第15話 この勇姿を見ていろ

「戻ってこい! アキト君!」


「——っ!」


 我に帰った。


 直後、視界が映し出したのは、腕を振り上げた獣魔だった。


「やっば」

 

 振り下ろされる。

 前髪が風圧で吹き飛んだ。


「危ないとこだったね、アキト君」


「ティノ……た、助かりました」


 肩越しに体を引き良さられる。

 もしティノに引っ張られていなかったら、きっと僕は今頃八つ裂きにされていた。


 狼の爪に切りつけられ、ズタズタになってしまった地面を見て、確信する。


 どうにか、フラフラする足回りを地につけ、再び巨狼と見合う。


 いや、そもそも、あれは、狼なのか?

 体長が、ざっとみても二メートル近くある。


 化け物だ。


「なるほど、こいつが獣魔の親玉みたいだね」


 ティノは、狼と見合って、槍を構える。


 ジリジリと、互いの間合いを取り合い、じっと機会を伺う。


 狼も、一撃では仕留めきれないと悟ったのか、警戒心をむき出しにして出方を探っている。


『……ウゥ、ウ"ァウ!』


「……っ」


 狼の威嚇に、ティノは息を荒げた。


「……アキト君、もしかしてこれって、ピンチってやつかな」


 ティノは、ニヤリと笑みを浮かべて呟いた。


「えぇ、そうですよ! 今更ですか!?」


 ツッコミも虚しく、現状は変わらない。


 僕たちは、完全に狼にロックオンされている。

 逃げようにも、逃げられない状況だ。


 しかも、獣魔の親玉。

 さっきの狼の群れとは、比べ物にならない威圧だ。


「いいね。こういう逆境は、大好物だ……!」


 動き出した。

 ティノは、足を一歩踏み出し、駆けた。


 一突き。

 手元から狼の首元に向かって、槍先が放たれる。


 血が飛び散った。


「やったっ」


「——いや、外したな」


 ティノは小さく舌を打った。


 瞬間、狼の爪先が振り払われる。


 ティノはそれを掻い潜るようにしゃがむと、回避と同時に槍を振り回した。


 再び血飛沫が飛び散る。


『ッ、グルゥ……』


「今のは、いいのが入ったんじゃないかな」


 再び距離を取り、仕切り直し。


 ——一瞬、だった。


 僕は、次々に入り込んでくる情報を処理するだけで手一杯になっていた。


 明らかに、力も体力も、向こうのほうが上。

 しかし、ティノはまるで物怖じすることなく、一方的に立ち回っている。


 側から見ているだけの自分の、なんと情けないことだろう。


 僕は、震える手先でナイフを引き抜いた。


 果たして、やれるのか?

 いや、己に問いかけている暇なんてない。


 やるしかないんだ。

 

「僕も、加勢、します……!」

 

 ティノは、少し意外そうな表情を見せると、小さく笑った。

 

