桃太郎異聞奇譚
上原菜摘
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香港で暮らすようになってからずいぶん経つのに、まだこの夜景には馴染めない。白い革のソファーに深く沈み込んだ彼女は、窓の外を眺めた。
ガラスの向こうにベランダは無い。狭い中庭を挟んで40階建ての高層住宅が密集している。小さなワンルームマンションが高額で貸し出されている中、彼女の住む部屋は広びろとしていた。無垢材や大理石、ガラスをふんだんに用いたインテリアは、投資家の夫が雇った優秀な家政婦によって美しく磨かれている。
日本で育った彼女には、夢のような生活だ。
しかし、彼女の心は重かった。一人息子のことが心配だったのだ。
母親とスマートフォンで話している今もそうだ。
「そうよ。もうすぐ九歳になるの」と彼女は声をひそめて言った。「飛び級したけど、小学校の授業内容は退屈だって言ってる。同級生が年上ばかりだからか、友達もまだできていないみたい」
ローテーブルに散らばった教科書を見ると、英語と広東語が混ざっている。
「香港では十二歳未満の子供は一人で外に出られないのよ」と彼女は母親に説明した。「学校や塾も保護者が付き添わなきゃいけないの」 日本では考えられない法律だった。
母親が家政婦についてたずねてきた。「日本語が話せるわ」と彼女は答えた。「オランダ人と日本人のクォーターだそうよ。若いけど落ち着いてて、頼りがいがある感じ。あの子も彼女にはとてもなついてるわ」
その時、背後から息子の声がした。
「お母さん、僕もう寝るね」
振り向くと、紺色のパジャマを着た男の子が立っている。彼の後ろには長い黒髪をポニーテールにした家政婦が控えていた。
「いい子ね」と彼女は言った。「歯磨きした?」と息子の丸い頬を撫でた。
こっくりと頷く頭は小さく、体も華奢で年齢相応の見た目だ。左手の指が4本なのを除いては。
息子は
同級生に対して積極的になれないことと無関係ではないだろう。
「お祖母ちゃんにもおやすみの挨拶をして」と彼女はスマートフォンを差し出した。 息子はおやすみなさーいとぼそっと言った。どうやら、まだ眠くないのにベッドに追いやられるのが不満らしい。
「何かお話をしてあげてね」と彼女は家政婦に頼んだ。そして、息子と家政婦が部屋を出て行くのを見送った。
家政婦は男の子をベッドに横たえたあと、音声認識システムに照明を暗くするよう指示した。床に敷いたクッションに腰かける。 そして、上掛け布団を優しく整えながら話し始めた。
「昔むかし、あるところにお爺さんとお婆さんが……」
「昔っていつ?」
「え?」
「西暦何年の話?」
家政婦は困ったようにちょっと笑った。
「昔は昔でいいじゃありませんか」
「その話、桃太郎でしょ?」
「あら、わかりました?」
「もう何度も聞いて飽きちゃったよ」
彼女は肩をすくめた。そして、少し考え込んだあと、
「それじゃあ、今夜はもうひとつの桃太郎のお話をしましょうか。今まで誰にも明かしていない秘密のお話です」
坊ちゃんだけに教えますから、みんなには内緒にしてくださいねと唇に人差し指を当ててから、穏やかな声で語り始めた。
これは19世紀後半、日本が開国時代を迎えた頃のお話です。
「桃から産まれた」というキャッチフレーズで知られる桃太郎ですが、彼に人間の両親がいることをご存知でしたか? 物語の中にお爺さんとお婆さんと呼ばれる育ての親が登場しますよね。実は彼らこそが桃太郎の本当の両親なのです。いいえ、高齢出産ではありません。夫婦が桃太郎を授かったときには、まだ20代だったんです。
桃太郎が鬼ヶ島に旅立つ描写を考えると、親子の年齢差は大きすぎるように感じませんか? お爺さんとお婆さんが後の物語で祖父母と語られた理由は、実はそこにあります。桃太郎の成長速度は人より遥かに遅かったのです。
桃太郎が鬼ヶ島へ行くと両親に告げた時、彼の姿は16歳程に見えました。しかし実際の年齢は30代後半だったのです。彼の両親は普通に年をとっていて、年齢なりの外見だったそうです。両親は60歳前後でした。19世紀は現在より生活環境が厳しく、そのため当時の60歳は現代の60歳よりも見た目が年配に見えたかもしれません。
周囲の人々にとって、桃太郎の成長の遅さは、不思議で理解が難しい現象でした。桃太郎は表向きは平気なふりをしていましたが、彼と同じ歳の子供たちが次々と大人になり、孫を持つ者も出てきたことを間近で見て、言いようのないもどかしさを感じていました。
