界の見えないところまで続いている。


 カランと、踏みつけた小石が渓谷に落ちた。

 やがてそれは、暗闇に飲み込まれ見えなくなってしまう。


「やっと、追い詰めた」


 振り返る。

 少女が、僕を睨んでいた。


 背後は断崖、正面は精霊。

 逃げ場はない。正門の虎、後門の狼である。


「は、話し合いましょう!」


 僕は両の手をあげて語りかけた。


「話し合い……ふざけてるの?」


 しかし、それは逆効果だったらしい。

 少女はますます表情を強めた。


「だ、だいたい、僕たちをここまで執拗に追いかける理由なんてないでしょう! もし、僕に攻撃されたのが不愉快だったら、今ここで謝ります!」


「黙れ! 私の弟を奪い去った罪が、謝罪の一つや二つで許されると思うな!」


 僕は眉を顰めた。

 まるで、言っている意味が分からないのだ。


「待ってください。まるで、話が噛み合ってない! 僕は、あなたの親族をどうこうした覚えなんて全くありません!」


「惚けないで。あいつらは、間違いなく人間族だった。お前も人間なんだから、同じようなもの。殺されて然るべきよ!」


 全く同じではない。

 全然違う。


 少女は、どこか正気を失っているようだった。


「もう、御託を並べる必要もない」


「ちょっと、ま——」


「今、ここで、死に様晒せ!」


 真っ白に染まる視界。

 限界まで引き延ばされた時間。


 僕は、見た。

 その乱入者を。


「——いやぁ、やっと見つけましたよ」


 平坦な声が、空気を伝う。

 少女は僕に手を下そうとして、はたと動きを止めた。


 彼らは、やがてその姿を日の本に晒す。


 漆黒の外套。

 無機質な長靴。

 そして、顔を覆う十字の入った布。


「精霊、我らに従いなさい。そうすれば、命くらいは助けてやります」


「……っ!」


「人間を、崇めよ」


 不気味なほどに、人間味を感じない佇まい。

 そいつらは、ただ静かに、僕らを見据えた。

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