「アキト君……小人族って言うのはね、中々非力なことで有名なんだ」


 不意に、ティノが語り出す。


「だから、僕たちは勇気を武器にする」


 決して、後退りも、臆することもない、勇敢な背中。

 それは、小さいのに、やけに大きく見えた。


「君はサポート役。これは、僕の仕事だ」


 そう、だから——。

 と、その少年は言った。


「君は、僕の勇姿を見ているだけでいい」


 その言葉は、勇気のない自分を剥き出しにさせるようですらあった。


「さぁ、いくよ」


 それから、熾烈な戦いが始まった。


 右へ、左へ、ティノはその小さな体を巧みに使い巨狼の攻撃を回避する。


 斬撃が飛んだ。

 そう思ったら、次の瞬間には爪撃を返される。


 血が飛び散っては、その間を掻い潜る。


 その動きには、迷いも、恐れも、躊躇いもない。

 ただ、どこまでも純粋に、勇敢である。


『グ、ウゥ!?』


 巨浪が怯んだ。


 その巨体が、小さな勇者を前に、後退りした。


 彼は止まらない。

 口元の笑みを絶やさない。


 それはまるで、恐怖すら楽しんでいるようだった。


「逆境を、力にしてる……」


 加速する。

 もっと加速する。


 小さな体躯とスピードに身を任せて、ただひたすらに翻弄し続ける。


 矛先と爪先の衝突する音が鳴り響いた。

 しなやかに土を踏み締める音が空気を揺らした。

 槍先の描く軌道が、薄闇の中を切り裂いた。


 猛攻に次ぐ猛攻。

 斬撃に次ぐ斬撃。


 やがて巨狼は、痺れを切らしたかのように唸り声を上げた。


『グウ、ゥオオオオオオオ!』


 鼓膜が痺れた。

 僕はたったそれだけで、地に膝をついてしまう。


 ティノは、一瞬動きを止めた。


 それは、躊躇い。

 ほんの少しの、逡巡。


 止んだ斬撃。

 巨浪は、強烈な眼光を以てティノを睨んだ。


『グラァ!』


 飛翔する。

 捨て身の突撃だった。


 大きく開かれた顎。

 鋭く研ぎ澄まされた牙。


「っ!」


 ティノは咄嗟に槍を構えた。


 衝突。

 槍は弾かれ、体勢を崩される。


 なおも止まることのない巨狼の猛進。

 その小さな体躯を噛み砕こうと、断頭台のごとき顎が降ろされる。


「っ、まずい!」


 しかし、それでも、ティノは笑った。


「——恐るな、慄くな」


『——ァ』


 弾かれた槍を、勢いのまま背に回す。

 そして一瞬の内に手を持ちかえ、柄先に手を添える。


 明らかに、無理な体勢。


 ただ、ティノは飛んだ。


「小人族は、器用なんだ」


 足元に力を加えて、遠心力をつける。


 それは、想像を超えた反撃。

 想定の外から叩き込まれる、予測不可の斬撃。


 巧みに、丁寧に、その一撃は横から巨狼の喉に突き刺さった。


『グェ、ア?』


 動揺。

 巨狼は狼狽えた。


 己の体幹を極限まで巧みに操ることで放った、一〇〇パーセントの力を伝えた攻撃。


 それが、致命の傷を与える。


『ウ”、ウ”アアアアア!』


 咆哮。

 確かな、明確なダメージ。


 しかし、巨狼は足掻いた。

 震え、駆け出し始める。


 決死の凶暴化だった。


「って言っても、小人族が非力なことに変わりはないんだよねぇえええ!」


 情けなく口元から弱音を吐き出すティノ。


 駆ける巨狼が向かう先。

 ——僕だ。


「え? ええ、えええ、え?」


 何故なぜ何故なぜどうして!?


