選択

あの夢のような旅行から帰った翌日。

幸寿は、五郎丸のメールの通り12時に「スカラコーヒー」の店内にいた。

待ち合わせ時間には早かったが、気になってしまい居ても経っても居られなかったのだ。

それにこの日は有給を取っていたため、自由に動ける時間も十分すぎるほどある。

店内は昼時のせいか自分の他にもサラリーマンや主婦らで賑わっていた。

幸寿は時間を持て余してしまい携帯をぼんやりと見ていたが、中身は全く頭に入ってこなかった。

一体何を話そうと言うんだ?

その言葉が浮かぶたびに時計を見るが、忌々しくなるほど遅く流れていた。

すでに待ち合わせの時間を10分も過ぎていた。

あんな思わせぶりな内容を見せて、遅刻か。

耐えがたいほどのイライラに襲われながらもそれから何回目になるだろうか、時計に目をやって振り返ると目の前に五郎丸が居た。

いつも店で見る制服姿とは異なり、ブラウンのタートルネックのセーターに黒のパンツを着ていた。

そして手には大きなジュラルミンのケースを提げている。

全く気配がしなかったので、思わず小さく喉が鳴ってしまった。

「申し訳ありません。尾行を確認していたので」

「尾行?」

答えは分かっていたが、あえて質問した。

「鈴音さんです。あの人は朝から寝ていますが、念には念を入れて何回か道を変えたので」

やはり話とは鈴音の事か。

幸寿は一気に気が重くなるのを感じた。

「早く本題に入ってもらえるとありがたいです」

つい無愛想な口調になってしまい、軽く自己嫌悪を感じたが、五郎丸はそんな幸寿の様子など意にも介さず言った。

「すぐに逃げてください」

え?今なんて?

ぽかんとしている幸寿の目を見ながら先ほどよりもっやゆっくりとした口調で言った。

「この店を出たら、すぐに逃げる手配をしてください」

そう言うと提げていたジュラルミンケースを開けて少しだけ開いた中身を幸寿に見せた。

中を見た幸寿は目を見開いた。

一体いくらになるのだろう。

数え切れない札束が詰まっていた。

「これをお使いください。当面新しい人生を準備するまでの資金にはなるはずです」

黙っている幸寿を見ながら五郎丸は続けた。

「実は鈴音さんの体は弱っています。あの人は自ら作り上げたワクチンによって、吸血鬼の発作は最低限に抑えていますが、その代償で著しく体力を落としてしまっている。なので昔からまとまった時間や日数外出等を行ったら、翌日は一日休む必要があります。その間は文字通り死んだように休んでいます」

この男は一体何を言おうとしているのだろうか。

「なので逃げるなら今日です。明日からでは難しい。あの人のあなたに対する執着は尋常では無いので、常時見られていると言っても差し支えない。または逃げるので無くこれを使い・・・」

そう言って懐から取り出したのは細長い短刀だった。

「これは我々が持っている吸血鬼用の武器です。鈴音さんが作った吸血鬼の細胞を破壊する薬剤が塗られています。心臓に刺せば間違いなく」

「もういい」

幸寿は話を遮った。

「どういうことなんだ?なぜ僕が逃げないといけない。鈴音に直接話を聞きたい」

「そうしたら、あなたはそのまま吸血鬼になるでしょう。いや、もしかしたら木偶になるかも」

「木偶?」

「吸血鬼のなり損ないの事です。鈴音さんからどこまで話を聞いているか分かりませんが。吸血鬼や木偶から自らの体液を一定量以上与えられた者は吸血鬼になる。ただ個人差があって、合わなかった者はウイルスによって脳が破壊され生ける屍となる。吸血鬼になる確率は極めて低く、我々の研究では恐らく数パーセント」

体液を・・・

その言葉に幸寿は背筋が凍り付くのを感じた。

自分と鈴音との事を思い返したのだ。

もしかしたら鈴音は意図的に・・・

「思い当たることがあるようですね。鈴音さんの様子を適時うかがっていましたが、あの人は意図的に特殊な吸血行為を行っていた。本来あのような形を取る必要などないのに。その他の行為もあったようなのであなたへの個人的欲求もあったと思いますが」

それを聞いて幸寿は恥ずかしさで体が熱くなり、思わず額の汗を拭った。

なぜ知っているのだ。

「ところでまだ聞いてないことがある」

「私がなぜこのように会話が出来るのか?なぜ自分を助けようとするのか?ですよね。順に答えると、鈴音さんは私がこのように話せることを知りません。なぜこのような事をするのか。答えは一つです。いつか鈴音さんを亡き者にして自由になるためです」

鈴音を・・・殺す。

「それは・・・今までの恨みのため?」

「いいえ。恨みなどありません。ただ、鈴音さんと共に生きているのは心がつらい。自らの罪と絶えず向き合わされる。それに・・・あの人は私を付属物としか思っていない。信頼もまして愛情など持っていない」