なぜ桃太郎の成長が遅いかは謎でした。
しかし、謎のままでは周囲から距離を置かれてしまう可能性があったので、母親は「桃太郎がお腹にいるときに、桃源郷から流れてきた桃をそうとは知らずに食べてしまった」と説明していました。「洗濯中に川上から流れてきたのを拾って食べたのだけれど、どうやらそれは不老長寿の力を持つ桃だったらしい」と。
納得できませんか? まあ、そうですよね。実際のところ、桃太郎は集落から浮いた存在でした。夫婦は、自分たちが亡くなった後、桃太郎はどうなるのかといつも不安に思っていました。彼が他の誰とも時間を共有できず、一人ぼっちになるのではないかと心配していたのです。
桃太郎は自分の安全と両親の安心のために、鬼ヶ島へ行く決断をしました。鬼を退治することにより、彼は自分が村人たちを守る勇者であることを示し、自身の居場所を作り出そうとしたのです。
村から孤立していた桃太郎にも話し相手がいました。その話し相手は、隣の村に住む14歳程の少年でした。彼は、見た目が原因で周りの人々から「犬」と呼ばれていました。彼の上唇の中央から鼻の下まで裂けていたからです。
犬は自分の顔に大きな劣等感を感じていました。口が裂けていることで発音が難しく、食事も困難で、手で口元隠す癖がありました。彼は家族の農作業を手伝うこと以外では、チャンバラごっこに熱中していました。自分を馬鹿にしてくる者を力で負かしてやるのが目的だったのですが、勝負に勝っても人々はだんだんと彼から離れていきました。周囲から同じように避けられていると聞いた桃太郎に会いに行ったのが二人の出会いです。
桃太郎から鬼ヶ島行きを知らされた犬は、自分も一緒に行くと言いました。桃太郎の抱えている問題は、そのまま彼にも当てはまる内容でしたから。犬は家族を説き伏せ、二人は共に旅立ちました。
さて、鬼ヶ島へ向かう途中、桃太郎と犬は噂を耳にしました。これから進む森に「猿」と呼ばれる青年が住んでいるという噂です。そんなあだ名がつけられたのは、彼の全身に毛が生えていたためです。
当時の日本では、剃刀はとても高価なもので、一般庶民には手が届きませんでした。見世物小屋に売られそうになった猿は、森でひっそりと暮らしていました。なるべく他人と関わらずに済むように食べられる植物を覚え、家や家財道具も自分で修理していたのです。
鬼退治の話を聞いた猿は、彼らの境遇が自分のことにのように感じました。二人と一緒に鬼を倒したら、自分も皆に受け入れてもらえるかもしれない。そう考えた猿は仲間に入れて欲しいと言いました。
三人の旅に「
明るい茶色の髪と青と緑が混じった瞳、白い肌、赤い唇という華やかな色合いが「雉」を連想するからでしょう。彼女は父親が外国人でした。開国後は異国との交流が盛んになったため、日本人の妻を迎える外国の男性もいたのです。
雉は父親から英語やオランダ語、数学を学び、そのおかげで、当時としては高い教養を身に着けました。しかし、不幸にも父親が病に倒れ、雉の母親は彼女を連れて長崎から故郷の実家に戻っていました。
閉鎖的な村で、母娘は周りから奇異のまなざしを向けられていました。そんな中、雉は鬼ヶ島の噂を聞いており、その正体に見当がついていたそうです。自分の予測が当たっているか確認したくて、桃太郎に同行したいと言ったのです。
おや、坊ちゃん、鬼の正体がお分かりになりましたか。そうです。鬼の正体は外国人なのです。世界は産業革命と帝国主義の時代で、彼らの大半は元船乗りでした。航行中の事故に遭い、その船員たちが漂着したのです。
雉の通訳によると、運良く助かった彼らは、最初は日本人とコミュニケーションを取ろうとしたそうです。しかし言葉がまったく通じず、助けを求めるどころか逃げられてしまいました。日本人は、外国人の大きな骨格や、馴染みのない目や髪の色を恐れたようです。
船員達は飢えと渇きに逆らえず、食物を盗みました。方々の村で窃盗を繰り返すうちに日本人との対立は深くなっていったのです。
桃太郎は鬼の背景を知って深く考え込みました。元々船員だった人たちの、言葉が通じる雉に対する親しみや懐かしさの感情を見て、桃太郎は、彼らを退治することが本当に最良の解決方法なのだろうかと疑問に思い始めたのです。