 ティノが槍先にぶら下がって、体ごと巨狼の突進に持っていかれる。

 きっと、その瞬間目が合った。


 言葉にしなくてもわかった。

 ティノは、頑張れ、とだけ語っていた。


 無理である。

 頑張ったところでどうしようもない事象も存在するのである。


 巨狼の眼光に、目線を奪われる。


 怖い。

 漠然と、そう思った。


 でも、やらないと。

 体が、無意識の内に動いた。


「う、ぁ、も、もう、どうにでもなれえええ!」


 ナイフを突き出した。


 がむしゃらに、目を瞑って。

 ヤケクソだった。


 大きく、手元に返ってくる肉の感触。

 突き刺さり、ぬるい血が飛び出る。


『う、ぁ?』


 時がたてど、体に牙を突き立てられることはない。


 僕は恐る恐る目を開けた。


「……っ、え?」


 刺さっていた。

 胸元に、しっかりと、僕のナイフが。


 バクバクと心臓がいまだに脈を打っている。


 巨狼は次第に目の光を失い、地面に倒れた。

 すでに、それは瀕死の境目を彷徨っていたのだ。


 僕はすっかり地面に座り込んで、重い息を吐き出した。


「……ナイスだよ、アキト君。君もしかして、結構センスあるんじゃない?」


 ティノは、額を拭うと、巨狼の首元から槍を抜いた。


 僕の手元。

 そこには鮮血がびっしりとこびりついている。


 いまだに残る、肉を断つ感覚。


「生き物を殺すって、こんなに気持ち悪いのか……」


 不快感、ともまた少し違う。

 大きな一線を超えてしまったような、今まで遠目に見てきただけの、視界の向こう側に立ってしまったような、そんな実感。


「——洗礼ってやつだね」


「ティノ……」


 その少年は、僕を見据えた。


「僕らの世界では、よく話にされるネタさ。生き物を殺したことのある者と、そうでない者の間には、超えがたい大きな壁があるんだ」


 大きな壁。

 今僕は、それを超えてしまったのだろうか。


「それにしたって、決死の反撃とは恐れ入ったよ。あそこは十中八九、回避するのが普通だと思ってた」


 巨狼の、死に際の抵抗。

 確かに、あれは回避するのが普通だ。


 思い返せば、巨狼の目の焦点も合っていなかったし、身体の動きもまるで地に足がついていなかった。


 冷静に対処すれば、避けるのも難しいことではない。


 だとすれば、僕は普通じゃないのだろうか。


「ティノ……」


「ん? なんだい?」


「逃げるのは、弱者のすることだと思いますか?」


 要は、弱者の観念と、己の羞恥である。

 

 弱者として行動することを恥ずかしむ自分が、逃げることを否定していたのだとしたら。


 お荷物になりたくない。甘えたくない。

 いく層にも重なった僕の羞恥の記憶が、僕から「回避」という選択を奪っていたとしたら。


 それは、僕を異常たらしめる理由になる。


「僕に、回避するなんて選択は、初めからありませんでした」


 恐ろしいくらいに、無意識の内に、逃げるという行為を忘れていた。


「アキト君。それは、センスだよ」


「……え?」


 ティノは言った。


「無意識の内に反撃を選べるなんて、普通の人じゃできない。言い換えれば、才能さ」


 ティノは、突き刺さったままだったナイフを引き抜くと、僕に向かって放り投げた。


「ほら」


「うおっ、と……」


 慌てて掴み取る。

 刃先にはまだ暖かい血が張り付いていて、命の気配がする。

 

 それは、僕が今まさに、一つの命を刈り取ったことを実感させた。


「……ん?」


 ふと、ティノが疑問符を浮かべる。


「ど、どうしましたか?」


「いや、妙なんだ」


 ティノは巨狼の屍に近づき、膝をついた。


 視線の先は、脚元の付け根である。


「この傷、今ついたものじゃない……」


 あざの様だった。

 紫色に変色して、痛々しい模様を作っている。


「しかも、偶然ついたものじゃないみたいだ。誰かに任意的に付けられている」


 言われてみれば、殴られた跡の様にも見える。


 では、誰によってなされたのか。

 

「とりあえず、記録しておこう。こんな麓に獣魔がいるのも気がかりだ。アキト君、全部レポートにしてまとめておいてくれるかな……」


 そう言って、ティノは記録用紙を取り出そうとして、動きを止めた。


「ティノ……?」


 疑問を呈すれば、その理由はすぐにわかった。


「——っ!」


 瞬間。

 体を貫く、圧倒的な威圧。


 森の奥。

 前方から、なだれこむ様な怖気が押し寄せてくる。


「……人、間」


 それは、小さくつぶやいた。


「まずい、アキト君! すぐに撤退を——」


 吐きそうになってしまうほど、緊張する体。


「人間、人間人間人間人間!」


 ——殺される。

 確信。


 やがて、それは姿を見せる。

 

 森が、虫が、動物が。

 全ての生命が、それにひれ伏す。


 絶対的、上位の存在。


 それは、一人の少女。

 それは、決して劣等種なんかには、理解しようのない存在。

 

 ただ一つわかるのは、彼女が明確に、僕に対する殺意を持っているということのみ。


「——人間、今、殺してやる」


 少女は、僕を睨み上げた。

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