第11話 弱者の罪状

 ——子供とは、純粋なものだ。


 僕は、父が大好きだった。


 二番目の父ではない。

 一番目の方だ。


「——秋斗、人生は、気楽に生きるくらいが、ちょうどいいんだ。辛かったら、人に甘えてもいいんだぞ」


 そう言っていた父の姿を、今でも鮮明に思い出せる。


 母は、あまり素行のいい人ではなかった。

 いつもどこかほっつき歩いて、深夜に帰ってくる。


 それで、遊び疲れた体をベッドに投げ出すと、昼まで起きることはなかった。

 でも、容姿だけは綺麗で、近所の人もしきりに別嬪さんだと褒める。


 父は、いつも仕事で忙しかった。

 あまり賃金が高いわけでもなく、長時間働かないと、家族を支えることができなかった。


 でも、たまに遊びに付き合ってくれることがあった。


「秋斗、今日は仕事が休みなんだ。せっかくだし、山まで虫取りに行こう」


 まだ、小学生の時のことだった。

 どうしてもミヤマクワガタが欲しくて、強請っていたのを覚えている。


 父はそんな僕の言葉に、付き合ってくれた。


「——あっ、ミンミンゼミ!」


 ジリジリと汗が湧き出る真夏。

 僕と父は山に足を踏み入れた。


 結果からして、ミヤマクワガタを網にかけることはなかった。


 というより、周りのセミやらカブトムシやらに夢中になっていたら、すっかり夕暮れになっていた。


 目的なんて二の次で、単純に、父と虫を追いかけているのが楽しかった。


 ガサガサと、カゴの中の虫たちが蠢く。

 大満足だった。


「いっぱい取れたな。秋斗」


「うん!」


 ——ありがとう、お父さん。


 そう言うと、父は嬉しそうに笑みを浮かべた。


「もっと甘えていいんだぞ。お前が嬉しいと、父さんも嬉しいんだから」


 ——また、虫取りに来ような。


 父の言葉に、僕は大きく頷いた。


「約束だよ」


 それが、僕の夏の終わりだった。


 事が動いたのは、僕が五年生に進学して、冬を迎えた時のことだった。


 相変わらず父の収入が増えることはなく。

 家もオンボロだった。


 薄い布団にくるまろうにも、冬の寒さに耐えきれず、浅い眠りと覚醒を繰り返しては呻いていた。


「トイレ、行こ……」


 寝ぼけ眼で起き上がり、真夜中の暗がりを手探りで進む。


 階段を降りると、リビングから光が漏れていた。

 薄い壁越しに、中の声が聞こえてくる。


「で、何よ? 私、これから用事があるんだけど」


「出かける直前にすまない。一つ、聞きたい事があるんだ」


 父と、母の声だ。


 僕は、少し間の襖から、中の様子を覗き込んだ。

 母は面倒臭げに言った。


「そんなことより、給料日はまだ? この前友達と飲んだ時、安酒しか飲めなくて恥ずかしかったんだけど?」


「金が無いのなら、また今度渡す。今は、この写真について、何か心当たりがないか、答えてくれ」


 父が一枚の写真を机の上に示す。

 

