第14話 興奮してきた
「く、臭い……」
臭い。
あまりにも、臭すぎる。
鼻が捻じ曲がりそうだ。
僕は森の中を進みながら、口元を押さえた。
「これが、ヘドロの森……治安維持協会が嫌がるのも頷けるなあ……」
ボコボコと、謎の泡を立てている泥沼。
それが、あちこちに存在して、気を抜けば足を取られてしまいそうだ。
「ここは、特殊性体動物、カラパの生息地らしいね。なんでも、そのフンが特大の臭いを放つとか」
薄暗い森の中、ティノが語る。
確かに、匂いが強い。今まで嗅いできた匂いの中でも、相当上位に食い込むレベルだ。
「ティノは、大丈夫なんですか?」
見ればティノは息を荒げて頬を紅潮させている。
「大丈夫か、だって? そんなの、大丈夫じゃないに決まってる」
それはそうだろうな。
なんたって、これほどの臭みだ。
「鍛錬が終わったばかりで、こんな匂いのキツイ場所に送り込まれて、仕事をさせられる。こんなの——最高すぎる」
——ん?
んん?
聞き間違いでは、ないだろうか。
僕は、自分の耳を疑った。
しかし、間違いなく、決定的な言葉を彼は続けた。
「しかも、冒険者の給料は相場の半分以下。あまりにも残酷過ぎる。こんな辛い思いをして、少ししか収益を得られないって考えたら、僕、興奮してきちゃったよ……!」
目が、正常ではない。
どこか、焦点を失いかけている。
そうして、僕は気づいてしまった。
この人、ヤバい人だ。
ど変態だ。
「俄然やる気が湧いてきた! アキト君、早く前に進もう!」
テンションに追いついていけない。
頭は困惑するばかりだ。
何が、ティノなら安心、だ。
頭の中で、親指を突き立てるジャンを蹴り飛ばす。
こんな変態、僕じゃまるで制御できない。
ドクドクと冷や汗が流れてきた。
足を引きずって、前へ進むティノをどうにか追いかける。
「こういうの、ドMって言うんだっけ……本当に、置き去りにされそうだ——っ」
その時、僕の視界に一つの影が駆け抜けた。
「ティノ! 危ない!」
声が届くよりも先に、影は少年を襲う。
やがて暗がりの中、一対の牙が光った。
それは、ティノの体を貫こうと空気を切り裂く。
不気味なほど遅く流れる時間。
闇を走り抜けた牙は——一本の槍に受け止められた。
「——っと、忘れてた。ここには猛獣もいるんだったね!」
ティノは、口元に笑みを浮かべる。
それは、身軽に、軽やかに、攻撃を躱す。
その小さな体躯から放たれる力強さは、見かけとはかけ離れたものだった。
猛獣——狼は、槍に弾かれ、地面を滑る。
「アキト君、よく今のスピードに目が追いついたね。そこから声を出せるなんて、中々の瞬発力だ」
人を褒めている場合ではない。
僕は狼を目の前にして、脳内をメチャクチャに掻き回されていた。
——ど、どうする?
逃げる? 戦う? 食われる?