「それは・・・」

幸寿は言葉も無く五郎丸を見た。

彼はもしかして鈴音を。

「鈴音さんが居なくなればこの苦しみから自由になれる。一人で生きることにつらさが無いと言えば嘘になるが、この苦しみと共に生き続けると思えば。そして二つ目の回答ですが、これは一つにはあなたを案じての事。吸血鬼になることであなたは大変多くの者を失う。それでも吸血鬼になれればまだいい。数パーセントの確率に負けて木偶になってしまったら、我々の世話を受け続けるペットのようになる。自らの意思もなく」

黙っている幸寿を一瞥し五郎丸は続けた。

「鈴音さんとて当然その可能性は考えているはず。それでもなおあなたを欲しがっている。あの人は自分は狂気から逃れたと言ってますが、実際はまだ囚われたままなのです。そして、あの人は今やあなたと康輔さんを同一視している。ここで自分の物にしなければいつか離れてしまうと信じている。今はまだいい。仮初めの平穏をお互いに楽しむ事が出来る。ただ、今後もしあなたが仕事でこの地を離れる事になったら・・・いや、もしあなたが愛する人が他に出来たら・・・鈴音さんはあなたとその人を殺すでしょう。いや、その前にあなただけは助けるか。木偶か吸血鬼にはするでしょうが」

「・・・」

「あなたはもう一線を踏み越えてしまったのです。恐らく以前にご自分の事をお話になったとき・・・いや、その前ですね」

「その前?」

「言葉通りの意味です。あなたは鈴音さんと初めて出会ったときの事を覚えていますか?」

幸寿は頷いた。忘れるわけが無い。

寒い冬の日。仕事帰りにぼんやり歩いていたら鈴音とぶつかって…

「おかしいと思いませんか?あの鈴音さんがそのような事があると思いますか?うっかり道行く見知らぬ人にぶつかって、などという安っぽい物語のような事が。あの人はあなたに接触する機会をずっと伺っていたのです。ただいかんせんあの人は少女じみた所・・・夢見がちな所があるためにあのような安っぽい手段を行いましたが」

自分が鈴音に最初から・・・

自分の生活に劇的な彩りを与えてくれたと思ったあの偶然が。

「もちろん最初からここまで深入りするつもりは無かったようです。結論から言うとあなたは康輔様に非常に酷似した容姿だった。そのためどこで見たのか不明ですが、それ以来鈴音さんはあなたとお近づきになることばかり考えていた。だが、あくまでもそれは適度な関わり・・・店員と常連客程度に留めるつもりだったようです。ただ、あなたはあまりにあの人の心に入り込みすぎた。あの人も今や自分の衝動をコントロール出来ていない。あなたと永劫の時を生きることしか考えていない」

確かに五郎丸の言葉には思い当たるところが多かった。

最近の鈴音は愛情と言うにはもっと激しい、まるで動物的な衝動のように感じることがあった。

「私はあの人を止めないと行けない。私があの地に隠れあの地の物を木偶に変え、鈴音さんから大切な物を二度奪った・・・あそこに行くのがもう少し早ければ。康輔様の首が奪われる前に間に合ってさえいれば。私の血を・・・」

そこまで話したところで五郎丸はハッと顔を上げ、周囲をキョロキョロと忙しなく見回した。幸寿もつられて周囲を見回す。

だが、店内はもちろんのこと店の外にも鈴音の姿は無い。

五郎丸は手で口元を押さえると、深くため息をつき幸寿にジュラルミンケースと短刀を渡した。

「話はここまでです。この店を出たらそのまま逃げてください」

「いや、逃げると言っても・・・」

五郎丸は幸寿の言葉を聞く事無く席を立つと「お詫びの言葉もありません。幸運を」と言ったまま店を出て行った。

後に残った幸寿は席に座ったまま呆然としていた。

五郎丸の言葉をまだ自身の中で消化できていないまま、グルグルと同じ内容を考え続けた。

逃げるだって?職場はどうなる?手続きだってある。自宅だって引き払う準備もしていない。何より・・・鈴音。

幸寿は先ほどの話を聞いてもやはり鈴音を恐れる気持ちになれなかった。

まして逃げるなんて。

あの店に行きたい。鈴音に話を聞いてみたい。

だが、その反面あの店に行くことをひどくおびえている自分がいた。

行ったら二度と・・・

脳が酷く熱くなっているように感じる。脳へ引っ切りなしに熱せられた血液が送り込まれているようで、思考がまとまらない。

一端家に帰ろう。

幸寿はケースを持ち、短刀をコートの内ポケットに入れると店を出て自宅に向かった。

数時間前に出たばかりなのに、まるで何日も留守にしていたように感じる。

鍵を取り出しドアを開ける。

室内に入るとジュラルミンケースを置き、コートを脱ごうとした。

その時、背後から何かが被さってくるのを感じた。

暖かく良い香りがする。

鼻腔に意思でもあるかのようにその香りは入ってくる。

「幸寿様・・・」

その言葉にハッと振り返ったが、そのまま意識が遠のいていった。

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