桃太郎が悩んでいると、鬼のひとりが犬を見つめながら自分の鼻と唇の間をトントンと叩きました。雉の翻訳では、恰幅の良い彼は元船医だそうで、犬の口が裂けている理由は「
船医は職業柄、 内科から外科、産婦人科、精神科までの診療を一人で担当する必要があり、
桃太郎は犬に手術を受けてみたいか尋ねました。雉を通して外科手術の内容を聞いた犬は一度は震え上がりましたが、もし普通の顔になれるのであれば試したいと答えました。桃太郎はそれを聞いて、船医にこう提案しました。
もし犬の手術が成功したなら彼の故郷の村人達にそれを報告し、鬼ヶ島の住人と村人たちが交流できるように交渉役を務めると。
船医は眉をしかめました。なぜなら鬼たちの住居は洞窟で、手術を行える環境ではなかったからです。麻酔により手術中の痛みは緩和できても、場所が不衛生では感染症や出血による合併症になりかねません。
雉がそう通訳すると、それまで俯いていた猿がぱっと顔を上げました。猿は容姿にコンプレックスを抱く犬の気持ちを推し量ることができました。犬が口元を隠す度、何か力になってやりたいと感じていました。猿は「自分が家を建てるのを手伝うから犬の口を治してあげて欲しい」と船医に頼みました。
この時代は、一部でまだ帆船が使われていました。船乗りたちは航海中に船の修理や保守を行う必要があったため、彼らは大工仕事をある程度できるように訓練されていました。
猿が棟梁、雉が通訳となり、鬼たちは犬とともに土地を開墾し、家を作り始めました。桃太郎は猿から薬や染料になる植物を教わり、歩いて行ける集落に物々交換に行きました。狙いは古い刃物や金物で、それらを研ぎ直し、枝や竹と組み合わせて大工道具にしたのです。
そうして、茅葺屋根と土壁からできた家ができた頃、桃太郎たちは雉の通訳がなくても簡単な会話なら交わせるようになっていました。問題が起こったのは、洞窟から新居に引っ越す段階になった時です。
この時代はヨーロッパとアメリカ、そして植民地の間で交易が行われていました。扱われる資源や商品の中で特に重要視されていたものがあり、それは労働力としての人間、主に有色人種の奴隷です。
奴隷は鬼たちの船にも船員として乗っており、一緒に流れ着きました。問題というのは「新しい家には白人だけが住むべきだ」と主張する白人船員の声が大きかったことです。
鬼たちの言い争いを雉は複雑な思いで聞いていました。
雉の母親は父親の家で働く日本人のメイドでした。雉は、父親以外の外国人に「下層民に教育などもったいない」「立場の違いをわきまえろ」と陰で囁かれていました。
雉はただ混血児として産まれただけなのに、なぜそこまで見下されなければならないのかと心の中で憤っていました。しかし、その怒りを表に出すことは憚られ、やりきれない思いを味わってきました。
しかし、かくいう彼女も初めて犬や猿に会った時、また桃太郎の本当の年齢を知った時には動揺しましたし、怖かったのです。
新しい家に白人だけが住むプランを反対した白人の鬼もいました。そのひとりが船医です。
桃太郎は船医を援護するため、「切れ端屋」という商売について話すことを考えつきました。切れ端屋とは、綿や麻などの
この時代の日本では、布は全て手作りでした。一般市民が反物を購入するのは贅沢なことであり、庶民の多くは自分で織るか、端切れを買ってパッチワークのように補修しながら一着の着物を大事に使っていました。
そんな高価な反物を元船員たちが気軽に欲しがるのを、桃太郎は疑問に感じていました。長崎に住んでいた雉に外国の布について質問してみたところ、彼女から返ってきた答えは驚きの内容でした。海外では工業化が進み、機械で大量生産した反物が、市場や店で安く買えるというのです。理解した桃太郎は、鬼たちに日本ではまだ手作業が生活を支えていると伝えました。
いずれお金で収入を得られるようにしたいが、稼げるまで大半の日用品は自分たちで作らなければならない。効率よく作業をするためには船員全員の協力が必要だ。また、生産力を上げるためには健康を保つことが重要で、働き手が安心して休むためには栄養と安全な場所が不可欠だ。皆が新しい家で暮らすことは、全員の利益に繋がると説明しました。
この一件で雉は桃太郎を見る目が変わったそうです。彼は犬、猿、雉に囲まれると、実年齢が見た目の倍以上であることを除けば、どこにでもいる男の子に見えました。声や表情の変化に乏しく、どちらかと言えば大人しい印象を受けたのです。