だめだ、思考がゴチャゴチャになる。
「怯える必要はない。この障害は想定内だ」
次の瞬間、ティノは軽やかに跳んだ。
——一瞬で縮まる距離。
槍先が煌めいた。
『ヴォウ!?』
狼は、一瞬にして首を切り裂かれた。
噴水のように血飛沫が飛び散る。
「い、一撃……?」
驚愕なんて言葉じゃ表せない。
強固な動物の毛に覆われた筋肉を、一太刀で切り伏せた。
自分の目を疑わざるを得ない。
「……ふむ、こいつは一見普通の狼だけど、獣魔の類みたいだね」
ティノは狼の死体に近づいて、体を撫ぜた。
「ふ、普通の狼と獣魔って、何か違うんですか?」
「大違いだよ。獣魔も、その体のベースは普通の動物だけど、霊に取り憑かれてる」
「霊に、取り憑かれる……?」
なんだか、怖くなってきた。
僕は体を震わせる。
「そんなに怖がる必要はないよ。人間が取り憑かれるのは、ごく稀さ。彼らは純粋な、俗世に染まっていない体を好むからね」
言葉で説かれたって、怖いものは怖い。
「まぁ、僕がどう言葉を重ねたって、無意味だろうね。何せ、未知っていうのは、何よりも恐ろしい。たとえば、僕からすれば君だ」
「え? 僕ですか?」
自分を指差し、眉を寄せる。
「そう、君のその奇抜な服装。転移者だね?」
ティノは見透かしたように言った。
「で、でも、転移者は僕の他にもいるのでは?」
「確かに、そうだね。でも、珍しいことには変わりない。僕なんて、初めて見たよ」
興味深そうに、見つめられる。
気まずいから、僕は目を逸らした。
「僕には師匠がいてね。彼女は随分と長生きしてる人なんだけど、そんな人でも、転移者を見たのは三、四回程度らしい。だから、僕は千載一遇の機会に恵まれていると言ってもいい」
転移者とは、意外と珍しい存在らしい。
僕は少し鼻が高くなった。
「師匠……ティノには、師匠がいるんですね」
「あぁ、もちろんさ。僕の修行をいつも見てくれてる。今は、師匠の都合でこの国に来てるんだ」
師弟関係とは、少し憧れる。
「——おっと、少し長話がすぎたみたいだね」
唐突に、ティノは我に帰って横に視線を動かした。
「アキト君、どうやら僕たち、囲まれてるみたいだ」
「……え?」
慌てて、僕もあたりを見渡す。
すると、なんてことだろう。
周りには、何対もの獣の眼光。
一体、二体、三体……四、五飛ばして六体。
片手で数えきれないほどいる。
「中々、ハードなお出迎えじゃないか。ちょっと、興奮しちゃうな」
「何興奮してるんですか!? この数は聞いてないですって!」
ティノと背中合わせになって、薄い暗がりの中二人孤立する。
のそのそと、狼たちはゆっくりと、獲物を取り囲むように近づいてくる。
ティノは、槍先を狼に向け、腰を落とした。
「準備は、良いかい?」
「いいや、全く!」
「オーケーだ」
ティノは動き出した。
それに合わせて、狼の群れも一斉に飛び込んでくる。
こうして、乱戦が始まった。
==========
「っヒェ!?」
接敵。
狼が噛み付かんと僕に飛びかかった。
咄嗟のところで横に飛んで避ける。
「良い回避だ……!」
空いた空間を、狼の牙が空ぶる。
そこに、間髪入れずにティノの槍が飛んで来た。
脳天を一刺し。
絶命。
「まずは一体!」
しかし、獣魔もそうは容易くやられてくれない。
隙を見せたティノに、二体の狼が飛びかかる。
「甘いよ」
空中に、槍先が軌道を描く。
狼の首が飛び散った。
隙を、隙とも思わせない、鮮やかな反撃。
それが、二体の獣魔を一度に打った。
刹那の内にして、三体の死体が地面に積まれる。
——対する僕は。
「や、やめてくれぇ!?」
腰を抜かした。
立ち上がれない。
向かい合うは、一匹の狼。
『グルル……ルァ!』
飛びつかれた。
顎が首元に噛み付いてくる。
「う、うわぁ!?」
咄嗟の行動だった。
僕は鞘も外さないまま、ナイフを前に突き出した。
『グラァ!』
狼の牙が、ナイフに突き立てられる。
「ぐっ、うぅ……なんだ、この力!?」
ガチガチと、ナイフの鞘と牙の間で不穏な音が鳴る。
半分馬乗りされるようにして、僕は狼に押し倒された。
地面に倒れる。
何とかしないと、何とかしないと、何とかしないと。
頭では分かっても、体が動かない。
何せ、非力な僕に狼の筋力を上回れという方が、無理な話なのである。
「て、ティノ! お願いします! なんでもするから助けてください!」
「ちょっと待ってて! 今こっちを片付けてから行くから」
すぐには来れないらしい。
僕は絶望した。
狼の鼻息が掛かる。
ナイフを支える手がブルブルと震えた。
こんなことになるなら、日頃から筋トレでもしておくんだった……!