「はぁ? 写真がなんだって——」


 すると、その写真を目にした母は、たちまち表情を険しくした。


「これは、お前がこの間出かけた時に撮ったものだ。この隣にいる男について、答えてもらいた——」


「いつの間に! どうやって撮ったの!?」


 父は、乱れる母を前にして、目を逸らした。


「四ヶ月前から、どことなく察してはいたよ。もう、お前との間にまともな夫婦的感情はないってね。——だから、独自に調査を進めた」


 父は、すごく悲しそうだった。


「あぁ、そう。そうだったのね。アンタのことだから、証拠の写真は他にもいっぱいあるんでしょう」


「つまり、お前は認めるのか」


 母は、瞬く間に、険しい表情を解いて、吹っ切れたように笑った。


「そうよ。私は、他の男にうつつを抜かしてた。アンタなんかより、よっぽど優秀な人にね」


「認めるのなら、仕方ない。この件は、起訴することになる」


 すると、母はスマホを取り出し、電話をかけ始めた。


「おい、一体何を……」


「もしもし? あぁ、私。ちょっと浮気がバレちゃってさ」


 父は、さも信じられないという表情で、母を見ていた。


「あなた、バレたらお金をいくらでもかけてあげるって言ってたでしょう? うん、だから、弁護士も買収しておいて」


「お前、誰に電話をして——」


「誰って……私の新しい彼よ。アンタとは違って、有名な大企業の社長息子なの。いっぱいお金を持ってるから、法的な争いも上等ってところ」


 アンタがもっと金を持っていたら、話は別だったかもしれないね、と。


 そう告げられた時の、父の悲壮な顔を見たのは、後にも先にもこれが最後だった。


「じゃあね。今度は、法廷で会いましょう」


 母が近づいてくる。


「あっ」


 しまった。

 そう思っても、もう遅い。


「あら、秋斗も居たの」


 母が僕に気づく。


「秋斗……! お前、まさか、今の話を……!」


「ご、ごめんなさい。聞くつもりは、なくて……」


 僕は父に謝った。


 すると、母は愉快そうにそれを笑った。


「秋斗。あの無様な男を見てみなさい。アイツには金も何もない。ああ言うのを、弱者男性っていうのよ。ちゃんと覚えておきなさい」


 言い捨てて、母は去っていく。

 その姿が消えかけようとした時、父が動き出した。


「待ってくれ! 悪かった。非があるのは、全部こっちだ!」


「へぇ? どういう心境の変化?」


 父の言葉に、母は立ち止まって、耳を貸した。


「だから、お願いだ」


 深く、頭を下げる。

 それは、何か、譲れないものを守るために、すがっているように見えた。


「この件が明るみに出れば、当然俺は慰謝料を払うために、借金をすることになる。そうなったら、秋斗を一人で賄うことはできない」


「それで?」


「だから、秋斗だけは、連れて行ってくれ。頼む」


 何を言っているのか、全くわからなかった。

 だって、父は何も悪いことなんてしていない。

 それで、どうしてこれほどにも、追い詰められた表情をさせられなければならないというのだろう。


「……わかったわ。アンタみたいなやつに、子供を持つ幸せをあげるわけにもいかないしね」


「その言葉が聞けて、よかった」


 よくない。

 よかったなんて、全くの嘘だ。


「——ほら、行くよ、秋斗」


 僕は母に手を引かれて、家を出ていった。

 父の顔はずっと俯いていて、目にすることも叶わなかった。


 それから程なくして、裁判が行われた。


 父と母の夫婦関係を取り巻くものだ。

 結果は、父の負け。

 全面的に、夫側に責任があるという判決になった。


 全部、予定調和だった。

 それで、僕はようやく気づいた。


 真実なんて関係ない。

 誰に非があろうと、弱者である以上、その時点で罪人なのだ。

 弱者という罪状は、どんな罪にも勝る。


「秋斗、ここが新しい家だよ」


 やがて母に連れてこられたのは、豪勢な高層マンションの最上階だった。


「父さんは……父さんは、どこ?」


 僕がそういうと、母は無理やり笑顔を取り繕った。


「父さんなら、ここにいるわ。新しいお父さんよ」


 扉が開く。

 すると、中からメガネの男が現れた。


「あぁ、やっと来てくれたか。ようやく君との結婚が叶うんだね」


「うふふ、私も、アイツの元からようやく離れられて、とっても嬉しいわ」


 母親は、なんだか満更でもなさそうだった。


「そっちの子供が、例の?」


「えぇ、秋斗よ。貴方も言ってたでしょう? 私の浮気がバレた時は、いくらでもお金をくれるって。この子も、仕方なしに連れてきたけど、ここにいさせても良いわよね?」


 男は、少し頬を引き攣らせると、すぐに口角を上げて頷いた。


「もちろんさ。君のその美貌と——」


 艶かしく、母の体を見回す。


「そう、その体を手に入れられるというのなら、いくらでも犠牲を払おうじゃないか。——さぁ、中に」


「……」


「……どうしたね? 秋斗くん。君は入らないのかい?」


 男が、僕に目を向ける。


「あの、えっと……入ります」


 僕は扉を潜った。

 横を通る瞬間、男は小さく舌を打った。


「——調子に乗るなよ、薄汚いガキが」


 僕は肩を震わせて、慌てて進んだ。


 それからいく日かすると、また学校が始まった。

 母と父の間に起きたいざこざで、学校は休んでいたから、しばらくぶりの登校だった。


 なんとなく過ぎていく時間。

 僕は金に恵まれた家庭のもと、最上級の食事と棲家を与えられた。


 でも、まるで幸せな気がしなかった。


「た、ただいま……」


 学校から帰ると、閑散とした玄関に足を踏み入れる。

 僕を迎えてくれるのは、重苦しい沈黙だけだった。


 リビングに顔を見せる。


 母はソファにぐったりと寝転んで、男は机の上にパソコンを広げて何かの作業をしていた。


 僕は、新しい父が苦手だった。

 まるで表情を見せないし、僕を見る目はいつだって冷たい。


 でも、だから僕は思った。

 単純な話なのだ。


 距離が空いているのなら、こちらから詰めればいい。


 ——もっと甘えていいんだぞ。お前が嬉しいと、父さんも嬉しいんだから。

 その言葉を、胸に。


「お、お父さん。学校の宿題が難しくて……手伝ってくれる?」


「……」


「お、お父さ——」

 