そんな桃太郎が元船員たちをひたりと見つめ、一歩も引かずに説得する姿勢は雉の目に新鮮に映りました。雉は、桃太郎の説明を、鬼たちの心に訴えかけるような言葉を選んで翻訳しました。
船医の後押しも加わり、どうにか鬼たちは合意しました。誰かが欠けると、その負担はいずれ自分にかかってくる。お互い思うところはあっても今は助け合うのが得策だと考えたんじゃないでしょうか。
引っ越しが済み、家を建てると同時に種を蒔いておいた
ところで、黍で作ったのはお団子ではなくお粥だとお話したのを覚えていますか? なぜ黍粥だったのか、その理由は、
犬の手術は3年にわたって数回行われました。彼の術後が落ち着くまで、桃太郎たちは鬼たちと生活を共にし、お互いの文化や言葉について雉の助けをかりながら教え合いました。
桃太郎たちが最も親しくなったのは船医でした。彼は猿の体中に生えた体毛について、先天性の「多毛症」ではないかと考えていました。しかし、当時はレーザー治療やホルモン剤といった手段がなく、毛を剃るか、切るか、抜く以外に対応する方法がありませんでした。そこで船医は猿に手術道具の剃刀の使い方を教え、貸してあげました。猿は剃刀の研ぎ方を身につけ、借りる度に刃をとても鋭くして返していました。
桃太郎の成長の遅さについては、残念ながら船医にもわかりませんでした。
やがて犬の顔から包帯が取れる日が来ました。
犬の生まれ育った土地では驚きが広がっていました。彼のかつて冷笑の対象だった容貌が、普通の少年の顔になっていたためです。犬は村人たちに船医を紹介し、鬼ヶ島での経緯を伝えました。退治するつもりだった鬼は、実は海難事故で流れ着いた外国人だったこと、その中に医者がいて、自身の口を治療してくれたことを明かしました。
船医が鬼ヶ島に住む鬼だと聞いて村人たちはとっさに身構えました。しかし、船医の腕によって変化した犬の顔があまりにも衝撃的だったため、村人の一人が遠慮がちに手を挙げ「家族に病に倒れている者がいるので診てもらえないだろうか」と尋ねました。船医は村で治療を始め、徐々に信頼を得ていきました。
犬の故郷と鬼ヶ島との交流が始まりました。初めはお互いに不信感や警戒心がありましたが、桃太郎たちの通訳により、その疑念は少しずつ解けていきました。
ここまで話したところで、家政婦は男の子の布団を肩に掛け直した。彼は眠るどころか、家政婦のほうへ体を向けて目を輝かせている。
男の子は尋ねた。
「それで、桃太郎たちはどうなったの?」
「犬と猿は元船医の助手として働きましたよ。彼らは鬼ヶ島と犬の村を行き来して暮らしました」
「雉は?」
「桃太郎の故郷で寺子屋を開きました。彼女は父親から学ぶことは自身のためになるという教えを受け継いだので、授業は10代だけではなく、子供の頃に勉強する機会がなかった大人向けのものも用意しました」
「なんで桃太郎の故郷に開いたの?」と、男の子は不思議そうな顔で家政婦に問いかけた。彼女は微笑みを浮かべた。
「雉と桃太郎は夫婦になったんです。犬の手術の成功は、桃太郎の村にも届いていました。事の成り行きに深く関わっていた桃太郎と雉は、コミュニティでの立場を得ることができました。桃太郎の両親も、たいそう喜んでいましたよ」
「桃太郎の成長はどうして遅かったの?」
「遺伝子の突然変異です。犬の口唇裂や猿の多毛症のような先天性らしいと言われました。わりと最近まで生きていたんですよ」
「最近まで!?」
目を丸くした男の子は今にもベッドから起き上がりそうだ。家政婦は彼の髪を優しく撫でてから「両親と雉がこの世を去った後」と続けた。
「桃太郎は鬼ヶ島だけではなく、開国した日本が諸外国と協力できるよう影ながら力を尽くしました。彼はどちらか片方ではなく、両方が得をするプランを提案するのが上手な人だったんです。最後に息を引き取る時、自分の不老長寿もちょっとは役に立てたかなと言っていましたよ」
「どうしてそんな話を知ってるの?」
家政婦は微笑みを深くした。
「実は、桃太郎と雉の間には娘がいたんです」
「……その子も成長が遅かったり、長生きだったりする?」
「ええ、とても」
家政婦の容貌は髪こそ桃太郎のように真っ黒だったが、青と緑が混じった瞳の色、白い肌、赤い唇は「雉」にそっくりだった。
桃太郎異聞奇譚 上原菜摘 @nuehara
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