後悔先に立たず。
悔やんでも意味はない。
『キャウ!?』
横から狼の悲鳴が聞こえてくる。
一体、二体、さらにもう一体。
ティノは鮮やかに狼を捌いていく。
しかし、とうに僕の腕は限界を迎えようとしていた。
「ぐ、おおおおぉ! 無理! これ死ぬ!」
筋肉が悲鳴をあげている。
手首がグギッと変な音を立てた。
多分、大丈夫じゃない部類の音だった気がする。
ヒヤッと嫌な予感が、心臓のあたりを駆け抜けた。
『グゥウウッ!』
尋常じゃない顎の力だ。
もはや両の手でも抑えきれない。
「ううううああああぁぁぁ——あ、これ、ダメだ」
臨界点。
狼より先に、僕の限界がきた。
腕から力が抜ける。
ナイフから手が離れる。
やがて、脳裏をよぎったのは、死の一文字。
ゆっくりと流れる時間の中、狼の牙が僕に触れかけた。
その瞬間。
真っ赤な血液を、正面から浴びる。
「……ふ、ぇ?」
「ギリギリ、間に合ったみたいだね」
視界の端。
狼の首元を、ティノの槍先が貫いていた。
「助、かった……」
ついに、僕の体はヘナヘナと脱力してしまった。
ばたりと、狼の体躯が横に倒れる。
「……っ」
重い上半身を起こしてみれば、辺りには絶命した狼の死体があちこちに散らばっていた。
一、二、三……と一つずつ指を折っていく。
そうすれば、八の指を折ったところで、ようやく数え切ることができた。
「——ねぇ、ティノ、確かに、依頼には猛獣が出る可能性有りとは書いてありましたよね」
「うん、そうだね」
「でも、僕はせいぜい、猪なんかが顔を見せるかもしれない、くらいのイメージでいた。それについて、何か意見は?」
「奇遇だね。僕も全く同じことを考えてた」
ティノは顎に手を当てて、考えるそぶりをした。
「獣魔は、通常山の奥に住み着くものなんだ。だから、こんな麓で、それもこれほどの数現れるのは、絶対におかしい。……考えらる可能性として色々あるけど、少なくとも今確定した事実が一つある」
僕はゴクリと唾を飲み込んだ。
「つまり、それは?」
ティノは再びニヤリと笑みを浮かべると、僕を見た。
「——吉報だよ、アキト君。ジャックさんが感じていた異常は大的中。ビンゴさ」
僕にとっては大悲報だ。
まるで冗談にならない。
「しかし、君も運がないね。こういった、小さな依頼が実はかなり根深い問題につながってたってパターンは、本当にごく稀なんだ」
ごく稀?
本当に、ごく稀?
この任務、僕の初任務なんですけど?
「異世界に来て早々、こんな災難に恵まれるなんて、もしかして、不幸体質でもある?」
「身に覚えしかありませんね」
「僕は君が、喉から手が出るほど羨ましいよ」
さらっと言ってのけるティノ。
僕は呆れて何も言えない。
「さて、ここは一休み、と行きたいところなんだけど、一つ失念していたことがあった」
それは、どこか胸を掠める嫌な予感。
ティノは、何かすごく言いずらそうに頭を掻いた。
「えっと、つまり、子がいるってことは、周辺に親がいるってことでね」
ズンズンと、地面を重く踏み締める音が、空気を伝う。
「まぁ、個体を処理したら、親の出現に備えるのが、冒険者の定石なんだ」
荒い息。
それは僕のものでも、ましてやティノのものでもない。
『グルル……』
「ぐ、グルル?」
ティノが、ピッと背後を指差す。
僕は、恐る恐る、振り返った。
「オーシット」
『ウ”ラアアアアア!』
圧倒的な巨体。
それが、僕を殺す勢いで唸り上げた。
「あいつら、子だったの……?」
僕は白目を剥いた。
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