「——甘えるなよ」


「え?」


 父は、僕を睨んだ。


「甘えるなんてのは、力のないものがすることだ。お前みたいなやつにベタつかれても、気色悪いだけだ」

 

「……っ」


 何気ない、その一言。

 それが、僕を絶望に突き落とす。


「——正直、お前お荷物なんだよ」


 金を食うだけの、穀潰し。

 それが、僕の実態。


 その時に、思い知った。


「——あっ、教科書忘れちった! お願い、見させて!」


「しょうがないなぁ、はい」


 手を合わせて、頼み込む男子。

 それを、仕方なく聞き入れる女子。


 その様子を、僕は傍からボーッと眺めていた。


「どうした、教科書忘れたか」


 気づいたら、先生が生気の無い僕を見下ろしていた。


「あっ、えと、いえ。持ってるはずで——あれ、ない……」


「はぁ。また忘れたのか? 最近忘れ物が多すぎるぞ、お前。隣に見せてもらいなさい」


 先生はそう言い捨てて、教壇に戻った。


「……み、見る?」


 控えめに、隣の女子が聞いてくる。


 その引き攣った表情が、僕の言葉を詰まらせる。


「あ、いや、えっと……いいよ。いらない」


「え? でも、それだと教科書が……」


 女子の言葉を無視して、僕は虚ろに机を眺めた。


 ——お荷物なんだよ、お前。


 甘えるな、甘えるな、甘えるな、甘えるな、甘えるな。

 決して、甘えるな。


 ——子供とは、純粋なものだ。

 僕は、その言葉を全て、真正面から受け取った。

 

 そして今も、それを胸に刻み続けている。


 ==========

 

「ここだ。ついたぞ、人間」


「……」


「人間? おい、意識は確かか」


 目の前で手を振られる。

 そして、僕はハッと我に返った。


「……すみません、考え事をしてました」


「なんだ、考え事とは、悠長だな。これから報酬を受け取るというのに」


『獣人国治安維持協会アミル街支部』


 吊るされた看板には、そう書かれている。

 大きな石像の建造物だ。


 イリスは脇目も振らずに、扉を開けた。

 瞬間、空気がいっぺんに変わる。


「——ようこそ、おいで下さいました。龍神、アルメスト様」


 長身の獣人が、恭しくイリスを出迎える。

 なんとも荘厳な雰囲気だ。


「お前たちからの依頼、達成してきたぞ」


「毎度、お力を貸していただき、ありがとうございます。では、報酬の受け渡しに参りたいのですが……」


「……」


「こちらにお入りにならないのですか?」


 すると、イリスは不満そうに息をついた。


「聞きたいのはこっちだ。人間、入らないのか?」


 扉から数歩離れて待機していた僕は、小さく呻いた。


「入らなきゃ、だめ、ですか?」


 だって、まるで歓迎されていないのだ。

 獣人たちが僕を見る目は、イリスとは天と地ほどの差がある。


 入りづらすぎる。


「はぁ。報酬の山分けは、後でやるには面倒なんだ。お前もくるがいい」


「お待ちください、アルメスト様。今、この人間に報酬を山分けするとおっしゃいましたか?」


「そうだが?」


 イリスがそう答えると、獣人は断固として揺るがない視線を送った。


「申し訳ありませんが、アルメスト様。私たちが人間に与える金銭は、残念ながら持ち合わせておりません」


「なんだと?」


「もし、貴方様がこの人間に報酬の半分を与えるというのなら、私たちが貴方様に与える報酬は、半減となってしまいます」


「だったら、そこから半分をこいつに与える」


「それでしたら、私たちが与える報酬も、その半分でございます」


 堂々巡りだ。

 イリスは、心底気だるそうに肩を落とした。


「人間よ、世界とはどうして、こうも頑固な奴ばかりなのだろうな」


「イリス、やっぱり僕、報酬は要りません」


「は? 一体、何を言っている」


 僕はしどろもどろになって、手を振りかぶった。


 ——お荷物なんだよ、お前。


 脳内で、記憶がフラッシュバックする。


「えっと、短い間でしたが、面倒見てくださりありがとうございました。甘えさせていただくのはここまでにします。では、僕はこれで——」


「おい、待て。待て、人間!」


 踵を返して、走り出す。

 イリスの声を置き去りにして。


 僕は、獣人の街を駆け出した。

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